第十二章 キマイラ3 其の一
変更履歴
2011/11/15 記述統一 代り → 代わり
2011/11/16 記述統一 一センチ、十メートル → 1cm、10m
2011/11/16 記述修正 合わせて → 併せて
2011/11/30 誤植修正 膝まづいてから → 跪いてから
2011/12/11 誤植修正 して見た → してみた
2012/02/05 誤植修正 血を流さなると → 血を流さなくなると
2012/02/05 誤植修正 たった今堕ちて来た → たった今落ちて来た
2012/02/05 誤植修正 その体に大きさに → その体の大きさに
2012/02/05 誤植修正 オイルランプと思えわる → オイルランプと思われる
2012/02/05 誤植修正 足場を井桁上に → 足場を井桁状に
2012/02/05 誤植修正 老学者は私を確りと → 老学者は私に確りと
2012/02/05 誤植修正 口を摘む様に持っており → 口を摘まむ様に持っており
2012/02/05 誤植修正 時間が立つ毎に → 時間が経つ毎に
2012/02/05 誤植修正 始める事か出来る → 始める事が出来る
2012/02/05 誤植修正 再び姿を表した → 再び姿を現した
2012/02/05 句読点調整
2012/02/05 記述修正 この視界をこの水槽の中心から → 視界をこの水槽の中心から
2012/02/05 記述修正 視界に入って来たのは → 見えたのは
2012/02/05 記述修正 血で汚れた溝の先には → 血で赤黒く汚れた溝の先には
2012/02/05 記述修正 それぞれ様々な種類の生物が → 様々な種類の生物が
2012/02/05 記述修正 代表的な、肉食獣、草食獣や → 代表的な肉食獣・草食獣や
2012/02/05 記述修正 鳥類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫 → 鳥類・爬虫類・両生類・魚類
2012/02/05 記述修正 胴体を刺し貫かれているらしく → 胴体を刺し貫かれ
2012/02/05 記述修正 状態で固定されていて → 状態で固定されており
2012/02/05 記述修正 銀色の針や串や剣の柄が → 銀色の針や串や柄が
2012/02/05 記述修正 表した絵図、その様な物を → 表した絵図の様な物を
2012/02/05 記述修正 配置されているのだった → 配置されていた
2012/02/05 記述修正 明るくてかなり広い部屋、いや只の大広間では無く研究室の様で → 明るくてかなり広い研究施設らしく
2012/02/05 記述移動 どうやらここは建物の中で~
2012/02/05 記述修正 この研究室の中央に → この施設の中央に
2012/02/05 記述修正 取り付けられていて → 取り付けられているからで
2012/02/05 記述修正 中央の水槽を底辺として → 中央の水槽を底面として
2012/02/05 記述修正 この部屋を埋め尽くしては → この場所を埋め尽くしては
2012/02/05 記述修正 この巨大な部屋には四方の壁に、それぞれ中央には → この巨大な部屋の四方の壁の中央には、
2012/02/05 記述修正 更に四隅の角にも片開きの扉が → 更に四隅の角にも似た様な扉が
2012/02/05 記述修正 一人ずつ別れて行き → 一人ずつ別れ
2012/02/05 記述修正 死体へと近づいて行っては → 死体へと近づくと
2012/02/05 記述修正 行動を取っている → 行動をしていた
2012/02/05 記述修正 五年後とお約束致したのに → 五年後と御約束致したのに
2012/02/05 記述修正 儂の力不足故じゃ → 儂の力不足故
2012/02/05 記述修正 正しく言葉の意味も、理解出来るのが → 人間の発する言葉の意味も、正しく理解出来るのが
2012/02/05 記述修正 金髪や栗毛が多く → 僅かに見える髪色は金髪や栗毛が多く
2012/02/05 記述修正 琥珀色、緑色、灰色をしていた → 琥珀色・緑色・灰色等をしていた
2012/02/05 記述修正 白いバンダナで覆っている為に判別がつかず → 手術帽の様な白い帽子で覆っている為に
2012/02/05 記述修正 髪型に関してはこれ以上は判らず → 髪型に関してこれ以上は判らず
