第十九章 電脳の天使 其の八
変更履歴
2012/01/06 小題修正 電脳の女神 → 電脳の天使
2012/01/17 記述修正 収まらず → 治まらず
2012/01/18 誤植修正 例え → たとえ
2012/01/18 誤植修正 乗せて、乗っていた → 載せて、載っていた
2012/01/18 誤植修正 脈が早いのが判った → 脈が速いのが判った
2012/01/18 誤植修正 来たして → 来して
2012/08/16 誤植修正 膝間づいて → 跪いて
2012/08/16 誤植修正 青年の頭を右手で背中を擦りつつ → 青年の背中を右手で擦りつつ
2012/08/16 誤植修正 出血死 → 失血死
2012/08/16 誤植修正 込み上げるて来る → 込み上げて来る
2012/08/16 誤植修正 抱き締めて返して → 抱き締め返して
2012/08/16 誤植修正 器の維持する糧も → 器を維持する糧も
2012/08/16 句読点調整
2012/08/16 伝言部分レイアウト調整
2012/08/16 記述修正 かなり灯油臭も強まっていて → かなり揮発も進んでいるらしく
2012/08/16 記述修正 灯油臭とは別の → 灯油の発する臭いとは別の
2012/08/16 記述修正 この部屋を出る時と同じ机の前に、 → 机の前に
2012/08/16 記述修正 青年の最後の見栄であり → 青年の最後の虚勢であり
2012/08/16 記述修正 置物はラックの鉄柱に当たって砕けたが → 陶器で出来ていたらしい置物はラックの鉄柱に当たって砕け散ったが
2012/08/16 記述修正 怒りに任せた短絡的な行為を若干後悔した → 怒りに任せた短絡的な行為を若干後悔する羽目になった
2012/08/16 記述結合 火種を運ぶかについて考えた。手も足も無くなっていく → 火種を運ぶかについて考えたのだが、手も足も無くなっていく
2012/08/16 記述修正 もうごく一部だけでぶらぶらとぶら下がっているだけになっていた → 全く力も入らず只ぶら下がっているだけになっていた
2012/08/16 記述修正 ライターで灯油の染みているベッドに → ライターを使って灯油の染みているベッドに
2012/08/16 記述修正 引火して炎が広がって行き → 引火して炎が広がり
2012/08/16 記述修正 雑然としながらも整理されていた → すると、先程までは雑然としながらも整理されていた
2012/08/16 記述修正 周囲に散乱していた。机の上のディスプレイも → 周囲に散乱しており、机の上にあったディスプレイも
2012/08/16 記述修正 その背中に猫の左手をかけて → その背中に猫の左手を置いて
2012/08/16 記述修正 それは酷い有様になっていた → 途轍もなく酷い有様だった
2012/08/16 記述修正 私の中にあった感情が → 突如として私に芽生えた感情が
2012/08/16 記述修正 私の器を無意識に動かした → この器を反射的に動かした
2012/08/16 記述修正 青年の意思を叶える方法を → 青年の願望を叶える方法を
2012/08/16 記述修正 何度もの取捨選択の末に導き出せる答えは → どれだけ多くの可能性を考慮しても選択可能な答えは
2012/08/16 記述修正 どう考えても一つしか思いつかなかった → 一つしか思いつかなかった
2012/08/16 記述修正 頭を私の胸から離してから → 頭を私の胸から離すと
2012/08/16 記述修正 私の方を見上げた → 私の顔を見上げた
2012/08/16 記述修正 真っ赤な鮮血が勢い良く → その切り口から真っ赤な鮮血が勢い良く
2012/08/16 記述修正 私は青年の腕の力が無くなるまで → 私は彼の腕の力が無くなるまで
