第11話 白き座の底で
要石の間の、白い座の前に、鈴は、立たされていた。
縄も、鎖もなかった。守人すら、下がっていた。逃げ場のない場所では、見張りは要らない。座から伸びた、無数の銀の糸が、大灯の白い火へ、繋がっている。明日、その糸の何本かが、鈴の背へ繋がれる。何十年も。鈴の魂を少しずつ、火に削らせるために。鈴はその座を、見た。第七話で、燼に連れられて、覗き見た、あの座。あのとき、背骨が一本ずつ、冷えていった。いまその座が、鈴の、明日の寝床だった。
間の隅に、小夜が、いた。
守人に挟まれて、藁の上に、座らされている。荷車の旅に、疲れ果てて、けれど、眠れずに鈴のほうを、見ていた。鈴姉、と口が動いたが、声にはならなかった。声を出せば、自分の番号も灯る。灰郷で覚えた、そのおびえを、妹はこの空の都でも、変わらず、抱えていた。
鈴は、笑ってみせようとした。できなかった。
代わりに唇だけを、動かした。だいじょうぶ。声には、しない。小夜の目が、その口の形を、読んだ。読んでこくりと、頷いた。疑わない目だった。鈴の嘘をこの子は、疑わない。風だよ、と言った夜と、同じだった。だいじょうぶなことなど、何ひとつ、なかった。三つ目の嘘が、囲炉裏の灰ではなく、この白い間の床に、埋まった。
小夜はそれから、自分の毛布の代わりの、藁の縁を撫でた。土間の癖を、ここでも。その小さな手つきが、鈴の覚悟の、いちばん深いところに、火を入れた。
翁は、死んだ。縹は、奪われた。燼は自分ごと、鈴を、焚べた。残ったのは、あの座とおびえた妹と、明日、火に繋がれる自分だけだった。どん底の、その底で、鈴は、ただ手のひらの奥の、消えない火を、感じていた。翁が蒔いていった、種のように。咲かせ方の、分からない種を。
間は、しんとしていた。大灯の、衰えた唸りだけが、低く、絶え間なく、響いている。その音は、いまもどこかで、無名の名前を、喰っている音だった。鈴が座るか拒むかを、迷っているこの一瞬にも。火は、止まらない。誰かの名前が、いまも白い火に、注がれ続けている。鈴はその音を、聞きながら、思った。座ってもこの音は、止まらない。あたしが座っても、ただ削られる薪が、あたしに替わるだけだ。
白い衣の人が、間へ入ってきた。
◆
「眠れぬか」
白き読み手は、柔らかく、言った。荒らげも、急かしもしない声。その声が響いただけで、間の空気が、静まった。怒鳴る支配者を、鈴は何人も見てきた。守人の隊長も、改め所の役人も、声を張り上げて、人を従える。この人は、声を張る必要が、なかった。静けさだけで、すべてを統べていた。
「明日のことを、考えているのだろう」白き読み手は、座の前に立った。「座に繋がれる、その先のことを。案ずるな。痛みは、ない。ただ、緩やかに薄れていくだけだ。何十年もかけて。お前は、結界に、なる。八洲を、毒の潮から守る、生きた錨に」
「あんたみたいに」鈴は言った。
「私のように」白き読み手は、頷いた。「私は、かつて、お前だった。鈴。下層の生まれの、移ろい火だ」
鈴はその白い顔を、見た。第三話で遠目に見たとき、知っている、と胸の奥が、ぐらついた、あの顔。会ったこともないのに。いまその理由が、目の前に立っていた。
「私も、かつて、腐った世を、正そうとした」白き読み手は、続けた。淡々と。けれど、その淡々さが、何より、おそろしかった。「天理院の腐敗と、戦った。仲間を、集めた。燼のように、全てを焼こうとも、した。けれど、全てを失った。仲間も愛した者も、焼いた郷も。最後に残ったのは、ひとかけらの土地と、そこで生きる、わずかな人々だった。枯れが、すぐそこまで、迫っていた」
白き読み手の、何もない目が、大灯の火を、映した。
「いま」鈴は、遮った。「愛した者、って言った」
白き読み手が、言葉を、止めた。
「仲間も、愛した者も、焼いた郷も、って。——その人の名前は」
長い、沈黙だった。何もない目が、初めて、鈴ではなく、どこでもない場所を、見た。
「……覚えて、いない」やがて、その人は言った。声は、変わらなかった。変わらないことが、答えより、雄弁だった。「言葉だけが、残っている。愛した者、という、器だけが。中身は、座に、納めた。とうの昔に」
