第十三章 誕生と離散 其の二
変更履歴
2011/03/27 語句修正 碧玉 → 翠玉
2011/09/08 句読点修正 “、” → “。”
2011/11/29 記述修正 収まると → 治まると
2011/11/30 誤植修正 位 → くらい
2011/11/30 誤植修正 例え → たとえ
2011/11/30 誤植修正 乗せる → 載せる
2011/11/30 誤植修正 同じ所有者の意思を → 同じ所有者の意志を
2011/11/30 誤植修正 怪我の場合は早い点滅として → 怪我の場合は速い点滅として
2012/02/19 誤植修正 見守る続けていた → 見守り続けていた
2012/02/19 誤植修正 妙な角度曲がっている → 妙な角度に曲がっている
2012/02/19 誤植修正 頭を布切れを → 頭に布切れを
2012/02/19 誤植修正 被ってままの姿で → 被ったままの姿で
2012/02/19 誤植修正 これからの娘へと → これから娘へと
2012/02/19 句読点調整
2012/02/19 詠唱部整形
2012/02/19 記述修正 かつて見た、今や懐かしいとさえ思える、 → 今や懐かしいとさえ思える、かつて見た
2012/02/19 記述修正 判別する事が出来た → はっきりと判った
2012/02/19 記述修正 タンス → チェスト
2012/02/19 記述修正 娘の生命力を確認すると → 娘の状態を確認すると
2012/02/19 記述修正 取り戻す前に見た状態と → 取り戻す前に見た時と
2012/02/19 記述修正 泣き声を上げない様に → しかし幾ら泣き声を上げない様に
2012/02/19 記述修正 顔の下の所には → 顔の下に位置する床には
2012/02/19 記述修正 幾つも床に落ちて → 落ちており
2012/02/19 記述修正 光を反射している → 小さな水溜りとなって暖炉の火を反射していた
2012/02/19 記述修正 母親の寿命は → 命の光の様子からして、母親の寿命は
2012/02/19 記述修正 私の力で無理やり → 今や私の力で無理やり
2012/02/19 記述修正 生命の光へと変換して → 命の光へと変換して
2012/02/19 記述修正 ぼろぼろと涙を零し始めた → ぽろぽろと涙を零し始めた
2012/02/19 記述修正 ベッドの上を膝歩きで → ベッドの上を膝歩きで移動して
2012/02/19 記述修正 母親は、手に持っていた腕輪を脇に置いて → 母親は手に持っていた腕輪を脇に置いてから、
2012/02/19 記述修正 我が子を受け取り → 我が子を受け取って
2012/02/19 記述削除 意識を取り戻した様で動き出して、
2012/02/19 記述修正 自分は上半身を起こそうとして、すぐに → 自分は上半身を起こそうとしたが思う様に体を動かせず、
2012/02/19 記述修正 何とか起き上がった → 何とか起き上がってから、娘へと何か指示を出した
2012/02/19 記述修正 その後、娘に何か指示を出すと、娘は → 頷いた娘は
2012/02/19 記述修正 揺り篭の隣に → ベッドの脇にあった揺り篭の隣に
2012/02/19 記述修正 ベッドに置いてあったさっき使ったナイフと → 先程使ったナイフと
2012/02/19 記述削除 先程娘に切らせた傷からの出血は止まらず~
2012/02/19 記述結合 出血し続けている。これ以上何を望まれても → 出血し続けており、これ以上何を望まれても
2012/02/19 記述修正 もう無理だったろう → 叶える事は出来ない状態
2012/02/19 記述修正 胎内の傷にはもう → 先程娘に切らせた傷胎内の傷にはもう
2012/02/19 記述修正 傷は塞がる事無く出血し続けており → 傷は塞がる事無くベッドの血の染みは広がり続けていた
2012/02/19 記述削除 、これ以上何を望まれても、また蒼玉の首飾りの助力が無ければ、もう無理だったろう
2012/02/19 記述修正 十分程度だっただろうか → 十五分程度だっただろうか
2012/02/19 記述修正 涙を血で染まった手でずっと → 血で染まった手でずっと涙を
