第十七章 暗転の兆し其の一
変更履歴
2011/06/16 誤植修正 醒ます → 覚ます
2011/08/02 誤植修正 ジャスター → ジェスター
2011/08/07 記述追加 左手首には~ → 追加
2011/12/31 誤植修正 位 → くらい
2011/12/31 誤植修正 例え → たとえ
2011/12/31 誤植修正 沸く → 湧く
2012/06/07 記述修正 どうも僅かな差だが、左手の方が長く、右手の方が → 僅かな差だが、どうも左腕の方が長く、右腕の方が
2012/06/07 記述修正 本来なら微笑ましい滑稽な → 本来なら微笑ましく愉快で滑稽な
2012/06/07 記述修正 そもそも人間ではなかった → そもそも人間ではない
2012/06/07 記述修正 心ばかりのお土産を → ちょっとしたお土産を
2012/06/07 記述修正 偽物を渡す様な → 紛い物を渡す様な
2012/06/07 記述修正 “嘶くロバ”の首だよ! → “嘶くロバ”の首さ!
2012/06/07 記述修正 答えが返る事は無いだろう → 答えが返る事はなさそうだ
2012/06/07 記述修正 この人間がロバの紳士よりも → この人間からはロバの紳士よりも
2012/06/07 記述修正 印象を受けていた → 印象を受けたのは間違いない
2012/06/07 記述修正 左右に分かれていて → 左右に分かれており
2012/06/07 記述修正 垂れ下がる帽子の配色は → 配色は
2012/06/07 記述修正 先端の部分には → 垂れ下がった先端の部分には
2012/06/07 記述修正 右側が白く、左側が赤くなっている → 右側が白く左側が赤い
2012/06/07 記述修正 目の間の距離はかなり狭くて → 両目の間の距離はかなり狭く
2012/06/07 記述修正 右眼は一重でかなり細く → 右眼は非常に細い一重で
2012/06/07 記述修正 白目も全て見える程 → 白目も全て見える程開かれていて
2012/06/07 記述修正 ぎょろ目をしていて → ぎょろ目をしており
2012/06/07 記述修正 一部が捻られている → 全体的に捻じられている
2012/06/07 記述修正 帯状の腕輪をしている → 片方の面は銀色に輝いているがもう片方の面は赤黒く錆びて見える、平たい帯状の腕輪をしている
2012/06/07 記述修正 大き目の四つの金具には → 大き目の四つの金具は
2012/06/07 記述修正 クラブが刻まれている → クラブの形状になっている
2012/06/07 記述修正 足はかなり大きいのか → かなり大きな足をしているのか
2012/06/07 記述修正 それともデザインなのか → それともそういったデザインなのか
2012/06/07 記述修正 かなり大きく長い靴を → とても長い靴を
2012/06/07 記述修正 先端には帽子の先端と → そこには帽子の先端と
2012/06/07 記述修正 その感覚は人形じみているとか、そんな次元では無く → それはまるで
2012/06/07 記述修正 かの紳士の後の状況を考えると → かの紳士を最後に見た状況を考えると
2012/06/07 記述修正 その目的は読めないが → その目的は読めないものの
2012/06/07 記述修正 何か別の者を装って現れて → 何か別の者を装って現れ
2012/06/07 記述修正 こちらを混乱させる目的があって → こちらを混乱させる必要があり
2012/06/07 記述修正 私の胴体へと迫り → 私へと迫り
2012/06/07 記述修正 “嘶くロバ”の生首だと → これが“嘶くロバ”の生首だと
2012/06/07 記述修正 余興や曲芸や遊戯があるから → 余興があるから
2012/06/07 記述修正 道化師は一瞬で姿を消して → 道化師は宙返りと共に一瞬で姿を消して
2012/06/07 記述修正 ロバの首が残された → ロバの首だけが残された
2012/06/07 記述修正 向こう側の世界にまた行って戻れないと → それは向こう側の世界に囚われてしまい戻れないと
2012/06/07 記述修正 と言う意味なのか → と言う事なのか
2012/06/07 記述修正 無い訳では無い、か → まだ無い訳では無い
2012/06/07 記述修正 今までと違った関係へと → 今までと違った関係に
2012/06/07 記述修正 恐らくだが変わっていない気がする → 恐らく変わっていない気がする
2012/06/07 記述修正 当然後者に対して → 後者に対して
2012/06/07 記述修正 同情的な感情が湧く → 同情的な感情が湧くのは当然だろう
2012/06/07 記述修正 色んな余興があるから → 色んな余興があって
2012/06/07 記述修正 楽しみに待っていてよ → 楽しみに待っててよ!
