序章 其の六 嘶くロバの話 神眼の名医 其の二奇跡の功罪
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2010/09/23 誤植修正 召還 → 召喚
2011/01/03 誤植修正 以外 → 意外
2011/08/24 行移動 自ら進んでその身を~ → 下行移動
2011/08/24 句読点変換 “。” → “、”
2011/08/24 句読点削除
2011/08/24 文字変換 半角 → 全角
2011/09/12 誤植修正 位 → くらい
2011/09/12 記述統一 1、10、100 → 一、十、百
2011/09/14 誤植修正 沸いて → 湧いて
2011/09/18 誤植修正 直らない → 治らない
2011/09/18 誤植修正 乗せて → 載せて
2011/09/18 記述修正 吾輩の左側に横たえ → 吾輩の左側に横たえると
ここで、時間は少々戻り、吾輩の話に戻す。
吾輩もまた貴殿と同様に、この闇の世界で何も出来ずにいた。
時折、闇の中に一瞬瞬くような光らしきものが見えたり、何かの声が聞こえたような気がしたりするのを、繰り返す日々だった。
だがそのうち、ある光点だけが、他より大きくなっているのに気づいた。
この光は日を追うごとに大きくなっていき、近づいてくるかのように見えた。
更に大きくなると、その光点は白く光る円状のものが、こちらへ向かって進んでいるのが分かった。
そして最後にはその光は目の前までやってきた、それは乳白色に薄く光る筒状のトンネルだった。
このトンネルからは、根拠はなかったが、不思議と危険は感じず、吾輩は促されるままにその光のトンネルに取り込まれた。
トンネルの中は、今までとは違う一面白い世界で、そこに居たのはほんの数秒も無かったのだが、その時に女の声を聞いた。
その女の声の言葉は、全く聞き覚えがない古めかしいような独特な言語であったが、何故か意味を察することができた。
娘と私の魂も体も全てをここに捧げます、どうか夫から目を奪わないで下さい、と。
で、その後すぐに意識を失い、目が覚めると、暗くて広い空間にある祭壇の上で目覚めたのだ。
生け贄となった女である、医者の妻の、娘の肉体に宿って。
吾輩は周囲を確認すべく、立ち上がろうとしたが、まず感じたことは、非常に体が重いことだった。
久しく持っていなかった肉体の重みなのか、別世界特有のものか分からないが、まるで石像であるかのようだった。
吾輩はよろめきながらも、なんとか立ち上がる事が出来た。
そして、周囲を確認すべくあたりを見ると、祭壇の高さで見えていなかった、地面に寝ている女と、脇で短剣を見つめる男の姿を見つけた。
男は起き上がった時の音で気づいたらしく、こちらを見た。
吾輩はあの闇の世界に囚われて、それなりの時間を過ごしていたので、怪異が起きても大して驚くこともなく、おかげでこのような展開にも、動揺せずにいることが出来た。
ここに来る前に聞こえた声が、あの倒れている女で、今憑依しているのがその娘か。
あの女は恐らく、娘を殺したのち自らを刺して生け贄となった、あの声はその最期の願いだったのだろう。
そしてそれを、恐らく夫であるあの男が見つけた、こんなところであろうか。
男はこちらを見つめたまま、身動き一つせず、また声を発することもせず、凍りついたように止まっていた。
まぁ、死んでいたはずの人間が動き出せば、それは驚くだろう、それはこの世の理に反するものだから。
しかしあの女は、こうなることを知っていたのかどうかは、もはや知る由も無いが、その理に反する奇跡を起こして見せたのは事実だ。
吾輩は、そろそろ行動に出てみようと思い立った。
あの女は吾輩を神か悪魔の類として、この儀式で呼び出したのは間違いない。
では、今の私はそういった超自然的存在なのだろう、ならばそれに相応しく振舞うとしよう。
だがここで疑問に思う、果たして、生け贄となった死者の体に入り、一体何が出来るのだろうか。
立ち上がるだけでも、とてつもない重労働だったことを踏まえると、人並みに動くことすら難しそうだ。
それとする事といえば、女が最期に言っていた願いであろう、夫から目を奪わないでくれとは、どういう意味だろうか。
