第二十章 背反の双丘 其の五
変更履歴
2012/01/25 誤植修正 例え → たとえ
2012/01/25 誤植修正 話し → 話
2012/01/25 誤植修正 乗せていた → 載せていた
2012/09/05 誤植修正 笑みのから → 笑みから
2012/09/05 誤植修正 噴霧の → 憤怒の
2012/09/05 誤植修正 支配地なさる → 支配なさる
2012/09/05 句読点調整
2012/09/05 記述修正 不安げな表情から安堵の表情へと変わった → 不安げな顔から安堵の表情へと変わった
2012/09/05 記述修正 湖の方へ移りましょう → 湖の方へ参りましょう
2012/09/05 記述修正 前回の時の印象ではもっと大人しくて物静かなイメージ → 前回の時はもっと大人しくて物静かな印象
2012/09/05 記述修正 生き生きとして見えてしまっているのかも知れないと思えた → 生き生きと見えているのかも知れない
2012/09/05 記述修正 寿命の事についてを尋ねた → 寿命について尋ねた
2012/09/05 記述修正 私の問いへの回答を → 私の問いに対する回答を
2012/09/05 記述修正 水面がすぐ近くの草原へと → 水面がすぐ近くの湖畔へと
2012/09/05 記述修正 そこへ横座りに腰を下ろしてから → 平たい石の上に横座りに腰を下ろしてから
2012/09/05 記述修正 わたくしの魂は元の蝶の体から抜けて → 命が尽きるとすぐに、わたくしの魂は蝶の体から擦り抜けて
2012/09/05 記述修正 上空へと漂って行きました → 空に向かって漂って行きました
2012/09/05 記述修正 上空へと上がって行きました → ひたすら上空へと昇り続けました
2012/09/05 記述修正 御迎えかと思って見上げると → 御迎えかと思って見上げても
2012/09/05 記述修正 そこには天使はおらず → そこには天使はいなくて
2012/09/05 記述修正 地上からは見えなかったのですけど → その代わりに地上からは見えていなかった
2012/09/05 記述修正 雑踏の中にでもいるかの様でして → 雑踏の中にでもいるかの様で
2012/09/05 記述修正 逆に一つ一つの声が何を言っているのかが → あまりの喧騒に、何を訴えているのかが
2012/09/05 記述修正 私の目の前で膝をついて、私の両肩へと手を回してから、私を抱擁して来た → 私の両肩へと手を回して抱擁した
2012/09/05 記述修正 思い出してはいただけませんの? → 思い出しては頂けませんの?
2012/09/05 記述修正 干乾びた屍を白い蛾の死骸へと変えられて → 干乾びた屍を白い蛾の死骸へと変えた後
2012/09/05 記述修正 記憶と姿を黒い蝶へと変えられたのです → その意識と姿を黒い蝶へと変えたのです
2012/09/05 記述修正 憎悪と噴怒の念の塊となっていた → 憎悪と噴怒の念に因って
2012/09/05 記述修正 浮かばれぬ魂の塊となっていた → 浮かばれぬ魂の塊と化した
2012/09/05 記述修正 灰色雲から教えられたのです → 灰色雲から教えられました
2012/09/05 記述修正 そして貴方様の策の通りに → そして貴方様の思惑通りに
2012/09/05 記述修正 天罰と言う名の → 神罰と言う名の
2012/09/05 記述修正 未曾有の天災を起こして大虐殺を行った → 未曾有の天災を齎し、滅ぼしたのですね
2012/09/05 記述修正 貴方様をどうにかするのは難しく → 貴方様に抗うのは難しく
2012/09/05 記述修正 せいぜいわたくしの再生が → 精々わたくしの再生が
2012/09/05 記述修正 部位での抵抗を試みるが → 部位で抵抗を試みるが
2012/09/05 記述修正 意識が遠のき始めるのを感じた → 意識が遠のき始めた