2012/06/07 記述修正 僕がやったと思っている? → 僕がやったと思ってる?
2012/06/07 記述修正 血が流れ出ていて → 出血の痕があり
2012/06/07 記述修正 鮮血が溢れて流れ出続けていた → 今も鮮血が溢れ出ている
2012/06/07 記述修正 ぶつかった打撃でよろめき → ぶつかった衝撃でよろめき
2012/06/07 記述修正 この様な姿をした紅白の道化師は → この様な全身紅白の姿をした道化師は
2012/06/07 記述修正 白塗りの顔には口角を上げた → 口角を吊り上げた
2012/06/07 記述修正 両手とも何も持ってはおらず、その手は明らかに → 何も持っていない両手を明らかに
2012/06/07 記述修正 私の方へと向けられている → 私の方へと向けていた
2012/06/07 記述修正 そこは帽子の角部分と → そこは帽子の角の部分と
2012/06/07 記述修正 私の所には何も起きない状態へと → また以前の様に何も起きない状態へと
2012/06/07 記述修正 ズボンを吊っている → ズボンを吊り下げた
2012/06/07 記述修正 紅白の横縞をした → 紅白の細かい横縞をした
2012/06/07 記述修正 細かい紅白の縦縞をした → 様々な幅で並ぶ紅白の縦縞柄の
2012/06/07 記述修正 もっと彼とも親しくしておくべきだった → もっと彼に歩み寄っておくべきだった
2012/06/07 記述修正 間違いない事実だろう → 間違いない未来だろう
2012/06/07 記述修正 触覚と痛覚と嗅覚等の → 触覚と痛覚と嗅覚の
2012/06/07 記述修正 緩んでいるかに見える → 緩んでずり落ちているかに見える
2012/06/07 記述修正 指程度の太さの腕輪をしている → 艶のないくすんだ色合いをした指程度の太さの腕輪を嵌めている
2012/06/07 記述修正 更に首が短いのもあり二重顎になっていて → 更に首が短い所為もあってか二重顎で
2012/06/07 記述修正 情報の大半を持っていたのも → 情報の大半を把握していたのも
2012/06/07 記述修正 矛盾もない言論も容易い → 矛盾のない言論も容易い
2012/06/07 記述修正 手と逆の配色の靴下が見えていて → 手袋と逆の配色の靴下が見えており
2012/06/07 記述修正 余裕のある作りをしていて → 余裕のある作りをしており
2012/06/07 記述修正 裾の処理は腕の裾と同じだった → 裾の処理は腕と同じだった
2012/06/07 記述修正 ジグザグになっていて → ジグザグになっており
2012/06/07 記述修正 赤い巻き毛で覆われていて → 赤い巻き毛で覆われており
2012/06/07 記述修正 飛び跳ねながら語っていた → 飛び跳ねながら喋っていた
2012/06/07 記述修正 私へと落下してぶつかり床に落ちた → 私へと落下してぶつかり床に落ちたそれは
2012/06/07 記述修正 道化師の言う贈り物とはある意味私が望んでいた物 → 道化師の言う通り私が望んでいた物
2012/06/07 記述分割 いや望んでいた者、“嘶くロバ”、正確には“嘶くロバ”の → いや望んでいた者ではあったが、だがしかしそれは私の思う形と違い、かなり欠けていた。それは“嘶くロバ”の
