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『誓約(ゲッシュ) 第一編』  作者: 津洲 珠手(zzzz)
第二十章 背反の双丘
93/100

第二十章 背反の双丘 其の一

変更履歴

2011/08/03 記述修正 尊き御方・尊い御方 → 貴き御方

2011/08/04 記述修正 羽 → 翅

2012/01/19 記述統一 一センチ、十メートル → 1cm、10m

2016/01/02 誤植修正 スカートのの → スカートの

2016/01/02 誤植修正 体系が → 体型が

2016/01/02 誤植修正 言っても良いか → 言っても良いが

2016/01/02 誤植修正 見に着けて → 身に着けて

2016/01/02 句読点調整

2016/01/02 記述修正 地上3m辺りより高くは → 最初に現れた高度より高くは

2016/01/02 記述修正 地上一メートル程度まで下がるのも可能であり、更にこの間の任意の高度で → 地面間近からそこまでの間であれば、任意の高度を維持しつつ

2016/01/02 記述修正 水平移動も可能なのが確認出来た → 水平移動も出来るのを確認した

2016/01/02 記述修正 一切の装飾も無く地味な漆髪色と同様の、漆黒のワンピースの形状の服を着ていた → 一切装飾の無い漆黒のワンピースの形状をした服を着ていた

2016/01/02 記述結合 慣れている様に見える。これはやはり → 慣れている様に見える、これはやはり

2016/01/02 記述修正 遭遇した相手なのだろうか → 遭遇した相手なのであろうか

2016/01/02 記述修正 長大で大層な名を与えたのだろうか → 長大で大層な名を与えたのか

2016/01/02 記述修正 この美しい景色を無心で眺めていた → この美しく幽玄な景色を眺めていた

2016/01/02 記述修正 召喚者らしき人間はおらず → それらしき者は居らず

2016/01/02 記述修正 それどころか植物以外の動く生物の姿 → 人間どころか植物以外の動く生物の姿を

2016/01/02 記述修正 只の虫一匹すら見つからない → 只の虫一匹すら見つけられない

2016/01/02 記述修正 ここに召喚者は居ないのではないかと → ここに当人は居ないのではないかと

2016/01/02 記述修正 湖の向かい側の草叢で → 湖の向かい側の草叢に

2016/01/02 記述修正 飛んでいたものの姿も → 飛翔しているものの姿も

2016/01/02 記述修正 鼻筋の通った鼻と → 鼻筋の通った鼻

2016/01/02 記述修正 この女の体型が華奢なのを強調しており → この女の華奢な体型を強調しており

2016/01/02 記述修正 引き立たせている様に見える → 引き立たせている様だ

2016/01/02 記述修正 今度は迷いも無くあっさりと語った → 今度は迷いも無くあっさりと答えた

2016/01/02 記述修正 私は謀られているのだろうか → 私は謀られているのか

2016/01/02 記述修正 妄想であろうと思えた → 妄想ではないかと感じた

2016/01/02 記述修正 念の為に背中に翅或いは → 念の為に背中に翅か或いは

2016/01/02 記述修正 良く判りませんけど → その真意が判りかねますが

2016/01/02 記述修正 己の姿を見た女は → 水鏡に映った己の姿を見た女は

2016/01/02 記述修正 たまにとても強い風が → 唐突に強い風が

2016/01/02 記述修正 可能性もあるかも知れないだろう → 可能性も有り得る

2016/01/02 記述修正 女は不満げな表情から変わって → 女は不満げな顔付きから変わって

2016/01/02 記述修正 肉体の感覚は一切無いので → 肉体の感覚が一切無いので

2016/01/02 記述修正 私はこの女の具体的な事は → 私はこの女について