2012/09/05 記述修正 ここよりも更に過去に訪れた私は → ここよりも更に過去に訪れた存在は本当に私で
2012/09/05 記述修正 消し飛ばしたのだろうか → 消し飛ばしたのか
2012/09/05 記述修正 それ以外の者達についても → また、王妃の言う魔導の民以外の者達について
2012/09/05 記述修正 部外者では無い → “嘶くロバ”の様な部外者では無い
2012/09/05 記述修正 被害者自身から糾弾された事は → 被害者自身から糾弾されたのは
2012/09/05 記述分割 湖へと転がり落ち、その直後 → 湖へと転がり落ちた。その途端
2012/09/05 記述修正 私の頭部は → 私の千切れた頭部は
2012/09/05 記述修正 もう理性を持って会話が可能な状態では無くなりつつあるのは → 最早人間としての理性が失われているのは
2012/09/05 記述移動 灰色の雲とは恐らく死霊の塊だったのだろうが~
2012/09/05 記述修正 確認した時には感知出来なかった → 確認した時に感知出来なかったのは
2012/09/05 記述修正 掛け替えの無い愛する子供達を → 我々の愛する子供達を
2012/09/05 記述修正 多くの薬草が茂る大庭園でしたわ → 多くの薬草が茂る大庭園でした
2012/09/05 記述修正 未だ思い出しては頂けませんか? → 未だ思い出しては頂けませんの?
2012/09/05 記述修正 貴方様もだったのですわ → 貴方様もですわ
2012/09/05 記述修正 取るに足らない人間達の事など → 取るに足らない人間達の事なんて
2012/09/05 記述修正 覚える気も無かったのでしょうか → 覚える気も無かったのかしら
2012/09/05 記述修正 この目で見ておりましたわ → この目で見ておりました
2012/09/05 記述修正 空は青天であり → 空は鮮やかな茜色であり
2012/09/05 記述修正 私は前を歩く → 危なげなく前を歩く
2012/09/05 記述修正 安心した満面の笑みを浮かべる → 満面の笑みを浮かべる
2012/09/05 記述修正 わたくし達魔導の民もそれ以外の者達も → 我々魔導の民もそれ以外の者達も
2012/09/05 記述修正 不自然に感じていた答えが → 不自然に感じていた正体が
2012/09/05 記述修正 私の体を取り囲み四肢の自由を奪い → 私の見えない体を取り囲んで四肢の自由を奪い
2012/09/05 記述分割 探求心を重んじて来た、貴方様はずっとそれが → 探求心を重んじて来ました。貴方様はずっとそれが
2012/09/05 記述修正 正しく言うなら → 正しくは
2012/09/05 記述修正 貴方様は始めから覚えてもおらず → 貴方様は記憶に留める気すらなかった
2012/09/05 記述修正 真実に他ありません → 辛く悲しい真実に他ありません
2012/09/05 記述修正 大地ごと破壊してしまわれました → 大地諸共破壊してしまわれました
2012/09/05 記述修正 後は貴方様次第です → 後は貴方様次第
2012/09/05 記述修正 何かを訴える様な表情へと → 何かを訴える様な憂いを帯びた表情へと
2012/09/05 記述修正 猶予を与えているかの様な → 猶予を与えている様な
2012/09/05 記述修正 別の感情が表れていると感じる → 別の感情が隠されているとも感じる
2012/09/05 記述修正 声が言っている内容もはっきり聞こえる様になりました → かなりはっきりと言動も聞き取れる様になりました
2012/09/05 記述修正 わたくしはその雲の中に入るのが → その声の訴えを理解したわたくしは、雲の中に入るのが
2012/09/05 記述修正 上へと上っている私自身を操る事も出来ずに → 上へと向かっている自分を操る事も出来ず
2012/09/05 記述修正 態度の違いが強いからなのか → 態度の違いが大きいからなのか
