◇事実は小説より奇なりというけれど。
目を覚ますと、陽は傾き夕刻の時間に近いようだった。どうやら、数時間は眠っていたようだ。
そして、横に目を向けると、ジャイアントスパイダーらしき残骸が転がっていた。
――夢じゃなかったのかよ。
どうやら、今が現実のようだ。しかし、俺は確かにスキルを使っていた。ここは、『ゼノン・クロニクル』の中なのか?
試しに「ステータスオープン」と唱えてみる。だが、何の変化も無い。本来なら、目の前にステータスウィンドウが開き、俺のステータスがズラリと並ぶはずなのだが。
やはり、ここが現実なのだろう。現実なら、そんな事が起こるはずがないのだから。
俺は樹々の間にかかる、ジャイアントスパイダーの糸で編んだ巣を見上げ、現実なのかゲーム内なのか、とめどもなく考えていた。
暫くして、ようやく我に返るとやっと動き出す。
ここが現実であろうとゲーム内であろうと、どっちにしろ、先ずはここから抜け出さなければいけない。
そう思って周りを見渡すが、やはり緑の壁に囲まれている。どうしたものかと考えていると、嫌でもジャイアントスパイダーの死骸が目に入る。
その死骸には既に、「ブゥン」と羽音を響かせ羽虫が群がっていた。
この事からも、現実なのだろうと思うのだが……。
手に持つ棍棒で、その死骸を突いてみる。やはり死んでいるようだ。ぴくりとも動かない。
ゲームだと、効果音と共に光のエフェクトが発生して、モンスターは消え去りアイテムが残される。これが現実なら、エフェクトが発生しないのは当然の事だ。
また俺は考え込んでしまう。ならさっき使ったスキルは。
考えながらジャイアントスパイダーを良く見ると、ゲーム内とは若干違うのが分かる。赤と茶色が斑となった毛並み。それに、確かゲーム内では目が六つだったはず。
更に良く確めるため、棍棒で死骸を引っくり返そうとすると、体の中から黒い珠のような物が転がり出てきた。
――何だこいつは?
棍棒で軽く突ついてみる。途端に、その珠は霧状に変わると俺の中に吸い込まれた。
――うわっ、たった! マジかよ。
毒とかじゃないだろうな。驚いたが、別に毒とかでは無かったようだ。むしろ力が漲り体が軽くなり、動きやすくなったような気がする。まるで身体能力が上がったみたいだ。
まさかと思うが、今のは……。
――経験値!
ははっ、まさかな。
俺は首を振り苦笑いを浮かべた。
そこで、はっと思い付く。
――さっき、スキルが使えたということは、【飛脚】のスキルも使える?
俺は【飛脚】を発動させる。【飛脚】のスキルは空中に空気の塊を作り出し、それを足場に宙を歩く事が出来るからだ。俺は宙に足を踏み出してみる。すると、足の裏にしっかりとした塊を捉える事が出来る。
やはり、何故かスキルは使えるようだ。
密生した植物で周囲を囲う緑の壁は、高さは5メートル近くあったが、厚み自体は1メートルぐらいしかなかった。
俺は階段を登る要領で緑の壁の天辺まで行くと、あっさりと乗り越えることが出来た。
だが、直ぐに吐き気を催し、また意識が飛びそうになる。
慌てて、地上に降り立ち深呼吸を繰り返すと、漸く落ち着いた。息を「ふう」と吐き出し、俺に何が起きてるのか考える。
――これは、もしかして魔力切れじゃないのか。
ここは、運営のアナウンスで言ってたように異世界で、それも限り無くゲームに近い異世界。そう仮定すると、全ての辻褄があってくる。
『ゼノン・クロニクル』では、スキルもMP、いわゆる魔力を消費して発動する。そして、あそこに初期装備でいたという事は、俺がレベル1に相当する能力値しかなかったのではないかと思う。
だから【影分身の陣、千人掌】も、二人しか現れなかった。このスキルは最大で千人、最小で一人の分身を生み出す事が出来る。魔力量で、分身の数を調整する事が出来るのだ。あの時も、少ない魔力しかない俺が使ったため、二人しか現れず、挙げ句に魔力切れでぶっ倒れたのだと思う。
【瞬速】のスキルにしても、ステータスの速さを倍するだけ、カンストしていたステータスだからこそ、【瞬速】で亜光速までスピードを上げる事が出来たのだ。これが、レベル1相当の能力値なら、素早さは10ぐらいといった所だろうな。となると、倍になった所で20だ。それが、あの違和感だったのだと思う。
ゲームの世界と微妙に違うのも、ここが現実な異世界だからだ。確か、ゲームでの経験値の説明は、魔獣を倒した事による魔素の吸収によって引き起こされる能力向上だと、パンフレットで読んだ記憶がある。それが、あの珠から飛び出した霧状のものだったのだろう。
スキルに関しても、ゲーム内で習得していたスキルは、確かに全て使えるという感覚がある。これは、一度乗れるようになった自転車は、何年も乗らなくても乗れる感覚に近い。一度覚えた経験は忘れないという事なのだろうな。
信じたく無いが、ここは異世界なのだろうな。運営が言った最後の言葉を思い出す。
――皆が望む異世界転移か……。
確かに、『ゼノン・クロニクル』などVRMMOにはまる連中には、異世界転移で無双とか夢なのだろうな。
だが俺は、そんな事は望んでなかった。
考えてみろ。まだこの世界を見て回った訳じゃないが、ゲームに近い世界なら多分剣と魔法の世界なのだろう。とても、俺のいた日本に文化水準が、勝ってるとは思えない。
コンビニもテレビもない、食事も日本で食べる料理より旨い筈も無いだろう。生活環境も冬は寒く夏は暑い。たとえ王候貴族といえど、日本の生活より贅沢してるとは思えない。
俺は日本で、一億円を貰って贅沢したかったんだよ。そこで、ふと思い出した。
そういや、賞金の一億円はどうなった。まさか……。
――【アイテムボックス】オープン!