器だけが残って、中身が消える。名前より先に、名前の指していたものが、焼かれていく。鈴は、その空の器が、この白い人の中に、いくつ、転がっているのだろうと、思った。仲間、という器。郷、という器。みんな、空のまま、算術だけが、満ちている。
「私は、選んだ。百の名を焚べて結界を保つか、それとも私ひとりを焚べるか。己ひとりを、座に縛るほうが、慈悲だと信じた。だから、座った。自分の魂を、火に繋いだ。それから、何十年。私は結界を、保ってきた。お前が今日まで、灰郷で息をしていられたのも。妹が、生まれてこられたのも。この、白い火の、おかげだ」
それは嘘では、なかった。嘘でないことが、いちばん、こたえた。この人は、何も隠さない。真実こそ、いちばん強い説得だと、知っているから、何も隠さない。縹の、嘘が母語の冷たさとは、正反対の、おそろしさだった。
「焼いた郷の名前は」鈴は、訊いた。「覚えてる?」
初めて、白き読み手の答えが、一拍、遅れた。
「……必要のない、記憶だ」
覚えていないのだ。自分が焼いた郷も。失った仲間も。愛した者の名も。座に繋がれた魂は、何十年もかけて、削られていく。最初に削れるのは、たぶん、いちばん、火に近いところにあったものだ。この人は土地を守るために、座った。守りたかったものの名前から、順に忘れていきながら。守るという行いだけが、名前を失くした機械のように、続いている。
鈴はそれが、急に憎めなくなった。憎めないことが、こわかった。
◆
「お前に、選ばせよう」白き読み手は言った。「ふたつ、道がある」
白い指が、座を示した。
「ひとつ。お前が、座に繋がれる。そうすれば、結界は保たれる。土地は、枯れに沈まない。妹は灰郷へ帰され、生きていける。お前ひとりの魂で、すべてが守られる。確かに。間違いなく」
指が間の外、崩れかけた結界の、向こうの闇を、示した。
「ふたつ。お前が、拒む。そうすれば、衰えた大灯は、尽きる。結界は、解ける。毒の潮が八洲を、呑む。枯れが灰郷を、覆う。妹は……」白き読み手は、そこで言葉を、切った。残りを、言わなかった。言うまでもない、というふうに。「どちらが、慈悲か。お前なら、分かるはずだ。お前は目の前の一人を、見捨てられない女だと、聞いている。なら、答えは、ひとつだろう」
鈴は小夜を、見た。
おびえた目で、こちらを見ている妹。腰の袋に入るぶんの、たった一人。鈴の、世界の、いちばん奥。座に繋がれれば、小夜は助かる。確かに。間違いなく。拒めば、小夜は毒の潮に、呑まれる。
胸の奥が、引き裂かれた。
目の前の一人を、見捨てられない。それが、鈴の、いちばん深いところだった。妹を生かすためなら、鈴は何度でも、命を賭けてきた。枯れ野で、毒の土を踏んできた。密猟で、罠を張ってきた。だったら、座に繋がれることくらい、何だ。妹が助かるなら。土地が守られるなら。鈴ひとりが、火に縛られて、緩やかに薄れていくだけで、すべてが守られるなら。安いものではないか。
手のひらの火を、握りつぶしたく、なった。十六年、そうしてきたように。鈍色に握って、おとなしく、座って、妹を助ければいい。それで、終わる。鈴ひとりが、消えれば。
けれど、と、もうひとりの自分が、言った。座った鈴は、もう、鈴ではない。番号にされた蕗が、蕗でなくなったように。要石にされた鈴は、白き読み手と、同じ、声を持たぬ、燃え殻になる。小夜を助けたその手で、小夜を二度と、抱けなくなる。それはほんとうに、小夜を守ることなのか。
「私になりなさい」白き読み手は、最後にそう言った。柔らかく。まるで救いを、差し出すように。「それが、お前の、目の前の一人を守る、唯一の道だ。それが唯一の、救いだ」
◆
間の隅で小さな寝息が、聞こえた。
小夜が、眠っていた。守人に挟まれ、藁の上で膝を抱えたまま。こんな夜にも、子どもは、眠る。体が、もたないからだ。恐怖にも際限があって、その先で眠りが、勝つ。鈴はその寝息を、聞いた。灰郷の土間で、毎晩、背中で聞いていた音。世界のどこが壊れても、その音だけは、同じだった。守りたいものの音は、こんなにも、小さい。この白い人は、その小ささを、勘定に入れることが、できない。帳面に、載らないからだ。
唯一の、救い。
その言葉が、鈴の中でひっかかった。狩りで、不自然に踏み荒らされた地面を、見つけたときと、同じ。そこに、罠がある。