2012/09/05 記述修正 溢れ出る生命力を感じさせる → 溢れ出る力強さを感じさせる
2012/09/05 記述修正 長い髪を押さえながら → 長い髪を掻き上げながら
2012/09/05 記述修正 よろめき転落した、崖の縁の間際だ → よろめき転落した場所だ
2012/09/05 記述修正 どうかお聞き下さいな → どうかお聞き下さい
2012/09/05 記述修正 ああ、良かった → あぁ、良かった
2012/09/05 記述修正 目を開けると目の前には → 目を開けるとそこには
2012/09/05 記述修正 青く澄んだ空が見えていた → 赤く染まった空が見えていた
2012/09/05 記述修正 怒りと恨みを抱いておりますわ → 怒りと憎しみを抱いておりますわ
2012/09/05 記述修正 そう語った陽気な“黒瑪瑙”は → そう語った快活な“黒瑪瑙”は
2012/09/05 記述修正 待ちに待っていたとばかりに → 待ちに待っていたと言わんばかりに
2012/09/05 記述修正 私は死に行く時も消える瞬間も → 私は今際の時も身体が消える瞬間も
2012/09/05 記述修正 動きをしつつ、私へと語り始めた → 動きをしつつ語り始めた
2012/09/05 記述修正 落下した場所に間違いない → 落下した場所に間違いなく
2012/09/05 記述修正 生まれ変わったかの様な活発さは → 生まれ変わったかの様な溌剌とした様は
2012/09/05 記述修正 だと考えればここで殺される事こそが → そう考えればここで殺される事こそが
2012/09/05 記述修正 事実なのかについてが気になり → 事実なのかについてが気に掛かり
2012/09/05 記述修正 私の首へと回されており → 私の首に掛けられており
2012/09/05 記述修正 まるで娼婦に言い寄られるかの → まるで言い寄られるかの
2012/09/05 記述修正 強い違和感を覚えつつも → 強い違和感を覚えながら
2012/09/05 記述修正 別人の様に態度を変えた → 別人の様に豹変しつつある
2012/09/05 記述修正 どうして人間にして頂けたのかも → 何故人間にして頂けたのかも
2012/09/05 記述修正 それからどうしてここにはわたくしとあの人しか居なかったかも → どうしてここにわたくしとあの人しか居なかったのかも
2012/09/05 記述修正 もっと沢山の声でした → もっと大勢の声でした
2012/09/05 記述修正 髪に気を配っている仕草など → その落ち着いた歩き方や髪に気を配っている仕草など
2012/09/05 記述修正 わたくしのでしょうか? → わたくしの?
2012/09/05 記述修正 私自身が無いと自覚しているから → 私自身が無いと認識しているから
2012/09/05 記述修正 起こした事象なのだろうか → 起こした事象なのか
2012/09/05 記述修正 どうかわたくし達の想いをお受け下さい → どうかお受け下さい
2012/09/05 記述修正 神をも殺す程に、深く、重く、強い、 → 神をも殺す程の
2012/09/05 記述修正 しかし貴方様には → しかし貴方様は
2012/09/05 記述修正 再びこの体を得て → 再び肉体を得て
2012/09/05 記述修正 その様な姿になっても → その様な変わり果てた姿になっても
2012/09/05 記述修正 未だ力を残していた魔導師達の力に因って → 残っていた魔導師達の力に因って
2012/09/05 記述修正 わたくし達が差し出さなかった罰として → 差し出さなかった罰として
2012/09/05 記述修正 この愛する国と民を全て破壊し → この愛する国を跡形も無く破壊し
2012/09/05 記述修正 それでも構わないのです → それでも構いませんわ
2012/09/05 記述修正 死に至らしめて来ておりますでしょう? → 死に至らしめておりますでしょう?
