第十二章 キマイラ3 其の二
変更履歴
2011/11/20 誤植修正 位 → くらい
2011/11/20 誤植修正 例え → たとえ
2011/11/20 誤植修正 意志を表す事は → 意思を表す事は
2011/11/20 誤植修正 泳ぐ速度も早くは → 泳ぐ速度も速くは
2011/11/20 誤植修正 固体 → 個体
2011/11/20 誤植修正 関わらず → 拘わらず
2011/11/21 記述統一 一センチ、十メートル → 1cm、10m
2012/02/08 誤植修正 檻の棒へと捕まった → 檻の棒へと掴まった
2012/02/08 誤植修正 脳が入ってるのなら → 脳が入っているのなら
2012/02/08 誤植修正 少し開いて動かしなから → 少し開いて動かしながら
2012/02/08 誤植修正 老学者の苦渋に満ちた表情で → 老学者は苦渋に満ちた表情で
2012/02/08 誤植修正 生きて行く事しかしか出来んのです → 生きて行く事しか出来んのです
2012/02/08 誤植修正 其の中に有る窪みも → その中に有る窪みも
2012/02/08 誤植修正 其れらしく見えて来る → それらしく見えて来る
2012/02/08 誤植修正 人間が頭部を境として → 人間の頭部を境として
2012/02/08 誤植修正 四速歩行の動物と → 四足歩行の動物と
2012/02/08 誤植修正 有る時 → 或る時
2012/02/08 句読点調整
2012/02/08 記述修正 檻の大きさは、老学者と比べて考えると、老学者の身長が150cmとして → 老学者の身長が150cmとして比べて考えると、檻の大きさは
2012/02/08 記述修正 たった一頭のキマイラを → 老学者と大して変わらない大きさしかない、たった一頭のキマイラを
2012/02/08 記述修正 老学者が向かった所は → 老学者が向かったのは
2012/02/08 記述修正 二つの植物だった → 二つの植物の前だった
2012/02/08 記述修正 人間の骨格系、消化器系、循環器系、呼吸器系、泌尿器系等の → 人間の骨格系・消化器系・循環器系・呼吸器系・泌尿器系等の
2012/02/08 記述修正 幹の根元の所には → 幹の根元の部分には
2012/02/08 記述修正 しかしそうは言った所で → しかしそうは言っても
2012/02/08 記述修正 掘り返されていて、見えていた → 周囲の地面を掘り返されて見えていた
2012/02/08 記述修正 何かのきっかけを → 何かの切っ掛けを
2012/02/08 記述修正 牛のお面を被って → 牛の被り物を被って
2012/02/08 記述修正 お面としての牛の頭は → それにしてはその牛の頭は
2012/02/08 記述修正 センタウルよりも更に → グリュプスよりも更に
2012/02/08 記述修正 四足の姿勢をして → 四足の姿勢で
2012/02/08 記述修正 肉食動物の上半身に → 肉食動物の上半身の部分に
2012/02/08 記述修正 キマイラだった → 一見すると彫像を連想させるキマイラだった
2012/02/08 記述修正 キマイラだった → こちらも伝説を髣髴とさせる姿のキマイラだった
2012/02/08 記述修正 それは宛ら神話上の怪物を → それらも前の二体と同様に神話上の怪物を
2012/02/08 記述修正 自我を持つに至った物の → 自我を持つに至った者達の
2012/02/08 記述修正 様々な兄弟達が → 多くの兄弟達が
2012/02/08 記述修正 怪物である自分自身を耐えて → 自分の正体が怪物である事実に耐えて