2012/08/16 記述修正 心が脆弱で哀れな召喚者であった → これまでで最も心が脆弱で意気地もない召喚者であった
2012/08/16 記述修正 青年の体を抱き留めていた → 哀れな青年の体を抱き締めていた
2012/08/16 記述修正 それを持ち上げるのは → それらを持ち上げるのは
2012/08/16 記述修正 それは諦めていた → 試すまでもなく諦めていた
2012/08/16 記述修正 しかしこの場所では → 更にこの場所では
2012/08/16 記述修正 効果が無い筈なのに → 効果が無い筈だが
2012/08/16 記述修正 『泣き虫』の設定が反映されたのか → やはり『泣き虫』の設定が反映されたのか
2012/08/16 記述修正 この青年の死に顔には → この青年の死に顔からは
2012/08/16 記述修正 煙の黒に覆われた場所に変わっており → 黒煙に覆われた場所に変わっており
2012/08/16 記述修正 妹の部屋からは → 既にドアが燃え尽きたらしい妹の部屋からは
2012/08/16 記述修正 もう崩れ落ちてなくなり → もう崩れ落ちて無くなり
2012/08/16 記述修正 色褪せて朽ちていく → 色褪せ朽ちていく
2012/08/16 記述修正 崩れて砕けて行くが → 下から崩れて砕けて行くが
2012/08/16 記述修正 四肢も進む度に先端から砕けて崩れて → 残る四肢も進む度に先端から砕けて崩れ
2012/08/16 記述修正 耳も焼け落ちて → 耳も焼け落ちて何も聞こえず
2012/08/16 記述修正 もう呼吸すら出来なかったが → 鼻と口は焼け崩れてもう呼吸すら出来なかったが
2012/08/16 記述修正 必死で青年の場所まで辿り着こうと進み続ける → 青年の場所まで辿り着こうと必死で進み続けた
2012/08/16 記述修正 足ももう同じ様な → きっと足も同じ様な
2012/08/16 記述修正 家族が蘇る訳でもないし → 家族が蘇る訳でもなく
2012/08/16 記述修正 力を使える可能性は → そんな奇跡を起こせる可能性は
2012/08/16 記述修正 それだけの猶予は無い様だ → それだけの猶予は残されていなかった
2012/08/16 記述修正 刃の長さが短過ぎて → 残っている刃の長さが短過ぎて
2012/08/16 記述修正 もう使い物にはならない → もう使い物にならない
2012/08/16 記述修正 体を近づけると → 体を寄せると
2012/08/16 記述修正 両手で彼を胸元に抱き締めた → 両手で彼を胸元に抱き寄せた
2012/08/16 記述修正 混乱を来して暴れていたのだろう → 混乱を来し暴れ出した
2012/08/16 記述修正 腰へと滑り落ちるのが判り、青年は息絶えた → 下へと滑り落ちるのを感じて、青年が力尽きたのが判った
2012/08/16 記述修正 失血死をしようと考えていたらしいのが判った → 失血死を目論んでいたらしいのが判った
2012/08/16 記述修正 真っ黒なマネキンにしか見えなくなっていた、妹の遺体も載っていた → 既に真っ黒なマネキンにしか見えない妹の遺体もあった
2012/08/16 記述修正 どんどん入ってくるのが見える → 更にどんどん入ってくるのが見えた
2012/08/16 記述修正 しっかりと抱き付かれているので → きつく抱き付かれているので
2012/08/16 記述修正 私の背中へと腕を回して → 背中へと腕を回し
2012/08/16 記述修正 しっかりとしがみ付いて来た → 強くしがみ付いて来た
2012/08/16 記述修正 こちらはそのままの姿で → こちらは姿が見える状態で
2012/08/16 記述修正 妹の部屋を飛び出して → 妹の部屋を飛び出し