2012/09/05 記述修正 掛け替えの無い子供達全てを → 掛け替えの無い子供達を
2012/09/05 記述修正 広大な高原でしたわ → 広大な平原でしたわ
2012/09/05 記述修正 わたくし達の思いは只一つです → わたくし達の望みは只一つです
2012/09/05 記述修正 記述追加 それと同時に大地と上空には私と王妃を中心として~
2012/09/05 記述修正 無数の蛇の様な黒髪と両手で → 無数の蛇の様な黒髪で絡め取りながら、両手で
2018/01/28 誤植修正 そう言う → そういう
「……貴き御方、お気を確かに、わたくしの声が聞こえますか、貴き御方!」
遠くから嘗て耳にした記憶のある声が聞こえ、更に肩を揺さぶられる感触を感じて、私は目を覚ました。
目を開けるとそこには、長い髪を片手で押さえつつ、私の顔を覗き込む様にしてこちらを見ている、“黒瑪瑙”の姿があり、その背後には赤く染まった空が見えていた。
この光景は黒い蝶の女の存在がある点からしても、トーラスの丘であるのは間違いないが、いまいち現状が理解出来ない。
ここでの最後の記憶では、“黒瑪瑙”は死んで消え去り、私は断崖から転げ落ちた筈なのだが。
だとすると一体今はいつなのかと疑問に感じていると、私が意識を取り戻したのに気づいた彼女は、不安げな顔から安堵の表情へと変わった。
「あぁ、良かった、ご無事だったのですね、目を覚まされなかったらどうしようかと、とても心配致しましたわ」
そう話しながら、立ち上がってこちらへ手を差し伸べつつ、満面の笑みを浮かべる“黒瑪瑙”へと、私は無意識にその伸ばされた手を掴み、立ち上がった。
あの忌まわしい城に滞在していた間に馴染んでいた所為もあり、何も考えていなかったのだが、今差し出した私の腕は、この場所での私の器には見えずに、認識出来なかった部位だと言う事に気づいた。
それを思い出してすぐにたった今下ろした右腕を見ると、そこには何も無く、腕どころか肩も胴体も見当たらない。
私は今何をしたのだろうか、蝶の女の態度は至って平常に私の手を取った様に見えたし、現に私は彼女の手を掴み引っ張って起き上がった筈だ。
しかし前の時と変わらず、私には今繋いでいた腕も体も認識出来ていない。
私自身が無いと認識しているから存在しなくなるだけで、体は存在していると自覚さえ出来れば、物理的に作用すると言う事なのか。
色々と不可解な状況の中で、混乱してその場に留まっていた私へと、“黒瑪瑙”は私の右手らしき辺りを掴んでから、楽しそうに少し飛び跳ねる様な動きをしつつ語り始めた。
「貴き御方、どうか、どうかお聞き下さい、わたくし全てを思い出しましたの!
そのお話もしたいので、この様な危険な場所ではなく、もっと安全な湖の方へ参りましょう、さあ、早く早く」
まるではしゃぐ子供の様な無邪気な様子を見せながら、彼女は私の手を引いているらしい。
確かに今私が居る所は、前回突風の所為でよろめき転落した場所だ。
“黒瑪瑙”が手を差し伸べてくれなければ、下手をすると折角意識を取り戻したのに、目覚めた途端にそのまま転落しかねない場所でもあり、何はともあれ彼女の進言に従って、まずこの場所から離れる事にした。
“黒瑪瑙”の風に煽られて棚引く黒髪を眺めながら、手を引かれて湖へと向かい、ゆっくりと進んで行く。
私の手を掴んでいない右手で、長い髪を掻き上げながら幾度と無く振り向く彼女は、私と目が合う度に微笑んでいる様に見えて、それほどまでに喜ばしい記憶であったのかと推測出来た。