2012/02/08 記述修正 此の檻の中くらいまで → 此の檻の中程くらいまで
2012/02/08 記述修正 気にせぬ様にと慰めの言葉を → 慰める様な言葉を
2012/02/08 記述修正 此処に居る者達の中では → 此処に残っている者達の中では
2012/02/08 記述修正 空では無いのは → 空いていないのは
2012/02/08 記述修正 草で一面覆われていて → 草で覆われていて
2012/02/08 記述修正 親に対する、子そのもの → 親に対する子供そのもの
2012/02/08 記述修正 儂には其れの解明には → 其れの解明までは
2012/02/08 記述削除 性別は雄の、
2012/02/08 記述修正 獣です → 雄の獣です
2012/02/08 記述削除 性別は雌の、
2012/02/08 記述修正 生まれた者です → 生まれた雌のキマイラです
2012/02/08 記述修正 通常の蛇の上半身と → 通常の蛇の頭部と
2012/02/08 記述削除 性別は雄の、
2012/02/08 記述修正 生まれた者です → 生まれた雄のキマイラです
2012/02/08 記述修正 此の足で走ろうと → 馬らしく走ろうと
2012/02/08 記述修正 生まれたのも最も遅く → 生まれたのも遅く
2012/02/08 記述修正 生きて行けないでしょう → 生きて行けぬでしょう
2012/02/08 記述修正 その長い胴体で → その長い胴体だけを地面につけて
2012/02/08 記述修正 その手には → その両手には
2012/02/08 記述修正 年齢相応の少々痩せ気味の → 痩せ気味だが年齢相応の
2012/02/08 記述修正 地べたを不器用に徘徊して → 地面を不器用に徘徊して
2012/02/08 記述削除 、哀れでは有りますがな
2012/02/08 記述修正 見た目からすれば → グリュプスは見た目からすれば
2012/02/08 記述修正 ガラス玉 → 硝子玉
2012/02/08 記述修正 人の顔と類似した → 人の顔に酷似した
2012/02/08 記述修正 話す口を持っておるのに → 声帯や口も具えておるのに
2012/02/08 記述修正 髪を揺らしながら → 髪を揺らしつつ
2012/02/08 記述修正 髪を美しく保つ事で → 髪を美しく保つ事が
2012/02/08 記述修正 信じておるのです → 堅く信じておるのです
2012/02/08 記述修正 床は大半が藁が → 床は藁が満遍なく
2012/02/08 記述修正 性別は間近で見ていないので → 性別は全身を確認出来ていないので
2012/02/08 記述修正 地面につけた四足の姿勢で → 地面につけた姿勢で
2012/02/08 記述修正 広い通路を挟んで窓側と部屋の中央側の二列で、壁に沿って真っ直ぐに並んでいて → 広い通路を挟んだ窓側と部屋の中央側に二列並んでいて
2012/02/08 記述修正 人間の部位は小さいのだが → 人間の部位は変わらないのだが
そこには幅も高さも相当に巨大な檻が、広い通路を挟んだ窓側と部屋の中央側に二列並んでいて、この部屋の中央側に面する檻の奥には、高い吹き抜けの天井には届かないが、檻よりも高い壁が聳え立っている。
檻はずらりと幾つも並んでいるが、全てにキマイラが居る訳では無く大半は空の檻で、空いていないのは手前と奥に有る数箇所だけなのが判った。
老学者の身長が150cmとして比べて考えると、檻の大きさはざっと縦横共に5mはあるのが判り、老学者と大して変わらない大きさしかない、たった一頭のキマイラを入れておくには、広過ぎるのではないかと思えた。
