表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『誓約(ゲッシュ) 第一編』  作者: 津洲 珠手(zzzz)
第二十章 背反の双丘
94/100

第二十章 背反の双丘 其の二

変更履歴

2012/01/20 誤植修正 例え → たとえ

2012/01/20 誤植修正 話し → 話

2012/01/20 誤植修正 関わらず → 拘わらず

2012/08/26 誤植修正 無かったのもの → 無かったもの

2012/08/26 誤植修正 幸せだったなのですね → 幸せだったのですね

2012/08/26 誤植修正 仕組みなのは → 仕組みなのかは

2012/08/26 誤植修正 拭き始めた → 吹き始めた

2012/08/26 誤植修正 色白かった → 色白だった

2012/08/26 句読点調整

2012/08/26 記述修正 わたくしは昨日、わたくしの願い → 昨日にわたくしの願い

2012/08/26 記述修正 貴方様に人の姿に → 貴方様に人の姿へと

2012/08/26 記述修正 外見よりもかなり幼い様に思える → 外見よりも相当幼い様に思える

2012/08/26 記述修正 ……? → …………?

2012/08/26 記述修正 最後にあの人と逢った時も → 最後にあの方と逢った時も

2012/08/26 記述修正 かなり弱っていたから → かなり弱っていましたから

2012/08/26 記述修正 たとえまだ生きていたとしても → たとえまだ無事に生きていたとしても

2012/08/26 記述修正 わたくしと愛する人は決して結ばれる事は無いし → わたくしとあの方は決して結ばれる事も無く

2012/08/26 記述修正 言葉も通じず → 言葉すら通じず

2012/08/26 記述修正 あの人を弔った後 → あの方を弔った後

2012/08/26 記述修正 わたくしの残る寿命があと二日だと → 残る寿命はあと二日だと

2012/08/26 記述修正 本日はもう疲れてしまいました → わたくし、たくさん話をして少し疲れてしまいました

2012/08/26 記述修正 わたくしは休ませて頂きたいのですが → 休ませて頂きたいのですが

2012/08/26 記述修正 少し苦しそうに眠る → 苦しそうな表情で眠る

2012/08/26 記述修正 女の姿を眺めつつ後悔していた → 女の姿を眺めつつ、私は後悔していた

2012/08/26 記述修正 私の器は霊体の様なものではなく → この点を踏まえると、私は霊体の様なものではなく

2012/08/26 記述修正 認識を改めた → ここで器に対する認識を改めた

2012/08/26 記述修正 時間が経過するに従い弱まって行き、やがて日没と共に止み → 時間が経過するに従って弱まりやがて日没と共に止み

2012/08/26 記述修正 左回りに回ってみたが → 左回りに回ってみても

2012/08/26 記述修正 崖沿いに沿って、谷の部分を確認しつつ → 崖沿いを辿り、谷の部分を確認しつつ

2012/08/26 記述修正 もうすぐ元の女の眠る → もうすぐ出発地点となる女の眠る

2012/08/26 記述修正 潅木の付近まで近づいた時 → 潅木の付近まで近づいた頃になって

2012/08/26 記述修正 空が明るくなり始めて来て、夜が明け始めた → 空が明るくなり夜が明け始めた

2012/08/26 記述修正 女の今までに見せなかった → 今までに見せなかった女の

2012/08/26 記述修正 その意図を察して → 今日眠るまでと言うその意図を察して

2012/08/26 記述修正 曇った表情から → それを聞いて安堵したらしい女は、曇った表情から

2012/08/26 記述修正 こちらを見る事無く再び頭を下げて、目を伏せた → 視線を合わせる事無く目を伏せて俯いた

2012/08/26 記述修正 人間の様な姿か → 人間の様な姿なのか

2012/08/26 記述修正 蝶の姿をされていたなら → 蝶の姿をされていたのなら

2012/08/26 記述修正 なので申し訳ありませんが → ですので

2012/08/26 記述修正 もうこれ以上は何かを聞きだすのは無理だと判断した → もうこれ以上何かを聞き出すのは無理だと悟った

2012/08/26 記述修正 安心して愛する人の場所へと → 安心して愛するあの方の元へと

2012/08/26 記述修正 きっと無事に逝けると → きっとまたあの方とも巡り会えると

2012/08/26 記述修正 こう言い残すと、“黒瑪瑙”と名乗った女は → “黒瑪瑙”と名乗った女はこう言い残すと