慌てて【アイテムボックス】のスキルを発動させる。【アイテムボックス】のスキルは、空間に作用して収納スペースを作り出すものだ。プレイヤーが最初から持っている、数少ないスキルのひとつだった。スキルが発動すると、その収納スペースの中身が脳裏に浮かんでくる。そして、そこには確かに、一億クローネがあった。
――クローネって……1億円は、この世界での通貨の事だったのかよ。
俺はがくりと肩を落とし項垂れた。
クローネはゲーム内での通貨単位、日本での通貨価値とほぼ同じであった。
白金貨が100万クローネ。金貨が10万クローネ。銀貨が1万クローネ。銅貨が1000クローネ。鉄貨が100クローネ。銅銭が10クローネ。鉄銭が1クローネだ。
俺の【アイテムボックス】には白金貨が50枚、金貨が300枚、銀貨が1000枚、銅貨が10000枚きっちり入っていた。
それ以外にも、何と俺が最後に身につけていた装備、闇夜の鎖頭巾や常世の黒装束等、数々のレア装備が入っている。
俺は喜んで、光剣アマラを取り出そうとする。が、途端に弾かれ取り出せない。
そこで、俺は思い出した。
『ゼノン・クロニクル』では、レア装備はそれなりのステータスがなければ装備出来ない事を。
――嘘だろ……。
確かに俺は【全装備開放】のスキルをもっている。だが、それはゲーム内で職業別に、装備できる武器や防具の制限を取っ払ってただけ。レア装備みたいなステータス制限のかかっているものは、やはりそのステータスに達するまでは装備出来なかった。
そして、【アイテムボックス】の中に入っているのは、初期で使える装備は一切なく、全てがレア装備だった。
ようは、今の俺にはその全てのレアな装備品が、宝の持ち腐れだったのだ。
そのショックに、頭の中で「ガーン」と、効果音が鳴り響きそうなぐらい、俺は項垂れた。
だが、幸いな事に回復薬などポーション類は取り出せたので、ほっと胸を撫で下ろす。
とはいっても、今までの考えはあくまでも仮定の話だ。微妙にゲームと違うこの異世界には、まだまだ検証する必要があるだろう。
【全装備開放】にしても、この現実となった異世界では、どういった扱いになるのか。まさか、神官だからといって剣を握れない訳は無いだろうしな。
それにしても、こんな異世界に俺を放り出した運営とは、何者なのだろう。神か悪魔か……。
まぁ、今それを考えても仕方ない。
取り敢えず、今当面の問題は能力値不足か。スキルを使うにもレア装備を扱うにも、ステータス向上が必須だな。
そうなると、能力値を上げるには、魔獣を相手にしなければいけない。だがそれは、どうにも気が進まない。ゲームと違い、現実となったこの異世界ではセーブやリセットがあるわけでもないだろう。この世界の死は、現実の死だと思われるからだ。だから、ちょっとしたミスが命とりになりかねない。
そんな事を、うだうだと考えていると、いつの間にか周囲は茜色に染まっていた。どうやら、時刻は夕刻にと達していたようだった。
おっと、こうしてる暇はない。夜になる前に、この森から抜け出すか、寝床を確保しないと。
だが、人が踏み入った形跡の無い森を進むのは、容易な事ではなかった。棍棒で密生した植物を押し広げ踏み締め進むが、50メートルも進むと嫌気が差してくる。それでも、黙々と単純作業を繰り返し前へと進む。
しかし、一向に森から抜け出す気配はない。それに、寝床になりそうな良さげな場所も、見付ける事が出来なかった。
気が付くと、辺りはすっかり薄暗くなり始めていた。
不味いな、あと少しで夜になりそうだ。夜の闇の中、よく分からない森の中を這いずり回るのは勘弁してもらいたい。
そんな事を考えていると、前方に人影がゆらゆらと揺れているのが見えた。
――人か? やはりこの世界にも人間が……。
森を歩くのにうんざりしていた俺は、この森が延々と続き、この世界には人間なんかいないのではないかと思いかけていた。
まあ、【アイテムボックス】に金がある時点で、人がいるのは確定していたのだが。
「おぉい!」
声を掛けると、その人影に向かって駆け出していた。
漸く人と接する事が出来ると思い、俺はほっとしていた。だから、人も通わない森の中で、夜も近いこの刻限に一人佇む人影を、この時は不審に思う余裕がなかったのだ。