第十八章 異変・異常・異界 其の二
変更履歴
2012/01/02 誤植修正 例え → たとえ
2012/01/02 誤植修正 速度が急に早くなったのに気づいた → 速度が急に速くなったのに気づいた
2012/01/03 記述統一 捕え → 捕らえ
2012/06/10 誤植修正 どう考えてもも → どう考えても
2012/06/10 誤植修正 保持してる → 保持している
2012/06/10 誤植修正 私の体か掻き消えて → 私の体は掻き消えてしまい
2012/06/10 記述修正 自分の過去の記憶はしっかり維持している所が異なるのと → 私とは違って自分の過去の記憶を維持している点と
2012/06/10 記述修正 幾つかの吸盤が体から外れるのを → 数本の立ててあった点滴が倒れ、更に幾つかのチューブに繋がった針針や吸盤が体から外れるのを
2012/06/10 記述修正 手を掴むと同時に → 娘の手を掴むと
2012/06/10 記述修正 更に医療機器が引っ張られて → 更に点滴や医療機器が引っ張られて
2012/06/10 記述修正 幾つかのコードが外れてしまい → 幾つかのチューブやコードも外れてしまい
2012/06/10 記述修正 ベッドの脇に設置されている → ベッドの脇に設置された
2012/06/10 記述修正 じっと様子を見る事にした → 様子を見る事にした
2012/06/10 記述修正 人としての形をとって → 人の形へと変化し
2012/06/10 記述修正 その様に感じられる → その様に感じられた
2012/06/10 記述修正 糧の流れを確認すると → 糧の流れを調べると
2012/06/10 記述修正 肉体的な生命の危機を取るか → 肉体的な生存の危機を取るか
2012/06/10 記述修正 七部丈の緑色の病衣を着ており → 七部丈の緑色の患者衣を着ており
2012/06/10 記述修正 手を掴むと同時に魂を引き寄せて、更に糧を一気に消費した → 手を掴むと同時に、魂を引き寄せながら糧を一気に放出した
2012/06/10 記述修正 急に速くなったのに気づいた → 急に速くなり始めた
2012/06/10 記述修正 私の存在が失われる瞬間に、本来の魂を引きずり込んでみようと → 私の存在が失われるのと同時に、本来の魂を引き入れると
2012/06/10 記述修正 目を覚ますという意味かと考え → 目を覚ます事かと推測し
2012/06/10 記述修正 意思表示をしていた → 意思表示をしてきた
2012/06/10 記述結合 亡霊へと願いを尋ねた。娘の亡霊は少し思案してから → 亡霊へと願いを尋ねると、娘の亡霊は少し思案してから
2012/06/10 記述修正 目を覚ます事と言った → 目を覚ます事と答えた
2012/06/10 記述修正 水色の上着に紺色のズボンと言う服装は → 体の線に近い水色の上着に細いシルエットをした紺色のズボンと言う格好は
2012/06/10 記述修正 真上へと向き直ると → 真上に移すと
2012/06/10 記述修正 亡霊 → 生霊
2012/06/10 記述修正 死霊 → 亡霊
2012/06/10 記述修正 無いかとも考えてしまい → 無いかと危惧してしまい
2012/06/10 記述修正 気を失った → すぐに気を失った
2012/06/10 記述修正 決意して行動に移した → 決意して速やかに行動に移した
2012/06/10 記述修正 乗せられている気がして → 乗せられている気がしてしまい
2012/06/10 記述修正 心理もあったのは否めない → 心理もあったのは否めない事実だ
2012/06/10 記述修正 たとえそれが → だがたとえそれが
2012/06/10 記述修正 もしこの生霊が召喚者でなければ → この生霊が召喚者でなければ
2012/06/10 記述修正 出来ないのではないか → 出来ない筈だ
2012/06/10 記述修正 意識も問題なく → 意識にも支障を来さずに
2012/06/10 記述修正 目覚める事が出来るのだろうか → 目覚める事が出来るのだろうが
2012/06/10 記述修正 そこに我々は入る事は出来ないのは、情報としては判っているが → そこに我々が入れないのは情報として判っているが