2012/08/26 記述修正 再び眠るかの様に目を閉じると、 → 目を閉じて、永久の眠りについた

2012/08/26 記述修正 花粉の様に微風に舞い → 綿毛の様に微風に舞い

2012/08/26 記述修正 この丘陵へと広がって行った → この丘陵へと散っていった

2012/08/26 記述分割 存在であったからだろう、だとするとその呼び名は → 存在であったからだろう。だとするとその呼び名は

2012/08/26 記述修正 最初の私こそ相応しく → 最初に現れた存在にこそ相応しく

2012/08/26 記述修正 私の事を貴き御方と → 私の事を『貴き御方』と

2012/08/26 記述修正 最後の願いを叶えた存在であったからだろう → 彼女の最後の願いを叶えたからだろう

2012/08/26 記述修正 私はそう呼ばれる資格は無かった様に思える → 今の私では、その様に呼ばれる資格は無かったと感じた

2012/08/26 記述修正 太陽の位置からして → この時間帯は太陽の位置からして

2012/08/26 記述修正 最も太陽光が差し込む筈なのだが → 最も陽射しが差し込む筈なのだが

2012/08/26 記述修正 何も見つけられずに → 何も見つけられずに一周して

2012/08/26 記述修正 潅木の墓標が見える場所へと → 潅木の墓標が見える地点まで

2012/08/26 記述修正 周囲は光が届かなくなり → 周囲は光が届かなくなって

2012/08/26 記述修正 気がつけば時刻は夕方に迫りつつあり → 気がつけば昨日と同時刻であり

2012/08/26 記述修正 それに気づかずに不意を打たれ → それに気づかずに不意を衝かれ

2012/08/26 記述修正 突風に因り → 突風に因って

2012/08/26 記述修正 崖へと押し進められた → 崖へと押し出される形になった

2012/08/26 記述修正 予期出来ない状況を生み出しそうだと懸念して → 予測出来ない事態を引き起こすのではと危惧してしまい

2012/08/26 記述修正 やる気が起きない → 挑む気になれなかった

2012/08/26 記述修正 巨大な山地が円形状に削られて、 → 巨大な山地がひたすら連続して円形状に削られて

2012/08/26 記述修正 この中心部のみが残ったのか → 中心部のみが残ったのか

2012/08/26 記述修正 非現実的な変化だと思えて → 現実的な変化とは思えず

2012/08/26 記述修正 作用があったとしか思えない → 作用があったとしか考えられない

2012/08/26 記述修正 死期を早める為に → 体力の消耗を促がした代償に今際を看取るべく

2012/08/26 記述修正 害悪でしか無かった事になるが → 果たして有益だったのかと疑問を感じるが

2012/08/26 記述修正 最期の“黒瑪瑙”の言葉が本心からの感想である事を → 彼女の最期のの言葉が社交辞令ではなく本心である事を

2012/08/26 記述削除 短い間でしたが~

2012/08/26 記述修正 もうわたくしの目が → もうわたくしの目に

2012/08/26 記述修正 貴方様を見る事が出来なくなっている → 貴方様の姿が映らなくなくなっている

2012/08/26 記述修正 私は伝えた → 私は伝えたのだ

2012/08/26 記述修正 女の話でも昨日の私が → 先程の話でも昨日現れた私と同様の存在がが

2012/08/26 記述修正 吹き飛ばされたかに説明したが → 吹き飛ばされたかに説明していたが

2012/08/26 記述修正 根元へと戻って行き座ると → 根元へと戻ってそこに腰を下ろすと

2012/08/26 記述修正 あの人が眠る場所で → 昨日からずっと、あの人が眠る場所で

2012/08/26 記述修正 昨日の私は何者だったのか → 果たして最初に現れたのは何者だったのか

2012/08/26 記述修正 納得はしていた → 納得していた

2012/08/26 記述結合 暫く見つめていた。“黒瑪瑙”は → 暫く見つめていると、“黒瑪瑙”は

2012/08/26 記述修正 わたくしには見えません → 今のわたくしには見えません

2012/08/26 記述修正 徐々に変化して行く → 徐々に変化し、それに伴って朝靄の掛かる草原もまたその色味を変えていく

2012/08/26 記述修正 この円状の丘陵を → この円形状の丘陵を

2012/08/26 記述修正 空は茜色に染まっていく → 空は茜色に染まり、高原も夕陽に照らされて紅く染まっていく

2012/08/26 記述修正 その様な名前だったことも知らず → その様な名前だった事も知らず