2016/01/02 記述修正 一切装飾の無い → 全く装飾の無い

2016/01/02 記述修正 危ぶんでもいたのだが → 若干危ぶんでいたのだが

2016/01/02 記述修正 何かが飛んでいるのが → 何かが動いているのが

2016/01/02 記述修正 湖の中心でもあるこの丘陵の中心部を → この丘陵の中央でもある湖の中心を

2016/01/02 記述修正 飛翔しているものの姿も → 動くものの姿も

2016/01/02 記述修正 てっきり四つん這いで向かうのかと → 蝶だと自称しているのだから、てっきり四つん這いで歩くのかと

2016/01/02 記述修正 人間らしく立って歩いていた → 人間らしく二本足で立って歩いていた

2016/01/02 記述修正 私としては次の展開へと → 私としてはそろそろ次の展開へと

2016/01/02 記述分割 首を傾げていたが、私の方を見ると → 首を傾げていた。私の方を見ると

2016/01/02 記述修正 ずっと手を見ながら → じっと手を見ながら頻りと

2016/01/02 記述修正 私の方を見ると → やがて女は顔を上げて私の方を見ると、

2016/01/02 記述修正 私と女の視界には齟齬は無いのが証明される筈だ → 私と女の視界は同一である事が実証される筈だ

2016/01/02 記述修正 名前ではありませんでしたわ → 名ではなかった筈

2016/01/02 記述修正 他の事まではもう忘れてしまい → 他の事はもう殆んど忘れてしまって

2016/01/02 記述修正 はっきりとは思い出せません → はっきりとは判りません

2016/01/02 記述修正 歩行する必要があるなら → 大地を歩く必要があるなら

2016/01/02 記述修正 右回りか左回りで近づく必要があるが → 右回りか左回りの何れかで遠回りし向かわなければならないが

2016/01/02 記述修正 湖を横断出来るのではないだろうか → 湖を渡れるのではないだろうか

2016/01/02 記述修正 浮かない印象の表情のままであった → 浮かない表情のままであった

2016/01/02 記述修正 顔の印象からは → その面差しからは

2016/01/02 記述修正 話す口調からは最初の印象と違わず → 話す口調こそ最初の印象と違わず

2016/01/02 記述修正 語っている内容からは → 語っている内容としては

2016/01/02 記述修正 この後に糧に関しても → この後糧に関して

2016/01/02 記述修正 これまでにない事が起きているのが判明した → 未だ嘗て無い事が起きているのに気づいた

2016/01/02 記述修正 段々と勾配がきつくなり → 段々と傾斜がきつくなり

2016/01/02 記述修正 潅木が生えている、そんな場所だった → 潅木が生えている

2016/01/02 記述修正 次に私が現れた場所は → 次に私が現れたのは

2016/01/02 記述修正 壮観な風景が広がっていた → 壮観な風景が広がっている場所であった

2016/01/02 記述修正 真っ白い大きな羊雲が複数浮かぶ → 真っ白い雲が浮かんでいる

2016/01/02 記述修正 実に牧歌的で → この地は実に牧歌的で

2016/01/02 記述分割 小さな悲鳴を上げてから、長い髪が → 短く小さな悲鳴を上げてから感想を呟いていた。長い髪が

2016/01/02 記述追加 「これが、わたくしの姿~

2016/01/02 記述修正 長い髪が湖に浸かるのも気にせずに → 暫らくの間、長い髪が湖に浸かるのも気にせずに

2016/01/02 記述結合 湖面を覗き込んでいた。この後、黒い蝶と名乗っていた女は → 湖面を覗き込んでいた、黒い蝶と名乗っていた女は

2016/01/02 記述修正 私の望んでいた言葉を口にした → 進展に繋がりそうな私の望む言葉を口にした

2016/01/02 記述修正 座っている時から → 最初にその姿を見た時から