この空間に居る人ならざる獣達を良く見ると、喧騒の鳴き声を発してはおらず、それはここよりも奥の高い仕切りの裏から聞こえているのが判ってきた。
手前の方には、扉が解放されている檻もあり、その中には樹や草が栽培されているのが見えている。
「偉大なるマナよ、十年前にあれ程沢山作り出した卵達も、無事に生き残って成長したのは、此処に居る十体だけになってしまいました。
残念ながらもう番の組み合わせすら生き残ってはおりませぬが、此の者達は儂の生涯を賭けた研究の成果であり、罪人として処刑寸前だった儂の命を繋いだ恩人でも有り、又全ての家族を失った儂にとっては、今や我が子同然なのです。
先ず最初は、人間と掛け合わせた植物を、御覧下され」
そう言いながら老学者が向かったのは、解放された檻の中で栽培されている、二つの植物の前だった。
向かって右の植物は、老学者よりも背の低い樹なのだが、まるで褐色の肌をした人間の子供を逆さにして、頭を地面に埋めている様な形状をしており、手足に見える枝には多くの緑色の葉が茂っている。
「此れは、ドリュアスと申しまして、人間とブナ科のオークの樹を掛け合わせて、作られた種子を成長させた植物です。
同種の枯れた個体を確認したところ、外見は見ての通り引っ繰り返した人間の様な姿で、根が人間の髪に当たり、幹が胴で、枝が四肢となっておるのですが、人間の骨格系・消化器系・循環器系・呼吸器系・泌尿器系等の器官は、一切持っておりませぬ。
但し幹の根元には、人間の頭部と思しき部分が埋まっており、其処には眼球や蝸牛と繋がった脳が有って、樹液の循環も行われておった事から、頭部の感覚器系の一部と神経系の器官は、内部に保持している様であります。
此の様な形だけ人間を模しておる姿で、意思を表す事は出来ずにおりますが、人としての意識は持っておるのかも知れませぬ。
ですが、今の儂の力では其れを確認する事が出来はせぬのが、生物学者としては歯痒いところであります」
老学者は人型の潅木へと手を差し伸べて、その幹を触れながら説明した。
言われて見ると幹の根元の部分には、まるで眠っているかの様に瞼を閉じて口を噤んでいる人間の顔にも見えて来て、そう思って見ると僅かに隆起した両頬や、突起した鼻と耳やその中に有る窪みも、より一層にそれらしく見えて来る。
しかしそうは言っても、ドリュアスと言う名のこの樹は、老学者の言葉や行動にも全く反応をせず、枝葉を揺らす事も無く寡黙に佇んでいるだけであった。
老学者は残念そうに樹木の顔らしき箇所を見つめてから、隣りの植物へと移動した。
向かって左の植物は、老学者の腰までは無い高さの長い葉をした草で、地面からは眠る人間の頭部の様な形状の球根らしきものが、周囲の地面を掘り返されて見えていた。
「此れは、アルラウネと申しまして、人間とナス科マンドラゴラ属の植物を掛け合わせて、作られた種子を成長させた植物です。
此れは多年草でして、雌雄別株になっており、此の個体は雌株です。
外見は人間の頭部を境として、上部は細長い葉が放射状に幾重にも重なる様に生えており、下部は地中で主根から四肢の様に側根が分岐をしております。
同種の枯れた個体を確認したところ、ドリュアスと同様に、人間の骨格系・消化器系・循環器系・呼吸器系・泌尿器系等の器官は一切無く、其の頭部状の球根部分の内部には、眼球や蝸牛と繋がった脳が有り、頭部の感覚器系の一部と神経系の器官を内在しております。
今は時期がずれておるので有りませぬが、年に一度、春になると一本の細い茎が真上に伸びてから分岐して行き、此の先に雌株ならば赤色の、雄株ならば紫色の小さい花を咲かせます。
受粉すると、雌株の赤い花の所に緑色の実が生り、此れがアルラウネの種子となる、筈でした。
