第二十章 背反の双丘 其の六
変更履歴
2012/01/26 記述統一 一センチ、十メートル → 1cm、10m
2012/01/27 誤植修正 乗せられた → 載せられた
2012/01/27 誤植修正 関わらず → 拘わらず
2012/09/12 誤植修正 結局のこの → 結局この
2012/09/12 誤植修正 以外にも → 意外にも
2012/09/12 誤植修正 タウロス → タウルス
2012/09/12 誤植修正 堅い肉を → 硬い肉を
2012/09/12 句読点調整
2012/09/12 記述修正 夢にしては実に生々しくて → しかし只の夢にしては実に生々しくて
2012/09/12 記述修正 現実的な肉体を持った生物と → 超自然的ではない肉体を持った生物と
2012/09/12 記述分割 骨で出来ている様に見えて、50cm程度の幅の → 骨で出来ている様に見えた。しかし50cm程度の幅の
2012/09/12 記述修正 かなり薄汚れて → 傷だらけでかなり薄汚れて
2012/09/12 記述修正 50cm程度の幅の大きさをした平らな長方形の骨とは → 一辺が50cm程度の長さをした平らな三角形の骨とは
2012/09/12 記述修正 何の動物のものかが → 成人の肩甲骨としても大き過ぎて
2012/09/12 記述修正 袋が元は何なのかについては → 袋が元は何処の臓器なのかついては
2012/09/12 記述修正 かなり小さく細い手が → かなり小さく細い手が伸ばされて
2012/09/12 記述修正 盆を掴んで掴んで引っ張り出してその後に扉を数回叩いていたので → 骨の盆を掴んで掴んで引っ張り出していたので
2012/09/12 記述修正 これまた骨から削って作られているらしい、切っ先の鈍い黄ばんだナイフと二又のフォークを使って、半分以上が骨の塊である → そして頭蓋の器の中に沈んでいる半分以上が骨の塊である
2012/09/12 記述修正 骨付き肉から肉を剥ぎ取ると → 骨付き肉を指で拾い上げると
2012/09/12 記述修正 もう道具も使わずに貪る様に、手で骨付き肉を掴んでは → 両手で骨付き肉を掴んでは
2012/09/12 記述修正 夢中になっていた → 一心不乱に齧り付いた
2012/09/12 記述修正 盆が押し入れられた → 歪な形の盆が押し入れられた
2012/09/12 記述修正 黒っぽく濁った汁の中に入った → 黒っぽく濁った汁の中に
2012/09/12 記述修正 肉の具入りスープと言った様なもので → 肉の具入りスープと言った類のもので
2012/09/12 記述修正 調理時は暖かかったのかも知れないが作り置きなのか → 当初は暖かかったのかも知れないが
2012/09/12 記述修正 骨ばかりのぶつ切り肉以外には → 骨ばかりのぶつ切り肉以外に
2012/09/12 記述修正 その肉には皮も毛もついたままであり → その肉には皮も毛もついたままで
2012/09/12 記述修正 骨の形状を見るに背骨や腕の骨らしく見えて → 骨の形状も特定の部位のみでなく様々であり
2012/09/12 記述修正 それはどうやら盆を出せと → それはどうやら盆を出しておけと
2012/09/12 記述修正 生物的な生理現象の対応くらいであった → 生物的な生理現象の対応くらいで、中央の窪みが排泄場所だと初回で気づけたのは、実に幸運であった
2012/09/12 記述修正 朝食と同じ要領で入れられた食事の内容は → 朝食と同じ要領で配られた食事は
2012/09/12 記述修正 朝食と全く変わらない内容であり → 全く変わらない内容であり
2012/09/12 記述修正 私は失望した → 私は酷く失望させられた
2012/09/12 記述修正 そして更に翌日、また翌日と時間は流れて → そして更に時間は流れて
2012/09/12 記述分割 血のスープの臭いが口中に広がり、ますますこれが → 血のスープの臭いが口内に広がり、それと同時に沈んでいた眼球が転がって姿を現わした。やはりこれは
2012/09/12 記述修正 食材として解体して作られたものなのだと、強く確信してしまい → 人間を食材として作られたものなのだと確信し