2016/01/02 記述修正 歩いて湖面まで向かう様に → 歩いて湖面まで行く様に

2016/01/02 記述修正 でも、折角名付けて頂いたのに、申し訳ありません → でも、申し訳ありません

2016/01/02 記述修正 実はわたくしも → 実はわたくしもその名を

2016/01/02 記述修正 わたくしの名は貴方様より頂いたのに → わたくしの名は、貴方様が名付けて下さったものなのに

2016/01/02 記述修正 湖上を人間が歩行する程度の速度で浮遊しつつ → こうして私は湖の上を人間が歩行する程度の速度で浮遊しながら

2016/01/02 記述修正 縦断する方向で近づいて行く → 縦断する方向へと移動し始めた

2016/01/02 記述修正 この丘陵の外周の崖を → 外周部分を

2016/01/02 記述修正 どうやらこの高原は、起伏をした頂上部分が窪み、 → 起伏をした頂上部分が窪んでいる点から推測するに、この湖は

2016/01/02 記述修正 雨水でも溜まった湖になっている様で → 水が溜まって出来た火口湖らしく

2016/01/02 記述修正 この丘から繋がっている大地は何処にも見当たらず → 湖を囲む大地と他の起伏に連なる箇所が見当たらない所を見ると

2016/01/02 記述修正 どうやら陸の孤島になっている様だ → どうやらここはこの周辺一帯の中では最も標高の高い場所なのだろう

2016/01/02 記述修正 湖面に漣を作っている → 湖面に漣を作っていた

2016/01/02 記述修正 くろい何とかと言っていたが → 女は『くろい何とか』と言っていたが

2016/01/02 記述修正 私へと口頭で返答を返した → 私へと口頭で返答した

2016/01/02 記述修正 潅木の葉を揺らし → 潅木の枝葉を揺らし

2016/01/02 記述修正 一枚の落ち葉が → 一枚の葉が

2016/01/02 記述修正 はっきりと確認が出来ないが → はっきりと確認出来ないが

2016/01/02 記述修正 どの様にして近づくかについて考え始めた → どの様に近づくかについて検討を始めた

2016/01/02 記述修正 しかし鮮明な視界と → しかし鮮明な視野と

2016/01/02 記述修正 黒い蝶、だろうか → “黒い蝶”だろうか

2016/01/02 記述修正 恐ろしく澄んでいて → 恐ろしく澄んでいるものの

2016/01/02 記述修正 水深は10m以上はあり → その透明度を越える水深らしく

2016/01/02 記述修正 流石に湖底までは確認する事が → 湖面からでは湖底を確認する事が

2016/01/02 記述修正 糧の流れを全く感じない → それは、糧の流れを全く感じない

2016/01/02 記述修正 前後左右上下を見ても → 周囲のどの方向を見ても

2016/01/02 記述修正 見失わない様に目で追いながら → 見失わない様に視野に捉えながら

2016/01/02 記述修正 壮観な風景が広がっている → 幻想的な風景が広がっている


次に私が現れたのは、前回とはまた打って変わって、幻想的な風景が広がっている場所であった。

そこは天を突く様な高い山脈に周囲を取り囲まれた高原の丘陵地帯で、大地は青々と茂る草と、色取り取りの大小鮮やかな無数の花々で埋め尽くされており、そこに点々と潅木が生えている。

丘陵の中央には、対岸が見える程度の距離しか離れていない小さな湖があり、吹き抜ける風が湖面に漣を作っていた。

丘陵の外側へと目を向けると、なだらかな斜面は段々と傾斜がきつくなり、最後は私の視点から見える角度以上の急勾配にまで達して見切れてしまい、その先の地形は確認する事が出来ない。

半球状の起伏をした頂上部分が窪んでいる点から推測するに、この湖は水が溜まって出来た火口湖らしく、湖を囲む大地と他の起伏に連なる箇所が見当たらない所を見ると、どうやらここはこの周辺一帯の中では最も標高の高い場所なのだろう。