2012/08/16 記述修正 私は覚悟を決めて、妹の部屋へと進んだ → 私は意を決して妹の部屋へと踏み込んだ
2012/08/16 記述修正 出て来るのだろうと思ってはいた → 出て来るのだろうと思っていた
2012/08/16 記述修正 見たくも無かった → 見たくもなかった
2012/08/16 記述修正 青年に感じていたのは → 青年に感じていた感情は
2012/08/16 記述修正 これらの設定値ではなく → 様々な設定値ではなく
2012/08/16 記述修正 部屋のドアは良く見えない程に → 部屋のドアすら良く見えない程に
2012/08/16 記述修正 すっかりディープキスに夢中になっている青年に → すっかり夢中になって恍惚としている青年に
2012/08/16 記述修正 私の体から離されたままに → 離されたままに
2012/08/16 記述修正 その動作に応じて → この動作に応じて
2012/08/16 記述修正 私は青年の様子を → 青年の様子を
2012/08/16 記述修正 妹の部屋から出た時、青年の部屋から → 妹の部屋から出た途端、青年の部屋の方から
2012/08/16 記述修正 引火して炎が広がり → 引火して燃え広がり
2012/08/16 記述修正 背中に回していた両手を → 背中に回していた両手を撫でる様に軽く触れつつ、
2012/08/16 記述修正 再び背中に両腕を回して → もう一度背中に両腕を回して
2012/08/16 記述修正 そうでは無く私の手で → そうではなく私の手で
2012/08/16 記述修正 窒息死するのではないかとも → 窒息死するのではないかと
一階の寝室は、灯油を撒いてからそれなりに時間が経過している所為か、かなり揮発も進んでいるらしく息苦しさを感じる程だった。
ここで火を点けたら、若しかして爆発しやしないかと心配な気もするが、それはそれで一つの終わりなのかも知れないとも思えて、意を決してライターを使って布団に火を点けた。
その途端、いきなりの大爆発が起こる事も無く、あまり色の無い炎は意外とゆっくりと燃え広がっていき、やがて布団全体に炎が行き渡った。
色の薄い炎からは濃い黒煙が上がっていて、窓を全て閉め切っているのもあり、黒煙から発する悪臭が漂い始め、視界はすぐに煙で霞み始めた。
その後垂れて畳に浸み込んでいた灯油を伝って、隣の布団にも火が回り始めたのを確認してから、両親の最後の姿を見る事無く私は寝室を後にした。
廊下に出ると玄関を通り過ぎて階段を上がり、今度は妹の部屋へと向かう。
黒煙は廊下を伝って二階へと上がっており、時間が立つ毎に煙の濃度は濃くなるだろうから、これでは青年は何もしなくとも窒息死するのではないかと気になりながら、妹の部屋のドアのノブへと手を掛ける。
ドアを開けて妹の部屋へと入ると、当然の事ながら先程と変わらない状態で、半裸の妹の死体がベッドの上に転がっていた。
私は自分の前身を焼く事になるのだろうかと思いつつ、責めてもの弔いで、見開いていた瞼を閉じさせようとしたのだが、既に死後硬直も終わりすっかり固まっていて、どうにも瞼が動かなかったので諦めた。
先程の両親の時は、あの布団の下に遺体があるのは判っていても、布団が掛けられた状態であったから、あまり躊躇せずに実行出来たのだが、こちらは姿が見える状態で転がっているので、いざ実行となると少し尻込みしてしまう。
だがそんな事を言っている暇は無く、この器の時間的な限界もあり、それ程悠長にはして居られない。
私は覚悟を決めて、ライターを使って灯油の染みているベッドに火を近づけると、引火して燃え広がり亡き妹の骸が炎に包まれるのを確認する。
灯油の発する臭いとは別の髪の焼ける悪臭と共に、髪は縮れて皮膚は煤で黒ずみ、無残な姿は更に酷い状態へと変化して行く。