2012/09/12 記述修正 スープを吐き出した → スープを吐き出してしまった
2012/09/12 記述修正 三日間経っても一度もメニューは変わらず → 投獄から三日経っても一度も料理は変わらず
2012/09/12 記述修正 血のスープしか出て来ない → 血のスープしか出て来なかった
2012/09/12 記述修正 もう空腹は限界に達し → もう空腹は限界を超えて飢餓状態へ入り始めており
2012/09/12 記述修正 これ以上は水だけでは耐えられない状態に達していた → 衰弱が進み殆んど身動き出来ず、常に朦朧として意識も失いかけていた
2012/09/12 記述修正 しゃぶりついていた → しゃぶりついた
2012/09/12 記述修正 全部飲み尽くしていた → 全部飲み干しててしまった
2012/09/12 記述修正 更に欲している自分に気づき、これで一つ何かを失った気がしたが、そんな情緒的な感情はすぐに本能的な欲求に塗り潰されていた → 今は本能的な欲求だった空腹を癒した充足感すら感じていた
2012/09/12 記述修正 未だ一週間しか経っていないので → 未だ十日程度しか経っていないので
2012/09/12 記述修正 風呂と言うのがあるのかは判らないが → 入浴の機会があるのかは判らないが
2012/09/12 記述分割 飲み水としての量としか思えず、これで体を洗うのは → 飲み水としての量としか思えない。これで体を洗うのは
2012/09/12 記述修正 病に掛かる恐れもあろうとも思えていて → 病に掛かる恐れもあり
2012/09/12 記述修正 馬の頭部の毛の色は → 頭部の毛の色は
2012/09/12 記述修正 牛頭と同様に → 牛頭と同じく
2012/09/12 記述修正 私へと主命を下した → 私へと主命を告げた
2012/09/12 記述修正 猊下からの簡単な指示や → 指示や
2012/09/12 記述修正 この両足の錘は引き摺らない様に → この両足の錘は引き摺らずに
2012/09/12 記述修正 始めて独房の外へと出た → 独房の外へと出た
2012/09/12 記述修正 陛下ご自身が猊下のご様子を直々にご確認なさるとの事でありまして → 本日お出でになられる国賓の方々にも、猊下をご紹介したいと仰せでありまして
2012/09/12 記述修正 本日の賓客との晩餐時に → 今晩開かれる賓客との晩餐の席に
2012/09/12 記述修正 猊下にご登場して頂く事になりました → 猊下にもご出席して頂く事になりました
2012/09/12 記述修正 若しかするとこの地下牢獄は → どうやらこの地下牢獄は
2012/09/12 記述修正 囚人を連行する一団が → 囚人を連行する大柄の看守の一団が
2012/09/12 記述修正 回復へと転じて行った → 回復へと転じたのだった
2012/09/12 記述修正 すぐに飲み切ってしまい → すぐに飲み干してしまい
2012/09/12 記述修正 なかなか寝付けぬ時を過ごした → なかなか寝付けぬ長い時を過ごした
2012/09/12 記述修正 この日はただひたすら寝床で横になって → この日はずっと寝床で横になって
2012/09/12 記述修正 物が出て来る事を望んで → 物が出て来る事を期待して
2012/09/12 記述修正 待ち続けた → ひたすら待ち続けた
2012/09/12 記述修正 これは噂なのですが、この『屍諫の守護天使』は → この『屍諫の守護天使』は
2012/09/12 記述修正 夕食を取って頂き → 夕食を摂って頂き
2012/09/12 記述修正 それは、いつもの鹿の近衛兵を引き連れた → それは鹿の近衛兵を引き連れた
2012/09/12 記述修正 馬の頭をした、始めて見る正装の獣人だった → 馬の頭をした使用人姿の獣人だった
2012/09/12 記述修正 あまり見かけないのが足音もする大柄の者達だ → 稀にしか通らないのが足音のする大柄の者達だ
2012/09/12 記述修正 飢餓状態から食べ物を → こうして飢餓状態から食べ物を
2012/09/12 記述修正 すると今回は → すると今回の回収では
2012/09/12 記述修正 生理的に手が出ず → 生理的に受け付けなくて