残念な事に今や此の雌株一つしか残っては居らず、受粉前に他の個体は枯れてしまい、種子も得る事無く今に至っておる次第であります。
此れも、若しや何かの切っ掛けを与えたりすれば、人としての覚醒を遂げるのかも知れませぬが、其れの解明までは至っておりませぬ」
そう呟きながら、老学者はアルラウネの茂った葉を触って揺らすものの、隣りのドリュアスと同じく何の反応も返っては来ない。
やはりアルラウネもまたドリュアスと同じで、掘り返されている球根の表面には人の顔に酷似した皺や隆起が有り、あの中には人の頭と同じく眼球や脳が入っているのなら、声を掛ければ閉じられた目を開くのでは無いかと、信じられる程であった。
老学者は無念そうに顔を顰めつつ、此の植物の檻から出ると、次の檻へと足を向けた。
「此方の生物は、人間の要素が入っておらぬ、獣と獣を掛け合わせた生物であります」
そう説明しながら更に奥の檻の前へと辿り着くと、到着する前から騒ぎ始めていたこの檻の中のキマイラは、落ち着かない様子で走り回っていた。
この檻の中は、全面が固められた土の床になっていて、敢えて言うなら乾燥地域の様な雰囲気で、食べ残しの餌だろうか、豚や羊や山羊の死体が転がっている。
そこに居たのは、肉食動物の上半身の部分に猛禽類がくっついた様な、一見すると彫像を連想させるキマイラだった。
「此れは、グリュプスと申しまして、ライオンと鷲を掛け合わせて、ライオンの雌より生まれた雄の獣です。
鷲との掛け合わせでは有りますが、ライオンの雌から生まれておるので、通常のライオンと同様に腹には臍が有ります。
同種の雌の死体を解剖したところ、首と前脚と背中の翼は鷲で、首から下の胴体と後脚、其れに尻尾がライオンの体になっております。
骨格としては、鷲の骨盤が無く脊椎がライオンの脊椎と繋がっていて、内臓は鷲の臓器は一切無く、ライオンの胴体に通常のライオンと同じく、全ての臓器が入っております」
グリュプスは見た目からすれば、とても雄々しく力強さと美しさを兼ね備えた、見事な姿であったが、満足に飛べもせず走れもしないで、大きく鳴きながらよたよたと不安定な小走りをしているのを見てしまうと、幻滅と憐れみを感じてしまう。
「知性は鷲と同程度しか無く、鷲としては存在しない後脚が、前脚と同じ様にしか動かせない様で、まともに歩くのも出来ず、また体が大きく重過ぎて空を飛ぶ事も出来ませぬ。
もし人間としての知能が有って、教えたり学んだり出来るのならば、改善出来るかも知れませぬが、猛禽類の小さな脳では其れも叶いませぬ。
一度餌として馬を与えたところ、捕らえるどころか逆に後ろ足で思い切り蹴られて、其れ以降馬を見ると怯えて逃げ惑う様になってしまいました。
肉体の持つ力は相当に強い筈なのですが、如何せん鷲の習性でしか行動出来ぬので、強力な跳躍や走力が有る筈のライオンの下半身が単なる重りでしか無く、鷲としての最大の能力である飛ぶ事も出来ず、組み合わせた事に因り互いの長所を殺してしまっておるのです。
結果としてグリュプスは、只こうして地面を不器用に徘徊して、小物の動物を捕らえて生きて行く事しか出来んのです」
そう言うと老学者は、次の檻へと向かった。
「此れから御見せするのは、半人半獣では有りますが、人間としての自我や意識を持たぬ、頭部が獣の者達です」
そう説明しながら辿り着いた檻は、床は牧草らしき草で覆われていて、それ以外には特に目に付くものは見当たらない、言うなれば一面の草原だった。
そこに居たのは、牛の頭に人間の子供の体をした、こちらも伝説を髣髴とさせる姿のキマイラだった。
その姿は、ただ単に子供が良く出来た牛の被り物を被って、牛の真似事をしている様にしか見えないのだが、それにしてはその牛の頭は良く出来すぎていた。