2012/02/05 記述修正 その手には長い板、良く見ればそれは足場と同じ物だ、それが四本と → その手には足場と同じ物であろう長い板が四本と
2012/02/05 記述修正 井桁の中央部、丁度私の → 井桁の中央部が丁度私の
2012/02/05 記述修正 不自由をお掛けしますが → 不自由を御掛けしますが
2012/02/05 記述修正 此度の願いをお聞き頂き → 此度の願いを御聞き頂き
2012/02/05 記述修正 卑しき爺にお貸し下され → 卑しき爺に御貸し下され
2012/02/05 記述修正 雇っている主か、それは判らないが → 雇っている主かどちらか判らないが
2012/02/05 記述修正 それにしても今回の召喚では → 何をするのかもまだこれからだが、それ以前に今回の召喚では
2012/02/05 記述修正 だが不思議なのは、 → だが
2012/02/05 記述修正 人間には、いや、少なくとも → 少なくとも
2012/02/05 記述修正 あの老人には見えている → あの老人には見えている筈だ
2012/02/05 記述修正 しかし他の助手達の態度は → しかし他の助手達の様子は
2012/02/05 記述修正 視線を感じたのだ → 視線を感じた
2012/02/05 記述修正 それだけでは流石に何も見えては来ない → 今のところは全く判らない
2012/02/05 記述修正 相変わらず動けないのは変わらず → 動けないのは相変わらずで
2012/02/05 記述修正 老人は再び姿を表した → 老人が再び姿を表した
2012/02/05 記述修正 言動であり、悲鳴であったりしていた → 罵声や悲鳴ばかりだった
2012/02/05 記述修正 半人半獣の怪物、キマイラ達であった → 半人半獣の怪物であるキマイラ達であった
2012/02/05 記述修正 瞼と言う概念が無い器と言う点から → 瞼と言う概念が無い点から
2012/02/05 記述削除 水槽の淵の近くにある小さすぎる虫は別にして、
2012/02/05 記述修正 太い丸い石の柱が → 円柱状の太い石の柱が
2012/02/05 記述修正 その他の生贄ははっきりと確認する事が出来ている → その他の生贄の姿が翳る事なく見えていた
2012/02/05 記述修正 血を水槽へと注ぐ都合上 → 流血を水槽へと注ぐ都合上その様な構造に
2012/02/05 記述修正 はっきりと確認出来るのは → 確認出来るのは
2012/02/05 記述修正 広範囲を確認する事が出来ている → より広範囲が見渡せている
2012/02/05 記述修正 私が居る血の水槽を → 私が居る生き血の水槽を
2012/02/05 記述修正 巨大な両開きの扉があり → 大きな両開きの扉があり
2012/02/05 記述修正 こちらへと近づいて来た → こちらへと向かって歩いて来る
2012/02/05 記述修正 頭一つ分は身長差があり → 頭二つ分は身長差があり
2012/02/05 記述修正 助手達もやはり白色人種であり → 助手達は老人の病的な白さとは異なる白色人種であり
2012/02/05 記述修正 瞳の色も淡い色が多く、 → 瞳の色も淡い
2012/02/05 記述修正 身長差があり、老人の想定する → 身長差があり、根本的な人種の違いに因る骨格の差があった。それに老人の想定する
2012/02/05 記述修正 立ち上がると離れて行った → 立ち上がると戻っていった
2012/02/05 記述修正 片付けて行った後に → 片付けてから
2012/02/05 記述修正 血を流さなくなると片付けていて → 血を流さなくなると交換し
2012/02/05 記述修正 ひたすら事務的に血が流され → ひたすら血が流され
2012/02/05 記述修正 これらの謎も時が経って → これらの謎に関しても
2012/02/05 記述修正 それと併せて状況が変わるだろうか → 何か状況が変われば良いのだが
2012/02/05 記述修正 老学者に謀られたのでは → 若しや老学者に謀られたのでは
2012/02/05 記述修正 右手に杖だけを持ち三本足で → 右手で杖をついて
2012/02/05 記述修正 天井の広さからして → 天井の高さからして
2012/02/05 記述修正 広さらしいと思えた → 広さがある様だ
2012/02/05 記述修正 喧騒に満ちていた → 喧騒に満ちていたのだ
