act5 雨と蟲
雅酒の日常は世間とは遮断された状態になってはいるが、いつ社会復帰してもすんなり日常に入ることができるように、様々な配慮が成されている。例えば普段は授業と診察・面接(主に心理面接)を中心に構成された1週間の生活の中で、土曜日・日曜日には特別なプログラムは設けられておらず、若干の家庭学習以外はほぼ自由時間で構成されている。もちろん生活リズムの観点から食事や入浴の時間は定められてはいるが、その他はやらなければいけないというようなものは特に無い。
本来の児童養護施設は一定の集団生活が基本のため、家庭的な手伝いなどを推奨していることも多いが、加瀬園はそもそも集団生活に支障があると判断されている児童が集められているため、そこに重点は置かれてはいない。
むしろ雅酒は統合失調症とは診断されてはいるものの、ほぼ普段の生活は服薬の成果から安定しているため、週末にはいくらかの小遣いを渡された上で、できるだけ外出するようにと言われている。しかしそれはあくまでも『推奨』であり『強制』では無いため、この2年で彼女は外の空気に触れたことはほとんど無い。
この日の日曜日も、雅酒は美代子から2000円の入ったきれいな財布を渡され、「外に遊びに行ってきてみたら?もし必要なら私も一緒にいきますよ」と言われてはいたが、特に外出意欲が湧くことも無く、ぼんやりとベッドの上に座っていた。彼女の頭には何が浮かぶことも無く、ただ空白の時間だけが通り過ぎていく。
元々は雅酒の母が活動的な性格だったため、その遺伝子を受け継いだのだろう。彼女も休日となれば近所の公園に友だちと連れ立ってくり出していくアウトドア派だったのだが、今は外に出ることにすらも大きな抵抗を感じている。その理由は、何か行動をする度に母の幻影が付きまとい、悲しみの感情が再燃するからだということに、なんとなく雅酒は気付いてはいる。その感情は時が経つにつれて薄らいでいるが、それでも今も抵抗感が残っていることに変わりは無く、またこのような生活に慣れてしまった彼女にとって、この方法以外の時間の過ごし方を思い付くことはできなかった。
外は昼過ぎから天候が下り坂のようで、個室の窓を通じて差し込んでいた陽射しが徐々に弱まり始めている。季節がようやく冬から春に変わろうとしているこの時期の雨は雨音すら冷たく感じるが、雅酒はそれはそれで嫌いでは無い。なぜなら変わらない日常が続くことは、ともあれば苦痛に感じることもあるが、雨はその中で小さな変化を仄かに彼女に感じさせてくれる。
そしてもう一つ、雅酒には雨が好きになる理由があった。
もうこの話を思い出すのは何度目のことになるだろう。昔雅酒の母が彼女に話してくれた、古い親友との出会いの物語。雅酒の母が学生だったころに出逢った、黒髪の長い少女のこと。
その少女は元々が気が強く、しかも転校生として母のもとに現れたということで、最初は全くお互いを必要としない間柄だったどころか、誰とも相容れず自分の殻に強引に閉じ篭もるタイプだったらしい。同級生の誰とも話すらしようとせず、人懐こかった雅酒の母のアプローチにも、一切乗ってはこなかったとのこと。しかしある雨の日、その少女が内緒で飼っていた子猫を偶然見つけてしまったことから、雅酒の母との深い友情が始まったということだった。
雅酒はその親友の話をする母の朗らかな笑顔と、彼女が決まって使う『キラキラと光る雨の中で』という表現が忘れられず、何度も同じ話をしてくれるようにせがんでいた記憶がある。
なぜその表現が頭の中に鮮明に残っているのか、理由は判らない。あるいは孤独の中で生きている雅酒が、母と同じような友人との関わりを無意識に求めている象徴なのかも知れないが、おそらく彼女がそれに気付くことは無いだろう。しかしいつかその『キラキラと光る雨を見てみたい』という願望は仄かながらも永く彼女の心の中に息づいていて、雅酒は雨が降る度に、まるで条件反射のように空を見上げるのだった。
