第001話 エスケープ
暗闇の中で、まるで産声のような雄叫びが響き渡った。
そして、その声を発したのはひとりの男だった。まるで胎児のように丸まっていた男の瞳が開いたのは、それから少ししてからのことだ。
「ぁ……あ?」
自らの声に刺激されたのか、男の瞼が何度か開いては閉じ、徐々にその瞳に意志が宿り始めていく。それから意識を覚醒させて目を見開いた男は上半身を起こして、周囲を見回した。
「……なんだ?」
続けて男が感じていたのは、全身の苦痛と周囲から漂う悪臭だ。それから尻や足に伝わるヌチャッとした粘ついた感触。背も何かネバネバとしたものがへばりついていて、それらが何なのかと男は己の横たわっているものへと視線を向けた。
「なんだよ、これ?」
直後に、男の口から悲鳴が上がった。
男は気付いたのだ。自分が寝転がっていたのは赤黒く変色した肉塊で、その正体は元は人間であったのだろうと。自分を包んでいた揺りかごが大量に積み重ねられた人間の死体の山の上だったことを男は理解してしまった。
「う……ぷ」
その光景に男の顔は蒼白となり、嘔吐しようとしたが、胃からは何も出てこない。胃液ですら出ない。だが圧倒的な恐怖と、生理的嫌悪感で男の顔は歪み、何度となく嗚咽し続けた。
「ぐ……ぉえ、マジかよ。クソ、夢か。悪夢なのか、こいつは?」
周囲の肉塊はそのほとんどがすでに腐敗が進んでいるようだった。ウジやらよく分からない虫やらが湧いていて、また男が手を置いた拍子にその場の肉がズルリと腐り落ちて白い骨が見えたりもした。それらすべての状況が、男の正気を削り取っていく。
(意味が分からない。なぜ俺はここにいる? なんでこんな場所がある? どこだ、ここは? そもそも俺は誰なんだ?)
そこまで考えてから男は気付いた。何も分からないのだ。
自分が誰なのかが分からなかった。名前も、己がどういう人間なのかも、どこに住んでいて、何をしていて、何故ここにいるのかも……男には分からない。
いったい何が起きているのか? それも当然分からない。だが、男はこんな場所にはいたくなかった。すぐさまこの場から離れたかった。それだけは確かな気持ちだ。
「ともかくここから抜け出して……」
だから、男は強ばる身体で立ち上がり、すぐさまここから離れようとして……『ソレ』に気が付いた。
「ギィィイ」
ソレは、男の乗っていた死体の山よりも少し離れた場所で、奇妙なうなり声を上げて歩いていた。
「ギィィイイ」
その姿は三メートルを超えた顔の潰れた化け物のような巨人だった。電柱ほどもある巨大な棍棒を片手で掴んで引きずりながら、大きな黒犬二匹を従えて死体の山の周囲を歩いていたのだ。
(ありゃ、ヤバいだろ)
それを見た男の全身から冷や汗が溢れ出てくる。
とてもこの世のものとは思えない、尋常ならざる存在であると男の本能が訴えていた。その次の瞬間に黒犬の一匹が自らの方を向いた気がして、
「…ヒッ」
男は思わず声を上げて尻餅を付いてしまう。
「ウォンッ?」
男の悲鳴に気付いたのか、黒犬が男のいる場所へと顔を向けた。
そのことに男の顔が凍り付いたが、黒犬が飛びかかってくる様子はない。黒犬も何かを感じたようではあるが、まだ男の姿が見つかったわけではないようである。そのことを理解した男はすぐさま腰を落として、死体の山の中へと身を隠す。
「ギィ?」
続けて黒犬の反応を見た巨人も、男のいる場所へと視線を向ける。サメのような牙が並んでいる大口を開きながら、大男が叫び声を上げている。
(なんだよ、ありゃ?)