彼女は私の身代わりであった事や、この無残に焼かれる姿はあの青年のごく近い未来でもあると思うと、とても悲しく思えてくる。
それ以上は居た溜まれずに見ていられなくなった私は、妹の部屋を出た。
妹の部屋から出た途端、青年の部屋の方から泣き叫ぶ様な大声と、何かが暴れている様な大きな音が響いた。
その声と音は一向に止まずに続いていて、私はこれまでに青年から聞いた事がなかった音量の声に驚き、事前の約束通りにはせずにすぐに彼の部屋へと飛び込んだ。
すると、先程までは雑然としながらも整理されていた部屋の中は、今や滅茶苦茶に荒らされていた。
机の周辺の幾つかのラックや本棚が引き倒されていて、そこに並べられていた物は周囲に散乱しており、机の上にあったディスプレイも机上には無く、倒されたラックの所に落ちていたし、PC本体も机の下で横倒しになっていた。
そんな中で青年は、机の前に土下座でもしているかの様な姿勢で丸まり、まるで小さな子供の様に大きな声で泣いていた。
私が入って来た事にすら気づいていない様子の泣きじゃくる青年の所へと、倒れた家具や散乱した物を避けつつ進んで辿り着くと、跪いてからその背中に猫の左手を置いて、出来るだけ優しく声を掛ける。
「にゃあ?」
すると青年は、びくっと体を震わせてこちらを向いた。
その顔は、溢れ出る涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていて、途轍もなく酷い有様だった。
そんな酷い顔をした青年は私の存在を認識すると、啜り泣きも治まらず止め処なく流れる涙と鼻水を拭いもせずに、必死に辺りを探し始めた。
何を探しているのか判らず、青年の様子を見守っている間にも、黒煙はこの部屋の中にも入り始めていて、徐々にではあるが煙り始めていた。
その間に青年は、引き出しに入っていた一冊のノートとペンを掴むと、慌ただしく何かを書き始めた。
だがあまりにも焦っている所為でまともに書く事が出来ず、判読出来ない文字列を何度も書いては、頁を捲って書き直した。
そしてやっと読めた文字列は、極めて短く、単純で、端的な、単語群であった。
『こわい
できない
ひとりはやだ
もうわからない
たすけて』
彼は泣きながら、最後の最後で本心を私へと告げた。
こうなる前までの今までの冷静な様子は青年の最後の虚勢であり、本当はとても怖かったけれど、最後は私へと格好つけて死にたかったのだろう。
その演技を直前までは続けられたが、いざ自殺する段階になった所で、恐怖が上回ってしまいそれが出来なくなった。
でも既に私へと指示は出しているし、この状況ではもうやり直しも出来ず、どうしようもなくなって混乱を来し暴れ出した。
死ななければいけないが、怖くて自分では出来ない、かと言ってこのままでは、別の死因で死ぬ事になるかも知れないが、それも怖い。
でもこんな事をしてしまった状況で、自分一人だけ生き残るのは、それらよりももっと怖い。
もう自分ではどうしたらいいか判らない、だから助けて欲しい。
これが青年の今の本心で、彼の真の望みは、自らでは達成出来ない現状からの逃避だった。
この時救いを求めて私を見つめる青年を見て、突如として私に芽生えた感情がこの器を反射的に動かした。
私は彼を安心させてやるべく、彼の顔に自分の顔を近づけて大きく頷いてから体を寄せると、両手で彼を胸元に抱き寄せた。
極度の緊張と混乱で、硬直しきっている彼の体は酷く震えていたが、私が抱き締めてやると青年の方からも縋る様に、私の胸に顔を埋めて背中へと腕を回し、強くしがみ付いて来た。
そんな青年の背中を右手で擦りつつ、猫の左手で頭を撫でてやり、青年がもう少し落ち着くのを待つ。
きつく抱き付かれているので青年の鼓動が体越しに感じられて、今は興奮状態で異常な程に脈が速いのが判った。