空を見上げると、青く澄んだ大空に真っ白い雲が浮かんでいる晴天であり、この地は実に牧歌的で長閑な情景だと感じる。

前回の召喚があの様な最期を迎えたのもあって、私は何も考えずにこの美しく幽玄な景色を眺めていた。

暫くそんな安堵感を満喫していたが、そろそろ現実に戻るべく、まずは実に久し振りな実感の無い己の器について、確認を開始した。

私の視界は地上3m程度の高さだが、周囲のどの方向を見ても自分の肉体が視界に入らず、どうやら実体を持たない器らしい。

しかし鮮明な視野と、風の音や花の微かな甘い芳香も感知出来ている点からして、触覚と味覚は判らないが、視覚・聴覚・嗅覚については機能していて、更に通常の人間よりも能力は高いのではないかと感じた。

移動に関しても、最初に現れた高度より高くは上がれないものの、地面間近からそこまでの間であれば、任意の高度を維持しつつ水平移動も出来るのを確認した。

地表に沿って高度が定まっている様なので、浮遊出来てもこの丘陵の端へと進んでいけば、急勾配の崖から転落する確率が高そうだと感じて、外周部分を確認するのは最後にすべきかと判断した。

器の五感と移動に関する能力については、これだけ判れば十分だろう。

次に私は、先程から全く見当たらない、召喚者たる人間を探し始めた。

しかしどれだけ周りを見てもそれらしき者は居らず、人間どころか植物以外の動く生物の姿を、只の虫一匹すら見つけられない。

この場所には豊かな自然だけで、人工的な物体が何一つ無いのも、前人未踏の地である証明ではないかと思えてならず、ここに当人は居ないのではないかと感じた。

この後糧に関して確認を行うと、未だ嘗て無い事が起きているのに気づいた。

それは、糧の流れを全く感じない、つまり今現在、私へと糧が供給されていないのである。

糧の供給が全く無い状態で、私が存続出来た実績のある場所は、“嘶くロバ”と共に居た闇の世界のみだ。

一見すると真逆の様に見えるが、ここもあの場所と同様の世界なのだろうかと、改めて周囲を見渡した時に、湖の向かい側の草叢に風以外で何かが動いた様な気配を感じて、即座にそちらへと視線を移す。

この遠距離でははっきりと確認出来ないが、何かが飛んでいる様に見えており、私はこの地で見つけた最初の存在を確認すべく、その場所へとどの様に近づくかについて検討を始めた。

大地を歩く必要があるなら湖を迂回して、右回りか左回りの何れかで遠回りし向かわなければならないが、今の姿は常に浮遊しているのだから、最短距離で湖を渡れるのではないだろうか。

出来るなら見失う可能性の高い迂回はしたくないのもあり、私は湖岸へと近づき浅瀬に進んでみると、地表と同じ様に水面からの高度を保って浮遊する事が出来るのが判った。

これなら湖を渡り最短距離で対岸へと向かえるし、それに湖の中の様子も真上から確認出来る。

地上には生物らしきものは、先程見かけたものしか見当たらないが、湖中や湖底には何か別の生物が居ないとも限らないし、何らかの手がかりが見つかるかも知れない。

そう判断すると、私は早速湖の縦断を開始した。




先程まで吹いていた風は止みつつあり、水面は漣が凪ぎ始めていた。

私が湖上を移動しても湖面は全く乱れる事も無く、やはりこれは実体を持たない器であろうと確信する。

こうして私は湖の上を人間が歩行する程度の速度で浮遊しながら、湖の中心部を縦断する方向へと移動し始めた。

動いているものを見失わない様に目で追いながら、湖中へも目を向けて、何か目新しいものが見つからないかと確認しつつ進んだ。

湖の水は恐ろしく澄んでいるものの、その透明度を越える水深らしく、湖面からでは湖底を確認する事が出来ない。

そして判ったのは、この澄み切った湖には何の生物も棲んでいないと言う事だった。

湖面からでは見えていない湖底には、何かがある可能性も未だ残ってはいるが、今はそれを探るよりも対岸の確認が先だ。

私は視線を真下から再び前方へと切り替えつつ進み続けた。

この丘陵の中央でもある湖の中心を越えた辺りまで進むと、動くものの姿ももう少し鮮明に見え始めた。

若しかしたら何かの見間違いかも知れないと若干危ぶんでいたのだが、やはり明らかに何かが動いているのが見えていて、あのひらひらとした飛び方からして蝶であろうかと思える。