前回の時はもっと大人しくて物静かな印象、悪く言えば無表情で感情的にも感覚的にも動きの無い女だと思っていたのもあって、対照的に今がやけに活動的で生き生きと見えているのかも知れない。
だが、死期を控えた生き物としては、前者の姿が正しく見えたからこそ違和感も感じなかったのであり、そういう意味では今のこの生まれ変わったかの様な溌剌とした様は、思い出した内容に因って齎されているのだろうか。
いや、その前にどうして死んだ筈なのに蘇っているのか、ここから疑問を抱くべきだろう、私は今際の時も身体が消える瞬間も本性の蝶の亡骸も、間違いなくこの目で確認しているのだ。
そうなると次に疑うべきは時間軸か、先程目を覚ました地点は風景に違和感を感じなかった点からして、前の時の落下した場所に間違いなく、そうなるとやはり繋がっている気もするが、それを言うなら別の召喚でたまたま前回の最後の場所に現われた可能性が、絶対に無いとも言い切れない。
空は鮮やかな茜色であり、太陽の位置からして落下した時刻とも繋がっているが、若しかすると未だ蝶の女が死ぬ前、つまり最初に私が現われた日なのではないかと推測して、危なげなく前を歩く“黒瑪瑙”へと、私と会ったのは今日で何日目かと尋ねてみた。
「貴方様とお会いしたのは、今日で三日目ですわ。
けれどどうして、その様な事を尋ねられるのです?」
微風に巻き上げられて、ほぼ水平近くまで靡く髪を押さえつつ、こちらを向いて不思議そうな顔をしている“黒瑪瑙”へと、私は思わぬ核心に踏み込むのではないかと不安を感じながらも、歩みを進めつつ彼女自身の寿命について尋ねた。
「寿命って、わたくしの?
あぁ、それも合せて思い出した事に絡むので、落ち着いて話の出来る場所に着いてからに致しましょう。
その辺りが良さそうですわ」
私の問いに対する回答を後回しにして、“黒瑪瑙”は水面がすぐ近くの湖畔へと私を導き、平たい石の上に横座りに腰を下ろしてから、風に戦ぐ髪を右肩から前へと手繰り寄せて両手で軽く梳いて整えると、スカートの膝の上に髪を載せていた。
変わったのは性格だけでなく、随分と人間の体に慣れて来たのか、その落ち着いた歩き方や髪に気を配っている仕草など、外見に準じた淑女らしい振る舞いをしていると感じた。
落ちる前の時との態度の違いが大きいからなのか、今の人間の女性らしく振る舞う所や溢れ出る力強さを感じさせる快活さには、どうしても違和感を覚えてしまう。
そんな私の心境にも気づく素振りは無く、零れんばかりの笑顔を湛える“黒瑪瑙”は、待ちに待っていたと言わんばかりに告白を開始した。
「お待たせ致しました、さあ、わたくしの貴き御方、お話し致しますわ、思い出した過去の事や、貴方様が疑問に感じておられる、どうして死んだ筈のわたくしが、こうして蘇る事が出来たのかも!」
瞳を輝かせてそう語った快活な“黒瑪瑙”は、この不可解な状況の説明を、嬉しそうに語り始めた。
「貴方様の仰る通り、わたくしは一度、正確にはつい先程になりますけど、蝶としての寿命を終えて、死にました。
えぇ、それは間違いありません。
ですが、貴方様の起こして下さった人間への変化が、もう一つ別の奇跡を呼んだのです。
命が尽きるとすぐに、わたくしの魂は蝶の体から擦り抜けて、空に向かって漂って行きました。
その時わたくしは、貴方様がわたくしの死骸をずっと見つめているのも、この目で見ておりました。
でも、その時点ではそれ以上の事は何も出来ずに、わたくしの魂はわたくしの意思に関係なく、ひたすら上空へと昇り続けました。