2012/09/12 記述修正 顔を近づける気にもなれない → 器を手にする気にもなれない
2012/09/12 記述修正 黒い蝶の世界が利益を齎しているとは今の時点では言えず → 黒い蝶の世界は有益なのかと言うとそうとも思えず
2012/09/12 記述修正 寧ろ悪夢と言う形で → 寧ろ多くの不可解な謎や悪夢と言う形で
2012/09/12 記述修正 それに道化の証らしき人形等が → それに道化の証らしき物が
2012/09/12 記述修正 前回も今回でもどこにも出現していないのも → 一度も出現していない点も
2012/09/12 記述修正 それを裏づけている様に思える → その感覚が正しいのを裏づけていると思える
2012/09/12 記述修正 この独房のある施設での → この施設での
2012/09/12 記述修正 大体把握出来ていた → 大体把握済みだった
2012/09/12 記述修正 これは全く噛み切れる気がしない、だが → 全く以って噛み切れる気がしなかったが、
2012/09/12 記述修正 スープの方が鉄臭くて塩辛い味なだけだった → スープが鉄臭くてとても苦く塩辛いだけだった
2012/09/12 記述修正 人としてこのまま衰弱死を選ぶか → このまま衰弱死を選ぶか
2012/09/12 記述修正 人としての大事なものを捨ててでも、生き残る道を選ぶか → 生物として生き残るべく人としての大事なものを捨てるか
2012/09/12 記述修正 意を決してスープへと口を付けると → 意を決してスープに口を付けると
2012/09/12 記述修正 その味は鉄の味に加えてとても塩辛い味付けをされていた → それは鉄臭さに加えてとてもえぐ味の強い塩辛い味だった
2012/09/12 記述修正 血のスープらしいのが判った → 血のスープなのが判った
2012/09/12 記述修正 水嚢だけを回収して → 水嚢だけを回収し
2012/09/12 記述修正 どんどんその実感が薄らいでおり → 日増しにその実感が薄らいでおり
2012/09/12 記述修正 確証を失い始めていて → すっかり確証を失い
2012/09/12 記述修正 そう思わせる事も含めての → そう信じさせられた事も含めての
2012/09/12 記述修正 自ら仕込んだと言わんばかりだった → 自ら仕込んだと言わんばかりであった
2012/09/12 記述修正 あのトーラスの丘と言う名は → トーラスの丘と言う名は
2012/09/12 記述修正 無様な姿を確認して → 無様な姿を晒させて
2012/09/12 記述修正 唾液もあり飲み込めるのが → 唾液も出て飲み込めるのが
2012/09/12 記述修正 陽動していないとも限らないかと思うと → 陽動していないとも限らず
2012/09/12 記述修正 聞いた事も無く心当たりも無い → 聞いた事も無ければ心当たりも無く
2012/09/12 記述削除 背骨の方は手足よりも更に肉は少なかったが~
2012/09/12 記述修正 肉はとても筋張っていて → それはとても筋張っていて
2012/09/12 記述修正 ゴムを食べているかの様な堅さだった → 硬質のゴムを食べているかの様な食感だった
2012/09/12 記述修正 苦悩に満ちた運命の選択の決断を下した → 苦渋に満ちた運命の決断を下した
2012/09/12 記述修正 もう虜囚の食事は、これと決まっていると → もうこれは、虜囚の食事はこれと決まっていると
2012/09/12 記述修正 そして今日までの間の提供された食事は → そしてこれまでに提供された食事は全て
2012/09/12 記述修正 栗毛馬の執事は約束通りなのだろう、 → 恐らく約束通りなのだろう、栗毛馬の執事は
2012/09/12 記述修正 やはり二人のセルヴスを連れて → 朝と同様に二人のセルヴスを連れて
2012/09/12 記述修正 私には記憶こそ殆んどが不明瞭だが、少なくとも → 記憶こそ殆んどが不明瞭だが、少なくとも私には
2012/09/12 記述修正 人間であると言う自負があり → 人間であると言う自負があって
2012/09/12 記述修正 ずっとつきまとっていた → ずっとつきまとっていたのだ