その蝶の姿はこの楽園には相応しくない真っ黒であるのに、太陽光の所為か鱗粉が光を反射し輝いて見えて、まるで黒い光そのもので構成されているかに見える、漆黒の蝶だった。

私は黒く輝く翅を持つ蝶の姿を、見失わない様に視野に捉えながら、湖を渡りきって向こう岸へと到達した。




対岸に上陸して慎重に近づくと、漆黒の蝶は接近しつつある私から隠れるかの様に、蝶特有の頼りない飛び方で以って、この丘陵では比較的大きな、ずんぐりとした潅木へと向かって飛翔する。

この場所には相応しい生物ではあるが、召喚者としての可能性は限り無く低そうに思いつつも、他に目につく生物も居ないのもあって、私はその姿を追いかけた。

やがて黒く煌く蝶は、私が追いつくよりも先に木陰へと回りこんでしまい、その輝く姿は見えなくなった。

その後に潅木の所まで辿り着くと、私は蝶が隠れた筈の潅木の裏側を覗き込んだ。

そこには、つい先程まで追いかけて来た漆黒の蝶の姿は無く、その代わりにあの黒い蝶が転生したと言わんばかりの、黒髪に黒い着衣を纏った若い女が、幹に寄り掛かる様にして眠っていた。

私は起こす前に、まず無防備に眠っているこの女を観察する事にした。

女は透き通る様な白い肌に、漆黒の長く真っ直ぐな髪をしていて、中央で分けられた長い前髪は、広い額を避ける様にこめかみ辺りから顔の脇へと流されていた。

小さな顔と比べて閉じられていても判る大きな目や、鼻筋の通った鼻、それに合わせた様な薄く小さな唇と、それらの部位が程よく納まる端正な細面で、その顔は幼くも妙齢にも見える、見れば見る程に年齢不詳な顔立ちをしていた。

素肌は露出の少ない衣服で覆われていてあまり見えておらず、首から上以外では手首まである袖の先から見える細い手首や手と、スカートの裾から見える細い足首から下の小さい裸足の足だけが、顔と同様の白い肌を見せている。

今は微かな寝息と共に、細身の体と調和する膨らみの胸が、僅かに上下しているのが判る。

その美しいと思える無防備な寝顔を目にした時、今までに無い感情を感じた気がしたが、気の所為だったのかそれは一瞬で消えてしまい、私は改めて女を眺めていた。

貴金属や宝石等の装飾品は一切身に着けておらず、全く装飾の無い漆黒のワンピースの形状をした服を着ていた。

漆黒の着衣は、腕の袖やスカートの広がっている裾とは対照的に、肩から二の腕に掛けての袖や腰回りは体と同じ程度まで絞られて、この女の華奢な体型を強調しており、レースやフリルと言った装飾が一切無く、デザインとしては非常に地味に見えるものの、それが逆に素材が持つ漆黒の光沢を引き立たせている様だ。

それにしてもこの服は、まるでこの女の髪から作られた糸で編まれたかの様に、色といい艶といい、そっくりに見える。

そんな事を思いつつ女を眺めていると、一陣の風が潅木の枝葉を揺らし、一枚の葉が回りながら落ちて、女の鼻先を掠めた。

それを契機に、黒衣の女は小さく身動ぎしてゆっくりと目を開き、寄り掛かっていた体を起こすと、髪と同じ漆黒の色合いをした切れ長の瞳を私へと据えてから語り出した。

「まあ、こんなに早く、またいらして頂けるなんて、思っておりませんでしたわ、わたくしの貴き御方」

それ程大きくない、若干囁く様な声色でそう言い終えると、女はこちらへと見上げながら知的な印象を受ける微笑みを浮かべた。




私は黒衣の女に対する応対について、どうすべきかを考えていた。

この女は私自身では見えていない私の姿を見て、更に私を知っている風に語っているが、私はこの女について何も知らないし、嘗て知っていたとしても今は何一つ思い出せない。

過去にもあったパターンで、未来の召喚でこの女の過去に関わりがあり、その記憶で私へと話し掛けていると考えるのが自然なのだが、糧の流入が無いのが引っ掛かる。

女の態度からは悪意は感じられず、その口調からしても敵意は無さそうに思える事から、とりあえず対話に応じて、まずはこちらからの問い掛けが可能かどうかの確認を行う事にした。