唯一、とこの人は、言った。ふたつしか、道はない、と。座るか、焼くか。灰になるか、燼になるか。確かにその二つしか、ないように、見えた。けれど、と鈴は思った。
座れば、確かに小夜は、助かる。今は。けれど、その先は。鈴が座に縛られて、何十年か後、削られ尽きたら、どうなる。また、次の移ろい火が、選ばれる。また、誰かの妹が、人質に取られる。また、無名の名前が、毎日、毎日、あの白い火に、焚べられ続ける。蕗の番号も、その先の、誰かの番号も。鈴が座っても、この、名前を喰う仕組みは、何ひとつ、変わらない。小夜は今日は、助かる。けれど、その仕組みが、続くかぎり。
鈴ははっと、した。
小夜の火を、鈴は知らない。けれど、灰郷で夜ごと、鈴の知らない場所から、言葉を降らせた妹。名前は火より先にある、と言った妹。あの子の言うことは、ときどき、遠くから、降ってきた。あの子も、もし、いつか、灯改めで、色が定まらなかったら。あの子も、移ろい火だったら。鈴が座って守ったその仕組みが、いつか、小夜をこの座へ、連れてくる。
考えるのを、やめた。今は。けれど、ひとつだけ、はっきりと、分かった。
座るのは目の前の一人を、守ることではない。座るのはこの仕組みを、永遠に続けることだ。読まれる側で、あり続けることだ。色だ、番号だ、要石だと、外から定義されたものに、なりきることだ。鈴が十六年、いちばん、なりたくなかった、客体に。なりきって、次の客体を、生み続けることだ。
ばあさまの言葉が、ふいに、戻ってきた。火ってのはね、見られていると思うと、見られたいように燃えちまう。十六年、鈴はその言葉を、隠れるためにだけ、使ってきた。見られなければ、燃えない。読まれなければ、消されない。けれど、あの言葉には、裏が、あったのだ。見られて燃えるなら。読まれて、定義されて、そのとおりに燃やされるなら。——呼ばれた火は、呼ばれたように、燃えるのではないか。番号と呼ばれれば、番号として。名前で呼ばれれば、名前のものとして。鏡の読みを撥ねつけられる火が、もしあるとすれば、それは、誰かに、ほんとうの名で呼ばれた火だ。縹が、鈴、と呼んだ夜。火は、確かに、応えた。
「ひとつ、訊かせて」
鈴は、顔を上げた。
「四つ目の関門のあと、座の験で、砕けた子がいる。神籍の、紫の。——あの子の名前を、知ってる?」
白き読み手は、瞬きをしなかった。
「番号なら、覚えている」
それだけ、言った。隠しもせず、恥じもせず。覚えていないのではない。初めから、覚える場所が、違うのだ。この人の中で、菫は生まれてから死ぬまで、ひとつの番号だった。完璧な紫も、四つに畳んだ布も、覚えなくていいと言ったあの声も、全部、番号の中身として、処理された。
「菫」鈴は、言った。「菫っていうんだ。あの子は。あんたが砕いた火には、ぜんぶ、名前があった。何人、砕いたの」
「私の代で、十一」即答だった。数だけは正確に、覚えている。「十一の火が砕けて、十二人目のお前が、残った。砕けた火を悼むなら、悼むがいい。だがその十一がいなければ、験は立たず、お前の火が座に耐えるという確かめも、立たなかった。あの者たちも、結界を支えた。薪とは、そういうものだ」
悼みすら、勘定に入れられる。鈴は、もうこの人と、言葉で争うことの、無意味さを、悟った。この人の中では、すべてが帳尻の合った、正しい算術なのだ。名前だけが、その帳面に、載らない。載らないものは、この人には、存在しない。
だったら、答えは決まっていた。
「断る」
鈴は、言った。
白き読み手の、何もない目が、わずかに、鈴を、見た。
「土地が、沈むぞ。妹も」
「あんたの言う、ふたつの道は」鈴は、言った。声が、震えていた。けれど、退かなかった。「どっちも、読まれる道だ。座って、システムになるか。焼いて、燼みたいに、皆を薪にするか。どっちも誰かが、誰かを定義して、焚べる道だ。あたしはそのどっちにも、ならない」
「では、どうする」白き読み手は、初めて、問うた。
問うた、ということに、鈴はあとから、気づいた。この人は、説き、示し、選ばせる。けれど、問わない。答えをすべて、持っているからだ。その人が、いま、問うた。帳面に載っていないものに、初めて、出くわした者の、問いかただった。
「三つ目の道など、ない」
「ある」