2012/09/12 記述修正 前日に受けた暴行の傷の痛み、生温く淀んだ空気に満ちた時間を認識出来ないこの気味悪い場所 → 時間も認識出来ない生温く淀んだ空気に満ちた、常に見張られている気味悪い場所での拘留、前日に受けた暴行の傷の痛み
2012/09/12 記述修正 寝心地が良いとは → 常時気味悪い目に監視されている状況下で、寝心地が良いとは
2012/09/12 記述修正 この日は再び眠りについた → この日は出来るだけ天井を意識しない様に、横を向いて再び眠りについた
2012/09/12 記述修正 道化にも漏らさない様にして → 道化にも漏らさぬ様にして
2012/09/13 記述修正 私の指示に → 私めの指示に
2018/01/29 誤植修正 そう言った → そういった
絶叫と共に、私は独房で目を覚ました。
私の上げた声は相当に大きかったらしく、静かにしろと言っているのだろう、数秒で甲高い罵声と同時に扉を蹴る音が聞こえた。
てっきりまた別の召喚へと飛ばされていると思ったのだが、目覚めた場所は思わず眠ってしまった場所と変わっておらず、先程殺された召喚だと思ったものは、どうやら単なる悪夢だったらしい。
しかし只の夢にしては実に生々しくて、現実味を帯びていた様に思えたのだが、これは今までとは違って、超自然的ではない肉体を持った生物と化している所為なのだろうか。
改めて悪夢の内容を考えてみると、“黒瑪瑙”の正体は気に掛かっていたし、過去の様々な出来事に関しても、出来るだけ意識はしない様にしていたものの、内心はずっと何処かで引き摺っていたのは否定出来ない。
あの場所の妙な形状や、植物以外の生物が蝶の女以外に存在していない点も気になりもしたし、トーラスの丘と言う名は未来の私がつけたのかも知れないが、そもそもその名の意味は今の私には全く判らない。
そういった疑問が重なって、あの様な悪夢となって現われた様だ。
“黒瑪瑙”が語っていたあの丘の過去や彼女の正体についても、魔導の民と言うのは今までに聞いた事も無ければ心当たりも無く、全てが単なる悪夢であるならば、あれらは私の勝手な想像なのだろうか。
暫く何か思い出さないものかと考えてみたが、何も思い当たるものは無く、これ以上は無駄だろうと判断して、もう一つ気になっていた事を思い出そうとしていた。
それは道化の王がさも自ら仕込んだと言わんばかりであった、この悪夢を見る前までに通り過ぎて来た、異世界の召喚についてだった。
どう言う訳か体感していた当初は、あれこそが自分の過去だと強く自覚していたのだが、道化の言葉を聞いてからは日増しにその実感が薄らいでおり、今では私の中ですっかり確証を失い、そう信じさせられた事も含めての余興ではないかと勘ぐり始めていた。
“ジェスター”は確か、用意していた余興は四つだと言っていた様に記憶しているのだが、私が通過して来たのは全部で五つだった筈だ。
五つ目の世界は先程の悪夢と同様の“黒瑪瑙”の居た世界であり、あれだけが他とは違っている様に感じる。
それに道化の証らしき物が、一度も出現していない点も、その感覚が正しいのを裏づけていると思える。
だからと言って、黒い蝶の世界は有益なのかと言うとそうとも思えず、寧ろ多くの不可解な謎や悪夢と言う形で、私へと混乱を招いている方が強い。
それに、こう言った疑念を作って道化が私を陽動していないとも限らず、それに対して迂闊な事は未だ出来ないし、すべきでもないと感じる。
今の所は、黒い蝶の世界の事は道化にも漏らさぬ様にして、向こうから何かを仕掛けて来るのを待つべきなのだろうか。
結局何の答えも見出せぬまま、この日は出来るだけ天井を意識しない様に、横を向いて再び眠りについた。
そして翌日。
外が見える窓が無い為に、今が何時なのかは直接知る事は出来ないが、恐らくは日の出と合せているのだろう、起床時間を知らせる看守達の笛の様な音と、甲高い号令での合図で目が覚めた。
二度目の睡眠では夢を見る事は無かったか或いは覚えていないらしく、常時気味悪い目に監視されている状況下で、寝心地が良いとはお世辞にも言えない粗末な独房内の藁の寝床であっても、比較的安眠出来た様に思える。
起床時間の後に暫くすると、扉の下から一つの食器と皮袋の様な物が載せられた、歪な形の盆が押し入れられた。
