◇過去の歴史には傾城の美女がいたと聞いていたけれど。
その美女は目を細めて森を透かすように見詰めた後、タンガに物問いげな視線を向けていた。
「お嬢の仰る通り、不浄の地でグール共が甦っていました」
「そう……穢れを感じたので、もしやと思ったのですが……直ぐにも大祓の儀式を」
美女が表情を変えず、口元だけ動かし高く澄んだ声で答えると、杖の先に付いた鈴を鳴らす。
俺はというと、その間、目の前の美女をぼけっと見惚れながら、聞くとはなしに二人の会話を聞いていた。
――もしや、エルフ?
現実になったこの世界、モンスターはよりグロテスクに……エルフは更に美しく……。俺はその時、恍惚とした表情を浮かべていたかも知れない。それほど目の前のエルフは、神々しく感じるほど美しかったからだ。
だが、突然後ろから強い力で肩を掴まれると、強引にその美女エルフの前に引き据えられた。
「な、何をする……」
抗おうとしたが、肩を掴んだ手はぴくりとも動かない。顔だけ後ろに向けると蜥蜴人の、刺すような刺々しい視線とぶつかった。
そして、もう一人の獣人、狐顔のクルスが俺の前に出ると、美女エルフに話し掛けていた。
「お嬢、その祓魔の鈴を使っても、もうグールは鎮まらねえと思うぜ」
「……何故?」
「俺の見たところ、グールは既に三百はいた。それと、この男が火魔法を使って騒ぎを起こしたから、まだ続々と集まって来てやがる。とても、儀式で鎮まる数とは思えねえ」
クルスのその言葉に、周りにいた人達が響めくのが聞こえた。
そこで初めて俺に気付いたのか、美女エルフが涼やかな視線を俺に向けてきた。そして、ぴくりと眉を上げて、無表情だった顔に少し変化が起きる。だが、直ぐに無表情に戻すと、背後を振り返っていた。
「……カリナ!」
「はい、お嬢様ここに」
エルフ美女の呼び掛けに、栗毛の髪をショートカットに切り揃えた女性が、素早く走り寄ってくる。傍らに近寄ってきた女性は、まだ十代に見える可愛らしい娘さんだった。
――おっ、ちゃんとした人間もいるんだな。
その女性は俺と同じ人間、普通の女性に見えたのだ。そこで、周りを見渡すと、周囲にいる30人ほどの人達も、半数は普通の人に見える。
「カリナ、直ぐに撤収の準備を。グールは水を嫌います。一旦、対岸に退避することにします」
「はい、分かりました。お嬢様」
カリナが頭を垂れて下がると、美女エルフが周りを見渡していた。
「今の話を聞きましたね。戦える者は、グールへの警戒を。それ以外の者は、カリナに指示を仰ぎなさい」
美女エルフの凛とした声が響くと、銘々が慌ただしく動き出した。
しかしそこで、俺は妙な事に気が付いた。武器を手に取り、グールの警戒をするのは10人ほどの獣人達だ。それ以外の人は、俺と同じような普通の人で、白い貫頭衣のような布を纏っている。そして、テントや陸揚げしていた木箱等を、船に積み込んでいた。その際、その片付けを行っている人達に対して、獣人達が小馬鹿にしたような態度を取っていた。
それを首を傾げながら眺めていると、美女エルフが近寄ってきた。
「お嬢!」
慌てたタンガが、間に入ろうとした。が、それをエルフ美女は、手を上げ制止する。そして、目の前に来ると、じろじろと俺を眺め回す。
――な、何だよ。
あまり美女への耐性の無い俺は、その不躾な視線にたじろいでしまう。
「この者が火魔法を使ったとは、真実か?」
エルフ美女が、クルスに顔を向ける。
「あぁ、この目で見た」
「ふっ、ルークあたりが知れば、また異端だと騒ぎそうな話だな」
微かな微笑を浮かべたエルフ美女が、今度はタンガとグイドに目を向ける。
「俺はヒューマンが、魔法を使えるとは思わない。何か、火晶石を利用した魔道具でも使ってたのだろ」
「俺ハ魔法二関シテハ何モ分カラナイ」
タンガとグイドが、同時に肩を竦めて答えていた。
「お前は何者だ。それに、本当に魔法が使えるのか?」
美女エルフが、探るように顔を俺に向けた。
「なあ、その前に、こいつは何の訊問なんだよ」
俺は少々腹を立てていた。確かに、危ない所を助けてもらったが、訳も分からず拘束されたような気がして、少し不満だったのだ。
「お前、ヒューマンの流民のくせに、お嬢に失礼な口をききやがって!」