2012/02/05 記述修正 何の遮蔽物も無いかの様な歪みも無い視界で、この丸底フラスコのガラスの厚みは相当薄いらしい → この丸底フラスコのガラスの厚みは相当薄いらしく、何の遮蔽物も無いかの様な歪みも無い視界となっていた
2012/02/05 記述修正 上だけは視界が途中から → 上の部分だけは視界が途中から
2012/02/05 記述修正 創造的な力の存在の様に → 創造的な力を持った存在の様に
2012/02/05 記述修正 先程分かれた者達が → 者達が
2012/02/05 記述修正 小さな虫の死骸だけでも → 小さな小魚の死骸だけでも
2012/02/05 記述修正 この無数の死体以外に注目する事にした → 無数の死体以外を確認する事にした
2012/02/05 記述修正 察しがついたのが、果たして良い事かどうかを訝しみつつ → 推測しつつ
2012/02/05 記述修正 一面赤一色であった → 様々な濃度が混ざり合った赤であった
2012/02/05 記述修正 しかしフラスコの口を → 更にフラスコの口を
2012/02/05 記述修正 妨げていた物だったのが判明した → 妨げていた物だったのだと判った
2012/02/05 記述修正 ひたすらに常に出入りを続けながらも → 常に出入りを続けながらも
2012/02/05 記述修正 遠巻きに眺めながら → 遠巻きにこちらを眺めながら
2012/02/05 記述修正 作業を続けている → 陰惨な作業を続けている
2012/02/05 記述修正 私は話して来る相手も居なくなったので、 → こうして話し掛けて来る相手も居なくなったので、私は
2012/02/05 記述修正 博士と呼んでいる所からして → 博士と呼んでいる点からして
2012/02/05 記述修正 全て助手か何かの様だと思えた → 全て助手等の老人よりも地位の低い者達らしい
2012/02/05 記述修正 プールの様な水槽であり → プールの様な円形状の水槽であり
2012/02/05 記述修正 視界の端に入っている水槽の淵に、流れ込んだ際付着した → 水槽の淵に付着した
2012/02/05 記述修正 螺旋を描く様に捩れていて → 螺旋を描く様に捩れ
2012/02/05 記述削除 どうして、老学者はこんな態度を~
2012/02/05 記述修正 もっと言えば → もっと言えば老学者の言動に
2012/02/05 記述修正 この大広間の隅に → 大広間の隅に
2012/02/05 記述修正 起き上がって私の下の辺りを → 起き上がって私の方を
2012/02/05 記述修正 その者達に対して → 又も態度を一転させてその者達に対して
2012/02/05 記述修正 膝をついて土下座をした → 水槽の淵で膝をついて土下座をした
2012/02/05 記述修正 白色人種で研究者らしく → 研究者らしく
2012/02/05 記述修正 頭頂部まで → 外見を意識していない様な無頓着に絡まった白髪、頭頂部まで
2012/02/05 記述修正 細く開いた茶色の目に → 細く開いた茶色の目
2012/02/05 記述修正 尖った顎をしていて、外見を意識していない様な無頓着に絡まった白髪で → 尖った顎をしていて、
2012/02/05 記述修正 驚いた様な態度のままに語り始めた → しかめっ面から一転して驚いた表情に変わって、狼狽しながら話し始めた
2012/02/05 記述修正 その体の大きさに合った → その体の大きさに見合った
2012/02/05 記述修正 御約束しておった → 御約束していた
2012/02/05 記述修正 それは仕切りの奥からも → それは主に仕切りの奥から
2012/02/05 記述修正 この施設の所長で → この施設の責任者で
2012/02/05 記述修正 私のところへとやって来たのは → 私の近くまでやって来たのは
2012/02/05 記述修正 この場所は一辺が → 水槽の大きさは約直径5mでこの場所は一辺が
2012/02/05 記述修正 大広間だった → 大広間であるのも判った
2012/02/05 記述修正 しかしこの階は → しかしこの階には
2012/02/05 記述修正 下とは決定的に → 下の階とは決定的に
2012/02/05 記述修正 持って来ていた助手は → 持っていた助手は
2012/02/05 記述修正 細いフラスコの口が見えた → 細いフラスコの口が見えている
2012/02/05 記述修正 把握している様子だった → 把握している様子に見えた
