act6 その程度のもの
「・・・マキ。具合はどうだ?」
「・・・・・あ、加瀬先生・・・」
雅酒が気が付いた時、彼女は医務室のベッドに寝かされていた。どうやら雅酒は個室で気を失った後に美代子に発見されたようで、彼女もベッドの傍らで心配そうに雅酒を見つめていたが、意識が戻ったことでほっと胸を撫で下ろしている。あれからどれだけ時間が経ったのかは判らないが、医務室の窓のカーテンの隙間から見える外の景色は暗く、なんとなくだがもう夜を迎えているように思える。
「どうした?いったい何があったんだ?」
「実は・・・」
雅酒は個室で起きた出来事について、素直にできるだけ詳しく話したが、正直あのような現象が本当に起きていたかどうかについては自信の無いところがあった。彼女はもうすぐ中学生になる身の上で、ある程度物事の分別は付いているものと自分では思っている。そのような感覚からは【這いずり回る手】などというものは現実とは捉え難いのは承知のことで、一度気を失ってしまった今となっては、また自分の精神疾患を自覚しているという立場からも、あれを現実と強く主張できるものでは無い。
彼女の話を聞きながら奇妙そうな表情を浮かべる重雄の顔色を伺っても、その想いは強くなる一方で、雅酒は一つ一つ説明する度に口が重くなり、次第に言葉数は減っていった。
「マキは・・・それはなんだと思った?」
「・・・お化けか幽霊・・・だと思いました」
「うん。実際のお化けなんかも、本当はそういうものなんだろうな」
すると重雄は一度雅酒に笑いかけて見せると、諭すような表情でじっと彼女の顔を見た。これは医師が患者を安心させるための手段の一つなのだろうが、雅酒は正直言って重雄のこの表情は好きにはなれないでいる。
「マキは、自分の病気のことは判っているよね?」
「はい。統合失調症です」
「そうだ。実は今まであまり症状としては出ていなかったが、統合失調症にはいくつかのパターンみたいなものがあってね」
重雄の話によると、統合失調症には【陰性症状】と【陽性症状】と呼ばれるものがあるのだという。陰性症状はリラックス成分ともいえるセロトニンの過剰摂取により、やる気や意欲といったものが失せてしまうもの。陽性症状はドーパミンの過剰摂取により、やる気は出るが幻覚や幻聴を起こしてしまうもの。
今の雅酒は陰性症状が顕著に見られる状況だが、いつ陽性症状が現れてもおかしくはない。今回の騒動は正にその表れで、一般に言われる心霊現象というものも、その延長線上にあるものだろうと彼は説明した。
「今回の事は、マキの病気が回復するために通らなければならない道のようなものだ。もうしばらく頑張れば、病気はいずれ回復期を迎えて落ち着くようになる。どうだ?少しは安心できたか?」
「・・・はい・・・」
雅酒は重雄の言葉に一応納得はして見せたが、正直実感は無かった。確かあの時は奇怪な現象を現実のように思えたが、意識の混濁や感情の激高から考えれば、そのようなことが自分に起きる可能性はあるように感じる。しかしあの映像は今も雅酒の脳裏に刻まれていて、もし意識がおかしくなっていたなら、その光景が本当にここまで鮮明に残るのかと疑問にも思える。
彼女はこの2年を重雄の言う通りに過ごしてきて、それで彼の言うことが間違いと思えるようなことはほとんど無かった。習慣と言えばいいのだろうか。結局「先生が言うのだから、そうなのだろう」と頭の中で自己完結をしてしまい、それ以上の思いを浮かべることはできなかった。
「しかしこういう事態を想定していなかったのは、私の責任だな。何かあった時のために頓服(急激な体調変化の際に使う非常用の薬)をいくつか渡しておこう。それから、どうだ?自分の部屋に戻れそうか?もし心配なら、個室を別に代えてもいいんだよ」
雅酒は重雄の問いかけに、自分の感情の安定度を計ったが、その問いに意識は「大丈夫」と応えている。それに彼女は例の現象を体験として説明したことに気恥ずかしさのようなものも感じていて、どちらかというと早く医務室を離れたいという意識が働き、今できる精一杯の笑顔を見せて、重雄に感謝の言葉を伝えた。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました、先生」
雅酒が足早に医務室を離れようとした時、重雄が彼女を呼び止めた。
「あ、それからマキ」
「?」
「実は一つ、頼みたいことがあるのだが・・・」