盆や食器は傷だらけでかなり薄汚れて黄ばんでおり、材質はどうやら骨で出来ている様に見えた。
しかし50cm程度の幅の大きさをした平らな三角形の骨とは、成人の肩甲骨としても大き過ぎて気になりはしたが、それよりもまるで頭蓋骨を原料にして作られた様な、半球状の容器の中が気に掛かった。
それは大量の灰汁が浮いている黒っぽく濁った汁の中に、骨付きのぶつ切り肉が入っている、肉の具入りスープと言った類のもので、当初は暖かかったのかも知れないが既に冷め切っていて、脂肪分だろうか凝固した白く薄い塊が容器の縁に浮いている。
骨ばかりのぶつ切り肉以外に具は入っておらず、その肉には皮も毛もついたままで、骨の形状も特定の部位のみでなく様々であり、大きさからすると丁度人間の成人程度ではないかと推測してしまう。
この今の体では生物として空腹を感じるのもあり、一応落書きの様にしか見えなかった口を手で確認すると、開口も出来ていて口内には歯も舌も存在しているし、唾液も出て飲み込めるのが確認出来た。
だがどうしても、今までの道化や獣人の説明を纏めると、結論としてこの食事の原料は人間にしか思えず、本当は違うのかも知れないが生理的に受け付けなくて、器を手にする気にもなれない。
水嚢らしい袋の方は、中身を確認すると只の水なのが判り、袋が元は何処の臓器なのかについては今は考えず、無心で飲んだ。
結局水嚢以外は手を付けずに置いていると、今度は容器の回収らしく再び号令が響き渡る。
私の部屋の前で何か喚き立てる声と扉を叩く音が響いた後に、扉の下の隙間からかなり小さく細い手が伸ばされて、骨の盆を掴んで引っ張り出していたので、それはどうやら盆を出しておけと言っているのだと、この後に気づいた。
朝食が済んだ後は特に誰も訪れる事も無く、何をするでも無い無為な時間が流れ、この間にしていた事と言えば、ある意味今ではとても珍しい体験と化していた、生物的な生理現象の対応くらいで、中央の窪みが排泄場所だと初回で気づけたのは、実に幸運であった。
もっと色々と考えるべき事があるのは判っているのだが、精神的な緊張が解けた所為なのか、時間も認識出来ない生温く淀んだ空気に満ちた、常に見張られている気味悪い場所での拘留、前日に受けた暴行の傷の痛み、それと本能的欲求である飢え、これらが重なり思考能力は低下してしまい、何かをする気力も湧いて来ない。
この日はずっと寝床で横になって体を休めて過ごし、次の食事が少しは食べられそうな物が出て来る事を期待して、ひたすら待ち続けた。
半分眠りつつ過ごしていたので計測出来てはいないが、体感的に昼ではなく夕方頃だろうか、待望の食事の時間がやって来た。
朝食と同じ要領で配られた食事は、全く変わらない内容であり、私は酷く失望させられた。
決して食欲をそそる様なものではない、かなり癖の強い匂いをしているこの料理を、体力の回復と言う意味合いからも摂取すべきだと思えるし、空腹に耐え続けていても衰弱する一方で、肝心な時に動けなくては元も子もないのも重々判っているのだが、やはり人肉に見えてしまい、どうしても手を出すのを躊躇ってしまう。
結局この夕食も水嚢だけを回収し、既に飲み尽くしていた朝の水嚢を代わりに盆に載せて、食器の中身には手をつけず扉の外へと押し出した。
すると今回の回収では、罵声も扉を蹴られる事も無く通り過ぎたので、処置としてはこれで正しかったらしいのが確認出来た。
新たに配給された水もすぐに飲み干してしまい、打撲箇所の疼く様な鈍痛が強まる中で、その後は空腹に耐えつつなかなか寝付けぬ長い時を過ごした。
そして更に時間は流れて、三日目の朝が来た。
肉体的な苦痛は日に日に酷くなり、打撲の傷も痛みは増すばかりだった。
次第に空腹も耐え難くなりつつあり、体調面にも飢餓状態の初期症状らしきものが現れ始めていた。
このままでは衰弱する一方であり、いずれ動けなくなるのは必至と危惧して、理性では未だに受け付けないのだが、栄養摂取の為にせめてスープくらいは飲もうと、容器を手にして顔を近づける。
最初に匂いを確認すると、食べ物でありながら食べ物らしからぬ金属的な風味、この地では最も容易に入手出来そうな味、即ち鉄の様な臭いの血の味であり、これはかなり濃度の高い血のスープなのが判った。