2012/02/19 記述削除 流し台に置いてあった、
2012/02/19 記述修正 左右の縁に繋がった取っ手の付いた → 左右の縁に取っ手の付いた
2012/02/19 記述修正 水が無くなった大鍋と言えども → 水が無くなったと言えども
2012/02/19 記述修正 娘の肩幅よりも大きく → かなり重く
2012/02/19 記述修正 大鍋を持ち上げたものの → 持ち上げたものの
2012/02/19 記述修正 その重さで椅子の上でバランスを取れず → 椅子の上でバランスを取れずに
2012/02/19 記述修正 椅子から転倒してしまい → 転倒してしまい
2012/02/19 記述修正 派手な音を立てて転がった → 派手な音を立てて床に転がった
2012/02/19 記述削除 先程意識を取り戻す前に見た時と、然程変化は無い様に見えたが、良く見ると
2012/02/19 記述修正 私はすぐに娘の状態を → すぐに娘の状態を
2012/02/19 記述修正 しかし娘はもう泣かないとでも → だが娘はもう泣かないとでも
2012/02/19 記述修正 一分もせずに死ぬのは → 十分ももたずに死ぬのは
2012/02/19 記述修正 皆目見当が付かない → 皆目見当がつかない
2012/02/19 記述修正 第一それでは神の威厳は → それでは神の威厳は
2012/02/19 記述修正 違う方向へ行ったり → 違う方向へ向かったり
2012/02/19 記述修正 ぶつかったりをしながらも → ぶつかったりしながらも
2012/02/19 記述修正 私は母親の出産の → 私も母親の出産の
2012/02/19 記述分割 色々と考えてみるが、生命力を操るだけで → 色々と検討してみた。だが生命力を操るだけで
2012/02/19 記述修正 情報が無い事もあり → 情報が無い事もあって
2012/02/19 記述修正 これ以上の支援は出来ず、せいぜい出来るのは → せいぜい出来るのは
2012/02/19 記述分割 判別がつかなかったのだが、どうも母親の → 判別がつかなかった。母親の
2012/02/19 記述修正 かなり衰弱しているのと → かなり衰弱し
2012/02/19 記述移動 母親の様子を見るに~
2012/02/19 記述修正 心配してしきりに → しきりに
2012/02/19 記述修正 この段階では、母親と胎児は常に命の残量を → 母親と胎児の命の残量は常に
2012/02/19 記述修正 母親が劇的に衰弱しているでも無く → 母親の容態が急変した訳でも無く
2012/02/19 記述修正 このまま産み出す力も無く → このまま
2012/02/19 記述修正 居られる訳は無くて → 居られる訳は無く
2012/02/19 記述修正 娘は今にも泣き出しそうな表情で → 娘はまた泣き出しそうな表情でありながら
2012/02/19 記述修正 掴んだナイフを入れて行く → 掴んだナイフを挿れて行く
2012/02/19 記述修正 青の光は出ておらず → 青い光は出ておらず
2012/02/19 記述修正 しかし既にこの時、首飾りからは → それを裏付ける様に既にこの時には、首飾りからは
2012/02/19 記述修正 首飾りからは青い光は出ておらず、もう役目を果たしたと判断していた様であったから → もう役目を果たしたと判断したのか、首飾りからも青い光は出ておらず
2012/02/19 記述修正 命の光そのものを受け辛く変質しつつあり → 受け付けなくなりつつあった
2012/02/19 記述削除 生命維持に必要な分の光も、母親の死に往く体が拒絶しようとしていた
2012/02/19 記述修正 そろそろ限界になりつつあったのだ → それは不可能になっていた
2012/02/19 記述修正 遺言や別れの言葉を → 時間的に遺言や別れの言葉を
2012/02/19 記述修正 言わば破戒者の願いを → 破戒者の願いを
2012/02/19 記述修正 この最期の言葉の通りに → 母親の望む通りに
2012/02/19 記述修正 延命していた力を絞ると → 延命していた力を止めると
2012/02/19 記述修正 体から零れ落ちて行き → 体から零れ落ちて