重雄の表情はいつものようににこやかだが、彼女は普段はそれが作り笑いであることを知っている。しかし今の彼の笑顔はそれと少し違っていて、何か作り事では無い本意のようなものが伝わってくる。
「実はここにに、新しく児童が一人入園することになってね。まあ詳しくは言えないんだが、都内で保護された子で言葉もろくにしゃべれない。筆読っていうか、何も書くこともできないような子でね。どうやら君と同じぐらいの年齢の女の子なんだけど・・・」
「・・・?」
「まあ話せないのは難点だが、意識が安定している時にはこちらの話していることは理解できるようだし、知能的にも低いという感じでは無いらしい。もしかしたら君と同じぐらいの年齢だから、多少でも君と一緒にいれば気持ちが安定するかも知れないし、、何か話をしてくれるんじゃないかとも思ってるんだ。そこで相談なんだが、2日後からの授業だけでも、君と一緒に受けれるようにプログラムを組んでもいいかな?」
雅酒は加瀬園にきて初めてになるこの申し出に少しだけ困惑したが、生活の合間ですれ違う他の児童たちの姿はよく覚えているので、同じようなレベルなら特に干渉するようなことは無いだろうと結論付けた。日々の生活が突然変わることに、普通なら大概の人間は大きな不安を感じるものだが、彼女はそこまでの大事にはならないだろうと考えたし、何より早く医務室を離れたかった。だから雅酒は新入生の名前だけを聞いて、重雄に短く承諾の返事をすると、美代子に付き添われ小走りで医務室を離れていった。
新入生の名前は【影歌】
彼女に苗字は無く、保護された時に一言その言葉を発したことから、その名前で呼ばれているということだった。
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雅酒が医務室を離れたあと、重雄は彼女のカルテを見ながら、ある男性と話をしていた。男性はこの町では珍しいスーツ姿の欧米人で、年齢は30歳後半ほどだろうか?男の表情は小さな驚きを含む微笑があったが、それとは対照的に重雄の表情に緩みは無い。そのことに気付いた男は再び彼に自分の意を伝えたが、結局重雄の表情は変わらないままだった。
「先生。これはようやく【始まった】ということでは無いのですか?」
「いや、まだまだですよ。まだスタートラインにも到達していません」
「どうしてですか?2年の観察期間を過ぎて、ようやくその兆候が現れたではありませんか」
「いや。私が求めているのは、こんなものではありません」
そして重雄は一度カルテを棚に戻すと、そこから今度は別の書類を取り出した。それは10枚程度の英語がびっしりと書き込まれたものだが、どれもトップには製薬会社【LUXIAUM】のロゴが。そしてその最後の1枚には日本語で【許可】と書かれていて、日本政府と厚生労働省の印が押してある。
「第一【あれ】を摂取して数日程度で効果が出る程度のものなら、ここまで大掛かりなお膳立てをする必要は無いのです。マキが見たのは、結局は【人間の手】。異質とは言え人型程度のものが見えても、この計画にとって大きな意味は無いのですよ。マキが見たのは、おそらく何か霊魂の類のようなものでしょうが、その程度が見える人間なら世間には五万といる」
「それでは、どのように・・?」
「何を言っているんですか。そのために、あなたがたから【新入生】を準備していただいたのでしょう」
「あ・・・なるほどね。そういうことか・・・」
男は重雄の言葉に、驚かされたように彼の顔を見た。
「影歌はマキの本性が現れ始めたのかどうか、その目安を計るために準備したいただいたもの。なかなか今まで手配するのが難しかったようですが、お陰でようやく新しい段階に着手ができそうです。ここでできるのは経過観察が手一杯で、本来の目安の検討を付けることが無理でしたからな」
「・・・先生。上手くいきそうですか?」
「正直言って判りません。ですが影歌は大物です。これで私がマキを保護した意義が活かされるというもの。この2年間、母親の遺伝子を受け継いでいるマキが凡人であるはずが無いにも関わらず、いっこうにその気配を見せることはありませんでしたが、それは単に我々がそれを計るモノサシを持っていなかったからだろうとも思っています。あの影歌の持つ呪われた素性に、マキはきっと気付くはず。安っぽい霊魂程度では無い、次元の狭間に巣食う、もっともっと大きく邪悪なものの存在に・・・」