食欲よりも吐き気を催す臭いは出来るだけ気にしない様にしながら、意を決してスープに口を付けると、それは鉄臭さに加えてとてもえぐ味の強い塩辛い味だった。
何とも嫌な血のスープの臭いが口内に広がり、それと同時に沈んでいた眼球が転がって姿を現わした。
やはりこれは人間を食材として作られたものなのだと確信し、そう思った途端に強烈な吐き気が込み上げて来て、すぐさま口に含んだスープを吐き出してしまった。
その後は暫く胃が内容物を逆流させようとしていたが、そもそも空の胃からは何も出て来る事も無く、ただひたすら少量の唾液と胃液を嘔吐し続けていた。
投獄から三日経っても一度も料理は変わらず、この人肉入りの血のスープしか出て来なかった。
もうこれは、虜囚の食事はこれと決まっていると考えるのが妥当であり、これが食べられなければいずれは栄養失調となるのは明白だ。
だがどうしても、記憶こそ殆んどが不明瞭だが、少なくとも私には自分が人間であると言う自負があって、人肉を食べると言う行為は全うな人の道を外れる事に当たり、一度道を踏み外してしまったらもう元には戻れないのではないか、そんな不安がずっとつきまとっていたのだ。
だから衰弱が進んでも、このままでは先が無くなると判っていても、どうしても踏ん切りがつかず、それに追従して体も拒絶してしまうのだろう。
しかしそう言って抵抗していられる時間も着実に減りつつあり、どこかで選択しなければならないのは間違いない。
このまま衰弱死を選ぶか、生物として生き残るべく人としての大事なものを捨てるか。
倫理と生存を天秤に掛けた苦悩の取捨択一の選択を、私はこの日ずっと悩み続けた。
更に時間は経過して、五日目の朝が来た。
もう空腹は限界を超えて飢餓状態へ入り始めており、衰弱が進み殆んど身動き出来ず、常に朦朧として意識も失いかけていた。
そしてこれまでに提供された食事は全て、やはり変わる事無く、人肉のスープのみであった。
ここで私は、苦渋に満ちた運命の決断を下した。
こんな状況で人として死を迎えてもその先には何もなくなるだけだ、人としての倫理を捨ててでも未だ別の活路を見出せるかも知れない、もう死期を早めるだけの道徳観念は捨てようと。
虜囚の待遇では、これしか食べ物は出て来る事は無いのだろうから、ここは人肉だろうが食べるしか選択肢は無いと決心し、意を決して歪な傷だらけの頭蓋の容器を手にする。
そして頭蓋の器の中に沈んでいる半分以上が骨の塊である、腕か足かの部位らしい骨付き肉を指で拾い上げると、恐る恐る口に入れた。
それはとても筋張っていて硬い完全なスジ肉であり、脂身は皆無でまるで硬質のゴムを食べているかの様な食感だった。
全く以って噛み切れる気がしなかったが、肉自体の味は臭みがあるかと思いきや意外にも特に無く、スープが鉄臭くてとても苦く塩辛いだけだった。
こうして飢餓状態から食べ物を摂取した途端、私の中の生物的な本能が、人としての理性を完全に凌駕した。
その後私は、そんな硬い肉を必死になって、無我夢中で喰らった。
両手で骨付き肉を掴んではこびり付いている僅かな肉を歯で削ぐ様に食い千切り、少しでも多く胃に入れられる様にと一心不乱に齧り付いた。
そうして気がつけば、容器の中の骨から肉は無くなり、汁も灰汁も含めて全部飲み干してしまった。
食べ尽くした後には、以前はあれだけ嫌悪していたのにも拘わらず、今は本能的な欲求だった空腹を癒した充足感すら感じていた。
もうこの日からは、何の肉かや臭いや味等の躊躇いは無くなり、出された食事は全て平らげた。
ある意味私自身に残していた、人としての価値観の一つを確実に失ったと痛感してはいたが、崇高な精神だけでは物理的には生存出来ないし、現実として追い込まれれば理性も道徳も無く、そこには生存欲だけが行動を支配するのだと思い知らされた。
こうして吹っ切れたおかげで、私の体力はこの後回復へと転じたのだった。
食事も摂る様になってから数日が経過した頃、タウルスと名乗った家令の語っていた予定時期の一週間が経ったが、儀式実行の知らせは無いままに、私は忘れ去られた様に独房で時を過ごし続けていた。
独房内から外の様子を知る事は出来ないが、この施設での日常のパターンは大体把握済みだった。
ここに居る看守は二種類らしく、頻繁に通るのが、足音も立てずに移動して小柄で甲高い声で話す者達であり、稀にしか通らないのが足音のする大柄の者達だ。