2012/06/10 記述修正 涙はどうなるのか → 涙は生霊から流れるのか、それとも実体から流れるのか、或いは両方なのか
2012/06/10 記述修正 それがふと疑問として湧きはしたが → ふとそれを疑問に感じたが
2012/06/10 記述修正 どうやらどう見ても → これはどう見ても
2012/06/10 記述修正 驚くのが筋では無いかと → 驚くのが筋ではないのかと
2012/06/10 記述修正 あたふたと手足をもがいたり → よっぽど驚くべき事態だったのか、あたふたと手足を動かしながら
2012/06/10 記述修正 何処にも光源も無いのに → 何処にも光源は存在しないのに
2012/06/10 記述修正 更に、口には太チューブの伸びたマスクが → 口には太太いチューブの伸びたマスクが
2012/06/10 記述修正 左の腕には点滴のチューブが付いていて → 両腕には点滴の細いチューブが数本付いていて
2012/06/10 記述修正 ここもそれと同様の世界なのか → ここもそれと同様の場所なのか
2012/06/10 記述修正 これに気づいてももう → これに気づいた時にはもう
2012/06/10 記述修正 私の視界が霞み始めた時に → 私の視界が霞み始めた頃に
2012/06/10 記述修正 医療機器が引っ張られた所為で → 引っ張られた所為で医療機器が
2012/06/10 記述修正 棚の上の様子が見えた → 棚の上の様子が浮かび上がる
2012/06/10 記述修正 自分の顔につけられていた → 私は自分の顔につけられていた
2012/06/10 記述修正 左手をベッドについて、一気に上半身を起こして → 左手をベッドについて上半身を起こし、
2012/06/10 記述修正 中指の先が掠った → 私の中指の先が娘の指先に掠った
2012/06/10 記述修正 根本的に間違っていたとしても → 根本的に間違いだったとしても
2012/06/10 記述修正 生霊が召喚者ではない → 生霊の娘が召喚者ではない
2012/06/10 記述修正 亡霊の娘から感じられない事だ → 亡霊の娘からは感じられない事だ
2012/06/10 記述修正 ここに現れるまで → だとすればここに現れるまで
2012/06/10 記述修正 召喚者の自覚や → 召喚者としての自覚や
2012/06/10 記述修正 体には傷らしいものは見つけられないので → 確認出来る範囲に治療箇所は見つけられないので
2012/06/10 記述修正 今のところは前回と同じ様な → 今のところは雰囲気からして、前回と同じ様な
2012/06/10 記述修正 異世界である可能性が高い → 異世界である可能性が高そうだ
2012/06/10 記述修正 私はもう闇の世界へと → 私はもうあの闇の世界には
2012/06/10 記述修正 上へと昇って行く様に → その意思に関係なく上へと昇って行く様に
2012/06/10 記述修正 この時の詳細な状況が → その時点での詳細な状況が
2012/06/10 記述修正 この肉体の魂であるのは → 私が内在する肉体の魂であると
2012/06/10 記述修正 何かの演出なのでは無いかと → 何かの演出なのではないかと
2012/06/10 記述追加 最初に私が生霊の娘へと質問した際に~
2012/06/10 記述修正 向こうもその意を理解して → 向こうもその意思を理解して
2012/06/10 記述修正 頭や体のあちこちに → 更に頭や体のあちこちには
2012/06/10 記述修正 つまり私は入院患者なのだろうと → 私は入院患者なのだろうと
2012/06/10 記述修正 そこには幾つかの → その場所には幾つかの
2012/06/10 記述修正 魂を捕らえる事も出来るだろうから、魂を掴む事は出来る筈だ → 魂を捕らえる事は出来るだろうから、魂を掴む事も出来る筈だ
2012/06/10 記述修正 泣くのを耐えるかの様に → 泣くのを堪えるかの様に
2012/06/10 記述修正 召喚者では無いとしたら → 召喚者ではないとしたら