2012/02/19 記述修正 産み落とせずにいるのはもしや → 産み落とせずにいるのは若しや
2012/02/19 記述修正 今この母親にはこの胎児を → 母親にはこの胎児を
2012/02/19 記述修正 ここは試してみる価値はあるだろう → 試してみる価値はあると信じて
2012/02/19 記述修正 中の水を流してから、空になった大鍋を抱え上げようとしている → 中の水を流して、空にしてから抱え上げようとしていた
2012/02/19 記述結合 見守り続けていた。母親の言葉を → 見守り続けていると、母親の言葉を
2012/02/19 記述修正 小さく頷くのが見えており、 → 小さく頷くのが判った。
2012/02/19 記述削除 やはり母親は出産を手伝わせる心算なのだろうかと思える。
2012/02/19 記述修正 私が考察している間に → そうしている間に
2012/02/19 記述修正 立ち上がる事が出来ず → 立つ事が出来ず
2012/02/19 記述修正 傍にあった椅子に寄り掛かって → 傍にあった椅子に寄り掛かりながら
2012/02/19 記述修正 我が魂が、我が一族の → 私の魂が、一族の
2012/02/19 記述修正 「翠玉の大樹よ → 「……翠玉の大樹よ
2012/02/19 記述修正 つまり殺してくれと → つまりもう殺して欲しいと
2012/02/19 記述修正 残しておいて、下さい」 → 残しておいて、下さい……」
2012/02/19 記述修正 臍の緒を赤ん坊の腹の近い所を → 赤ん坊の腹の近い所で臍の緒を
2012/02/19 記述修正 ナイフを少し押し出してから → ナイフを少し突いて
2012/02/19 記述修正 後からは出血し始めて → 直後からすぐに出血し始めて
2012/02/19 記述修正 ベッドの上は血が広がって行く → ベッドの上に血の染みが広がり始めた
2012/02/19 記述修正 慎重に転がしながら暖炉の前まで運んで行く → 暖炉の前まで慎重に転がして運び始めた
2012/02/19 記述修正 鍋 → 大鍋
2012/02/19 記述修正 しっかりとした足取りで運んで行く → しっかりとした足取りで運んでいる
2012/02/19 記述分割 被ったままの姿で向かい、安定性が良いのか → 被ったままの姿で向かった。その持ち方は安定性が良いのか
2012/02/19 記述修正 私は実行する前に → 実行する直前に
2012/02/19 記述修正 全身も満たされていた筈の → 全身満たされていた筈の
2012/02/19 記述修正 最初の癒す前の様な → 癒す前に見たのと同じ
2012/02/19 記述修正 覆いかぶさる様にしていた → しがみ付く様にしていた
2012/02/19 記述修正 しかし幼い娘は正気に戻ると → 幼い娘はすぐに正気に戻ると
2012/02/19 記述修正 すぐに自分を呼んでいる → 自分を呼んでいる
2012/02/19 記述修正 腕を掴んでその腕を揺さぶっている → 腕を掴んで揺さぶっている
2012/02/19 記述修正 黒髪の娘は立ち上がると → 黒髪の娘は
2012/02/19 記述修正 ナイフを脇に置いた娘は → すると娘はすかさずナイフを脇に置いて
2012/02/19 記述修正 布切れを掴むと、その赤ん坊の頭に布切れを当てて赤ん坊を引っ張り出して → 赤ん坊を掴んで引っ張り出し
2012/02/19 記述修正 ベッドのシーツを掴みながら、体を横向きにしてから → 体を横向きにしてからベッドのシーツを掴み
2012/02/19 記述修正 喘ぎながら息を吐き出してを → 喘ぎながら息を吐き出すのを
2012/02/19 記述修正 数回繰り返して、大鍋に水を満たしていく → 数回繰り返して水を満たしていく
2012/02/19 記述修正 娘へと一時的に分岐させて → 一時的に分岐させて
2012/02/19 記述修正 回復を試みるしかないと決心した → 回復を試みるしかないと決断した
2012/02/19 記述修正 椅子を運んで来ると、そこに乗ってから → 椅子を運んで来ると、今度はそこに乗ってから