2012/08/26 記述修正 今や愛する人を見つける事だけが → 今やあの方を見つける事だけが

2012/08/26 記述修正 今となっては愛する人を → 今や愛する人を

2012/08/26 記述修正 自分はどうなっても構わないと → 自分はどうなってもいいと

2012/08/26 記述修正 ああ、勿論、人ではないのですけど → あ、勿論相手は人ではないのですけど

2012/08/26 記述修正 それしか言い表す言葉を → これしか言い表す言葉を

2012/08/26 記述修正 思い出した直後である今のうちに、 → 覚えている今のうちに

2012/08/26 記述修正 広い額には冷や汗を → それに対して女は広い額に冷や汗を

2012/08/26 記述修正 先程よりも血の気が引いて → 先程よりも血の気が引き

2012/08/26 記述修正 女は無言で微笑み、明らかに判っていない様子で、ひたすら小首を傾げていた → 女は明らかに判っていない様子で、ひたすら小首を傾げつつ無言で微笑んでいた

2012/08/26 記述修正 昨日にわたくしの願いを → 昨日、わたくしの願いを

2012/08/26 記述修正 思い残す事は、御座いません → 思い残す事は、ありません

2012/08/26 記述修正 この間に念の為に自分の姿が → この間に自分の姿が

2012/08/26 記述修正 女自身から見ても一致しているが → 女自身から見ても一致している様だが

2012/08/26 記述修正 全く見えていないが → 全く見えないのに

2012/08/26 記述修正 幸せだったと感じたのだから → 幸せだと感じたのだから

2012/08/26 記述修正 覚えられる事が増えても → 覚えられる事が多くなっても

2012/08/26 記述修正 あまり良いとは感じませんでした → あまり良くは感じませんでした

2012/08/26 記述修正 予想通りほぼ深淵の闇で → 案の定ほぼ深淵の闇で

2012/08/26 記述修正 愛する人と共に多くの時を過ごした → 共に多くの時を過ごした花園を見渡せる

2012/08/26 記述修正 あの人の亡骸を → あの方の亡骸を

2012/08/26 記述修正 昨日見た私は別人だと伝えると → 私は昨日の記憶が無いのだ伝えると

2012/08/26 記述修正 「わたくしは昨晩 → わたくしは昨晩

2012/08/26 記述修正 夢を見たのですよ → 夢を見ました

2012/08/26 記述修正 でもどうして、こんなわたくしを試す様な → でもどうして、わたくしを試すかの様な

2012/08/26 記述修正 質問ばかりされるのでしょう → 質問ばかりされるのでしょう……

2012/08/26 記述修正 無かったものですから…… → 無かったものですから。

2012/08/26 記述修正 不慣れだもので、その癖で一晩たったらもう → 不慣れなもので、一晩たったらもう

2012/08/26 記述修正 昨日の私は、この崖を落ちて行ったと → 最初の私は、この崖を落ちて行ったと

2012/08/26 記述修正 細長い円柱状なのだと言うのが → 細長い円柱状なのが

2012/08/26 記述修正 その余裕は無かったかも知れない → その余裕は無かったとも思える

2012/08/26 記述修正 あの人の後を追っているだけでしたが → あの方の後を追っているだけでしたが

2012/08/26 記述修正 愛する人もまだ生きていて → あの方もまだ生きていて

2012/08/26 記述修正 あの人の白く輝く翅を → あの方の白く輝く翅を

2012/08/26 記述修正 それと、我儘なのですけど → 「これは我儘なのですけど

2012/08/26 記述修正 出来ればわたくしが眠るまで → 出来れば今日もわたくしが眠るまで

2012/08/26 記述修正 確認しておく事にした → 確認する事にした

2012/08/26 記述修正 程なく愛する人の亡骸を → 程なくあの方の亡骸を

2012/08/26 記述修正 あの人はわたくしとは違って → あの方はわたくしとは違って

2012/08/26 記述修正 愛する人の行方を → 愛するあの方の行方を

2012/08/26 記述修正 それにしても又しても私なのか → そして

2012/08/26 記述追加 女は昨日私と会ったと言っているが~

2012/08/26 記述追加 これは今の私と同じ定義の存在が~

2012/08/26 記述修正 今の私の方が恐らく過去から来ている存在で、女が昨日見た私とは連続していない時間軸の存在だと → しかし精神的には異なる存在なのだと