今までで最も体格的には大きく、グリュプスよりも更に一回り大きな体をしていて、檻の中央で手と足を地面につけた姿勢で、床に生えた草を食んでいた。
老学者が近づくと、一度こちらを見てから大きく牛らしい鳴き声を上げたが、それ以降は何の反応も無かった。
老学者へと向けられた牛の頭にある瞳には、特別な感情が込められている様にも見えず、ぎょろりとした目玉をこちらへ向けただけでしか無い様だ。
「此れは、アステリオスと申しまして、人間と牛を掛け合わせて、人間の女より生まれた雄の獣です。
同種の雌の死体を解剖したところ、内臓及び骨格共に、首から下は全て人間と同様で有り、首から上は完全な牛となっておりました」
人間の子供の胴体と四肢で、四足歩行の動物と同じ姿勢をとっている為か、妙に腰が上がっていて、私にはとても不自然な姿勢をしている風に見える。
一心不乱に草を食べている姿は、人間の子供の胴体だけを見てしまうと、何とも言えず居た堪れないものを感じた。
「草ばかりを食べようとするのですが、アステリオスの内蔵は其れを受け付けずに、放っておけば消化不良と栄養失調を起こして衰弱してしまうので、定期的に人間の食物を飲み込ませなければならんのです。
ですが知能は牛でしか無いので、其れを説明したところで、アステリオスには理解する事は出来ませぬ。
其れは返って、此れは家畜なのだと思い込む事が出来るので、此れから御覧頂く者達と比べれば、儂の心は痛みませぬ」
そう言うと老学者は、今までの檻とは幾つも空の檻を挟んだ、この通路の最も奥にある、次の檻へと向かった。
この辺りの檻の中に居るキマイラ達は、最初は扉の音に怯えた様に檻の奥へと下がっていたが、近づいて来た老学者の姿を確認すると、皆檻の手前まで近寄り始めていた。
その姿は全て上半身が人間の子供で、下半身が獣の姿をしており、それらも前の二体と同様に神話上の怪物を模していると思われた。
性別は全身を確認出来ていないので判らないが、老学者の言動からすれば、年齢の方は皆十歳と言う事になるのだろうか。
体の大きさについても、体の部位こそ異なるものの、やはり十歳程度の子供の身体に合わせた獣の部位が繋がっている。
先程見た獣もそうであったが、このキマイラ達は継ぎ目無く完全に融合された美しい肢体をしているのが目に止まり、過去に散々体験させられたお粗末な出来の物とは、次元が違うのが判って来た。
ここまで見た所で、老学者は一番手前の檻へと近づきながら、ゆっくりと語り出した。
「此処に居る者達は、こんな姿に生まれてはおりますが、知性は人間の其れと同じだので、自分達が怪物である事も自覚して生きておるのです。
実は、無事に生まれて自我を持つに至った者達の内半数は、自分の正体が怪物である事に耐え切れず、自ら死ぬ事を選びました。
今生き残っている者達は、多くの兄弟達が目の前で死んで行くのを見ながら、自分の正体が怪物である事実に耐えて、其れでも生き続けようとしている者達なのです」
そう言いながら老学者は、キマイラの居る最も近い檻へと進んで行く。
その檻は、内部に大きな立ち木が立っていて、樹上を行動範囲としている動物が居そうな雰囲気であり、片隅には小さな池もあった。
そこに居たのは、人間の子供の顔と胴体を持ち、腕は翼で、腰から下は鳥の姿をしたキマイラだった。
このキマイラは、鉤爪の生えた鳥の足で若干飛び跳ねる様にして歩き、通常の鳥類の様にならずに、閉じても体に密着しない大きな翼を、重心を取る様に少し開いて動かしながら、老学者の前へと近づいて来た。
「此れは、ハルピュイアと申しまして、オジロワシと人間を掛け合わせて、人間の女より生まれた雌のキマイラです。