2012/02/19 記述修正 大鍋を持ち上げようとするのだが → 持ち上げようとするのだが
2012/02/19 記述修正 子供の力では持ち上げられない → 子供の力では動かない
2012/02/19 記述修正 大人用の椅子 → 大きな椅子
2012/02/19 記述修正 必要な物を見つけ出して → 必要な物を見つけ出すと
2012/02/19 記述修正 母親はずっと娘へと優しく → 母親は娘へと優しく
2012/02/19 記述修正 娘はとうとう決心したらしく → 泣き止んだ娘はとうとう決心したらしく
2012/02/19 記述修正 どうも途中で進まないのか、進めないのか → 何らかの理由で胎児が産道で閊えている
2012/02/19 記述修正 ではないかと、私は危惧していた → ではないだろうか
2012/02/19 記述修正 二時間は経過しているので → 三時間は経過しているのでは
2012/02/19 記述修正 寿命を延ばす権限すら持っていないこの器では → 寿命を僅かに延ばす事が精一杯なこの器では
2012/02/19 記述修正 せいぜい出来るのは → せいぜい出来ても
2012/02/19 記述修正 このまま放置してもいられない → このまま放置してはおけない
2012/02/19 記述移動 母親の体は時間が経過するにつれて~
2012/02/19 記述結合 血の染みは広がり続けていた。母親の体は時間が経過するにつれて → 血の染みは広がり続けていて、母親の体は時間が経過するにつれて
2012/02/19 記述修正 暖炉まで運ぶと → 暖炉まで辿り着くと
2012/02/19 記述修正 どうなるのか、これも予測出来ない → どうなるのか
2012/02/19 記述修正 恐らく腕は、さっき椅子から落ちた時に骨折しているのだろう → 椅子から落ちた時、腕は恐らく骨折しているのだろう
2012/02/19 記述修正 娘の名前らしい言葉を掛けているが → 名前らしい言葉を掛けているが
2012/02/19 記述修正 中の水を流してから → 中の水を捨ててから
2012/02/19 記述修正 右腕は少し妙な角度に → その右腕は少し妙な角度に
2012/02/19 記述修正 引き出し → 抽斗
2012/02/19 記述修正 最後の望みを → 最後の願いを
2012/02/19 記述削除 先程まであれ程健気に耐えていたのに、どうして急に変わったのか、
2012/02/19 記述修正 やはり母親は娘に手伝わせて → や母親は娘に手伝わせて
2012/02/19 記述削除 もうこれではっきりした様だ~
2012/02/19 記述修正 届いたならば → 届いたなら
2012/02/19 記述修正 信じております → 信じています
2012/02/19 記述修正 私の方へと見上げた後 → 再び私の方を見上げた後
2012/02/19 記述修正 点滅を繰り返していた → こうして点滅を繰り返していた
2012/02/19 記述修正 私は思い残す事は → 思い残す事は
2012/02/19 記述修正 聞き届けて頂き → 叶えて
2018/01/10 誤植修正 そう言った → そういった
床に倒れていた子供は、起き上がろうとしてはいるものの、まだ意識がはっきりしていない所為なのか、動作が緩慢ですぐに立つ事が出来ず、傍にあった椅子に寄り掛かりながら、ようやく立ち上がる事が出来た。
母親とは違う黒髪の娘は、まだ状況が理解出来ない様子で、呆けながらも私の気配を感じたのか、一度こちらを見上げた。
その見開かれた瞳の色は、今や懐かしいとさえ思える、かつて見た淡い水色の月の瞳をしているのが、この暗さでもはっきりと判った。
幼い娘はすぐに正気に戻ると、自分を呼んでいる母親の枕元へと駆け寄って、しきりに何かを叫びながら、母親の腕を掴んで揺さぶっている。
娘の悲痛な声からして、只ならぬ母親の容態を感じたのかも知れない、母親の名らしき言葉を呼ぶ娘の声は、途中から嗚咽へと変わって行く。
そんな悲しみに耐えつつ啜り泣きながら、自分へと語りかける母親の微かな言葉を聞き漏らすまいと、娘は零れる涙を両手で拭いながら、母親の口元に耳を近づけて、その言葉を理解しようと努力していた。