2012/08/26 記述修正 ずっと幸福だろう → ずっと満ち足りていた筈だ

2012/08/26 記述修正 寧ろ何も気づかず、何も判らずに生きている方が → 寧ろ少ししか出来なくてもそれだけで生きている方が

2012/08/26 記述修正 ずっと楽しく幸せなんじゃないかと → ずっと幸せなんじゃないかと

2012/08/26 記述修正 それなりの時間を掛けて、 → その後も私は

2012/08/26 記述修正 未来の私が与えた → 最初の存在が与えた

2012/08/26 記述移動 「貴き御方、それならどうか~

2012/08/26 記述修正 それならどうか、折角ですので → 折角ですので

2012/08/26 記述分割 少し疲れてしまいました、それにそろそろ → 少し疲れてしまいました。それにそろそろ

2012/08/26 記述修正 潅木の葉や草花を → 潅木の青葉や草花を

2012/08/26 記述修正 前日の私の能力の詳細については → 前日に現れた存在の能力の詳細については

2012/08/26 記述修正 ここに昨日現われた私は → その存在は

2012/08/26 記述修正 そこには漆黒の蝶の死骸が → そこには先程の光と同じ色をした黒い蝶の死骸が

2012/08/26 記述修正 ですから、貴方様の御姿は昨日までの記憶しかないのですが → それに

2012/08/26 記述修正 昨日の貴方様の事は良く思い出せませんの → 昨日の貴方様の事も、殆んど忘れてしまって、もう良く思い出せませんの

2012/08/26 記述修正 暗くて確認出来なかった → 暗くて調べられなかった


「貴き御方、わたくし思い出しました。

昨日、わたくしの願いを叶えて頂く代償として、貴方様に人の姿へと変えられたのですわ。

何かものを覚えるなんて不慣れなもので、一晩たったらもう、すっかり忘れておりました。

蝶であった頃には、風の流れと好みの花の咲いている場所さえ覚えていれば、何の不自由もなく生きて来れましたので、他には何も覚えておく必要なんて無かったものですから。

でもどうして、わたくしを試すかの様な、意地の悪い質問ばかりされるのでしょう……」

こう語った女は、口を噤んで眉を顰めた表情をしており、意思表示としてはかなり希薄ではっきりとは判らないが、これは不満や苛立ちを表しているのではないかと気づいた。

女は昨日私と会ったと言っているが、私の認識ではここへは初めて訪れているし、この女とも初対面だ。

これは今の私と同じ定義の存在が、ここを訪れていたと解釈するのが妥当だろう。

そして、少なくともその存在は、今の無力な私とは違って、虫を人間に変える力があったと言う事か。

前日に現れた存在の能力の詳細については置いておくとして、まずはこの女に今の私と言うものを理解させておかなければ、互いに軋轢を生じるばかりだ。

しかしどうもこの女は、見た目と口調から想定する年齢とはかなりのずれがあり、外見よりも相当幼い様に思える。

語った内容が全て真実ならば、人としては生後二日の赤ん坊になるのだから、そう考えればかなり成長しているとも言えるが。

果たして私の説明が理解出来るのかも疑問であるが、これから何を聞き出すにしても、何としても理解させなければなるまい。

私は女へと、昨日の私と今の私は基本的には同一だが、しかし精神的には異なる存在なのだと、伝えてみた。

「…………?」

女は明らかに判っていない様子で、ひたすら小首を傾げつつ無言で微笑んでいた。

やはり理解出来ないのが明白になり、この点について理解させるのももう面倒になったので、短絡的だが私は昨日の記憶が無いのだと伝えると、ようやく納得した様で、頭の角度が水平に戻った。

ある意味大筋では間違いでもないとも言えるから、これでもまあ良いだろう。

それよりも昨日の私は、どうして蝶を人間へと変えたのかそれが気になり、女が折角思い出したのに、また忘れてしまう可能性もありそうだと危惧したのもあって、覚えている今のうちに昨日の出来事を聞いておく事にした。

黒い蝶の女は、今度は首を傾げる事も無くすぐに語り始めた。

「昨日、わたくしは、数日前から姿が見えなくなった愛するあの方の行方を、ずっと探しておりました。

あ、勿論相手は人ではないのですけど、これしか言い表す言葉を知らないので……

そんな時、確か太陽が真上にある頃に貴方様が現れて、わたくしの傍に近づいてから、お前の望みを叶えてやる、と仰いました。

ただしその代償として、蝶のままではそれは叶えられず、人間の姿にする必要があり、そうするともう死ぬまで元には戻る事は出来ないし、寿命も大幅に縮むとも言われましたが、わたくしはそれでも構わないと伝えました。