その日の雨は結局陽光をキラキラと映し出すような天気にはならず、辺りは暗さを増してくる。まだ昼過ぎにも関わらず室内灯が必要と感じた雅酒は、ベッドから降りライトのスイッチを入れた。しかし何故か室内灯は少しも反応を見せず、やがて彼女の室内は夕方から夜程度に感じられるほどに暗くなってしまった。
「停電・・・かな?」
雅酒はまだ若干の明るさを残している外の光を求めるように窓際に歩み寄ったが、その時彼女の耳に、窓を叩くような大きな音が響いた。
驚いた雅酒が音がした方向を見ると、そこにはどこから中庭に迷い込んだのか、窓際にブチの大きな野良猫が座り込んでいる。野良猫はまるで睨み付けるように彼女を見つめていて、少しも動く気配が無い。雅酒は元々動物好きで、犬や猫と戯れることに特に抵抗は無い。野良猫は開閉できない窓の外側に居るために触れることはできないが、それでも関心を持った彼女は、野良猫を驚かさないようにゆっくりと歩きながら近寄っていった。
そして間近まで迫り猫の顔を注視した時、彼女はあることに気が付いた。野良猫の毛が、何かを警戒するように激しく逆立っているのである。
本来ならそれは雅酒を警戒するためにと考えるべきだが、よく見るとその視線の先は雅酒では無く、雅酒の背後に広がる個室の空間に向けられている。その猫の警戒する対象物が何かは判らないが、近づく雅酒にも猫は気付かないようで、獲物と相対するような厳しい表情を崩そうとせず、すぐにでも動き出せるように、体制を前かがみにし背中をブルブルと震わせている。
部屋の中に・・・何かいる?
雅酒の背筋に、ピンと貫くように冷たい感覚が走った。
彼女はまだ顔を外に向けたままだが、確かに後ろに何かの気配を感じる。それは誰かが個室の中に入ってきたという感覚とは違い、何か動物のような、とにかく人間とは違った存在が部屋の中にいるように思える。そしてそれは彼女に好意とは違った意識を向けているように感じられ、雅酒は怖くて後ろを振り向くことができない。
何かが、あたしを狙っている!?
突然に起きたこの事態に、雅酒は意識が飛んだように頭の中が真っ白になっていき、同時に不快な感情が込み上げてきた。それは雅酒が以前にパニックに陥った時と同じ前兆で、激しい頭痛を伴う不快感は強い警鐘を彼女の中で掻き鳴らす。突然湧き上がった恐怖感を雅酒は必死に抑えようとしたが、過呼吸と心臓の鼓動は急激に密度を増していき、目に見えるもの全てが敵意を向けるように歪んだ弧を描き始める。そして彼女には次に自分に何が起きるのか、容易に想像することができた。
早くこの部屋から出ないと、また気を失ってしまう!
しかし雅酒が再び野良猫の顔に目を向けた時、彼女は一瞬だけ見てしまった。
猫の瞳に淡く反射して映る、部屋の中で起きていた不可解な光景を。
それはベッドの上に置かれた、金属のように鈍く輝く印象を受ける正立方体だった。立方体はそれだけならただの【物】であり、雅酒が戦慄する理由にはならない。
しかし問題はその後にあった。彼女の部屋に誰がいたわけでは無いにも関わらず、立方体は自らの力で上部のフタらしき部分をゆっくりと開くと、その中から無数の何かを排出したのである。
雅酒はそれを直視したわけでは無かったが、彼女には確信に近いものがあった。立方体から排出された何かは明らかに自立し、まるで蜘蛛のようにベッドの上を動き回っていたのである。
手首から切断された、いくつもの【人間の手】が。
それは数にして10前後ほどで、どれも深いしわが寄り、頭を潰された虫のように目標も無くベッドの上を這いずり回っている。あるものはベッドから落ち、またあるものは掌を上にして痙攣を繰り返し、あたかも切断された瞬間の痛みが永遠に続いているようにも、または共食いを繰り返す蟲毒の虫のようにも見えた。
そしてその恨みを誰に向けようかともがき苦しむ亡者の怨念が、まるで雅酒を対象に活動を始めたかのように、彼女の心が恐怖感に征服された瞬間だった。
雅酒はその惨劇に耐え切れなくなり、後頭部への強い激痛と共に気を失ってしまったのだった。