2012/06/10 記述修正 自分の体に入っている私へと、何者なのかを問うて来た → 亡霊の実体に入っている私に対して、私が何者なのかを問うて来た
2012/06/10 記述修正 一瞬更に感情を激化させたかの様な → 何故か判らないが更に感情を激化させたかの様な
2012/06/10 記述修正 表情が浮かんだが → 表情を浮かべていたが
2012/06/10 記述修正 ベッドの上の宙に私と向かい合う体勢で静止していた → ベッドの上の宙に浮かんで私と向かい合う体勢で静止していた
2012/06/10 記述修正 宙には見当たらないところを見るに → 病室内には見当たらないところを見るに
2012/06/10 記述修正 ずっと真っ暗な場所で眠りながら過ごしていて → ずっと真っ暗な場所で眠っていて、その間様々な夢を見て過ごしていたと説明した後に
2012/06/10 記述修正 本来の自分の体だと語っていた → 本来の自分の体だと主張していた
2012/06/10 記述修正 自らの事を語り始めた → ゆっくりと語り始めた
2012/06/10 記述修正 コードやらチューブの所為で → コードやチューブの所為で
2012/06/10 記述修正 どう考えても普通の家庭ではなく → どう考えても一般的な住宅の室内ではなく
2018/01/20 誤植修正 そう言った → そういった
目を覚ますとそこは見慣れた闇の世界ではなく、消灯している寝室らしい場所であり、私はそこに設置されているベッドで横になっていた。
周辺に漂う消毒薬の様な独特の匂いからして、どう考えても一般的な住宅の室内ではなく、病院等の医療施設ではないかと思える。
やはりあの道化師が宣言していた通りで、私はもうあの闇の世界には戻れないと言うのが事実らしいと感じた。
それにしてもここはどの世界なのだろうか、目覚める前の世界は向こう側の世界とは別の異世界であったが、ここもそれと同様の場所なのか。
今のところは雰囲気からして、前回と同じ様な、良く知っているらしい異世界である可能性が高そうだ。
まずはこの器の確認をすると、通常の人間の女の形状をしているのが判った。
口には太いチューブの伸びたマスクがつけられており、両腕には点滴の細いチューブが数本付いていて、右手首には何かバンドが装着されていた。
更に頭や体のあちこちには、吸盤やテープでコードが伸びているセンサーが付けられているのが判り、私は入院患者なのだろうと理解した。
しかし体のどの部位からも苦痛は無いし、四肢の欠損は見当たらずギプスや包帯が巻かれた箇所もなく、確認出来る範囲に治療箇所は見つけられないので、何が原因で入院しているのかは判らない。
敢えて言うなら口のマスクが若干息苦しい程度であり、コードやチューブの所為で、寝返りも出来ない状態である点を考えると、実感出来ないがかなり重篤な患者なのかも知れない。
次に私は、周囲から聞こえる音を確認すべく、現状唯一音が聞こえて来る方向へと頭を傾けた。
コードやチューブの繋がっている先にある、ベッドの脇に設置された僅かな光を発している医療機器から、定期的な電子音が微かに聞こえている様だ。
この機械と私を繋いでいるコードやチューブは長さに余裕が無く、体を起こすのも出来ない状態なのが判った。
これではこの場所の詳細を確認する為に、移動して照明を点けるのは無理だと判断して、視線を医療機器から真上に移すと、先程まで暗闇しかなかった所に、何かが浮かんでいるのが見え始めていた。
それは燐光の様に仄かに全体が発光して、暗闇から浮かび上がる様に姿を現しており、何処にも光源は存在しないのに明確に見る事が出来た。
私にはそれが、この場所よりも見慣れたものである様に感じて、それが形を成すまで様子を見る事にした。
時間にして数分程度であろうか、その時間の経過の後にそれは人間の形を為して、ベッドの上の宙に浮かんで私と向かい合う体勢で静止していた。
最初は白い靄にしか見えなかったそれは、今では人の形へと変化し、更に半透明ではあったが色もついていた。
体の線に近い水色の上着に細いシルエットをした紺色のズボンと言う格好は、かつての召喚された世界では見慣れない服装であったが、その違和感を感じない装いがパーカーとジーンズだと脳裏に浮かぶ。
