act4 3月8日
園田が加瀬園を離れた後、重雄は園長室でいくつかの書き物をしていたが、ふっと思いついたことがあったのか走らせていた万年筆を止め、雅酒のカルテが納められていた棚を開けた。この棚には丸秘資料のいくつかを納める二重ロックの収納スペースがあるのだが、彼はその中のファイルを取り出すと、一枚の古びた大きな紙を取り出した。
紙は少しだけ劣化したインクの臭いが残る古新聞で、日付は2年前の3月8日付けのもの。これは雅酒の母親が失踪した日の記事が載せられているもので、重雄は眼鏡を掛け直して新聞を読み始めたが、その表情には何かしらの含みがあるように見える。
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○皇居に迫撃砲が打ち込まれる。
今朝9時40分頃。皇居三の丸尚蔵館付近で、轟音と共に爆炎が上がっているのが目撃された。警視庁では皇居に迫撃砲のようなものが撃ち込まれたものと見ていて、現在容疑者3名の身柄を拘束。一部情報では、容疑者は都内の宗教団体のメンバーと見られている。
怪我人は出ていない模様。
○人気作詞家の暮葉研一が無差別の路上殺傷。
深夜12時過ぎ。人気グループACHA5の作詞などで有名な暮葉研一(38)が、K区の路上でナイフを振り回し、通行人8人に次々と切りつけた。佐藤成彦さん(56)が外傷性ショックによる意識不明の重態の他、指を切断するなど4名が重傷。現在動機については調査中。
○宮佐古大学教授の沙紀信彦さんが自殺。
今朝8時過ぎ。宮佐古大学の研究室で、同大学の精神医学教授・沙紀信彦さん(61)が心肺停止の状態で発見された。周辺の状況から沙紀さんが焼身自殺を図ったのでは見られているが、現在警察では詳しい状況を調査中。沙紀さんはノーベル精神医学賞にもノミネートされた経歴がある日本の精神医学の第一人者で、自殺の動機などは明らかにされていない。
○バロック絵画の巨匠・真田十行さん自殺。
昨夜3時頃。芸術家の真田十行さん(47)が自宅の居間で首を吊っているのを妻が発見した。真田さんはすぐに病院に運ばれたが、その後死亡が確認された。
真田さんは日本のバロック絵画の巨匠としてヨーロッパを中心に活躍。代表作の絵画『朝陽の下にて』はサンクトメルオークションで2億7000万の値がついていた。
○絵本作家・無理心中か。
昨夜、都内C区の住宅で、鹿島里子(37)、長女(5)、次女(3)が心肺停止の状態で発見された。3名はいずれも病院で死亡が確認されている。
両女児の首には紐で締められた跡があったことから、里子さんが無理心中を図ったのではないかと警察では捜査を進めている。
里子さんは絵本作家で、幼児向けの絵本を出版していた。
○老人擁護施設で殺人。臨床心理士を逮捕。
J警察署は8日朝、老人養護施設の臨床心理士でカウンセラーの杵島邦夫(35)を殺人の疑いで逮捕した。邦夫は老人養護施設の職員(44)の首を切断し、付近の公園に放置した疑いが持たれていた。
○河川敷で人間の眼球見つかる。
K警察署は8日未明に、K河川敷運動場で人間のものと思われる眼球が噴水の傍に置かれていたと発表した。
眼球を発見したのは付近に住む男性で、犬の散歩の途中で偶然見つけたとのこと。眼球はまだ血が乾いていない状態で発見されていたため、警察では事件性が高いと見て捜査を進めている。
新聞には他にも多くの事件記事が載せられていて、スポーツやローカル記事が大幅に削られている。記事の最後には、当日の事件発生率と自殺率が平均の5倍以上にまで膨らんでいたという一文が添えてあり、この日が異常と表現してもおかしくない一日だったことが容易に想像できた。
この異常事態が起きた理由については、後にテレビや週刊誌で何度か話題として取り上げられ追求されてはいたものの、もちろん誰もが合点がいく結論は導き出されてはいない。原因の候補としては、宇宙線・太陽フレア・月の満ち欠け・電磁波の異常・テレビやネットのサブリミナル効果等から、果ては政府や宇宙人の陰謀説まで上げられていたが、そのどれもが説得力に欠けている。むしろ『偶然の一致』こそが一番しっくりくる説明だと考えられるようになり、この話題はそのまま収束していったのだった。
ちなみに雅酒の事件については、事件記事の隅に、次のように掲載されている。
『8日未明。鷺岸市のアパートで火災があり、現場で女子児童(8)が倒れているのが発見された。児童は左腕に大きな裂傷を負っているものの、命に別状はない。鷺岸警察署では女児の母親で現在行方不明の高村神酒さんが事情を知っているものとして、現在行方を追っている』
この記事を読むと判ることだが、雅酒の証言と状況証拠で符号しない部分が二点ある。一つは彼女がいたアパートの一室が火災で半焼しているが、雅酒は左手に裂傷を負っていたものの、火傷の跡は認められなかったということ。これは当時の状況は明らかになっていないために何とも言えないことだが、部屋の広範囲が火災で焼け落ちていたにも関わらず雅酒が火傷をしていないということは、その間に彼女は別の場所に居たことになる。しかし実際に彼女自身の血が飛び散った跡と、火災発生から鎮火までの時間を含めて検証をしてみると、雅酒は当日アパートの部屋から別の場所に移動していたとは考え難く、この点はまだ正確に解明されてはいない。
そしてもう一点が、事件が起きる直前に彼女が『息が白くなるほど寒かった』と証言していること。これも『火災』という事実には反したもので、事件の特異さから彼女の記憶が混乱を起こしたものと担当検査官は判断していたが、雅酒の記憶が抜け落ちる直前までは、彼女には正常な判断力と記憶力があったものと医師からの鑑定を受けていたため、その部分も多少曖昧になっている。
本来このレベルの事件が起きた場合、警察ではもちろんその解明の全力を上げるのだろうが、この日の不可解な事件発生率の高さは全国的な捜査関係者の人的不足を引き起こしていたため、充分な証拠を保存できないままに時が過ぎてしまっていたのである。
そしてこの日の異常事態は、雅酒の左腕の怪我にも影響を与えていた。
雅酒が火災現場で発見され病院に搬送されるまでにかかった時間は約3時間程度。たったそれだけのことに3時間もの時間を要した理由は、近隣の病院が犯罪率と自殺率の一時的な増加により怪我人で溢れてしまったため、救急車の到着が遅れたことと、病院をたらい回しにされてしまったことにある。
救急車到着後の救急隊員の止血術はさすがに見事な腕前だったのだが、縫合手術までに更に余計な時間が費やされてしまったために、雅酒の左腕に大きな跡が残る結果となってしまっていたのだった。
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重雄は新聞を読み終えた後に、それを鍵棚に戻そうとソファから立ち上がったが、ふと立ち止まり考え込むと、新聞を丸めてゴミ箱に放り込んだ。その表情は先程とも変化は無く、喜びも憂いも読み取ることはできない。
「誰に判るはずも無い。真実とは残酷なものだ」
そして彼は再び万年筆を手にすると、通常の業務を再開したのだった。