act1 高村雅酒
彼女はもう、2年も前から『考える』ことを止めていた。
淡いオレンジ色のカーテン越しに、陽光が気だるそうに殺風景な部屋に差し込んでくる。いつもと何の変わり映えも感じられない朝は、今日も宙に舞う小さなホコリをキラキラと反射させながら彼女のもとに訪れてくる。
枕元にはめ込まれた無機質で機能的なデジタル表示の時計に映し出された時間は、起床時にはいつもきっかり6時30分を指していて、雅酒は以前は自分の体内時計がここまで正確なものかと感慨にふけったこともあったが、今思考を停止させている彼女には、そのような感動は無い。
雅酒はふと左腕に違和感を持ち、その源を軽く擦った。特にに関心を持ちたいとも思わないのだが、自然にその先にあるものに彼女は視線を送る。
先にあったものとは、左腕から甲にかけて刻み込まれた大きな傷。かつて彼女が大きな裂傷を負ったことを深く物語るその跡については、後に記述することにしよう。
雅酒はいつものように鳴り出す前の目覚ましのスイッチを切ると、無意識に自分の周りを軽く見回した。約6畳のフローリングの個室に並べられた勉強机、着替えの入ったスチール製収納棚とクローゼット。申し訳程度に置かれた小さなテレビと、ユニットバス、トイレ、廊下に繋がる扉が3つ。
およそ12歳になる少女にとって、本来ならたったこれだけの設備は数としては少なすぎるはずなのだが、今の彼女にはそれすらもそれほど必要とは感じられない。日常の生活を過ごすだけなら、クローゼットに並べられた女の子らしさをイメージした衣服やテレビでさえ余計に感じられていて、実際に雅酒はテレビのスイッチを入れることも、かわいらしいファッションに身を包むことも皆無の状況にある。
おそらく彼女が物品的に何かを求めれば、この施設ではその願いはほとんどが叶えられるのだろう。しかし今の彼女には、一片の娯楽品にも興味は湧いてこないし、それらの情報を求めたいとも思わない。
彼女はまぶたを半開きのままにベッドから上半身を起こすと、そのままユニットバスに向かった。どんなに無気力感に支配されていようと、そこは彼女の元々の性格なのだろうか。顔を洗う、歯磨きをする、髪を梳かし結ぶなどの日常のマナーは続けられている。
考えてやっているのでは無い。体がそのように動くだけ。
雅酒は時折考えずとも日常をこなしていく自分の体をロボットのように感じるときがあるが、そのことについてどうという感情も浮かばない。
やがて雅酒が身なりを軽く整えラフな普段着に着替えた頃、これもまたいつものように、彼女の部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ。」
雅酒が知りうる最も短い入室を許可する返事に促され、やがて彼女の部屋に、一人の女性が入ってくる。
「マキさん、おはよう。今朝の調子はどう?」
彼女の目の前に現れた女性は、名を美代子という。
美代子は雅酒が入所している児童擁護施設の職員で、雅酒を担当している。普段から明るい性格と振る舞いの中肉の女性で、おそらく雅酒の知る以外の世間ではそれなりに好かれる人物なのだろうが、どこかそらぞらしい雰囲気があり、雅酒は彼女をあまり好きにはなれないでいる。
雅酒は美代子の問いかけに、いつものように小さく首を縦に振って見せた。特に自分が無愛想という印象を与えたいというわけでは無いが、同じことを繰り返し2年も聞かれていれば、その返事のバリエーションもいい加減底を尽く。まして今の雅酒にはにこやかに返事をするという感情も義務感も無く、言葉を口にすることすら面倒に感じている。最も小さな労力で自分の意思を伝えるだけなら、首を縦か横に振るだけで充分なのだろうと。
「そう、良かった。今日も調子がいいのね。」
『あたしのこの表情の、どこが調子が良さそうに見えるんだろう?』と雅酒はいつも感じているが、もちろんそれを深く問うつもりは無い。
美代子は雅酒とは対照的に満面の笑みで彼女に応えると、勉強机の上に朝食と3粒の薬を置き、ユニットバス傍の雅酒の着替えた寝着の入った籠を持ち上げた。
「それじゃあ朝ご飯を食べて薬を飲んだら、勉強の準備を始めてね。今日の教室は2階のFルームで、算数から始めるって先生が言ってたわよ。」
そして美代子が退室した後に、雅酒は朝食と服薬を済ませ、まるで機械のように授業の準備を始めた。
ここまで一度として彼女の表情は変わる事無く、その生活はもうすぐ3年目を迎えることとなる・・・。
☆★☆★
雅酒の生活の場となっている児童養護施設『加瀬園』は、何らかの事情で両親との生活が困難になった児童の生活を保障する施設であると説明されている。ただ他の養護施設と大きく異なっている点は、加瀬園には精神疾患を持った児童を中心に集められているということ。