その途中、高さにしてどの大樹よりも高く、この丘が人目で見渡せる程まで上がった時に、更に上の方から声が聞こえて来たのです。
それは一つや二つではなく、もっと大勢の声でした。
天界からの天使の御迎えかと思って見上げても、そこには天使はいなくて、その代わりに地上からは見えていなかった、霧の様に淡い大きな灰色の雲があっただけでした。
沢山の声はその灰色雲から聞こえていて、近づけば近づく程にその声は数を増して声も大きくなり、かなりはっきりと聞き取れる様になりました。
その声の訴えを理解したわたくしは、雲の中に入るのがとても嫌だったのですけれど、ひたすら真っ直ぐに上へと向かっている自分を操る事も出来ず、そのまま騒然とする灰色雲に入ってしまいました。
雲の中は無数の人々の声で溢れかえっていて、それは市場の雑踏の中にでもいるかの様で、あまりの喧騒に、何を訴えているのかが判らなくなる程でしたわ。
でもそうなった途端に、今までずっと忘れていた事を、不意に思い出したのです、わたくしが最初に貴方様と出会った時に、何故人間にして頂けたのかも、どうしてここにわたくしとあの人しか居なかったのかも。
わたくしは人間にして頂いたのではなく、人間に戻して頂いたのです、再び貴方様の御力で。
全てをお忘れなのはわたくしだけでは無く、貴方様もですわ、それとも取るに足らない人間達の事なんて、始めから覚える気も無かったのかしら。
いえ、今はもうそれでも構いませんわ、どうかわたくしの望みを叶えて下さりませんでしょうか、一度きりで良いのです、貴き御方、いえ、愛しき御方」
満面の笑みから何かを訴える様な憂いを帯びた表情へと、変化を見せつつ語る嘗ての蝶の女からは、僅かに変わり始めた語気を感じるものの、まるで私に何かを思い出す時間の猶予を与えている様な、真相をはぐらかした焦らす口調に、別の感情が隠されているとも感じる。
そんな私の内心を確認する様に、その潤む瞳に輝き以外の何かを灯した女は沈黙して立ち上がると、少し離れていた私の所まで歩み寄り、私の両肩へと手を回して抱擁した。
私からすると何とも言い難く、とても長く感じた沈黙の時間が流れた後に、再び女は私の耳元で囁く様に語り出した。
「わたくしが人の姿を望んだのは、蝶では叶わぬ望みを叶える為。
どうしてこれ程の強い想いをわたくしは抱いていたのに、一度この身が果てるまでの間に、思い出せなかったのでしょう。
それは、貴方様がそう望んでいたからかも知れませんが、今はこうして記憶も戻りましたし、わたくしの願いもここまで来れば、後は貴方様次第。
如何でしょう、愛しき御方、ここまでお話ししても未だ思い出しては頂けませんの?」
まるで言い寄られるかの様な状況に、強い違和感を覚えながら、別人の様に豹変しつつある“黒瑪瑙”の言葉に対して、こちらからは色好い返答は出来ず口篭っていた。
自分の肉体を感じる事は自身ではどうやっても出来ないが、“黒瑪瑙”から触れられているのは明確に実感出来ている事に関しても、強く戸惑いを感じている。
この後何を望んでいるのかに関しても、私と言う存在をどう認識しているのかで大きく変わると思うのだが、それすらも読みきれず、全く以ってどう対処すべきかの判断がつかない。
そんな私の態度に痺れを切らしたらしい女は、更に私へと体を預ける様に寄り掛かり、肩から首へと両手を移しながら、華奢な体を密着させて来る。
それに伴い、相変わらず微風でも大きく靡く長い髪が、私の体にも左右から纏わり付くのを感じた。
「ここまでお話ししても、思い出しては頂けませんの?