何故ならもうわたくしにとっては、今やあの方を見つける事だけが望みでしたので、それが叶うのであれば、自分はどうなってもいいと思っていたのです。

最後にあの方と逢った時もかなり弱っていましたから、恐らくもう何処かで死んでいると思っておりましたし、たとえまだ無事に生きていたとしても、これまでと同様にわたくしとあの方は決して結ばれる事も無く、言葉すら通じず、ただその姿を見て共にいる事しか出来ません。

あの方はわたくしとは違って、真っ白な美しい翅を持った、大きな蛾でしたから。

そしてこの後に願いを叶えて頂き、わたくしは人の姿へと変えられて、程なくあの方の亡骸を見つけました。

折角この様な人の姿を得たのもあって、共に多くの時を過ごした花園を見渡せる、先程わたくしが眠っていたあの木の根元に、あの方の亡骸をこの手で埋めたのです。

あの方を弔った後、貴方様はわたくしへと、残る寿命があと二日だと告げました。

そしてその後に、このトーラスの丘の出口は何処か、と尋ねられたのですが、わたくしにはこの丘がその様な名前だった事も知らず、またここで生まれて以来この丘から離れた事もありませんし、他所から何方かがやって来たのも、貴方様が初めてだったものですから、それは判りませんと答えました。

それを聞くと貴方様は、丁度吹き始めた突風の吹く方を見てから、どうやら解はカオスの谷の底にある様だ、と言い残して、風に飛ばされる様にこの丘から飛び去ってしまい、丘から外れて崖の下へと落ちて、消えてしまいました。

この後わたくしは、残る命が尽きるのを待って、昨日からずっと、あの人が眠る場所で休んでいたのです」

ここまで話した黒衣の女は、表情にもかなりの疲労が見えていて、元より寿命が近く体力が無い状況だと言うのは、信憑性がある様に見えた。

「貴き御方、わたくし、たくさん話をして少し疲れてしまいました。

それにそろそろ夜も近いので、休ませて頂きたいのですが」

これ以上無理をさせるのは不憫に思えて、その言葉に同意の意を表すと、女はかなり弱々しく頭を下げてから、来た時よりも更に時間を掛けて、元の潅木の根元へと戻ってそこに腰を下ろすと、最初に見た時と同じ様に幹に寄り掛かって、眠りについた。




黒い蝶の女が眠ってから暫くすると日は傾き、空は茜色に染まり、高原も夕陽に照らされて紅く染まっていく。

それに対して女は広い額に冷や汗を浮かべていて、顔色も先程よりも血の気が引き、只でさえ色白だった顔は蒼白に見えた。

大した距離ではないと思って歩かせたのは、若しや女にとっては致命的な行動だったのかも知れないと思い、少々軽率であったかと、苦しそうな表情で眠る女の姿を眺めつつ、私は後悔していた。

その時、女の説明にもあった、夕方の突風が何の前触れも無く吹き始めて、潅木の青葉や草花を激しく揺らし始めた。

この強い風は、どう言う仕組みなのかは判らないが、物理的な影響を受けないと信じていた私自身すら、吹き飛ばそうとして来る様で、私は急いで風下に位置する女の眠る場所へと避難する。

先程の話でも昨日現れた私と同様の存在が吹き飛ばされたかに説明していたが、きっとそれは女の勘違いだと思っていたので、この現象にはかなり驚いていた。

この点を踏まえると、私は霊体の様なものではなく、霧状の気体なのかも知れないと、ここで器に対する認識を改めた。

この突風は最初が最も強くて、時間が経過するに従って弱まりやがて日没と共に止み、その頃になると空は晴れて、満天の星が輝く月夜へと変わっていた。

私の視覚は暗闇を見通す力は無く、辺りは満月の月明かりで照らされているだけでかなり暗くはあったが、蝶の女の様子も落ち着いて眠りについているのが確認出来たのもあり、女が眠っている今のうちにこの丘を一周して確認する事にした。