2012/06/07 記述修正 君が欲しかった物だと → 今君が一番欲しがってる物だと
2012/06/07 記述修正 判断が出来ずに躊躇っていると → 判断出来ずに躊躇っていると
2012/06/07 記述修正 約半分程度の小柄な男で → 約半分程度しかないとても小柄な男で
2012/06/07 記述追加 道化の言葉では~
2012/06/07 記述追加 道化師以外の何者かに~
2012/06/07 記述追加 唐突に消えた後~
2012/06/07 記述追加 原因はともかく~
2012/06/07 記述修正 私の元へと、大きな何かを宙に放り投げた → 私の元へと目掛けて、何かを宙に放り投げた
2012/06/07 記述修正 眉毛は左右とも帽子で隠れている訳では無いが → 眉毛は左右とも目深な帽子で隠れているのか
2012/06/07 記述修正 額は帽子を被っているので → 額は帽子を目のすぐ上まで深々と被っているので殆んど見えず
2012/06/07 記述修正 はっきりとは判らないが、かなり狭く見える → 詳細は判らない
2012/06/07 記述修正 男が軽々と投げて来たそれは → 小男が軽々と投げて来たそれは
“嘶くロバ”が姿を消してから一ヶ月が経過した。
この間は相変わらず一切の召喚も発生せず、闇の世界には文字通り一瞬の瞬きすら見られる事は無かった。
完全な静寂の中で、私は改めて彼の正体について考えていた。
全ての黒幕はロバの紳士ではなかったのかと言う疑念は、当初から現在に至るまで、多かれ少なかれ抱いていたものの、この現状はそれを裏づけている様にも思える。
向こう側の世界での情報の大半を把握していたのも、裏を返せばそれらを全て仕込んだ当人であれば、判っているのも当然であり、矛盾のない言論も容易い。
だが“隠者”や黒い巨竜に関しては、徹底して否定しかしていなかったのは、完全過ぎない様にと配慮した演出なのかも知れないが、少々疑問も残る。
仮に“嘶くロバ”が黒幕だったとして、この一連の演劇に一体何の意味があったのかについては、全く検討もつかない。
とにかく今現在明らかな事実なのは、また以前の様に何も起きない状態へと、戻ってしまった事だけであった。
今の私には彼へ呼び掛けて見る事と待ち続ける事、それだけしか出来ない日々が続いた。
“嘶くロバ”が姿を消してから、百日が経過した。
召喚の起きていた頃の事は、既に遠い過去の思い出になりつつあった頃に、それは唐突に現われた。
目を覚ますと私の前に、何者かが現れていたのだ。
一瞬、“嘶くロバ”が戻ったのかと思い声を掛けようとしたが、強い違和感を本能的に感じてそれを留めた。
それは目の前に現われた者の容姿が、以前の“嘶くロバ”のそれとは掛け離れていたからで、そこに居た者を一言で表せば、道化師の姿をした背が低く小太りな男だった。
ロバの頭部をしていた“嘶くロバ”に比べればより人間的な姿である筈なのに、何故か理由は定かでは無いが、この人間からはロバの紳士よりも不気味で異様な印象を受けたのは間違いない。
身長は“嘶くロバ”の約半分程度しかないとても小柄な男で、顔や体型は下膨れなのが目につく。
頭には如何にもピエロの被っている様な、先が二又に分かれた帽子を被っていて、この帽子の高さは男の顔の二倍はある。