大男の目が赤く光っていた。それは人に似た形をしていたが、明らかに人とは別種の存在であった。見つかれば殺される。それだけは男も確信していた。
(ともかく早く逃げないと……こんな場所にはいられない)
そう考えるも、問題はどうやってここから逃げるのか……ということだった。死体が積み重なった山の周辺は、四方を壁に囲まれていた。
出入り口があるのは、大男たちのいる場所よりも、さらに先にある正面の壁の扉だけだ。だが、その扉まで辿り着くのは非常に困難だ。
(バレずに通り抜けるのは……無理だ)
何しろ唯一の扉の前は、まるで丁寧に掃除でもされているかのように開けていて、周囲はトーチで照らされていた。
そんな場所を横切れば、あの巨人たちに見られるのは確実だ。巨人の動きは遅いかもしれないが、一緒にいる黒犬たちを振り切れるとは男には思えなかった。
であれば、どうするか。男は扉とは反対側、自分の背へと視線を向ける。あまりにも高く積み上がった死体の山の頂上は、よく見ればその壁に向かって崩れていて、壁の上まで到達していた。
(あの場所までなら、どうにかなりそうだ……)
その壁の先がどうなっているのかは分からないが、逃げるならばそちらしかないと男は考えた。何よりも……
(もう、ここは無理だ)
男は素直にそう思った。視覚も、嗅覚も、背と尻の感触も、大男たちに対する恐怖も、何もかもが男の正気を奪い続けている。
人間がまともなままでいられる場所ではない。こんな所に居続ければ気が狂ってしまうと感じていた。そして男は慎重に、ゆっくりと動き出そうとして、その場で盛大に転んだ。
「あ?」
何かに脚が引っかかったのだ。男は自らの失態に泣きそうになりながら、躓いたものへと視線を向けた。
(お、女?)
それは相当に腐敗していて、判別が付きにくいが女の死体だった。その姿を見て、男が言いようのない気持ちに襲われる。涙が溢れてきたが、崩れかかった女の顔を見てその感傷は勘違いだと気付いた。
そもそも『彼女』がその場にいるはずがないのだ。彼女はすでに男が■■ている。そして、男が少しばかりの憐憫の表情をその亡骸に向けた直後のことだった。
「ウォンウォンウォンッ」
けたたましい黒犬の鳴き声がその場に木霊する。男の存在に気付いたのだ。
「くそっ」
悪態づきながら男は走り出す。
あんなデカい犬に噛まれでもしたら死んでしまう。男は気力を振り絞って走るが、その身体は最初から限界に近いぐらいに疲労していた。それに足場もゴツゴツとブニョブニョとしていて、おぼつかない。
一方で黒犬二匹は足場の悪さなどまったく問題なさそうに走り続け、巨人も奇声を発しながら死体の山へと足を踏み出していた。
(走れよ。俺の身体、保ってくれ)
痛む身体を引きずりながら、崩れ落ちそうな自分の心を奮い立たせながら、男は走る。けれども足場が悪い事実は変わらない。その距離は瞬く間に近付いていく。
グチョグチョと嫌な感触が足裏を刺激するが、男もその様な些事を気にしてはいられない。さあ駆け抜けろと心の中で叫び、身体はそれに従い、壁の先へと飛び出そうとして、
「ウォンッ」
「嘘だろ?」
巨大な塊が男の背中に飛びかかり、肩口を一気に噛み砕いた。
「ァアアアアアアッ」
男は叫びながら、足下がなくなったことにも気付いていた。
「────────ッ!?」
そして、壁の先は何もなかった。あったのは奈落のような底なしの闇。そこへ男は噛みついた黒犬と共に落ちていく。
何も分からぬまま、男は高速で接近してくる地面を視界に捉えた……ような気がした。
勿論、それは男の主観の中だけのことであり、高速で接近していたのは地面ではなく男の方で、そもそもが暗闇の中でそんなものが見えているはずもない。
ともあれ、哀れな男は頭から地面と愛のないキスをして、そのまま全身をバラバラにブチまけて『二度目』の死を迎えたのだった。