鳥との掛け合わせでは有りますが、人間の女から生まれておるので、御覧の通り腹には臍が有ります。
同種の雄の死体を解剖したところ、内臓は全て人間と同様で、骨格は肩から先の腕が鳥類の物になっておるのが判りました。
翼には何の異常も有りはせぬのに、人間の胸の筋力では飛び立てる程の羽ばたきが出来ぬのと、体が重過ぎる為に空は飛べぬのです。
他の鳥を見せて飛び方を教えたりしてみても、どうしても此の檻の中程くらいまで飛び上がるのが精一杯でして。
其の事をとても気にしておって、食事もあまり摂らない様にしたりだとか、何時も羽ばたく練習をしておるのですよ。
其れから、物を掴むのが足でしか出来ぬので、食事がどうしても上手く出来ず、散らかしてしまうのがとても嫌で、他の者達と同じ様に綺麗に食べようとして、一生懸命努力しておるのです、なあ、ハルピュイアよ」
老学者は名前を呼んだ後、檻の中へと手を差し伸べて、小柄な老学者よりも更に小さなハルピュイアの頬を撫でてやると、ハルピュイアは老学者へとはにかむ様な笑みを浮かべて、コクリと頷いてみせた。
顔だけ見れば、痩せ気味だが年齢相応の普通の子供にしか見えないが、その体は怪物であるのは間違いなく、衣服を纏っておらず裸なのを恥らうかの様に、自身の大きな翼で体を隠す様に立つ姿には、こんな姿の怪物がとる格好としては考えられず、何か違和感を感じてしまう。
「ゴメンナサイ、ハカセ、マタ、ヨゴシテシマッテ……」
何故喋らないのだろうかと疑問に思っていたら、ハルピュイアはゆっくりと老学者へ、顔を曇らせながら何かに対する謝罪の言葉を発したのだが、しかしその声は子供の顔とは全く合わない、嗄れていてとても聞き苦しいものだった。
老学者はその予期せぬ声色の返答にも、表情を変えずに大きく頷いて見せて、慰める様な言葉を掛けてから、踵を返して次の檻へと歩み始めた。
「ハルピュイアは、知能は発達しているからこそ、あの自分の声に劣等感を抱いておって、中々話そうとしたがらず、儂以外には言葉を発する事は有りませぬ。
そしてその言動の大半は、自分が上手く出来ず失敗した事への謝罪ばかり、あの身体では手を持つ者の様には上手く出来なくて当然であるのに、ハルピュイアは己を責めておるのです」
溜息交じりにそう語った後、老学者は次の檻の前へと立った。
次の檻は先程とは違い、床は藁が満遍なく敷き詰められていた。
そこに居たのは、人間の子供の顔と上半身に、巨大な蛇の下半身をしたキマイラだった。
このキマイラは先程のハルピュイアと比べると、人間の部位は変わらないのだが、とにかく蛇の下半身が長く、全長はハルピュイアの三倍はあった。
その長い胴体だけを地面につけて上半身を起こした姿勢で、藁の上を老学者の元へと這いずって寄って来るのだが、どうも起こしている上半身が安定せず、その両手には老学者と同じ杖が握られていて、それで体を支えつつ蛇行しながらやって来た。
「此れは、レイミアと申しまして、ナミヘビ科のクスシヘビと人間を掛け合わせて、人間の女より生まれた雌のキマイラです。
蛇との掛け合わせでは有りますが、人間の女から生まれておるので、丁度蛇の胴体と人間の腹との境目辺りに臍が有ります。
同種の雄の死体を解剖したところ、骨格は人間の骨盤が無く、其の代わりに蛇の脊椎が繋がっており、内臓に関しては、蛇の胴体には泌尿器系の膀胱と消化器系の小腸と大腸だけがあり、其れは人間の腹部に有る腎臓や小腸と繋がっておりました。
レイミアは、掛け合わされた蛇がとぐろを巻く種では無かった為に、そうした姿勢を取る事が出来ず、通常の蛇の頭部と比べると人間の上半身は重すぎて、体を起こした姿勢を自身の筋力で維持出来ぬのです。