狐顔のクルスが、更に目尻を吊り上げ怒りだした。
いや、お前らも大概な口のきき方だと思うが。
「クルス、よい。大丈夫だ」
美女エルフがクルスを黙らせ、また俺に話し掛けてくる。
「そこのヒューマン、あの地は禁足地なのだ。不浄の森と呼ばれ、許可なき者は立ち入りを禁止されている」
「えっ、禁足地……そいつはすまない。俺は……他所から来たので知らなかったんだ」
一瞬、本当の事を、『ゼノン・クロニクル』で遊んでいたら、この世界に飛ばされたと話そうか迷った。しかし、ここが本当に異世界なら、信用してもらえるとは思えない。だから、適当にごまかす事にした。
「ほぅ、知らなかったと。だが、この大陸に住む者で、この森の事を知らぬ者はいないと思うのだが。では、お前はどこから来たのだろうな」
えっ、ここってそんなに有名な名所なの。
「あぁ、爺さんと二人、田舎で育ったから……だから世間知らずに……」
即興で思い付いた言い訳をするが、あまり信用されていないようだ。
「ふっ、まあいい。では、魔法はどうだ。使えるのか?」
「いやぁ、魔法は誰でも使えるのじゃないの。さっきも、この人ら、【身体強化】を使ってたように思ったけど」
確か、グールと戦っている時に、この三人は【身体強化】を使ってたはずだよな。だから、俺が使えても不思議じゃないと思ってたけど、違うのか。
「馬鹿め、俺達は気を練って、体中に行き渡らせて力を増幅する。魔法は精霊を介して行う奇跡。使えるのは、エルフの方々だけだ」
タンガが、したり顔で胸を張り言ってくる。
いや、体に巡らせてるその気が、魔素だと思うけど。それに、エルフが使うのは精霊魔法。魔法スキルのひとつだから。
「大体、お前のようなヒューマンが魔法を使えるはずがない。俺達獣人より身体能力が劣り、エルフの方々よりも魔力に劣る、能無しヒューマンだからな。使えるはずがないのだ。お前らは俺達に守ってもらわなければ、直ぐに魔獣に喰われてしまう脆弱な種族なのだから」
そのタンガの言葉に、ようやく、今まで感じていた違和感が氷解した。
俺はスキルが使える上に、似たようなモンスターを見ていたので、この世界は『ゼノン・クロニクル』と、同じような世界だと思っていたのだ。
その『ゼノン・クロニクル』の世界では、俺のような人間がヒューマンと呼ばれ幅を利かせていた。エルフや獣人は亜人と呼ばれ蔑まれ、下手したら奴隷にされていた。
――だから、この世界も同じだと……。
だが、この異世界では、どうやら、全てが逆になっているようだ。確かに、現実の世界となれば、これが当たり前なのかも知れない。俺達ヒューマンより、身体能力や魔力に優れた種族が、支配者となるのは……。
しかし、そうなると、俺って結構厄介な事になるのでは。
先行きに暗澹たる気持ちになっていると、森の方から『うぅぅぅ』と、唸り声が唱和して聞こえてきた。
たちまち、周囲から「グールだ」と声が上がる。
「船の準備はまだか!」
「今、準備が終わりました。直ぐにでも出航できます」
美女エルフが船に向かって声を掛けると、弾んだ声が返ってくる。
「全員乗船せよ!」
美女エルフの凛とした声が河原に響き渡る。だが、その声と同時に、森からグールが雲霞のごとく現れた。
腐った溶け落ちる肉を、ぼたりぼたり溢しながら此方に向かって来る。膿んだ体を、引き摺るようにして前へと進む。中には半ば以上が骨と成り果て、這うようにして進むグールもいた。その数は、百を越える。しかも、森の奥から続々と現れ数を増やしていく。全てのグールが『うわぁぁぁ』と、呻き声を上げていた。地の底から響くような、怨みを含んだその呻き声は、辺りに反響して河原中に響き渡る。
それは、まるで悪夢でも見ているような光景だった。
その光景に、皆がごくりと唾を飲み込み、呪縛されたかのように固まり、呆然としていた。
――まずい。
皆、状態異常の恐怖で、金縛りになっている。
そんな圧倒的な恐怖に支配される雰囲気の中、「りぃぃん」と、涼やかな鈴の音が闇を切り裂き鳴り響く。美女エルフの、杖の先端にぶら下がる鈴が鳴っていた。
そしてまた、凛とした声が、皆を叱咤する。
「皆、目を覚ませ!」