この後私は、通常の肉体にある様な疲労や睡魔に襲われる事が無かったのもあり、一晩中この円形状の丘陵を彷徨っていた。

最初は湖岸に沿って右回りに回って、湖の様子を見ながら進んでみたが、月明かりだけでは暗過ぎるのもあり、魚一匹見かける事も無く、再び元の場所へと戻って来た。

次にこの丘陵では最も高い地点に当たる、崖と湖の丁度中間地点を左回りに回ってみても、やはり虫一匹すら見つけられずに一周してしまった。

これでもまだ夜明けは来ず、蝶の女の様子も変わらず静かに眠っていたので、本来は昼間に行くべきだと考えていた丘陵の外側に当たる崖沿いを辿り、谷の部分を確認しつつ右回りに進んでみた。

湖すら良く見えないのだから、月明かりでは薄暗くて到底谷の下は見渡せないだろうとは思っていたが、案の定ほぼ深淵の闇で満たされていて殆んど見えず、回った意味は全く無く完全な無駄足に終わった。

もうすぐ出発地点となる女の眠る潅木の付近まで近づいた頃になって、ようやく空が明るくなり夜が明け始めた。

そろそろ黒い蝶の女が、目を覚ます頃だろうかと思い、私は潅木へと戻った。




雲一つ無い空は、紺碧の暁闇から瑠璃の蒼穹へと徐々に変化し、それに伴って朝靄の掛かる草原もまたその色味を変えていく。

私が潅木の根元へと戻ると、丁度女は目を覚ますところだった。

明らかに物憂げで気怠い様子の女は、私の存在に気づいて体を起こそうとするが、それすらもかなり辛そうに見えたので、私はそのままでいる様に伝えた。

「お早う御座います、貴き御方、まだここに居られたのですね。

この様な姿勢で申し訳ありません、今日は体が怠くて、どうも動く気になれませんの。

無礼な態度を、どうかお許し下さい」

もう立ち上がる力も残っていないと言う事を察して、私は女へと了承した意思表示を返した。

「これは我儘なのですけど、出来れば今日もわたくしが眠るまで、傍に居て欲しいのですが、駄目、でしょうか……」

今までに見せなかった女の少し不安げな表情での要望に、今日眠るまでと言うその意図を察して私は同意すると、それを聞いて安堵したらしい女は、曇った表情から微笑へと戻り語り始めた。

「貴き御方、折角ですので、わたくしの話をお聞き下さい。

わたくしは昨晩、夢を見ました、生まれて始めて。

蝶であった頃には、夢なんて見た事はありませんでしたから、とても新鮮でした。

夢の中では、あの方もまだ生きていて、わたくしの姿もまだ黒い蝶で、あの方の白く輝く翅を追いかけて、この花園を飛んでいるのです。

わたくしは何も考えずに、あの方の後を追っているだけでしたが、それは何よりも幸せで満たされた時間でしたわ。

こうして人間の姿を与えられて、少しの間ですけど過ごしてみて、何となく思ったのですが、出来る事や覚えられる事が多くなっても、その分考える事や行う事が増えるだけで、あまり良くは感じませんでした。

寧ろ少ししか出来なくてもそれだけで生きている方が、ずっと幸せなんじゃないかと思うのですけど、人間は蝶よりも幸せなのですか?」

もうすぐ命が尽きると言うのに、この女はそんな事を考えていたのかと、少々驚きつつ、一介の蝶だからこその真理を突いた、単純で難解な哲学的な問いに、私はどう答えるべきか迷った。

うだうだと理屈を論じた所で女は理解出来ないだろう、ここで女が求めている答えは直感的な回答だ。

私は出来るだけ考えずに答えを感覚的に導き出して、それを黒衣の女へと告げた。

人間はその殆んどが不幸であり、お前の方が大半の人間よりも幸福だっただろうと、私は伝えたのだ。

幸福かどうかは、何かの絶対的な尺度や容量で決まるのではなく、当人が望んだ量に対してそれが満ちているか欠けているかで決まるとするならば、多くを望まないこの蝶の方が、あらゆる物を欲してより多くを持つ他者を妬む人間よりも、ずっと満ち足りていた筈だ、それが私の感じた答えだった。

「そうなのですか、なら、わたくしは、昔の事を夢として思い出して、幸せだと感じたのだから、きっと幸せだったのですね」

私の回答を聞いた黒衣の女は、薄く笑ってから、満足げにそう呟いていた。

この後に私は女へと、ずっと気になっていた、私の姿がどの様に見えているのかについて尋ねた。

女の姿は私から見ても女自身から見ても一致している様だが、私の姿は違っていて、少なくとも私には全く見えないのに、女には昨日と同じ姿の存在として見えているのは確実なのだ。