やはり、何も覚えてはおられないのでしょうね、では仕方がありませんわ、わたくしが思い出した内容を、お話し致しましょう。
この丘の事をわたくしはトーラスの丘だと、貴方様から教えられたとお伝え致しました。
そう、この丘をトーラスの丘と名付けたのは、確かに貴方様でした。
その前から別の名がついていたこの地の名を、貴方様が改名されたのです、ご自身の力でこの地を破壊されてしまわれた後に。
元々ここはこの様な奇妙な形をした土地ではなく、普通の山の一つであり、周囲の山脈とも繋がる広大な平原でしたわ。
それを貴方様は、ここに住む者達を滅ぼす為に、大地ごと破壊してしまわれました。
この湖も元は、湖の縁が外堀に当たる大きさの、百以上の細く高い尖塔が聳えるとても荘厳な王宮が建っていて、断崖と化した場所には城を囲む様に、多くの塔が天高く伸びた美しい街並みが広がり、今残っているこの丘は元々、王宮と街との間を繋ぐ、多くの薬草が茂る大庭園でした。
白い蛾はその王宮の主であり国王で、わたくしはその王の妻、つまりわたくしはこの亡国の王妃。
貴方様は、要求した供物を差し出さなかった罰として、この愛する国を跡形も無く破壊し、それをわたくし達に見せつけて、耐え切れぬ程の絶望を与えた後に、わたくし達の姿を虫けらへと変えて、更に記憶も消し去ったのですわ。
神意に逆らったわたくし達を虐げる為だけに、愛娘を含む数百の臣下諸共押し潰して強酸の湖に沈め、数千の民全てを塵すら残さずに、街を地面ごと抉る様に消滅させて、更には抵抗しようとした夫も、その手で精気を奪い老衰させて殺し、干乾びた屍を白い蛾の死骸へと変えた後、最後に何もかも失ったわたくしの記憶すら奪い、その意識と姿を黒い蝶へと変えたのです。
これがわたくしも貴方様も忘れていた事実、いいえ、正しくは、貴方様は記憶に留める気すらなく、わたくしは忘れさせられていた、辛く悲しい真実に他ありません」
私は改めて王妃と名乗った女に対して、返す言葉も思いつかず、ただただ絶句していると、私から何の応えも無いのを気にする様子も無く、更に王妃は辛辣な言葉を続けた。
「わたくしはその真実を、貴方様に対する憎悪と噴怒の念に因って、殺された民達の浮かばれぬ魂の塊と化した、灰色雲から教えられました。
亡き民達の思念を聞いて、全てを思い出したわたくしは、その様な変わり果てた姿になっても、残っていた魔導師達の力に因って、再び肉体を得てこの地に蘇ったのです。
わたくし達は魔導を司る民、生まれたばかりの赤子から老人に至るまで、誰しもが力を持つ種族であり、別の何かに縋る信仰心よりも、自らの力を頼る探求心を重んじて来ました。
貴方様はずっと、それがお気に召さなかったのでしょう?
天を目指して貫かんばかりに聳える高き尖塔が、いつか御自分の支配なさる天界にまで届くのではと恐れたから?
だからその腹癒せに、わたくし達の掛け替えの無い子供達を、御自分への生贄に差し出せと仰ったの?
その求めにわたくし達が応じる訳が無いのも、きっとお解かりだったのでしょう、我々の愛する子供達を要求したのは、必要だからではなくて、単に口実だったのでしょうから。
そして貴方様の思惑通りに、わたくし達は貴方様からの求めを拒み、その結果、神に抗う種族として、この魔導の都全土に対して、神罰と言う名の未曾有の天災を齎し、滅ぼしたのですね」
今までも何かと不自然に感じていた正体が今や明らかになり、風に関係なく蠢く黒髪は、私の見えない体を取り囲んで四肢の自由を奪い、拘束しようとする意思を持って絡みついていた。
両肩へと回されていた王妃の手は、いつの間にか私の首に掛けられており、その手には今や女の細い腕からでは考えられないほどの力で、首を締め上げている。
「貴き御方、貴方様はもう一つ、気づかれておられない事があります。
幾らわたくし達の恨みの念が強いと言っても、それだけでは流石に大いなる存在である貴方様に抗うのは難しく、精々わたくしの再生が出来る程度でした。
しかし貴方様はわたくし達の民以外にも、数多くの国を滅ぼし、数多の人間達を、死に至らしめておりますでしょう?