宙に浮いた姿勢でありながら、肩まである髪はこちらへと落下する事無く、まるで水中にいるかの様に若干広がり揺れていて、パーカーのフードも首の後ろで宙を漂っているのが見える。
その半ば透けている存在は、パンツ姿であるがその顔や髪型からして女と言うには未だ若い、十代の娘であろうと推測した。
これは向こう側でも何度か遭遇して来た、死霊に違いないと判断していたが、少々違和感も感じる。
“嘶くロバ”がかつて見たと言う煉獄の魔女や、棺の三つ子の事を思い出して比べても、どうも死霊としての憎悪と言った負の感情から来る気迫、そういったものが感じられない。
これは死霊と言うよりも、亡霊程度の存在ではないかと言う、希薄な印象を受けていた。
だがそう装っている可能性も有り得ると、警戒は十分しておくべきだと思い直し、まずは向こうの出方を窺った。
いまいち地味な印象を受ける娘の亡霊は、姿を明確にした後に目を開くと、何を仕掛けて来るかと思いきや、酷く驚いた表情をして狼狽していた。
私がそちらを見て驚くのが筋ではないのかと感じつつ、こちらよりも更に状況を飲み込めていない様子の娘の亡霊は、よっぽど驚くべき事態だったのか、あたふたと手足を動かしながら、しきりと疑問形の単語を放ち続けていた。
これは何かの演出なのではないかと疑いながらも、この亡霊の意思であろう声を聞き取れるのが判り、これならこちらから呼びかける事も可能かも知れないと考えつつ、様子を窺い続ける。
暫く様子を見ていたのだが、この娘の亡霊は一向に落ち着く気配を見せないので、私は痺れを切らしてこちらから声を掛けてみる事にした。
とりあえず最初に誰なのかを尋ねてみると、何故か判らないが更に感情を激化させたかの様な表情を浮かべていたが、すぐに多少は冷静さを取り戻したらしく、亡霊は大人しくなった。
そしてこの後娘の亡霊は、ゆっくりと語り始めた。
亡霊の話は、自分の正体についてであった。
当時高校生だった亡霊は、春休みに河原にいてそこで突然倒れてから、ずっと真っ暗な場所で眠っていて、その間様々な夢を見て過ごしていたと説明した後に、私が今入っている器が本来の自分の体だと主張していた。
この話を聞いた時に私は、もしや自分と同じ境遇の存在なのではないかと考えたのだが、私とは違って自分の過去の記憶を維持している点と、妙な召喚についても全く触れて来ない点を考えると、どうも違いそうだと思い直して、もう少し様子を見る事にした。
亡霊は説明の最後に、亡霊の実体に入っている私に対して、私が何者なのかを問うて来た。
それが私の本質的な正体、つまり私の過去に対しての問いであるならば、記憶は無いのだから答えようが無い。
この亡霊の体に宿っている者としての正体は、何者かの召喚に因る何らかの定義を模したものなのだが、それをどれだけ説明しても、まだ若い学生であろう亡霊には理解出来ず、困惑した顔をし続けていた。
どうやらこちらの事を語っても、全く理解出来そうもない相手だと諦めて、私は召喚者である可能性を確認する為に、亡霊へと願いを尋ねると、娘の亡霊は少し思案してから、目を覚ます事と答えた。
私は先程聞いた過去の経緯を思い出して、真っ暗闇の場所にいる状況から目を覚ます事かと推測し、それなら今は或る意味では願いが叶っているのかと確認を取ると、娘は頭を振って違うと言う意思表示をしてきた。
その後にこちらを見ながら、自分の体で目を覚ましたいと訴えていた。
これはどう見ても生きている人間には見えず、死に掛けていて魂が肉体から抜け出ているとも思えるのだが、その死に掛けた魂の願望は蘇生であると言う事か。
私は念の為に、“嘶くロバ”との対話で用いていた単語である、召喚者としての自覚や、器の定義や、捧げた生贄の有無や、糧についての認識等も尋ねてみたものの、どれにもただ困惑しているだけで、知らないと繰り返すばかりだった。
やはり召喚者ではないか或いは全く自覚は無いのが判り、これを相手に私自身の状況を尋ねても、埒が明かないだろうと判断して、何か情報を聞き出そうと試みるのは諦めた。
この亡霊が召喚者ではないとしたら、その望みは叶いはしないだろう。
その事を伝えると、娘の魂はすっかり気力を失ったかの様に項垂れてしまい、その表情は今にも泣き出しそうになっていた。