その声に、皆がはっと我に返っていた。
あの鈴は、祓魔の鈴と言っていたが……。どうやら、状態異常回復のアイテムのようだな。
「乗船、急げ!」
皆が慌てて、船に乗り込んでいく。
「お嬢、こいつはどうする」
えっ、俺のこと? まさか置いていくとか無いよな。
「胡乱な者だが、さすがに置いていく訳にも行くまい。カリナ、この者の面倒をみよ」
「はい、お嬢様」
カリナと呼ばれていた可愛らしい娘さんが、俺の元に駆け寄ってくる。
そして俺達が最後に乗船する頃には、グール達はもう目前まで迫っていた。
「我は雷精と契約を結ぶ者也、我が呼び掛けに答え、我の敵を討ち滅ぼせ!」
俺の近くにいた美女エルフが詠唱を唱えると、頭上から数本の雷が飛来する。その雷は、舷側に取り付こうとしていたグールに突き刺さり粉砕した。
船は、切り立つような大岩を桟橋がわりに横付けしていたが、そこにはもう、グール達が群がっていたのだ。
「何をしている! 早く出せ!」
美女エルフが、操船するヒューマンを叱咤するが……。
「駄目です。風が凪いでしまって」
「ならば櫂で漕ぎ出せ!」
しかし、既に船にはグールが群がり、櫂をつき出す隙間もなかった。
群がるグールは舷側に取り付き、船縁に手を掛けようとしている。
それを、船上に焚かれた篝火の明かりを頼りに獣人の戦士達が、切り伏せ突き落としていた。だが、数を増していくグールに次第に押され始めていた。
――おいおい、グールは水が苦手だったはず。
しかし、興奮したグールは、水が触れた部位から煙りを上げながらも、遮二無二船に向かってくる。
ゲームならこんな事は起きないのに。
ゲーム内では、水の苦手なグールは何があろうと、水に近付く事はなかった。これが現実ということなのか。
「お嬢、このままだとやばいぞ」
ダンカとクルスが焦燥感の混じる声を上げていた。
「よお、精霊魔法が使えるなら、風や水の精霊とは契約を結んでいないのか」
「残念だが、私は火と雷と樹だけだ」
美女エルフに声を掛けると、僅かに顔を曇らせ答えた。
――ちっ、綺麗な顔して、どんだけ攻撃的なエルフなんだよ。
ここは、仕方ない。俺が何とかしなければ。あれから大分時間が経っているから、もういけるはず。
俺は【アイテムボックス】から、霊薬を取り出し、一気に飲み干した。途端に力がみなぎる。
よし、魔力は回復したようだ。
俺は、近くで震えていたヒューマンを、掴まえる。
「今から俺が船を進める。お前らは、確り帆を張り操船しろ」
「そんなぁ、無理ですよ」
「いいから早くしろ。助かりたくないのか」
強引にヒューマン達に帆を上げさせる。この船は全長が20メートルほどある。そして、二本のマストを持ち、ラテンセイル、所謂大三角帆といわれる帆を持っていた。
俺はヒューマン達が帆を張る間、周りを見渡すと、エルフ美女が精霊魔法を連発していた。が、焼け石に水、周りから押し寄せるグール達に抗し難く、すでに船は群れに飲まれかけていた。
「準備……出来ました」
周りの状況に、震えながらヒューマンの男が言いにきた。その言葉にマストを見上げると、確かに、今は無風なのだろう。三角帆はそよとも動いていない。
「確り操船しろよ!」
男に声を掛け、スキルを発動させる。
「【風遁初段 烈風】!」
叫びと共に、両手を前につき出す。すると、両の手のひらから強烈な風が吹き始めた。三角帆が風に孕み、大きく膨らむ。周りにいたヒューマン達から、「おぉ!」と、響きと歓声があがる。
ぎしぎしと音を鳴らして、船がゆっくりと大河へと進み出したのだ。
そこで漸く美女エルフも獣人達も、船が動き出した事に気付いた。
「まさか本当に魔法が……」
今まで、殆ど顔の表情を動かさなかった美女エルフが、この時ばかりは大きく目を見開き、口を半開きに開け驚きの表情へと変えていた。舷側でグール相手に戦っていた獣人達も、口をぽかぁんと開け驚いている。
――ははっ、人形のような綺麗な顔も、驚くと間抜けな顔になるんだな。
しかしその時、美女エルフの後ろからグールが襲い掛かろうとしていた。
「【風遁初段 風刃】!」
そのグールに向かって右腕を向ける。すると、右腕から半円状の風の刃が飛び出し、グールを真っ二つに切り裂き船縁から大河へ突き落とした。