その対話の手段としては、私には肉体の感覚が一切無いので、発声を行うのは認識的に出来ないと考え、思念で以って女へと名前を問い掛けた。

すると女は、柳眉を寄せて少し不満げな表情をしてから、私へと口頭で返答した。

「わたくしの名は、貴方様が名付けて下さったものなのに、もう忘れてしまわれたのですか?

でも、申し訳ありません、実はわたくしもその名を忘れてしまったから、ちゃんとお答えする事が出来ないのです。

わたくしには貴方様の事を覚えておくだけで精一杯で、他の事はもう殆んど忘れてしまって、はっきりとは判りません。

確か、くろい何とかだった様な気がしますけど、それ以上は思い出せませんの」

女は不満げな顔付きから変わって、僅かに表情を曇らせて謝罪しつつ説明していた。

その面差しからは特にその瞳の所為か怜悧な印象を受けたのだが、話す口調こそ最初の印象と違わず知的さを感じるものの、語っている内容としてはその容姿にそぐわぬ、かなり間が抜けた回答に聞こえる。

とりあえず思念での意思の伝達は普通にこなしているし、この対応にも慣れている様に見える、これはやはり未来の私が遭遇した相手なのであろうか。

それにしても、与えられた名前を覚えていないと言うのは、どう言う事なのだろう、未来の私はそんなに長大で大層な名を与えたのか。

女は『くろい何とか』と言っていたが、それを聞いてすぐに連想したのは、女を見つける前までにここで見かけた、漆黒の蝶だ。

かなり安直ではあるが、“黒い蝶”だろうか。

この名前が長いとはとても思えないが、命名した一部でも合致しているかも知れないし、キーワードとして何かを思い出させる可能性も有り得る。

これを一応女へと尋ねてみると、相変わらずの浮かない表情のままであった。

「確かにわたくしは黒い蝶ですが、その様な名ではなかった筈。

何か、もっと、別の物に例えた名だった様な、気が致しますの……」

自分の名について物思いに沈む女を眺めながら、今の会話に引っ掛かるものを感じて考えると、この女は自分の事を黒い蝶だと明言していたのに気づいた。

これはつまり、本当に先程まで飛んでいたあの蝶だと言う意味なのか。

だとしたらこの女は、蝶に変身する能力でもある存在となるのだが、それはいわゆる魔術師の類だと言うのだろうか。

名前よりもそれが気に掛かり、私は女へと先程まで蝶として飛んでいたのかと尋ねると、黒衣の女は私からの問いに、今度は迷いも無くあっさりと答えた。

「いいえ、今日は飛んでいませんわ、ずっとこの木陰で眠っていましたから。

この時間ではまだ陽射しが強いので、もう少し陽が傾いてからの方が、わたくしは好きなのですよ。

でも最近は夕方になると、唐突に強い風が吹いて来るのです。

その風はとても強いので、飛ばされそうになるから、ちょっと怖いのですけどね。

でも大体吹く時間が決まっているから、その時を避ければ平気ですの。

あぁ、話がずれてしまいましたね、わたくしは変身なんて出来やしません、御覧の通りの只の黒い蝶ですわ」

黒衣の女は、まるで自分が一介の虫けらに過ぎないかの様に、意図が読めない回答をして来た。

私は謀られているのか、それとも私の認識している視界が正しくなくて、見ている姿が実体とは異なっており、私の肉体も存在していて、この女も本当は只の黒い蝶なのだろうか。

平然と屈託の無い微笑で告げた女を見下ろしつつ、私は暫く困惑していたのだが、確認の為に女へと自分の手を見る様に伝えて、何に見えるかを尋ねてみる事にした。

これで前脚と答えたのなら、私と女の視界には齟齬があるのが証明されるし、人の手と認識すれば私と女の視界は同一である事が実証される筈だ。

「わたくしの手、ですか?