雅酒は2年前に、母親が少量の血痕を残して失踪するという奇異な事件に巻き込まれており、その際の記憶がすっぽりと抜け落ちている。左腕に刻まれた大きな傷はその際に負ったもので、彼女は現場となった自宅で血まみれで怯えているところを警察に保護されており、現場で何が起きたのか、なぜ左腕に大きな傷を負ったのか、母親がどこに消えてしまったのか、未だ解決はなされていない。むしろ母親こそが雅酒殺害未遂事件の重要参考人の一人ではと疑われていて、それは彼女自身が真っ向から否定はしているものの、どうやら警察のリストから外されていない模様である。
ちなみに雅酒の父親は彼女が生まれて程なく姿をくらましたらしく、彼女の記憶には父親の幻影すら残ってはいない。
小学4年生までは明るく素直だった彼女の性格と生活は、その日を境に大きく一変した。
母親が行方不明であること、自分の部分的な記憶喪失のせいで事件の解決が成されていないことに加え、雅酒の母が祖父母と喧嘩別れ同様に家を飛び出していること、母が携わっていた仕事が、社会一般的には認められていないないような内容だったこと等が原因で、祖父母も彼女の引き取りを拒否しているということなど、小学生が受け止めるには重すぎる事実をいくつも突きつけられている。だから自分が精神的な病気があると医師に告げられても「そうですか」と答える他は無いし、自分が施設から生かしてもらっているという今の状況では、目の前のことに抗おうという気持ちも生まれるはずはない。
ちなみに雅酒に下された診断は【重度の統合失調症】で、これは以前は精神分裂病と呼ばれていた、主に思春期頃にかかると言われている病気である。
症状としては、眠れなくなる・落ち着かなくなる・光や音に敏感になる等の初期症状から、幻覚や妄想・自分の感情に興味が持てなくなる等の症状に発展していくもので、身体的特徴としてはドーパミン(陽性症状)やセロトニン(陰性症状)の脳内での取り込みが過剰になる。
発症の原因は人それぞれ異なっていて、雅酒の統合失調症の発症の原因は、おそらく母の失踪によるPTSDによるもの。彼女の飲んでいる薬は、もちろんその治療のための物だった。
加瀬園には他にも10名ほどの、小学生から高校生程度の男女を交えた児童が集められているようだったが、活気のあるような児童がいるようには感じられない。『感じられない』としたのは、彼女が他の児童に対して興味を持てないから。
加瀬園は壁がスチールのような金属で作られた無機質な建物で、外壁も高い塀で覆われてはいるものの、特に入り口の施錠はされていない。だから外との出入りは自由なのだが、雅酒は外に出たいと思うことは無いし、職員以外の人間が出入りしているところも見たことは無い。機能だけが重視された、個々の児童の個室のドアが並ぶだけの廊下で他の児童とすれ違うこともあるが、言葉を交わすどころか会釈をすることも無いし、どの児童の目もどんよりと曇って見える。
この2年を加瀬園で過ごした雅酒は、おそらく自分も他の児童同様に見えるだろうし、それがこの中では当たり前なのだろうと思っていた。
雅酒は朝の一通りの身だしなみを整えたあと、施設内に設けられた授業に参加するために、数冊の教科書をまとめた。ここでは少人数の児童の個々の学力に応じて授業が進められるため、雅酒は特定の小さな教室に向かい、そこで授業を受けることになる。
本来ただそれだけなら彼女の個室に教師が赴いても良いはずなのだが、この件については児童相談所による指導が行われていて、加瀬園では児童同士の交流が極端に薄いため、必要に応じて児童を個室から出して交流を促すようにという配慮が成されている。これは雅酒担当の福祉司から説明されていたことだったが、他教室に移動しても一人で授業を受けることがほとんどの彼女にとって、それが有意義なことかどうかは判らなかったし、例え他児童と一緒に授業を受けたところで、交流が生まれることなど無いだろうと思っている。
雅酒の一日は午前から昼までの授業。昼食を経ての数時間の授業と自主学習。そして短い診察と長めの自由時間。夕食を経てほぼ終了する。最初に彼女がここに来た時には、まだ環境の変化や、この年頃の少女が当たり前のように持つ世間の流行に、当然のように興味を持っていた。
しかしいつ頃からだろう? 雅酒から『意欲』のようなものがふっと消え去っていったのは?
ここに来て、そんなに時間はかからなかったような気がする・・・。
今日も雅酒は、そのようなことを考えながらベッドに静かに身を沈める。
そして繰り返されるのは、2年前のあの日を回顧する夢。
最初の頃には汗ビッショリで夜中に目覚めることもあったが、今はそれすらも無い。
そしてそのような自分の変化にすらも、彼女は何の感慨も浮かばないのである・・・。