その形状は、上部から弧を描いて左右に分かれており、配色は右半分が赤く、左半分が白くなっている。
垂れ下がった先端の部分には、左右共に丸い球状の飾りが付いていて、そこは帽子の角の部分と逆の配色になっており、右側が白く左側が赤い。
皺の無い下膨れの顔は、身長や体つきと比べると大きく、白塗りなのか死体の様に真っ白い。
額は帽子を目のすぐ上まで深々と被っているので殆んど見えず、詳細は判らない。
両目の間の距離はかなり狭くて、右眼は非常に細い一重で殆んど開いておらず、対照的に左眼は二重で虹彩周辺の白目も全て見える程開かれていて、まさに飛び出さんばかりのぎょろ目をしており、右眼が細くて判り辛いが視線は一致しておらず、恐らく藪睨みであろう。
虹彩はアルビノなのだろうか両目とも真っ赤で、眉毛は左右とも目深な帽子で隠れているのか、全く見当たらない。
鼻は見開いた左眼と同じくらいの大きさをしている、球状の赤い付け鼻を付けていて、実際の鼻の形状については確認出来ない。
赤い付け鼻には何故か、顔の幅と同じ長さの鼠の様な髭が、左右三本ずつ狭い放射状に生えている。
血の気の無い真っ白な頬は頬骨が高く、肉付きが良いのもあって、まるで風船の様に丸く膨らんで見える。
細い右眼の下には、赤い雫状の血の涙を表すかの様な模様が描かれていて、それに対して左頬には赤い星型の模様が描かれている。
口は付け鼻のすぐ下にあり、輪郭から比較してもかなり大きく、横に裂けている様に見えており、上下の唇はとても分厚くて更に化粧で赤く塗られている様だ。
顎は真ん中で二つに割れており、更に首が短い所為もあってか二重顎で、下膨れをより強調している。
耳は帽子の下の顔の脇にある赤い巻き毛で覆われており、その形状は殆んど見えていない。
巻き毛の下から僅かに見える耳朶には、右耳には天使の片翼らしき形の銀色の耳飾りが、左耳には悪魔の片翼らしき形の黒色の耳飾りが、それぞれぶら下がっている。
短い首には、肩と同じ幅のある幾重にも重なった白い襞襟を着けていて、本来の首は全く見えない。
大きな顔と比べて肩幅の狭い上半身は、様々な幅で並ぶ紅白の縦縞柄の、ボタンやポケットの一切無い長袖の道化服を着ている。
上着の裾は大きくジグザグになっており、それぞれの頂点部分には宝石と見紛う赤や白の小さな輝く飾りが、紅白交互に並んで付けられていて、それが光に反射し赤や白の輝きを放っている。
この裾は、男の膨らんだ腹を隠すには丈が足りておらず、紅白縞のシャツの下に着ている黒い肌着が、シャツとズボンの隙間から覗いている。
腕は細くて短く、袖の先は手首の太さまで窄んでから、花弁の様にシャツの裾と同じくジグザグに広がり、その先端にも更に小さな宝石の如く輝きを放つ、赤と白の飾りが付けられている。
右手首には蛇が自分の尾を咥えている様な意匠の、艶のないくすんだ色合いをした指程度の太さの腕輪を嵌めている。
左手首には全体的に捻じられている意匠をした、片方の面は銀色に輝いているがもう片方の面は赤黒く錆びて見える、平たい帯状の腕輪をしている。
僅かな差だが、どうも左腕の方が長く、右腕の方が太いらしい。
手には帽子とは逆の配色の、右手には白い手袋を、左手には赤い手袋をしていて、指は細く長いらしいが僅かに違和感を感じるものの、良く見えておらず詳細は判らない。