この間私は全力で母親へと力を注ぎつつ、この幼い娘の行動を見守り続けていると、母親の言葉を聞き取りながら、時折娘の頭が小さく頷くのが判った。
そうしている間に母親は娘への指示を終えたらしく、娘は母親へとしがみ付く様にしていた小さな体を起こすと、ベッドから離れて動き始めた。
娘はまず、食器棚とチェストの前に行くと、数箇所の抽斗を開けては幾つかの道具を取り出し始めた。
抽斗の中が暗くて見えないらしく、娘は抽斗に半ば入ろうとするかの様にして、手探りで母親に言われた品物を探している。
高い段の抽斗では、自分用の椅子や背の高い椅子を使いながら、自分が入れそうな大きさの抽斗を漁っていて、苦労しながら必要な物を見つけ出すと、テーブルには背が低くて届かないからだろう、もう一つある大きな椅子の座面に置いては、また探すのを繰り返していた。
チェストや食器棚から必要な物を探し終えた娘は、今度は炊事場へと向かった。
炊事場には、食器棚には入らない大きな調理器具が幾つか置いてあり、娘はその中から左右の縁に取っ手の付いた、一番大きな鉄の大鍋を取ろうとしていた。
しかし娘の小さな体では、満足に大鍋へと手が届かず力が入らない様で、それに気づいた娘は再びチェストの所へ行って、先程踏み台として使った自分の椅子を運んで来ると、今度はそこに乗ってから持ち上げようとするのだが、大鍋の中には水が入っていて子供の力では動かない。
そこで娘は大鍋を一旦傾けて、中の水を捨ててから抱え上げようとしていた。
水が無くなったと言えども、鉄で出来た大鍋はかなり重く、やっとの事で持ち上げたものの、椅子の上でバランスを取れずに娘は転倒してしまい、大鍋は派手な音を立てて床に転がった。
母親が陣痛の苦痛に顔を歪めつつ、娘の身を案じてそちらを見ながら、名前らしい言葉を掛けているが、蹲ったままの娘は動き出そうとしていない。
娘の体は小刻みに震えていて、左手は右の二の腕を押さえており、その右腕は少し妙な角度に曲がっている様に見える。
すぐに娘の状態を確認すると、右の二の腕と右の足首には変化が見られた。
この二ヶ所だけは、全身満たされていた筈の燐光の様な仄かな光は薄れて、癒す前に見たのと同じ短い周期の点滅をしているのだ。
どうやらこの緑色の光は、病の場合には緩やかな明暗を繰り返し、怪我の場合は速い点滅として、私の目に映るらしい。
椅子から落ちた時、腕は恐らく骨折しているのだろう、それと同時に足首も挫いたのだろうか。
だが娘はもう泣かないとでも誓ったのか、声にならない声を発して、体を丸めて必死に痛みに耐えているかに見えている。
しかし幾ら泣き声を上げない様に堪えてはいても、苦痛からは逃れられずに、うつ伏せに丸まった体の顔の下に位置する床には、堪え切れない涙の粒が落ちており、小さな水溜りとなって暖炉の火を反射していた。
この状況を見て、私はかなり悩んでいた。
母親の願望は子供等を救う事だ、だから腹の中の胎児を生きて出産させなければならないのだが、今は娘が動けなくなる程の怪我を負っていて、これもこのまま放置してはおけない。
しかし娘へと癒しの力を分けて与えた場合、母親の生命が維持出来るのかと言う点に、耐えられると言う確信が持てないのだ。
命の光の様子からして、母親の寿命はもう既に切れてしまっていて、今や私の力で無理やり延命が出来ているだけで、何もしなければ十分ももたずに死ぬのは間違い無い。
母親を殺せば、胎児は生きて生まれる事は無く、願望は達成出来ないし、一方怪我を負った娘の方は、母親と胎児に比べれば、すぐに命を失う危険があるとは思えないものの、小さな子供がいつ助けが来るとも判らない状況で、激痛に晒され続けるのにどれだけ耐えられるのか、また耐え切れなくなったらどうなるのか。
ただ失神するだけなのか、それともショック状態になってしまい、更なる悪い状態へと変わるのか、医師の知識を持たない私には皆目見当がつかない。
苦悩していた私へと、この時母親からの声が届いた。
「……翠玉の大樹よ、どうか、娘を。
娘を、お救い、下さい……」
母親として当然の願いなのは重々判るのだが、私としても今の段階で既に全力を注いでいるなんて事は、母親には伝わる筈も無く、ただ悲痛な祈りだけが私の元へと伝わり続けている。
私は意を決して、命の光を母親に回していた分から一時的に分岐させて、娘の怪我の回復を試みるしかないと決断した。