それを聞くと蝶の女は、私の方を見上げる様に顔を上げたのだが、熱に浮かされた様な潤んだ瞳を何度か瞬きしたかと思うと、視線を合わせる事無く目を伏せて俯いた。

「えぇと、何と言ったら良いのか判りませんが、わたくしには貴方様は、今のわたくしと同じ様な姿に見えておりました、確か。

だから、恐らく、人間の様な御姿をされていると、思いますわ。

それ以上の事は、今ではもう、申し上げるのは出来そうもありません」

そうか、人間の様な姿なのか、もっと具体的に知りたいが、今ではもうそれは出来ないと言う言葉が引っ掛かり、それはどう言う意味かとすぐに女へと問うた。

その問いに黒衣の女は、申し分けなさそうに小声で答えた。

「それは、もうわたくしの目に、貴方様の姿が映らなくなっているからですわ。

貴方様だけでは無く、花も、草も、木も、湖も、空も、今のわたくしには見えません。

今朝起きた時から、かなり霞んでいたのですけど、夢のお話をしている間に、殆んど見えなくなってしまいました。

それに、昨日の貴方様の事も、殆んど忘れてしまって、もう良く思い出せませんの。

まだ貴方様が蝶の姿をされていたのなら、もう少しは語る事が出来たかも知れませんが、人間の姿なんて、わたくし自身と貴方様の二度しか見ていませんから、違いも良く判らないのです。

ですので、貴方様の御姿の事を説明するのは、とても出来そうにありません……」

どんどん声量が下がり小さくなる声に、私は耳を澄ます様にしながら聞き取ると、死に行く黒衣の女からは、もうこれ以上何かを聞き出すのは無理だと悟った。

最期は静かに死なせてやるべきだろうと思い、もう私からは何も尋ねずに女の様子を見ていた。

かなり衰弱しているとは思うが、まだその時では無いと判断して、この間に自分の姿が湖面に映って見えないかを再度確認しに、湖へと向かった。




この頃太陽は高い山脈を越えて光り輝き、丘の上には燦々と強い光が降り注ぎ始めていた。

近場の湖の浅瀬まで辿り着いて、改めて自分の姿を見るべく真下を見たが、そこには揺れる湖面と透明な水と湖底が見えるだけだった。

やはり私には自分自身を見る力が無いのだろうか、それとも女に特別な力があって、それで私の見えない別の姿が見えているのか。

この疑問を確認したいと思ったが、もうそれを尋ねても、単に女を困らせるだけであろうと思い、この確認は諦めた。

こんな事なら、昨日のうちに確認しておけば、もっと女から色々と聞けたのかも知れないが、私の現状を理解させる必要があった点も考えると、やはりその余裕は無かったとも思える。

それとも夕方になった段階で、無理にでも問うていれば良かったのだろうか、そう無理強いして良い答えが聞けたのかは、過ぎ去った今となっては判り様も無い。

蝶であった黒衣の女は死に瀕していて、全てはもう終わろうとしている、これが今ある全てだった。

その様な埒の空かない事を、漣で揺れる水面を眺めつつ考えていると、微かな女の私を呼ぶ声が聞こえて、すぐに女の元へと戻った。




もうじき正午なのだろう、晴天の空に太陽は天高く昇り、今や天頂へと迫りつつあった。

黒い蝶の女は、今にも消え入りそうな声で、傍へと戻り思念で声を掛けた私へと語りかけた。

「貴き御方、今更ですけどわたくし、頂いた名を、思い出しました。

それは、宝石からとった名でしたわ。

わたくしの名は、“黒瑪瑙”です。

……これでもう、思い残す事は、ありません。

貴方様に最期を看取って頂いて、安心して愛するあの方の元へと、逝く事が出来ます。

独りで死んで行くのは、蝶なら当然なのですけど、人の姿を与えられた所為なのか、それがとても怖くて、心細く感じておりました。

ですが貴方様が、わたくしの我儘に応えて下さったお陰で、その不安も無くなりました、感謝致します。

わたくしをこの姿へと変えた、貴方様が傍に居て下されば、きっとまたあの方とも巡り会えると、信じておりますわ。

さようなら、貴き御方……」

“黒瑪瑙”と名乗った女はこう言い残すと、最後に微笑んでから目を閉じて、永久の眠りについた。

私はたった今看取った“黒瑪瑙”の亡骸を、何も考えずに暫く見つめていると、“黒瑪瑙”は今朝目覚めた姿勢のままであったが、次第に衣服も含めた体全体が光り始めたのに気づいた。