この間に私は周囲を確認すると、彼の傍には根元から刃が折れたカッターが転がっていて、どうやらこれで体の何処かを切って失血死を目論んでいたらしいのが判った。
しかしこの状態では、残っている刃の長さが短過ぎて、もう使い物にならない。
天井を見ると黒煙がかなり立ち込めており、開けっ放しにして来た部屋のドアから、更にどんどん入ってくるのが見えた。
時折下から振動が伝わって来たり、破裂音がしている点から、もう既に一階は火の海になっていると思える。
この状況で青年の願望を叶える方法を必死に考えてみたが、どれだけ多くの可能性を考慮しても選択可能な答えは、残念ながら一つしか思いつかなかった。
私はそれを実行する為に、青年の体を宥める様に抱き締めていた手を解いて、一旦彼の両肩に添えてから、彼から体を離す様に力を入れる。
その動きに気づいた青年は、私を抱擁していた両腕を解き頭を私の胸から離すと、不安そうな顔つきで私の顔を見上げた。
その後私は、跪いていた足を横に倒して座りながら、両肩の手を彼の首へと回して、彼の頭を抱え込みつつ、目を瞑って青年の口へと唇を合わせて舌を入れる。
突然の私の行動にこれ以上無い程に動転した彼は、どうして良いのか分からなくなっていて、先程まで私の腰を掴んでいた両手も離されたままになっていた。
その手を誘う様に、私は座っていた位置を彼へと寄せて、再び体を密着させるべく、彼の膝の上へと体を合わせる様に座ってから、もう一度背中に両腕を回して抱擁する。
この動作に応じて、青年もまた私の背中を強く抱き締め返してきた。
始めから素直にこちらの快楽を望んでいれば、もっと違った未来も想像出来たかも知れないのに、私はそんな事を思いながら、背中に回していた両手を撫でる様に軽く触れつつ、ゆっくりと彼の首筋へとずらす。
この時の青年は、全く別の理由で心拍数だけは異常に高かったものの、先程までの硬直しきった緊張状態からは解き放たれていて、青年としては恐らく未知の領域の感覚に興奮していたのだろう。
時間が許すのなら、この先も付き合ってやりたかったが、残念ながらそれだけの猶予は残されていなかった。
この後私は、すっかり夢中になって恍惚としている青年に、彼の首筋へと添えていた両手で優しく愛撫しながら、狙い定めて猫の左手の爪で、彼の左の頚動脈を一気に掻き切った。
興奮状態で脈も血圧も上がっていた青年の首は、私の抱擁と愛撫で力も抜けており、鋭い爪の先は容易に頚動脈の深さまで到達して切り裂き、その切り口から真っ赤な鮮血が勢い良く噴き出した。
何が起こったのか判らず、一瞬動きを止めた青年だったが、すぐに私の行った結果を理解したらしく、彼はゆっくりと私から顔を離すと、最期に私へと笑顔を作った。
それは今までに見ていない、青年の素顔だったのだと思う。
そして力なく目を閉じると私の右肩に頭を載せて、もう一度強く私を抱き締めてきたので、彼の首から噴き出す鮮血で、自分の服が赤く染まるのも気にせずに、私も青年の背中へと手を回して抱き留めた。
もう、死にゆく青年へと、私がしてやれるのはこれだけだった。
延焼する家の中で、私は彼の腕の力が無くなるまで、これまでで最も心が脆弱で意気地もない召喚者であった、哀れな青年の体を抱き締めていた。
どれほどそうしていたのかは正確には判らないが、それ程長い時間では無かった様に思う。
天井に滞留する黒煙は既にはっきりと目に見える様になっていて、部屋のドアすら良く見えない程に充満していたし、何かが崩れたり爆ぜる音もかなり頻繁に聞こえていた。
私の背中に回されていた青年の両手は離れ、下へと滑り落ちるのを感じて、青年が力尽きたのを悟った。
念の為に、切っていない首へと人の手を当てて確認すると、もう脈はないのが判った。
私は青年の骸から自分の体を離すと、出来るだけゆっくりと骸を仰向けにしようとした。
本当は布団に寝かせたかったが、もう今はラックや本棚が倒れていて、私の力ではそれらを持ち上げるのは無理だと判断し、試すまでもなく諦めていた。