下半身はシャツと同様の柄をしたズボンを穿いていて、出っ張った腹の頂点部分でズボンを吊り下げた、紅白の細かい横縞をした太いサスペンダーをしている。
ズボンを留めている、左右それぞれ二つに分かれた大き目の四つの金具は、トランプのスートであろう、スペード、ハート、ダイヤ、クラブの形状になっている。
腿や脛は太くて短く、ズボンもそれに余り有る様な幅に余裕のある作りをしており、腿から足首の部分まではかなり余裕があるが、足首の少し上で窄まっていて、裾の処理は腕と同じだった。
足首は、手袋と逆の配色の靴下が見えており、右足には赤い靴下、左足には白い靴下を履いている。
足首の太さも左右で異なっていて、左足の方が細いのか、白い靴下が緩んでずり落ちているかに見える。
かなり大きな足をしているのか、それともそういったデザインなのか判らないが、とても長い靴を履いていて、爪先は上へと反り返り、そこには帽子の先端と同じ球状の飾りが付いている。
配色は帽子とは逆で、右足の靴は本体が白くて球状の飾りが赤色、左足の靴は本体が赤くて球状の飾りが白色をしている。
この様な全身紅白の姿をした道化師は、口角を吊り上げた満面の笑みを浮かべ、何も持っていない両手を明らかに肥満体の出っ張っている腰へと当てて、藪睨みの目は多少焦点がずれてはいるが、両目とも私の方へと向けていた。
本来なら微笑ましく愉快で滑稽な道化師なのかも知れないが、私にはどうしてもこの者が“嘶くロバ”よりも人間的には見えなかった。
顔や所々の体の部位が歪だからなのかとも考えたが、それを言ったらロバの紳士はそもそも人間ではない。
そういう次元では無い意味で、とても異質なものを感じて仕方が無く、そしてそれは理由は判らないものの、とにかく不快な印象が強かったのも大きい。
この人間らしい姿をした道化師は、とても人間らしからぬ雰囲気を醸し出している、そんな風に感じていた。
それはまるで、獣が食べ物と毒物を本能的に嗅ぎ分ける様な感覚で、受け付けない存在だと私は悟った。
これ程の強い拒絶を感じた存在はこれまでに見た事が無く、だからこそ私は、次の行動をどうすべきかについて苦慮していた。
この者はほぼ間違いなく“嘶くロバ”では無いだろう、もはやトレードマークとも言える、ロバの頭で無いのを差し引いても、違うような気がする。
だが今回はたまたま、頭がロバではない姿を取っただけかも知れない、などと言う可能性が有り得るのかと言う疑念も一瞬浮かぶが、あれだけ拘っていたのに果たして変えて来るだろうか。
その確率は極めて低いのではないかと思えるが、かの紳士を最後に見た状況を考えるとその目的は読めないものの、何か別の者を装って現れこちらを混乱させる必要があり、それを敢えて狙って来たとも考えられなくもない。
私は猜疑心に囚われて、どう対処すべきか判断出来ずに躊躇っていると、この小さな道化師は状況を把握出来ずに混乱する私へと、平然と耳障りな甲高い声で話し掛けて来た。
「やあ! 君と会うのは初めてだったね?
始めまして、僕はジェスター、或いはクラウン、又はジョーカー、今はクラウンさ!
おやおやおや? 随分と警戒されちゃってる感じだね、これでも出来るだけびっくりさせない様に、結構気を使ってきたんだけど。
ま、しょうがないか、変に馴れ馴れしくされてもちょっと気持ち悪いしね、丁度このくらいの距離感が普通なのかな?