果たして魂や霊が泣くのか、そして泣いた場合涙は生霊から流れるのか、それとも実体から流れるのか、或いは両方なのか、ふとそれを疑問に感じたが、今はそれを考えている場合ではなく、この後どう対処すべきなのかを考えなくてはいけない。
私は今後の行動について考察し始めた。
周囲には誰も他に存在しておらず、私以外で意識を有しているのは、上にいる亡霊のみだ。
召喚者が別の場所に存在している可能性については、在り得なくも無い訳だが、こちらから探しにも行けないのだから、だとすればここに現れるまで待つしかないだろう。
その間に極めて異質であると言える、目の前の亡霊が自覚すら出来ていない召喚者だと仮定して、展望を考える。
ここまでの対話を考えると、この亡霊は私が内在する肉体の魂であると信じても良いと思える。
そう判断するに至る理由は、死霊であればその存在する力そのものである、強力な負の残留思念が亡霊の娘からは感じられない事だ。
亡霊と言うよりは、死んだ直後の魂が抵抗を試みている、その様に感じられた。
それが事実かどうかを確認すべく糧の流れを調べると、この体からまだ部分的にではあるが、娘の魂は繋がっているのが判った。
つまりこれは幽体離脱か何かで、ロバの講釈を引用すれば、魂のある生者の体に共存するのは出来ず、生者の体でも死んだ部位に入る筈である事からすると、今は抜け出た魂の隙間を私が埋めていると言う事が考えられる。
生者の魂が健全な肉体にある限り、そこに我々が入れないのは情報として判っているが、その逆は果たしてどうなのだろう、私がここにいると魂はやはり戻れないのだろうか、それとも私は押しのけられる様な形で、入れ替わるのだろうか。
一介の人間の魂ごときが、神の力を有する超自然の存在を、器から追い出せるとは思えないし、ロバの紳士に因る魂の講義でも、一度死んで魂が気化した脳は、不可逆的に変容する様な事を言っていた気もする。
しかし現実として、幽体離脱して自分の肉体へと戻ると言う話もある訳ではあるが、その時点での詳細な状況が分からないので、そういった話が実際のところ、本当に魂が気化してから戻っているのかは判らない。
気化した魂が脳の未使用の部位であれば、それが喪失しても蘇生は可能で、意識にも支障を来さずに目覚める事が出来るのだろうが、しかしその確率はどの程度なのだろう。
私は改めて、泣くのを堪えるかの様に、顔を歪ませている生霊を見た。
生霊の大きさは実体である私とほぼ同じ程度あり、かつて何度か見てきた、完全に抜け出ている魂と同等に思われて、この状態でまだ戻れるのかどうかも判断出来ない。
これ以上考えたところで、私は“嘶くロバ”の様に何らかの情報を保持している訳では無いのだから、もはや無意味であろう。
こうなれば試してみるしか手は無い。
私はそう決めると、すっかり意気消沈している生霊へと声を掛けた。
策としてはこうだ、私は器としての力を保持しているのなら、糧として吸収の際に魂を捕らえる事は出来るだろうから、魂を掴む事も出来る筈だ。
この時に糧へと変換して吸収せずに、ここへと引きずり込んでみると同時に、私は保持している糧を放出する。
つまり、私の存在が失われるのと同時に、本来の魂を引き入れると言う作戦だ。
上手く行くのかどうかも全く判らないし、もし本来の召喚者が別にいたらどうなるのかも気になるが、この生霊が召喚者でなければ、召喚目的に反する糧の放出は出来ない筈だ。
それにより、逆にそこで失敗すれば、生霊の娘が召喚者ではない証明にもなるのではないか、そう考えた。
全てが仮定で組み合わされた手段であり、どれ一つとして確信は無い。
そんな事は百も承知なのだが、前回の事が頭を過ぎっていて、このまま何もせずに流される様に終わってしまうのは、道化の描いているシナリオに乗せられている気がしてしまい、今度は後で後悔したくは無いと言う心理もあったのは否めない事実だ。
だがたとえそれが根本的に間違いだったとしても、何としてでも抗いたい。
だから、敢えて可能性の低い行動であっても、実行するべきだと決意して速やかに行動に移した。
私は捕まえるべく生霊の娘へと手を伸ばすと、向こうもその意思を理解して手を伸ばして来た。
それで手が掴めれば、後は一気に糧を消費するだけだと考えていたのだが、手はもう少しの所で届かない。
生霊の娘も必死に手を伸ばしている様だが、浮力でも発生しているのか、ほんの僅かずつ生霊は上昇していて、それに抵抗するのが精一杯なのが判った。