更にこの場所ではすぐ後ろの机でつっかえてしまい、青年の骸を机に寄りかからせる様な体勢にしか出来なかった。
ここで改めて、私は青年の顔を眺めた。
首から下の左半身を血に染めた青年の顔は、その凄惨な状態に反して穏やかな死に顔をしていた。
私はその表情を見た時に、込み上げて来る感情に飲み込まれてしまい、堪らなく悲しく感じると同時に何かが伝う感触を感じて、顔に手をやると涙が溢れて頬を流れているのに気づいた。
この器には精神的な設定は効果が無い筈だが、やはり『泣き虫』の設定が反映されたのか、それとも『恋愛感情』の設定の効果なのかと、止まらない涙を拭いながら考えていると、何となく答えが見えて来た。
台所での朝食では、青年から面倒を見て貰った時にとても嬉しく感じた事や、この部屋を出る時に突き放された様で悲しく思った事、部屋に戻って縋りつく青年への無意識の行動。
これらの意味するものこそが、この器の存在目的そのものだったのではないか。
彼は私の事を妹の生まれ変わりだと信じていたが、それだけではなくて、私は青年の理想とした家族の代わりであったのではないだろうか。
相互の信頼に基づいた、青年に懐いて従順に従う妹の持つ素直さ、青年を宥めてあやす母親の持つ甘えられる優しさ、青年の迷いや不安から導く父親の持つ頼れる強さ、これらを青年は求めていた。
そうした要素を内在した器として、私は三人の魂を捧げる代わりに現われた。
つまり私は妹の生まれ変わりと言うよりは、青年が取り戻したかったかつての幸せだった家族達の象徴だったのだ。
私がずっと青年に感じていた感情は、『にゃにゃんシステム』の様々な設定値ではなく、器の根底に備わっていた理想の家族愛だったのだろう。
そしてこの止まらない涙は、愛する家族を喪失した失意の哀しみの所為だと確信した。
これを理解出来た所でもう何も状況は変わらないし、青年やその他の家族が蘇る訳でもなく、たとえその様な事を実現出来る能力があったとしても、もう自身を維持する力も残っていない状態では、そんな奇跡を起こせる可能性は皆無だろう。
結局私は、本当の意味で青年の望みを叶えていたのだろうか、その答えの確認すら明確には出来なかったが、この青年の死に顔からは、私の悲観的な想像よりは多少なりとも意義はあったのではないか、その様に感じていた。
この後私は、彼と約束した最後の指示を実行するべく、いつの間にか手放してしまったライターを探すが、周囲には見当たらない。
辺りを探し回っていると、倒れたラックの奥に転がっているのが見えたが、そこにはどうやっても手が届かずに、ライターを回収する事が出来なかった。
ライターが回収出来ないのなら、別の火種から火を点けようと、私はふらつく足で立ち上がってみると、もう頭の高さでは煙で息も出来ないのが判り、再びしゃがんで、四つん這いの姿勢でドアへと向かった。
この時点で既に四肢の指の感覚は無くなっていて、遂に器を維持する糧も涸れ始めたのが判り、とにかく急ぐ。
倒れている家具を越えた所に、空になった灯油の容器が倒れていて、傍には灯油ポンプが転がっているのを見つけた。
これなら灯油が付着しているし、火も着きそうだと思い右手で掴もうとするが人間の指は全く動かず、それどころか思う様に腕も動かずに指を床にぶつけると、何本かの指は脆い石膏の様に折れてしまった。
手を良く見ると青白く変色して表面はひび割れており、乾ききった粘土の様になっていて、その症状は腕の方へと広がりつつあるのが判った。
もう器の崩壊も始まったのか、これはいよいよ終わりも近い。
きっと足も同じ様な状態なのだろう、もう立って歩けるとは思わない方が良さそうだが、この姿勢では脛より先に膝が壊れて移動し辛くなると思い、手と足での四足での移動に切り替えた。