大半の雑用をこなしているのは前者であり、後者は何か別の目的があった時しか通らず、その時間帯も夜に集中している様に思える。
ここでの生活は全て小柄の看守達に因って定められており、起床・朝食の配膳・朝食の片付け・夕食の配膳・夕食の片付け・消灯、これだけを規則的に繰り返している様だ。
時折、囚人を連行する大柄の看守の一団が通り過ぎたり、地の底からの地響きや、遠くから泣き叫ぶ悲鳴が聞こえたりもしたが、それ以外は至って何事も起きない静かな場所で、どうやらこの地下牢獄はそれほど囚人が入っていない様にも感じる。
未だ十日程度しか経っていないので、入浴の機会があるのかは判らないが、水嚢は飲み水としての量としか思えない。
これで体を洗うのはあまりしたくないのだが、ずっと不潔でいるのも何らかの病に掛かる恐れもあり、何れ必要に迫られて実行せざるを得ないかも知れない。
そう思っていた矢先に、私の元へと新たな獣人が面会にやって来た。
それは鹿の近衛兵を引き連れた、黒牛の家令が説明していた一人である、馬の頭をした使用人姿の獣人だった。
頭部の毛の色は近衛兵よりも淡い栗毛をしていて、身長は鹿に個体差が無いのであれば家令と同じ程の長身だが、馬だからか幅は牛の家令よりも細身の印象を受ける。
「お早うございます、猊下。
お初にお目に掛かります、私めはカバルスと申しまして、この館にて陛下の執事をさせて頂いている者でございます、以後、お見知り置きを。
この度は本来のお役目ではなく、陛下からの召集でございます。
本日お出でになられる国賓の方々にも、猊下をご紹介したいと仰せでありまして、今晩開かれる賓客との晩餐の席に、猊下にもご出席して頂く事になりました。
従ってその為の御支度をお手伝い致しますので、私めの指示に従って頂けますでしょうか」
栗毛の馬頭の執事は、牛頭と同じく態度と口調だけは丁寧に、牛程では無かったが低い声で私へと主命を告げた。
要するにこの無様な姿を晒させて、賓客への余興の一つにしたい訳だ、これでは完全に見世物としての道化師ではないか。
思わず苛立ちが募ったが、今ここで何をしても全く無意味だと諦めて、私は命令に応じる意思表示を返した。
「では、午後にもう一度お迎えに上がりますので、それまでお待ち下さい」
そう言うとカバルスと言う名の馬は、一礼して鹿達と共に独房を後にした。
恐らく約束通りなのだろう、栗毛馬の執事は朝食終了から結構時間が過ぎた後に、朝と同様に二人のセルヴスを連れて再び現われた。
「お待たせ致しました、猊下。
ではこれから、別室にて入浴してお召し物を変えた後に、少々早いですが夕食を摂って頂き、晩餐会での出番をお待ち頂きます。
今回のお食事は、普段のものとは違いまして、陛下からのご芳情に因り、下級使用人と同等の食事をご用意致します。
それをご満足ゆくまで召し上がり下さいませ。
入浴、着替え、給仕に関しては、それぞれ二名のカトゥスがお世話致します。
共通語の簡単な受け答えなら出来る者達を用意致しますので、指示やご希望があれば、担当のカトゥスに申し付け下さい。
それと、猊下の信仰が如何なる物かについて存じ上げておりませんが、何らかの祈りと言った儀式が必要でしょうか。
控えの間で事足りればそこで済まして頂きたいのですが、もしその場所で不足があれば、別途ご用意致します。
晩餐会での登場の際は、今も右足首に付けて頂いている、『屍諫の守護天使』をもう一つ、左足首にも付けさせて頂きます。
これは、猊下が良からぬ事を仕出かせない様にする為の措置ですので、どうぞご容赦願います。
晩餐会の場では、この両足の錘は引き摺らずに、お召し物の中で手で抱えて歩かれる様、お願い致します。
ご存知とは思いますが、かなりの重量がある物ですので、二つを抱えては歩くのすら、思う様には出来ないでしょう。
お披露目の際には粗相の無い様に、待ち時間の間にその重さに慣れておいて下さいませ。
この『屍諫の守護天使』は、陛下の秘術で作られた物の一つであり、陛下に対して何らかの悪意や反意を抱くと、その重さが増えると云われております。
ですので、愚かな考えはお持ちにならない様、ご忠告させて頂きます。
ではまずは、浴室までご案内致します、ご同行願いますでしょうか」
こうして私は馬の執事達に連れられて、独房の外へと出た。