そんな判りきっている事をどうして尋ねられるのか、その真意が判りかねますが、それを答えよと仰るのであれば。

見るまでもない事でしょう、この通りわたくしの手は、えぇと、あら?」

自分の両手を眺めた自称蝶の女は、己の手を見て小首を傾げたまま、固まっていた。

どうやら今まで自分の体が何であるかすら、判っていなかったらしい、この女は単に正気を保っていない人間ではないのかとも疑念を覚える。

だがもう少し観察すべきだろうと思い直して、次の確認事項の問いを考える。

しかしこれで視界の齟齬については、私の視界に異常はないと判り、私と女の視界に関する疑問は解決したと言っても良いが、残る疑問である私の姿に関しては、もう少し問い質せばはっきりするだろうか。

私としてはそろそろ次の展開へと進みたいのだが、どうも未だ女は自分の姿に納得していない様子で、じっと手を見ながら頻りと首を傾げていた。

やがて女は顔を上げて私の方を見ると、またも予期せぬ質問をし始めた。

「貴き御方、どうしてわたくしの前脚はこの様な形なのでしょう?」

自覚出来ないでいる蝶であった女へと、説明するよりもその目で確認させた方が効果的であろうと思い、私は湖面に映る自分の姿を見る様に伝えた。

その指示に頷いて答えた黒衣の女は、ゆっくりと手で幹を掴んで立ち上がり、そして湖の方を見たが、何故か動こうとしない。

暫くそのままの姿勢で自分の体を見ていたが、やがて幹に捕まっていない方の手で、自分の背中へと手を回していた。

次に言い出す言葉が推測出来た、きっと翅が無いと言い出すに違いない。

「あのう、貴き御方、わたくしの翅は……」

予想通りの展開だったので、女が言い終えるよりも早く、歩いて湖面まで行く様に指示を出すと、女はとりあえず指示に従い湖へと向かい始めた。

蝶だと自称しているのだから、てっきり四つん這いで歩くのかと思っていたのだが、人間らしく二本足で立って歩いていた。

そもそも、これまでの動作に於いても、口ではああ言っているが蝶たる仕草は一つもしていない点からして、蝶だったと言うのは妄想ではないかと感じた。

その足取りは、歩き慣れていないか、それとも疲弊しているかの様な、とても覚束無い様子で、数歩進むとすぐにしゃがみ込んで、また立ち上がるのを繰り返していた。

最初にその姿を見た時から長い髪だとは思っていたが、立ち上がるとその先端はスカートの裾よりは高い位置で、もう少しで地面につきそうな長さなのが判った。

念の為に背中に翅か或いは、翅のあった痕跡が無いかを確認したかったが、豊かな髪が覆い被さっていて、背中は全く見えなかった。

大した距離でもないのだがかなり時間を掛けて、それに相当に体力を消耗した様子ではあったが、無事に女は湖畔へと辿り着いた。

そして少し休んでから水鏡に映った己の姿を見た女は、短く小さな悲鳴を上げてから感想を呟いていた。

「これが、わたくしの姿、なのですか……」

暫らくの間、長い髪が湖に浸かるのも気にせずにまじまじと湖面を覗き込んでいた、黒い蝶と名乗っていた女は、こちらを振り返ってから、進展に繋がりそうな私の望む言葉を口にした。

「貴き御方、わたくし、今まで忘れていた事を、昨日の出来事なのですけど、それをたった今思い出しましたわ」

黒衣の女は近くの石の上に腰掛けると、再び私を見上げて話を始めた。





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