魂は気化すると元の肉体から離れようとして、その意思に関係なく上へと昇って行く様に出来ているらしい。
こちらも限界まで手を伸ばすがやはり届かず、それ以上体を浮かそうとすると、体に取り付けられているコードやチューブが引っ掛かってしまう。
それに気づいてどうすべきかを考えていた時、生霊の気力が尽きてしまった様で、浮き上がる速度が急に速くなり始めた。
とうとう完全に諦めたのかと思い生霊の顔を見ると、向こうも離れる速度が上がったのに気づき、更に必死になって手を伸ばして来て、どうやらまだ諦めてはいないのが判った。
これがあの娘の魂にとっての最後の足掻きで、この状態も長くは持ちまい。
次にまた生霊が浮かび始めれば、もう手は届かず蘇生の可能性は無くなり、生への未練で死霊にでも変化するか、霧となって直に消え去るかのどちらかだろう。
しかしこれ以上私が手を伸ばすには、それが出来ない様に拘束している物を外す以外に無いが、それを行ってもこの体の生存状態が保障出来るのかが全く未知数だ。
魂の乖離に因る精神的な死を取るか、生命維持を失っての肉体的な生存の危機を取るか。
数瞬の逡巡の後に、私は最終手段に出た。
私は自分の顔につけられていたマスクを左手で外してから、体についていたコードが引っ張られるのを無視して、左手をベッドについて上半身を起こし、生霊の伸ばした手を掴むべく右手を伸ばすと、私の中指の先が娘の指先に掠った。
それと同時に、数本の立ててあった点滴が倒れ、更に幾つかのチューブに繋がった針や吸盤が体から外れるのを感じつつ、更に体を起こして娘の手を掴むと、魂を引き寄せながら糧を一気に放出した。
その途端、私は気が遠くなり強力な眩暈に襲われて、すぐに気を失った。
再び意識を取り戻すと、私はまたも目の前の生霊を見つめていた。
いや、これはベッドに寝ているのだから、生霊ではなくて実体の体か、当然なのだがこの体は生霊と同じ顔をしているのが、ここで初めて確認出来た。
最初に私が生霊の娘へと質問した際に苛立ちを見せていたのは、他ならぬ自分自身から誰かと問われたからだったのかと、今更ながらに納得した。
とりあえず私はあの身体から離れて、今は先程までの魂の様に宙を漂っているらしい。
自分の腕を見てみると、七部丈の緑色の患者衣を着ており、生霊と同様に半透明になっていたが、私の方は徐々に薄れていく。
どうやら糧の力を消費した際に、消えて無くなるよりも器からの離脱が先になったらしい。
ここまでは成功したと言う事か、ではあの生霊はどうなったのだろう。
私は少し前まで入っていた、ベッドに横たわる体へと目を向けた。
私が暴れた所為で、掛けられていた布団がかなりずれたのと、更に点滴や医療機器が引っ張られて頭や体の幾つかのチューブやコードも外れてしまい、けたたましく警告音が鳴っている事以外は変化は見当たらない。
病室内には見当たらないところを見るに、生霊はあの中へと戻せたのではないかと思えるのだが、最後にあれだけ動いたのは、肉体的にまずかっただろうかと気になった。
若しかすると元から昏睡状態でいたこの娘は、魂は戻ったが生命維持の為の機器が正常に機能しなくなり、今まさに死に瀕しているのでは無いかとも危惧してしまい、仕損じたのかと思い始めていた。
そんな最中に、ベッドの脇の床頭台の上の方で、何かが赤く光るのが見えた。
引っ張られた所為で医療機器がエラー表示し始めたおかげで、その光に照らされて棚の上の様子が浮かび上がる。
そこはベッドに寝ている姿勢では死角になっていた箇所であり、今まではずっと意識すらしていなかったのだが、その場所には幾つかの生活用品の小物が並んでいた。
どれも意識の無い患者には無意味な物ばかりであったが、その中でもマグカップを見た時に、私は又も不安と焦燥を感じた。
そのマグカップの図柄は、特徴的な赤と白だけで描かれた、大玉に乗って逆立ちしている、ほくそ笑むあの道化師だった。
これに気づいた時にはもう糧の残量もなく、靄の様に変わっていく体を維持する事すら出来ないでいると、私の視界が霞み始めた頃に、ベッドに眠っていた娘が目を開けたのが判った。
そして娘は、こちらを見て何かを言おうとしていたのが見えた時に、私の体は掻き消えてしまい、それと同時に意識を失った。