少々考えてみたがわかる筈もなく、吾輩は、この願いについて、先ほどから身じろぎ一つせず、こちらを凝視する男に尋ねることにした。
声は意外にもあっさりと出すことが出来た、声色は娘の声帯から発したはずだが、どこか異なる響きのある声が出た。
死んだはずの娘の口から、娘の声とは異なる声色と言葉使いで、呼びかけられた男は、一瞬驚愕の表情に変わったがすぐに表情を戻した。
肝が据わっているのか、それともこの展開を聞かされていたのか、吾輩には判断つかないが、半狂乱になったり、逃げ出すような気配はないのでひとまず安心した。
吾輩は、女の言葉の意味を再度男に尋ねた。
男は、しばらく黙っていたが、考えがまとまったらしく、説明を始めた。
その説明により、吾輩は、この医者である男の目を治す為に、この医者の妻に娘を犠牲にして呼び出されたことを理解した。
男の話を聞いている間、だんだんとこの娘の体は、更に動きづらくなってきているのに気づいた。
どうやら、この体は長くは持ちそうもない。
この死んでいる子供の体が動かなくなった時、果たして吾輩自身はどうなるのか、元の世界に戻るのか、それともこのまま消滅するのか。
吾輩はその不安を覚えたが、今はまず役目を果たしてから考えるべきと割り切って、考えを切り替えた。
次に吾輩は、召喚された神の立場になって考えてみた。
女が提供したのは、命を絶つことにより供された自分と娘の肉体と魂。
まずはこの憑依した娘のほうだが、体はこうしてこの世界に具現化する為に、すでに使われたと考えるべきか。
残るのは魂か、そんなものそもそもどこにあるのだ、と自嘲しつつ上を見ると、かくもあっさりとそれはそこにあった。
間違いないだろう、白い半透明の、この娘と同じ形をした霧など、それ以外考えられない。
魂は、祭壇の上部の宙を漂いつつ、こちらと両親を交互に見つめているように見える。
あの魂には、意思のようなものは残っているのだろうか。
吾輩はその疑問の解を得るために、娘の魂に呼びかけ、父親の目となるつもりがあるかを尋ねてみた。
娘の魂はその問いに頷いたように見えた。
自ら進んでその身を捧げたといった女の話は事実だったようだが、どうも魂には生きている人間と同様の意識があるようには見えない。
さて、次は女のほうだが、上には娘の魂しか見当たらないし、周囲を見ても見つからない。
女の魂が見当たらないところをみると、どうやらあの光のトンネルを作るのに、費やされてしまい、消滅したのだろうか。
これをまとめると、残っているのは、女の死体と、娘の魂。
本物の神なら、ここで男の目を治しつつ、女と娘を蘇らせたりするのかも知れないが、漠然とだが、そんな都合の良い奇跡の力が無いのが分かってきた。
あくまで、捧げられたものを使うことしか出来ないようだ。
後は今の吾輩がどのような力を持っているかだ、それを考えてみる。
女は吾輩を呼び出そうとしていたのではなく、男の目を癒せる存在を呼び出そうとしたはず。
その存在が持つ力なら、今の吾輩に宿っているかもしれない。
吾輩は男に、お前の妻が呼び出そうとした神について、尋ねた。
それが答えられなければ、ここまでの全ての犠牲は無駄になるであろう、と脅迫しつつ。
男は相変わらずの厳しい表情を崩さず、少し待って欲しいとだけ言うと、目を閉じた。
ここで急かすような言動は無益であろう、吾輩はかりそめの器としての、この体の硬直の進行を確認しつつ、男の返答をじっと待った。
実際に待っていたのはほんの十分もなかったろうが、吾輩にはその十倍にも感じられた。
男は再び目を開き、語りだした。
正直に言って、ここにあるものからは私には全く分からない、なので可能性の高いと思われるもののことを説明する。
妻の祖父の老医師の故郷に、伝わっていた多神教の信仰で、その神々の一人に医術も司る死と再生の神がいた。
その神は、患者のどんな隠れた病状や原因も見抜く目で患者を診て、癒しや再生の奇跡をその右手でもたらし、老衰や死などの命を奪う奇跡をその左手でおこなったと伝えられている、と答えた。
更に、確証はないが、妻が最期に神頼みとしてすがるのなら、恐らくこれしかない、と付け加えた。
今度はこちらが沈黙し、男の回答について考察する。