その者達の魂もまたわたくし達と同様に、自らの不遇を嘆き悲しみ、貴方様に対して怒りと憎しみを抱いておりますわ。
その様な負の感情は決して消える事も無く、常に貴方様の後を追い続けていて、その者達の力もわたくしは取り込んでいるのです。
わたくし達の望みは只一つです、貴き御方。
我々魔導の民も、それ以外の者達も、決して貴方を赦さない、たとえ相手が神であろうとも、魔導の民の名に賭けて、必ず報復を果たしてみせましょう。
このわたくしの体は全て、亡き民達の消えぬ怨嗟の念で作り出したもの、そして彼等の願いは、貴方様を死に至らしめる事、それだけの為に形作られた体。
さあ、愛しき御方、どうかお受け下さい、神をも殺す程の報われぬ悲願を!」
今や復活した亡国の王妃としての本性を露にし、すっかり怨霊へと豹変した“黒瑪瑙”は、瞳に深い怒りと悲しみと狂気の感情を込めて私を睨み、無数の蛇の様な黒髪で絡め取りながら、両手で私を縊り殺そうとしている。
それと同時に大地と上空には私と王妃を中心として、これまで見た事もない程複雑な形状をした、何重にも重なる巨大な魔法円が禍々しく浮かび上がり、王妃の言葉が偽りではない事を証明していた。
私には認識出来ない実体化している筈の部位で抵抗を試みるが、その力は殺意の権化と化した女には全く叶わず、次第に意識が遠のき始めた。
こんな切迫した状況であっても、私は自らの命の事より、“黒瑪瑙”の語った事は全て事実なのかについてが気に掛かり、私の精神を掻き乱していた。
灰色の雲とは恐らく死霊の塊だったのだろうが、自分の糧を確認した時に感知出来なかったのは、自分の周囲に流れる糧のみを対象として、そんなに上空までは意識しなかったからだろうか。
ここよりも更に過去に訪れた存在は本当に私で、嘗てここにあった都をその民ごと全て消し飛ばしたのか。
それが事実だったなら、こうして報復されるのは当然の報いであり、私はこのまま殺されるべきだろう。
それにしても栓無い事だが、どうして私はその様な事をしたのだろうか、そもそもそれは本当に私自身が起こした事象なのか、若しかすると、今の私の器と同じ姿をした別の存在が起こしたのかも知れない。
だがこれらの問いはもう、今や死霊と化した“黒瑪瑙”にしたところで回答は無いだろう、最早人間としての理性が失われているのは明らかだ。
それにこれらの真実は、私側の存在でなければ認識出来ないであろうから、私としては別の存在が行った冤罪だったとしても、滅ぼされた人間達からすれば、紛れもなく破滅を齎した神そのものなのだ。
そう考えればここで殺される事こそが、今の私に課せられた使命と言う事になるのだろうか。
また、王妃の言う魔導の民以外の者達について、今までは私にとって使命こそが果たすべき存在目的だと信じて、正当化する事に因って目を背けて来た後ろめたい部分を、“嘶くロバ”の様な部外者では無い被害者自身から糾弾されたのも、私を酷く動揺させた。
その諌言に思い当たる節は幾らでもあり、考え始めると無数にそれに該当しそうな者達の顔が、次々と止め処無く脳裏に浮かんで来てしまう。
逆に私に関わって、私に対して何の不満や怒りも抱いていない者なんて、誰も居ないのではないかとさえ思えて、自己嫌悪で居た堪れなくなり、それがまた更なる自己嫌悪を招き、どうしようもない悪循環を引き起こして、更に打ち拉がれていく。
しかしそんな負の連鎖反応は幸か不幸か長くは続かずに済んだ、とうとう死霊の王妃の手の力が私の首の許容量を超えたからだ。
私の首は握り潰され、千切れた頭部は胴体から落下して湖へと転がり落ちた。
その途端、頭部全体に焼ける様な激しい痛みが走り、私は心身からの苦痛と苦悩に耐え切れず、出る筈のない声で絶叫した。