其の所為で最初の頃は、上半身も這いずらなければ動くのもままならず、髪は彼方此方に絡みついて切れてしまい、体中が傷だらけになってしまったので、此の檻に藁を敷き詰めました。
然し或る時、儂の持つ杖を見て、此れを使って進む事を思い付き、今では杖を使ってでは有りますが、体を起こして動く事が出来る様になったのです。
レイミアにとっては、儂等人間と同じ様に身体を起こして、長く伸ばした髪を美しく保つ事が、己が蛇の化物では無く人間である証だと、堅く信じておるのです。
其れ故に、自分を人たらしめる証である長い髪とあの杖が、レイミアにとっては唯一の宝物なのです、なあ、レイミア」
そう言うと老学者は、目の前までやって来ていた、レイミアの真っ直ぐに長い髪を掻き揚げて頬を撫でてやると、レイミアは老学者の老いた手に自分の手を重ねてから、小首を傾げて髪を揺らしつつ老学者へと微笑んで見せた。
この時、レイミアの人間の身体を見てみると、元から這いずる様に出来ている鱗に覆われた蛇の下半身とは違い、かつて上手く移動出来なかった頃に負ったのであろう、多くの傷痕が腕や身体の至る所に残っていた。
レイミアは何かを話す様に口を動かしていたが、声は発せられず、口笛の様な音が僅かにしただけだった。
老学者は返答代わりのその音を聞いてから、頷き返してやると、レイミアの元を離れて次の檻へと移動し始めた。
「レイミアは、上半身は人間で有る筈であるのに、話す事が出来ません。
人の言葉を理解もしておるし、声帯や口も具えておるのに話せぬのが、不憫でならぬのです。
此処の者達の中では最も知能も高く、人間の娘と変わらぬ精神と感情を持っておるから、他の誰よりも自分の蛇の下半身を卑下し恥じておるし、体の傷も気にしておる事も、儂には其れを見せぬ様に気を使っているのも判っており、儂は胸が痛むのです」
視線を落として、老学者は呟いた後、次の檻の前へと立った。
次の檻は、床は大半が固められた土で、檻の一角にはハルピュイアの檻の物よりも大きな池があった。
そこに居たのは、人間の子供の上半身が首の位置にある、馬の胴体と足を持ったキマイラだった。
長さでは無く大きさでは、今までで最も大きいこのキマイラは、本来の馬の歩き方とは異なる不器用な走り方をしながら、老学者の元へとやって来た。
「此れは、センタウルと申しまして、人間と馬を掛け合わせて、人間の女より生まれた雄のキマイラです。
同種の雌の死骸を解剖したところ、人間の胴体と馬の胴体が重複しておりますが、人間の胴の部分は内臓は一切無く、肉体の構造は馬になっており、人間の腹には臍は無く馬の胴体に臍が有ります。
どうも人間の頭では、四本の足を馬の様に別々に扱う事が出来ず、片側ずつの脚が連動して動いてしまう様で、ゆっくりと歩くなら馬らしく歩けますが、だく足以上は難しいのです。
然しながら、此のセンタウルは日々努力して、半人半馬として生まれたからには、馬らしく走ろうとしておるのです、なあ、センタウルよ」
そう言って老学者は、檻の鉄の棒を掴んで、老学者へと精一杯顔を近づけていた、明るい茶色の巻き毛をした、センタウルの頭を撫でてやった。
「はい、博士、ぼくは必ず博士を背に乗せて、馬のように走れるようになってみせます」
それに答える様に、センタウルは嬉しそうに笑ってから、老学者の呼び掛けに応えた。
今までのキマイラの中でも、このセンタウルは最も成長していて、同年代の子供と比較しても、落ち着いていて利発な印象を与える顔をしている、私はその様に感じた。
センタウルの返す言葉を聞いた老学者は、その返答として頷いた後に、この檻から離れた。
「センタウルは此処に残っている者達の中では、最も早く誕生しました。