しばらくの後、この男の言葉には偽りはないと吾輩は判断し、男の推測に賭けてみることにした。
その医術の神の力を得るのに必要な、力の源たる娘の魂を呼ぶと、魂は行うべきことを承知していたように、元の自分の体である吾輩にまっすぐに向かってきた。
そして、吾輩の宿る、元の自分の肉体に吸い込まれ、消えた。
すると今までただ鉛のように重いだけの体の内側から、なんとも表現するに難しい力が湧き上がるのを感じた、これが神の力なのだろうか。
その力は、先ほど娘の魂が入った、体の中央から湧き出ていき、一度手足や頭の先などの体の末端まで達したあと、頭、正確には目だろうか、それと両手へと集まっていった。
これだけ強大な力でも、やはり消耗していくようで、時が経つに従い弱まっていくのを感じて、時間の猶予はあまり無いことを理解した。
神の力が消耗してしまう前に、この男を癒すのだ。
まずは病状の確認をと吾輩は神の目で男を診た、眼球があるべき箇所から、どす黒いオーラのようなものが流れ出ているのが見えているが、眼球が見えない。
他の部位では、色は明暗こそあるものの、部位が欠落して見えるのは眼球だけだった。
吾輩は男に近づくように指示を出し、右手が届くところまで近づかせると、癒しを司る右手を男の目の上にかざす。
そして、吾輩はやり方などは分からないので、とにかく癒しの力が出るようにと強く念じる。
するとかざしている右の手の平から、先ほど集まっていた魂の力が薄れていくのと同時に、まるで暖かい光の玉を持っているかのような感覚を感じた。
しばらくその状態を維持した後に一旦止めて、再び男の目を診る。
しかし先ほどと状態は変わりなく、真っ黒のままであった。
これは癒しでは治らないことを表すのだろうと判断し、次にどうするかを考える。
癒しの右手だけではこの男の目は治せない、となると、左手で奪ったものを右手で与える、か。
吾輩は、女の死体に目をむけ、その顔を診た。
すでに死んでいるので全身黒くはあったが、各部位の輪郭は見えており目もまた同様だった、これは使えるのではないか?
吾輩は男に、女の死体を祭壇の上に載せて、吾輩の前に頭を向けて並んで寝るように指示した。
男は無言で頷き、妻の骸を祭壇に抱え上げ、吾輩の左側に横たえると、男は右側に仰向けとなり、目を閉じた。
まずは、女の目を奪う。
小さい娘の左手を、女の眉間にかざして、力を放つ。
閉じられている女の瞼がしぼんでいき、閉じられてはいるが、眼球の膨らみは失われたのを確認したところで、力の放出を止める。
この子供の手では包み込めるはずはない大きさだが、感覚としては掌の内側に小さな石くらいの大きさとなって、二つの眼球が取り込まれているようだ。
続けて、男の病んだ目を奪う。
ここからが最も難しいところだろう、生きている人間相手に力を行使するのだから。
とは言っても、やるしかないのは、吾輩もこの男も承知している。
吾輩はそれ以上は躊躇せずに、次の奇跡にとりかかる。
今度は男の眉間に左手をかざして、力を放つ。
女の時と同様に、眼球の膨らみがしぼんだが、男には変わった様子はない。
眼球が左手に入ったことを確認すると、その二つの小さな塊を投げ捨てるように、左手を振る。
すると左手のそばから、湧いて出たように唐突に二つの眼球が飛び出し、地面に転がった。
病んだ眼球は、表面こそはさほど問題なく見えたが、視神経のある裏側は腫瘍か何かでところどころ肥大化し、眼球の色も変色していた、あれが病巣だったのだろうか。
吾輩は、先ほど取っておいた女の眼球を左手から右手へと移し変える。
そして今度はその右手を男の眉間にかざし、力を放つ。
ここで、残る力がかなり少なくなっていることに気づいた吾輩は、体に残る力もかき集めようと、精神を集中する。
余りにも集中させ過ぎたせいだろう、吾輩はその娘の体に宿るための力も何もかも、その目に注いでしまったようだ。
吾輩は、急速に意識が引っ張られるような感覚を感じたが、それに対処する力はすでに無く、濁流に呑まれるように力の流れに呑みこまれていき、意識を失った。
その後、男が目覚めて、無事移植された女の眼球で見たのは、再びただの亡骸となり、倒れている娘だった。
そしてその風景を吾輩も同時に見ていた、吾輩は男の左目に憑依してしまったのだ。