この間の母親の生命力の低下には不安があったが、ここで娘を救わなければ召喚された目的を放棄しているかに思えるし、それでは神の威厳は無いだろう。
私から見れば不自由で無力だと思える神であっても、それが人間達、特に信仰者達には絶対に知られてはならない、私にはそう思えるのだ。
実行する直前に改めて妊婦の様子を確認すると、手にしている糧の根源である翠玉の腕輪は、これ以上無い程に強く輝いているのが見えて、あからさまに限界の出力を行っていると感じられた。
この時右腕の緋玉の腕輪には、特に反応は無かったのだが、蒼玉の首飾りからは、翠玉の腕輪に呼応するかの様に青い光を発しているのが見えた。
蒼玉の首飾りの反応は、一体何を意味しているのだろうと私は疑問に思い、もう一度装身具についての情報を思い返しつつ、状況を考察する。
これらの装身具には、先祖の魂が糧の力として封じられているのなら、持ち主である母親の窮地を救う為に、翠玉の大樹としての私の声に応えてくれるかも知れない。
これが駄目なら、母親へと注ぐ力を割いて娘へと与えるしかなくなってしまうのだから、試してみる価値はあると信じて、私は首飾りへと意識を向けて、糧の供給の援助を念じた。
同じ所有者の意志を達成するべく、同格の神に対して私は助力を請うたのだ。
この私の試みは、封じられた魂の意思を動かしたのか、或いは蒼玉の女王へと届いたのか、真相は判らなかったが、首飾りは青く澄んだ輝きを帯び始め、私の元へと糧の供給が始まったのを感じて、成功したのが判った。
私は早速、首飾りからの糧を命の光へと変換して娘へと放ち、娘の怪我を癒して行く。
こうして点滅を繰り返していた娘の右腕と右足首の患部は、再び光り続ける状態へと回復して、体の震えも治まると、娘は再び顔を上げて立ち上がった。
何故痛みが引いたのか、それが腑に落ちずにしきりと腕や足を見ていた娘だったが、またしても何かを感じ取ったのか再び私の方を見上げた後、母親の呼び掛けで我に返って、落とした大鍋の所へと向かって駆け出した。
これで役目は済んだと言わんばかりに、蒼玉の首飾りからの糧の供給は止まったが、まだ完全には青い光は消えていない所からすると、要請には応じる心算はあるらしいと私は判断した。
この間に娘は、転がった大鍋を両手で抱えてから、頭から被る様にして持ち上げると、暖炉の所まで被ったままの姿で向かった。
その持ち方は安定性が良いのか、予想外にしっかりとした足取りで運んでいる。
そうして暖炉まで辿り着くと、体を屈めて被っていた大鍋の縁を床につけて、鍋を反転させて鍋底が下になる様に床へと一旦置いた後、両手で抱え上げながらかなり危なっかしい手際で、何とか暖炉の中のフックに取っ手を引っ掛ける事が出来た。
大鍋を掛け終えた娘は再び炊事場へと戻って来て、脇に置いてあった水甕から水を汲んでは、陶器のティーポットらしき容器に水を注いで満たし、それを暖炉まで慎重に運び、大鍋へと注ぐ動作を数回繰り返して水を満たしていく。
その後は、炊事場の脇に立て掛けてあった、娘の身長よりは僅かに低い直径をした大きな盥を、暖炉の前まで慎重に転がして運び始めた。
盥の縁は完全な垂直ではなく傾斜がついている為に、真っ直ぐには転がらず、何度か違う方向へ向かったり、椅子やテーブルにぶつかったりしながらも、何とか目指していた暖炉とベッドの中間辺りまで動かすと、横に倒してそこに置いた。
盥を置き終えた娘は、先程チェストや食器棚から出していた、テーブルの上に置いた道具の内、何枚もある布切れを母親のベッドの足元の方の脇に運んでから、その他の道具であるナイフや紐を置いた大きな椅子を、取り易い様にベッドへと寄せた。
回復した娘がこうして出産準備を行っている間に、私も母親の出産の支援がもっと他の形で出来ないのかと、色々と検討してみた。
だが生命力を操るだけで、寿命を僅かに延ばす事が精一杯なこの器では、情報が無い事もあって出来てもせいぜい、先程の様な不測の事態が発生した場合の治癒程度だと悟り、神の無力さを改めて痛感していた。
私が非力さに落胆している時、準備が出来るのを待っていたのか、母親の陣痛の苦痛に耐える声が変化し始めて、母親は娘へと何か指示を発すると、娘はその時を待ち受けるかの様に、母親の足の方で待機した。