その光は昨日人間の女としての“黒瑪瑙”を見つける前に見た、黒い蝶の幻影が放っていたのと良く似た、漆黒の光だった。

漆黒の光はやがて、“黒瑪瑙”の全身を包み込み、煌めく鱗粉の様な無数の光の粒となって、綿毛の様に微風に舞い、この丘陵へと散っていった。

私はその様を振り向いて見届けてから、再び“黒瑪瑙”の居た場所を見ると、そこには先程の光と同じ色をした黒い蝶の死骸が落ちていた。

“黒瑪瑙”が説明していた通り、人間としての姿は、最初の存在が与えた生きている間の姿であり、死んでその効力は失われてしまい、本来の蝶へと戻ったのだろうか。

果たして最初に現れたのは何者だったのか、何故蝶の願いを叶えたのか、蝶は召喚者だったのか、これらの真相は結局判らず仕舞いになってしまったが、それは致し方ない結果だったと納得していた。

“黒瑪瑙”は私の事を『貴き御方』と呼んでいたが、それは彼女の最後の願いを叶えたからだろう。

だとするとその呼び名は最初に現れた存在にこそ相応しく、悪戯に寿命を削っただけの今の私では、その様に呼ばれる資格は無かったと感じた。

ここに私は、“黒瑪瑙”の体力の消耗を促がした代償に今際を看取るべく現れたのだとすると、私の存在は果たして有益だったのかと疑問を感じるが、彼女の最期の言葉が社交辞令ではなく本心である事を祈るばかりだ。

私の器では物理的な作用を起こす事が出来ず、蝶の死骸を埋める事は出来ないのでそのままにして、黒い蝶と白い蛾の墓標となった、太い潅木から離れた。

この後残された私は、昨晩は暗くて調べられなかった、崖の確認へと向かった。

“黒瑪瑙”の死骸から遠ざかる様に丘陵の縁へと向かい、勾配がきつくてそれ以上は下りられない間際まで進んでから、更にほぼ垂直にまで達している断崖を覗き込みつつ、崖に沿って左回りに進み始めた。

この時間帯は太陽の位置からして最も陽射しが差し込む筈なのだが、あまりに深過ぎて光は谷底までは照らしておらず、昼間であっても深淵は闇で閉ざされている。

最初の想像ではこの丘陵は半球状だと考えていたのだが、そうではなくて、上辺部分が半球状になっている、細長い円柱状なのが判った。

これ程細く高く局所的に大地の隆起が起こったのか、それとも巨大な山地がひたすら連続して円形状に削られて中心部のみが残ったのか、どちらにしても現実的な変化とは思えず、この丘陵の成形には何らかの超自然的な力の作用があったとしか考えられない。

その後私はかなり慎重に崖も谷も確認したが、崖には一切の動く気配も無く、谷底は常に暗闇であり続けていた。




太陽は、既に天頂からかなり傾き、空の色は僅かに赤みを帯び始めていた。

私は相当な時間を掛けたにも拘わらず、何も見つけられずに一周して、“黒瑪瑙”が伴侶の白い蛾と共に眠る、潅木の墓標が見える地点まで戻って来た。

結局、この丘の上には何も無かったし、谷間にも何も見えなかった。

最初の私は、この崖を落ちて行ったと、“黒瑪瑙”は話していたのを思い出す。

まだ湖底を確認してはいなかったが、私の体が風に影響を受けるとすると、気体と考えられる点から、水中への侵入は予測出来ない事態を引き起こすのではと危惧してしまい、それはどうも挑む気になれなかった。

しかしもう、他に確認出来る場所としては、其処以外には無いと思いつつ、谷底を眺めていた時、昨日の夕方に吹いていた突風が突如発生した。

気がつけば昨日と同時刻であり、この危険は十分予測出来た筈だったのだが、物思いに耽っていた私はそれに気づかずに不意を衝かれ、突風に因って体を僅かに崖へと押し出される形になった。

その結果私は、急な勾配に沿って転落を始めて、その回転と移動速度は加速度的に跳ね上がり、深淵の谷底を目指して落下して行く。

周囲は光が届かなくなってどんどん暗くなり、やがて深淵の闇に飲み込まれ、ただ暗闇の中を落下し続けているのを感じるまま落ち続けた末に、私は谷底へと墜落した。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