今日はとりあえず挨拶だけしに来たんだけど、会いに来といて手ぶらって言うのも失礼かなって思ってね、ちょっとしたお土産を持って来たんだよ。
多分、今君が一番欲しがってる物だと思うんだけど、是非受け取って欲しいんだ!」
そう言ってこの道化師は、くるりと体を半回転させた。
そしてその後すぐに、掛け声と共に真後ろにいる私の元へと目掛けて、何かを宙に放り投げた。
それは高い放物線を描いてクルクルと回転しつつ、落下しながら私へと迫り、そして衝突した。
小男が軽々と投げて来たそれは、思いの他大きくて重く、そして濡れていた。
私の白い体はそれがぶつかった衝撃でよろめき、それと同時に苦痛を感じ、白く大きな胴体はそれから流れ出た液体で赤く染まっていた。
私へと落下してぶつかり床に落ちたそれは、道化師の言う通り私が望んでいた物、いや望んでいた者ではあったが、だがしかしそれは私の思う形と違い、かなり欠けていた。
それは“嘶くロバ”の、切断された生首だった。
まるでチェスのナイトの駒の様に、ロバの首から上だけとなった“嘶くロバ”は、目は見開かれ鼻孔や口からは出血の痕があり、首の切断面に至っては今も鮮血が溢れ出ている。
これが“嘶くロバ”の生首だと判った途端に、咽る程の濃厚な血の匂いを感じて、私は吐き気を覚えた。
吐き気を堪えつつ、床に落ちた血塗れのロバの生首を見ながら、これが本当にあの紳士の変わり果てた姿なのかを疑い、彼の毛並みの特徴を思い出して見比べると、やはりかなり一致しているのが判り、本物である可能性が高まった。
残念ながら私には、幾多のキマイラとしての失敗も含めた召喚で、動物の顔も個体差を見分けられる自信があっただけに、余計にこの結果に対する精神的な衝撃は大きかった。
しかしこれは本当に、“嘶くロバ”なのか、そうだとしたら、どうして彼は殺されているのか。
疑問の上に疑問は降り積もり、更に新たな疑問を呼び起す悪循環に陥る意識を断ち切ったのは、疑問を齎した当人の甲高い声だった。
「あれれれれ? もっと驚いたり喜んだりしてくれるって期待していたんだけど、思ったよりも冷静だったねえ、ちょっと予想外。
でもその様子だと、これが本物かどうかは察してくれたみたいだね?
僕は新たな友人に対して、紛い物を渡す様な酷い事はしないよ、これは正真正銘、“嘶くロバ”の首さ!」
いつの間にか、こちらに向き直っていた紅白の小太りな道化は、さもそれが嬉しくて仕方が無いらしく、最後の方は飛び跳ねながら喋っていた。
この僅かな対話の中だけでも、実に様々な混沌を作り出した紅白の道化師は、サスペンダーのゴムを両手で伸ばしつつ、スキップの心算なのか辺りを飛び跳ねながら、更に言葉を繋ぐ。
「うーんとねえ、面倒くさいから詳しく説明しないけど、そいつは失敗したんだよ。
だからそうなっちゃった、それだけだよ、それだけ。
えぇっと、僕がやったと思ってる? そこは重要じゃないんだけどなあ、それにそんなのすぐにどうでも良くなるよ、きっと。
だってさ、君、それどころじゃなくなるから!
そんな事よりさ、これからはこんな粗末な所じゃなくって、もっと良い所へ招待してあげるよ、楽しくて愉快な所へね!
きっと君も気に入ってくれると思うんだ、僕の左眼と同じくらい目が飛び出る程驚かしてあげるから。
あ、そこには僕達以外の人も居るから、ここと違って寂しくもないし良いでしょ?
それからちょっとした遊びに付き合って貰うんだけど、ま、それはその時に説明すればいっか。
色んな余興があって、絶対に退屈させないから、楽しみに待っててよ!
勿論勝てば何かを手に入れる事が出来るし、望んだ事が叶うかも知れない、それも期待して良いかもね。
ちなみに僕との遊びは体を使って遊ぶから、これからはこっちでも大事にしないと駄目だよ?