胎児の命の光点は、極僅かずつではあるが下腹部へと移動しており、いよいよ出産が迫って来た様だ。
母親は体を横向きにしてからベッドのシーツを掴み、一定の周期で大きく呼吸を繰り返したかと思うと、息を止めて息んでは、喘ぎながら息を吐き出すのを、ひたすら繰り返している。
自分の愛する母親が悶え苦しむ姿を、今まで見た事など無かったに違いない娘は、母親の言いつけなのだろう、胎児が出て来るまでその場所から動こうとはせず、不安げに母の顔に目を向けつつ、じっと母親の様子を見ながら弟を取り上げる時を待ち続けていた。
暖炉の薪の燃え具合からして、母親の様子が変化してから、もうかなりの時間が経過した様に思われた。
この家の中には時計と言う物が無く、時を正確に計る術は無かったが、全くの当てずっぽうでしかない私の感覚では、恐らく三時間は経過しているのでは無いだろうか。
この頃には外の嵐の様な暴風雨は、かなり弱まって来ている様で、雨粒が叩きつける激しい雨音は、それほど聞こえなくなりつつある。
通常の出産における時間と言うものを、本来の私は知っていたのかどうかも判らないが、今現在の私は全く判らず、これが通常なのか、それとも時間が掛かり過ぎているのかの判別がつかなかった。
娘も最初は黙って待ち続けていたのが、今では段々と声が小さくなっていく母親へと、しきりに声を掛けていた。
母親と胎児の命の残量は常に確認し続けており、その確認結果からは母親の容態が急変した訳でも無く、胎児にも異常は見られないものの、どうも上手く進んでいない様に思われて仕方が無い。
母親の様子を見るに、かなり衰弱し力尽きてしまっている感は否めず、その顔からは焦燥感を感じて、危険な状態ではないかと思われた。
胎児の位置は最初に比べれば、下腹部寄りに移動していると思われたが、何らかの理由で胎児が産道で閊えている、そういった状況に陥っているのではないだろうか。
今すぐにどうこうはならないのかも知れないが、このままいつまでも居られる訳は無く、時間が経てば母子共に息絶えるだろう。
こんな状況であっても私には力を注ぎ続ける事しか出来ず、こうして与えている力を使っても産み落とせずにいるのは若しや、母親にはこの胎児を分娩する能力が、元々無かったのではないか、そんな気すらして来る。
だとしたら、どうして胎児にあれだけの光点が存在するのか、そして現実にこれから先の未来において、取り上げようとしている姉の手に掛かって殺されるまで、生存出来たのかが判らない。
どちらにせよこのままでは歴史は変わって弟は死に、私が体験してきた未来の出来事はどうにかなってしまうのだろうか、そんな不安に苛まれ始めた時に、母親が娘へと弱々しい声で何かを話し始めた。
娘はそれを聞いて、激しく頭を振りながら、驚きで見開かれた月の瞳から、ぽろぽろと涙を零し始めた。
母親は何を娘へと語ったのかがとても気になったのだが、それは私には言語として理解出来ない。
何度か母と娘との間でやりとりが行われた末に、泣き止んだ娘はとうとう決心したらしく、母親の元から離れて道具を置いた椅子へと向かうと、並べておいた道具の中からナイフを掴み、再び母親の足の方からベッドの上へと上がった。
そして娘がナイフを取りに行っている間に、仰向けに体勢を変えていた母親は、娘に短く指示を出すと同時に足を開いた。
娘はまた泣き出しそうな表情でありながらそれを堪えつつ、母親の胎内へとまず左手を入れてから、その後覗く様にしながら、恐る恐る慎重に右手で掴んだナイフを挿れて行く。
母親は呼吸を整えて、最後に深く息を吐いてから娘へと合図を送り、娘はその合図と共にナイフを少し突いて、一気に引き抜いた。
母親の胎内から引き出された娘の手とナイフは血で染まっており、ナイフを抜いた直後からすぐに出血し始めて、忽ちベッドの上に血の染みが広がり始めた。
それと同時に、母親は最後の力を振り絞って息むと、血塗れの赤ん坊の頭が、母親の股から顔を出した。
すると娘はすかさずナイフを脇に置いて、赤ん坊を掴んで引っ張り出し、ついに赤ん坊は母親から生れ落ちた。
娘はすぐに臍の緒も付いたままの赤ん坊を抱えて、ベッドの上を膝歩きで移動して母親へと差し出した。