其れも有ってか此の中では最も肉体が成長しており、更に体力的に上半身の構造が通常の人間とは異なる為に、同世代の人間の子供とは比較にならぬ力と、いち早く己の運命を受け入れて、半人半獣として生きて行く事を前向きに考えている、強い精神を持っております。
だからなのか、自分の事よりも他の弱い者達の事を気遣う優しさを持っておって、誰もそんな事を教えた訳でも指示した訳でも無いのに、周りの仲間の様子や容態の変化が発生した時、いち早く声や物音を立てて伝えてくれるのです。
はっきりと儂へと言った事は有りませぬが、もう此れ以上死んで行く仲間を見たくない、そう思っているのかも知れませぬ」
嘆きとも取れる言葉の後、老学者は次の檻へと歩いて行く。
次の檻は、床の約七割が水槽に、残りが海岸の様な滑らかな岩や砂地になっていた。
そこに居たのは、人間の子供の上半身に、魚の下半身をしたキマイラだった。
大きさは最初のハルピュイアより一回り程小さいこのキマイラは、水の張られた池を息継ぎをしながら、水面を人間と大して変わらない速度で泳いで近づいて来ると、老学者の前の檻の棒へと掴まった。
「此れは、メロウと申しまして、人間とマイルカ科のハンドウイルカを掛け合わせて、人間の女より生まれた雌のキマイラです。
同種の雄の死体を解剖したところ、レイミアと同様で、骨格は人間の骨盤が無く、其の代わりにイルカの脊椎が繋がっており、内臓に関しては、イルカの胴体には泌尿器系の膀胱と消化器系の小腸と大腸があり、其れは人間の腹部に有る腎臓や小腸と繋がっておりました。
イルカも人間と同様の肺呼吸なのですが、レイミアは人間と同程度の時間しか水中を泳ぐ事は出来ず、又、下肢の代わりの尾鰭もイルカの様には使いこなせず、人間の上半身が上手く舵を取れなくて、泳ぐ速度も速くは有りませぬ。
それどころか、泳ぎ始めた当初は頻繁に溺れてしまい、一時は水中を泳ぐのを怖がっていた時も有ります。
然し此の体では、陸地を歩く事も這いずる事もままならぬ故、メロウは必死に泳ぎを覚えたのです、環境に合わぬ体を持っておるにも拘わらず。
そして今では、何とか人間並みには泳げる様になり、生き永らえておるのです、なあ、メロウや」
名を呼ばれて、無邪気な笑顔を向けて来るメロウの、頬に張り付いた濡れた髪を除けてから、老学者が頬へと手を当てると、メロウは嬉しそうに硝子玉の様な淡い瞳をした目を閉じて、老学者の皺の多い手に頬を摺り寄せていた。
その姿からは十歳程度の子供と言うよりは、もっと精神的に幼い印象を私に与えた。
それも加味されているのか、今までのキマイラの中で最も老学者への依存度が高く、その慕う仕草がまるで親に対する子供そのものに見えていた。
「はかせ……、だいすき」
メロウは老学者へと、透き通る様な澄んだ美声で、甘える様に片言で答えていた。
それ以外の言葉を発しようとしないのは、若しやそれ以外の言葉が、まだ理解出来ていないのだろうか。
老学者はその呼び掛けに頬へ添えた手で、頭を撫でる事で答えてやってから、檻を離れた。
「あぁ……、はかせ……、いっちゃ……、やだ……、はかせ……」
遠ざかる老学者へと、メロウは悲しげな声色で呼び続けつつ、必死に檻の中から手を伸ばしていた。
「メロウは生まれたのも遅く、成長の速度も同種の中でも最も遅くて、恐らく知能も他の者達よりも劣っており、知性は五歳程度で、言語能力については三歳程度しか達しておりませぬ。
其れにあの身体では、たとえ知能が他の者と同等であっても、他の者達とは違って、此処以外では独りでは生きて行けぬでしょう。
だからこそ余計に、あれには無事に育って貰いたい、不出来な子供や幼い末っ子や孫が、一際愛しく見えてしまうのと、同じなのかも知れませぬ」
老学者は苦渋に満ちた表情で、私へとその苦悩を零しながら、メロウの檻から離れた。