しかし、美女エルフはそれに気付かないほど驚いていた。
「おい、まだ戦いは終わってないぞ!」
俺の怒鳴り声に、漸く美女エルフが我に返って、いつもの無表情に戻る。
「う、うむ、そうだな。皆、よく聞け! 危機は脱した。後は、船縁にしがみつくグールをウル大河に叩き落とせ!」
美女エルフの凛とした声が船上に響くと、獣人戦士達の、「おぉ!」と、鬨の声が谺する。
先ほどまでの悲壮感漂う雰囲気から一転、獣人戦士達も嬉々として、船縁にいたグール達を大河に叩き落としていた。
船が大河の中間辺りまで進んだ時には、舷側に張り付いていたグールも全て大河の波間に沈んでいた。そして、船を出した岸部からは、グール達の悔しげな唸り声が聞こえてくる。
「ここまで、来ればもう大丈夫だろ。さすがに、このウル大河を渡る力は、あのグール達にも無い。後は、朝陽が昇る頃には、やつらも鎮まっているだろう。ご苦労だったな」
美女エルフが近寄って来ると、声を掛けてきた。
「ふぅ、すると俺も休憩できるな。もう、魔力が尽きるとこだった」
俺は両手を下ろし大きく息を吐き出すと、三角帆に送っていた【烈風】の風をキャンセルした。そして、その場に座り込む。さっきから、魔力切れで目眩に襲われていたのだ。
「後は、まだ元気な者で櫂を漕げば、対岸までは大丈夫だろう」
そう言う美女エルフの声には、どこか覇気がなかった。
「んっ、どうした?」
「いや、怪我人が沢山出てしまったからな」
横を見ると、獣人戦士達の大半が、傷つき呻いていた。その中にはタンガやクルスも含まれている。蜥蜴人のグイドだけは、防御重視の装備が幸いしたのか、無傷で元気一杯だった。
「ドウモ、グールノ瘴気ニヤラレタヨウダ」
グイドが美女エルフの傍らに寄ってくると、報告していた。
グール等のアンデッド系のモンスターに傷つけられると、瘴気にあてられてしまう。要は、毒を受けたような状態になってしまうのだ。といっても、状態異常回復のポーションさえあれば大丈夫なのだが。
まあ、あくまでそれはゲーム内の話だ。この世界でも一緒かどうかは分からない。俺がそんな事を考えていると、その報告に、美女エルフが微かに眉を潜めていた。
「おいおい、まさか回復薬はあるのだろうな」
「それが……」
マジかよ。瘴気に冒されると、じわじわ衰弱して果ては……。
「すみません。私が悪いのです」
突然、カリナが顔面蒼白となり頭を下げると、そのまま泣き崩れてしまった。
話を聞くと、どうやら慌てて船を出したから、幾らかの物資を、あの河原に残してきたようだった。その中に、瘴気対策用の薬も入っていたようだ。
――仕方ない。
今回は大盤振る舞いだな。
「こいつを使え」
俺は【アイテムボックス】から、霊薬の入ったビンを取り出すと、甲板に並べる。
「おい、今……どっから出した」
皆がぎょっと目を剥いて驚く。美女エルフも、また驚きの表情を浮かべていた。
あちゃあ、もしかして【アイテムボックス】とかも知らないのか。そういえば、物資も陸揚げしたりしていたな。まずいとこを見られたかな。
「ほら、そんな事より早く薬を飲ませろよ。こいつは強力な薬だから、一発で効くぞ」
「あ、あぁ……」
だが、怪我人に霊薬を飲ませると、またしても皆が唖然となる。何故なら、瘴気に冒された病を治すだけでなく、傷口があっという間に綺麗に治ったからだ。その上、以前に負った古傷までも治してしまった。ダンカに至っては、潰れた耳まで、艶々としたピンク色した新しい耳に変わっていたのだ。
皆が驚く中、美女エルフがまたしても……いや、今度は大きな声で笑いだした。
「はっははは、何ともこれは……」
しかし、急に無表情な顔にまた戻すと、俺の事をじろりと眺める。
「……お前はいったい何者だ」
「……人の事を聞く前に、先ずは自分の事を話すのが礼儀じゃないのか。俺はまだ、あんたが何者か聞いていないが」
俺の返事に、美女エルフがにやりと笑う。
「ふっ、そうだな……私は、森都グラナダを統轄する七人の評議委員の内のひとり、ケイン・ヴァン・サンタールの長女。サラ・ヴァン・サンタールだ」
「サラ……中々良い名だな。俺は、神埼竜一。ただの日本人だ」