母親は手に持っていた腕輪を脇に置いてから、娘から渡された我が子を受け取って、泣きも動きもしていないその赤子を胸の上に抱いた途端、赤ん坊は咽る様に羊水を吐き出しながら泣き出し、次第にその産声は大きくなっていく。
赤ん坊の無事を確認した母親は、ベッドのこちら側の脇に赤ん坊を置いてから、自分は上半身を起こそうとしたが思う様に体を動かせず、娘が手を貸して何とか起き上がってから、娘へと何か指示を出した。
母へと頷いた娘は、まず炊事場に倒れたままになっていた自分の椅子を持って来て、ベッドの脇にあった揺り篭の隣に椅子を置いてから、先程使ったナイフと新しい布切れを取って、その後に椅子の上から紐を取ると、再び母親の元へと戻って来た。
この頃にはもう落ち着いてきたのか、泣き声が小さくなって来た赤ん坊を抱いたまま、母親は娘から頼んだ物を受け取った。
その後母親は、赤ん坊を抱き上げて自分の膝に載せると、赤ん坊の腹の近い所で臍の緒を紐で括り縛ってから、その結んだ先をナイフで切断した。
そして赤ん坊の顔を軽く布切れで拭くと、それで体を包んで娘に手渡す。
娘はおっかなびっくりな様子で赤ん坊を抱くと、揺り篭の所へと歩いて行ってそこに静かに寝かせてから、新しい布切れをベッドの上から取って、赤ん坊の体に掛けたりしている。
この間に母親は私へと、恐らく最後の願いを語ってきた。
「……翠玉の大樹よ、私の望みを、叶えて頂き、感謝致します。
願わくば、あと少しだけ、あの子と、話をする時間を、お与え下さい。
それが叶えば、もう、これ以上は、望みません。
ですから、どうか、最後の願いを、叶えて下さい。
そして、これからの未来の為に、その御力を、残しておいて、下さい……」
先程娘に切らせた胎内の傷にはもう癒しの力も届かない様で、傷は塞がる事無くベッドの血の染みは広がり続けていて、母親の体は時間が経過するにつれて、命の光そのものを受け付けなくなりつつあった。
それを裏付ける様に既にこの時には、もう役目を果たしたと判断していたのか、首飾りからも青い光は出ておらず、たとえ私が母親を延命させたくても、それは不可能になっていた。
ここまでの延命でも、きっとかなりの腕輪の力の消耗になっているのをこの母親自身も自覚していて、死に往く自分にはこれ以上は要らない、つまりもう殺して欲しいと言う事だと理解した。
これから娘へと話をすると言っても、時間的に遺言や別れの言葉を掛けるくらいしか出来そうもないが、近い未来に、この腕輪の力であの子供の命を救う事になるのだろう、その時に必要な分の糧としては、まだ十二分には残っているので、もう暫くは大丈夫だろうか。
そして再度母親の元へと戻って来た娘へと、瀕死の母親は最後の会話を交わし始めた。
母親の今際の話は、時間にして十五分程度だっただろうか。
娘は悲しみに耐えて、血で染まった手でずっと涙を拭いながら、母親の言葉を聞いていた。
母親は娘へと優しく微笑み続けながら、説き聞かせるかの様に、ゆっくりとした口調で話をしているのが印象に残った。
そして最後に、母親は娘へと手を差し伸べると、娘は壁に寄りかかる様にしている母親へとしがみついて、号泣していた。
そんな泣きじゃくる娘の頭を撫でてやりながら、母親からの最期の言葉が私へと届く。
「……翠玉の大樹よ、私の様な、部族の掟を破った、
破戒者の願いを、叶えて頂き、本当に、ありがとう、ございました。
娘にはとても、辛い経験をさせて、しまいましたが、
きっと、この子なら、強く育ってくれると、私は、信じています。
私に受け継がれた、護符は、主人や子供達へと、託します。
彼らの、救済を願う声が、届いたなら、
どうか、その御力で、再びお救い、下さい。
これでもう、思い残す事は、ありません、この命は、お返し、致します。
そしてこの魂は、子孫達の為に、捧げます。
私の魂が、一族の礎となり、子孫達の力と、なれます様、
願わくば、新たな護符へと、お導きを……」
母親の望む通りに、私は延命していた力を止めると、緑の光は瞬く間に体から零れ落ちて、母親は忽ち死へと誘われて行く。
その過程には苦痛も無かった様で、母親は安らかな表情で死んで行き、娘を撫でてやっていた手は、次第にその動きが鈍り、やがて完全に止まった。
こうして、未来の修道女の姉と貿易商の弟の母親にして、三柱の神の護符の所有者であった少数民族の女は、多くの謎を抱えたまま、ここに息絶えたのだった。