後ねえ、そいつやこの陳腐な場所とももうすぐお別れだから、せいぜい最後のひとときをそれと一緒に堪能しててよ、次に目が覚めた時から始まるからさ。
じゃあ、またね!」
それだけ言うと道化師は宙返りと共に一瞬で姿を消して、私の所にはロバの首だけが残された。
私は暫く、たった今起きた事象を考え直していた。
見知らぬ怪しげな道化師が現れた事や、“嘶くロバ”が殺害されたのは衝撃的であったが、それ以外にも大きな事実があった。
それはあの小男も触れていたが、吐き気を催した血の匂いや生首がぶつかると言う現象が起きた事実からして、ここに私の体が実体を伴って、触覚と痛覚と嗅覚の感覚があったと言う事だ。
全てがあのピエロの仕業であるらしく、今はもう血の匂いは感じられず、打撲した部分も痛みは無くなっているし、体についた血の汚れも消えていた。
これはつまり、あの道化師が私を実体化させていたと言う事になる。
“嘶くロバ”との会話では、この世界で実体を持てる様な事は、一度も語られていなかった筈だ。
あの道化師の力が特別なのか、それとも実はロバの紳士も知っていたが隠していたのか、そこは判らないが、とにかくここでも意思疎通の為だけの幻影ではない、実体を持つ事が出来るのは事実だ。
自分の事を、三つの名で名乗ったあの男は一体何者なのか、それは次回の遭遇時に判明するのだろうか。
それを私は未だに血を流し続ける、変わり果てた“嘶くロバ”の首を眺めながら、考えていた。
“嘶くロバ”は常に私にとっての味方であったかと言われれば、それは素直に頷けない点もあり、謀られているのではと思わないでもなかったのは事実だ。
だが先の邪悪な道化師と比べれば、それは大した悪意とは思えず、言ってみればロバは性悪程度の、よっぽどまともな隣人であったと言える。
初見であるから詳細は不明だが、唐突に現れて知人であった紳士を殺した証拠として、死体の一部を投げ渡し、悪びれる事も無く笑い転げていた人非人と、それまでの間ずっと対話してきた被害者を比べれば、後者に対して同情的な感情が湧くのは当然だろう。
道化の言葉では、“嘶くロバ”を殺したのは自分では無い事を暗に説明していたかに聞こえたが、死体の一部を持って来たのは間違いない事を考えると、あれが殺害に関与している筈だ。
道化師以外の何者かに殺された原因として私が思いつくのは、最後に紳士が行なう事を宣言していた、何かを見出す目的だった遠征だろうか。
唐突に消えた後、彼は遠征に旅立って不慮の死を遂げたのか、或いは旅立つ前に襲われてしまったのか、この辺りも一切の情報が無いので推測しか出来ない。
原因はともかく、直接手を下したのではないにせよ、あの道化の意思に基づいて紳士は殺されたと判断して良いのだろう。
その非道振りも然る事ながら更に気に掛かるのは、道化師の一番最後の言葉で、こことはお別れと言うのは、この闇の世界へは帰って来れないと言う意味なのだろうが、それは向こう側の世界に囚われてしまい戻れないと言う事なのか、それとも次に眠ったら別世界にでも誘われると言う事なのか、そこまではどうも良く判らない。
しかしどちらにせよ、今となってはすっかり無口になってしまった、首だけの紳士に尋ねてみても、答えが返る事はなさそうだ。
闇の世界自体はどうだったのかは判らないが、召喚のトンネルが現れないのは、やはり何かしら“嘶くロバ”が関与していたのかも知れないと思える。
これからは、あの道化師が何かを仕掛けて来る、これは間違いない未来だろう。
まさかこんな形で紳士が最期を迎えるとは、予想していなかった。
こんな事になるのなら、もっと彼に歩み寄っておくべきだったのだろうか。
いや、たとえこの事態が判っていたとしても、今までと違った関係になっていたかと言えば、全く根拠は無く完全な憶測でしかなかったが、恐らく変わっていない気がする。
まだ本当にこれが彼の首だとは言い切れないが、その疑念を晴らすには、当人が生きて再び姿を現しでもしなければ、難しいだろう、だがこの生首も含めて、何かの演出の可能性もまだ無い訳では無い。
暫く感慨に耽って今までの出来事を回想しながら、虚ろな目をした血塗れの“嘶くロバ”を無言で眺めていた。
これ以上見ていても埒が空かない、そろそろ潮時か。
私は最後に一応別れの言葉を掛けて、“嘶くロバ”の首を一瞥した後、背を向けてから目を閉じると、新たなる展開へと進み出した……
第十七章はこれにて終了、
次回から第十八章となります。