鈴は手のひらに、火を灯した。鈍色に、握らなかった。隠さなかった。あらゆる色が、間の闇の中で、回りはじめた。藍から、朱へ。朱から、縹へ。誰の手にも、収まらない色。
あたしには、師が二人いた。
言いながら、鈴は思っていた。籠り堂で、握りを仕込んだ縹。隠れて、生き延びるすべ。水路の縁で、その先を指さした翁。名づけて、立つすべ。二人の師を持つ者は、いつか、どちらかを、選ばされる。翁は縹のことを、そう言った。けれど、あれは鈴のことでもあった。十六年、鈴は隠れるほうだけで、生きてきた。隠れるすべの、いちばん上手い使い手だった。その鈴が、いま、選ぶ。
「翁が、言った。握る術は、半分だって。隠して、読まれずに、やり過ごす。それは、守りの半分。残りの半分は、逆だって。隠すんじゃない。名づけるんだ、って。あたしが内から、あたしの火に、お前は何色だって、言ってやる。誰の読みも、受けつけずに」
縹が、籠り堂で、初めて、鈴を名で呼んだ夜のことを、思った。鈴、と。たった二文字の音に、火が応えた。読まれるのと、名づけられるのは、違う。鏡は外から、鈴を色に押し込める。名は内から、鈴を鈴にする。
「あたしは、座らない。焼かない。あたしは、名づける。あたしと、あたしの仲間を。番号でも色でも、禍でもなく。名前で。あんたの神名簿に、読ませない名前で」
「鈴」白き読み手は、静かに言った。「それは、できない。お前ひとりの火では、結界規模の言霊は、扱えない。お前は大局を、束ねられない。お前の世界は、いつも目の前の一人ぶんしか、ないのだから」
「知ってる」鈴は言った。「だから、目の前の一人から、始める」
その時、間の外で地鳴りのような、音が響いた。
◆
無名衆の、鬨の声だった。
声に、耳を澄ませた。狩りの耳が、その声の中身を、聞き分けた。鬨は雄叫びでは、なかった。名前だった。彼らは互いの名を、叫び合っていた。死んだはずの名。焼かれたはずの名。符牒でも、番号でもなく、それぞれが、勝手につけ直した、あるいは隠し続けた、自分の名を。名前を武器の代わりに、打ち鳴らして、彼らは上がってくる。
地下から、彼らは上がってきていた。要石の真実を、知った者たち。番号を灯されたまま、この都の腹で、火を絶やさずにいた者たち。大灯が衰え、結界がほころぶ、その隙を突いて、いっせいに、蜂起したのだ。守人の防衛線が、軋む音が、近づいてくる。
白き読み手は、その音を聞いても、動じなかった。
「無駄なことを」静かに、言った。「蜂起したところで、結界が解ければ、土地ごと沈むだけだ。彼らは自分の墓を、掘っている」
「かもね」鈴は言った。「でも、あの人たちは、もう読まれる側で、死ぬのはやめたんだ。番号のまま、火に焚べられるんじゃなく。名前を取り戻して、戦って、死ぬ。それを、選んだ。側を、選んだ」
側を、選ぶ者。鈴自身が要石の間で、なりかけていたもの。生存者を、やめて。明日まで待つ気は、もうなかった。明日になれば、鈴は座に繋がれる。だったら、今夜だ。今夜、この間で決める。
鈴は小夜のほうへ、目をやった。守人が蜂起の音に、気を取られ、小夜から、半歩、離れていた。隙。狩りで、いちばん細い隙間。
鈴の火が手のひらで、燃えていた。隠さずに。あらゆる色で。明日、私の話を聞きなさい、と白き読み手は、あの石の上で、言った。けれど、鈴には、もう聞くべき話は、なかった。聞くべきは、自分の、内から、聞こえはじめた、別の声だった。
あたしは、何色だ。
翁が種を蒔いた、その問い。咲かせ方は、まだ、分からなかった。けれど、鈴は、もう答えを、隠すのをやめていた。
怖く、なかった、と言えば、嘘になる。咲かせ方の分からない種を、抱えたまま、鈴はいちばん大きな賭けに、出ようとしていた。失敗すれば、小夜も土地も、自分もぜんぶ、失う。けれど、座る道も焼く道も、結局はぜんぶを、失う道だった。違いは、ただ、ひとつ。読まれて失うか、名づけて失うか。どうせ賭けるなら、と鈴は思った。自分の名前を、自分で灯したまま、賭けたい。誰かに番号を、つけられたまま、ではなく。
間の扉が外から、吹き飛んだ。無名衆と守人が、雪崩れ込んできた。混戦の、いちばん奥に、白い座。そのそばに、鈴。手のひらに、移ろい火。
夜明け前の、いちばん暗い刻だった。ここから先は、もう、誰の筋書きの上でもなかった。