ドア付近のラックの下の段がふと目に入った時、今までの展開からして何処かに出て来るのだろうと思っていた、見たくもなかったあのピエロの置物を発見してしまい、衝動的な怒りでその置物を弾き飛ばした。
陶器で出来ていたらしい置物はラックの鉄柱に当たって砕け散ったが、その代償に私の人の手の指が全て折れて千切れ、掌の下半分だけとなってしまい、怒りに任せた短絡的な行為を若干後悔する羽目になった。
私は欠けて崩れていく四肢の末端に気を配りつつ、何とかドアの場所まで辿り着くと、そこから廊下へと頭を出して様子を見る。
そこはもう完全に黒煙に覆われた場所に変わっており、既にドアが燃え尽きたらしい妹の部屋からは時折炎が噴き出していて、赤い光が室内から漏れているのが見えている。
私は妹の部屋の前まで、四足歩行で進んで行く。
この間にもグローブ状の猫の左手や猫足はもう崩れ落ちて無くなり、手は手首の先まで砕けていたし、足も踝より前半分は崩れて、衣服は器の崩壊に合わせて色褪せ朽ちていく。
妹の部屋の前に着いて部屋の中を見ると、そこは手前のベッドを中心とする部屋の半分が炎に包まれていた。
もう金属の骨格部分とスプリングだけになっているベッドの上には、既に真っ黒なマネキンにしか見えない妹の遺体もあった。
ここで私は、どの様にして火種を運ぶかについて考えたのだが、手も足も無くなっていく今の私の現状で、火を運ぶ手段はたった一つ、自分の体を媒体にするしかない。
私は意を決して妹の部屋へと踏み込んだ。
途端に炎が私の体を舐めてきて、青年と密着した時に私に付着していた灯油へと引火する。
それを確認すると私は一気に立ち上がって、妹の部屋を飛び出し廊下を走った。
一歩進む毎に足は下から崩れて砕けて行くが、それに構わずに力一杯踏み込んで走る。
廊下の途中で左足が自重に耐えられず膝から折れて、青年の部屋の前で私は転倒し、その時の衝撃で右腕の肘も折れて千切れた。
体を起こそうとして左腕を床に着こうとしたが、肩の関節が捻れて半分切れてしまい、全く力も入らず只ぶら下がっているだけになっていた。
頭や体に着いた火は、こうしている間にも燃え広がっており、崩壊し始めた肉体自体も、まるで可燃性の材質で作られた人形の様に燃え始めているのを感じた。
最後の気力で四つん這いになって、私は青年の居る部屋の奥まで半ば這いずりながら進んだ。
胴体と頭部は火達磨になり、残る四肢も進む度に先端から砕けて崩れ、炎で焼かれて目も見えず耳も焼け落ちて何も聞こえず、鼻と口は焼け崩れてもう呼吸すら出来なかったが、青年の場所まで辿り着こうと必死で進み続けた。
この最中、自ら松明の様に焼かれながら、崩れていく体を酷使してまでして、自分が行っている行動について自問自答する。
この最後の行動は、果たして本当に青年の望んだものであったのか、それに疑問を感じたのは事実だ。
青年からすれば最後の最後で、もう自分を燃やす事などどうでも良くなっていたのではないのかと、私自身も思っていた。
だからこれは彼の為と言うよりは、私が彼にしてやりたいと自ら思っての行動だった。
放っておいても火が回って青年の骸は燃えたかも知れないが、そうではなく私の手で焼いてやりたい、彼を火事の焼死体にするのではなく、荼毘に付してやりたいと私が願った事だ。
独り善がりな気休めでしかないかも知れないが、私は心からそうしてやりたいと願い望んだのだ。
だから自分の身を呈して彼に火を点す事が出来たのは、私にとっては満足の行く結果になった。
これでこの『にゃにゃん』と青年は、同じ炎で浄化される事になる。
そうすればきっと、別の世界でも再会出来る可能性が、少しでも増えるのではないか、そう思いたいし、それを強く願っている。
私の意識は、座っている青年の骸の膝の上に自分の頭を載せて、青年の胴体にしがみ付こうとして、首がもげた所で潰えた。
第十九章はこれにて終了、
次回から第二十章となります。