2012/02/05 記述修正 四本足の生えたテーブルを → テーブルを
2012/02/05 記述修正 ガラス容器をテーブルの上に → 受け皿と言う表現から想像していたシャーレではなく、フラスコ状のガラス容器をテーブルの上に
2012/02/05 記述修正 どれ一つとして同じ種類は無く → どれ一つとして同種のものは無く
2012/02/05 記述修正 だが遠目からでも、 → 最初は檻の中の者達の声かと思ったがそうではなく、更に
2012/02/05 記述修正 輝度の高い物であった様だ → 輝度の高い物であった様で、あの部屋の明るさに慣れていた私の目では、この螺旋階段がかなり暗く感じた
2012/02/05 記述修正 これと同時に → これに因り
2012/02/05 記述修正 必ず一箇所は → 必ず数箇所は
2012/02/05 記述修正 別の存在を過去に召喚して → 別の存在を過去に召喚し
2012/02/05 記述修正 成功したに違いない → 成功させたに違いない
2012/02/05 記述削除 目を開けると言う動作をする事なく~
私は暗闇の中にいる。
目の前には、天井と壁と床が螺旋を描く様に捩れ、進むに連れて廻りながら天地が入れ替わりを繰り返す、奇妙なトンネル。
私は、その捩れた床を辿って回転しながら、奥へと進んでいく……
私が自発的に見ようとする前に、視界へと映し出されていたのは、様々な濃度が混ざり合った赤であった。
現れて早々に瞼と言う概念が無い点から、物理的な肉体を持つ器では無さそうだと推測しつつ、まず私はこの視界を確認し始めた。
見えているのは、深紅の液体が満たされたプールの様な円形状の水槽であり、この液体の赤黒い色合いと水槽の淵に付着した固形物を見る限り、これは大量の血液であろうと思える。
まずは糧の流れを確認すると、この空間の至る所に充満しているが、この水槽の中からが最も高濃度の奔流となっているのが判り、現状においては不足は全く感じないのを確認出来た。
重力がまともに働いているのなら、私は恐らく下を向いているのだと判断し、視界をこの水槽の中心から周囲へと変えてみる。
すると次に見えたのは、血液が流れ込んだ跡に続く水槽の淵に刻まれている溝で、それは水槽を中心に放射状に伸びており、血で赤黒く汚れた溝の先には様々な種類の生物が横たわっていた。
代表的な肉食獣・草食獣や、人間も含む霊長類等の哺乳類を初めとして、鳥類・爬虫類・両生類・魚類に至るまで、まるで標本の様に床に磔にされているのだ。
体の小さな生物は水槽の近くに配置され、水槽から離れるにつれて溝も太くなり、その先には体の大きな生物が死んでいるのが判った。
どの生物も、その体の大きさに見合った固定方法で止められていて、小さなものは虫ピンで手足や胴体を刺し貫かれ、巨大なものは床に埋め込まれた金属のフックに繋がった鎖で、床に押さえつける様な状態で固定されており、どれも全く身動きは取れない様になっていたらしい。
しかしそれは殺される前の話の様で、今はそれぞれの生物の急所に突き立てられている、血に染まった銀色の針や串や柄が、その事を証明していた。
よくよく見てみると、固定されて屠られている生物はどれ一つとして同種のものは無く、全て異なる種類の生物だった。
これを見回して脳裏を過ぎったのは、巨大な生物図鑑か生態系を示した図、或いは進化の過程を表した絵図の様な物を連想させるが、ここには絵では無く本物の死体が、展示されるかの様に配置されていた。
見渡した中で最も巨大な死体は象だったので、その体を全長6mと推定すると、水槽の大きさは直径約5m程で、この場所は一辺が100mはある大広間であるのも判明した。
これだけの広さでは奥にある死体は、象の様に相当大きくて特徴が無いと区別がつかず、手前に ある小さな小魚の死骸だけでも、とても数えられる量では無いのは明らかなので、私はざっとこの光景を眺めた後は、無数の死体以外を確認する事にした。
どうやらここは建物の中で、明るくてかなり広い研究施設らしく、私の視界はこの施設の中央にあるらしいのが判った。
円柱状の太い石の柱が一定の間隔で並んでいて、窓も無いのに随分と明るいのは、全ての柱の側面に連なる様に、やけに明るいオイルランプと思われる室内灯が取り付けられているからで、これに因りその他の生贄の姿が翳る事なく見えていた。
奥の方にある死体まで確認出来るのは、この場所が流血を水槽へと注ぐ都合上、その様な構造になっているのだろうが、中央の水槽を底面として死体のある場所はすり鉢上に僅かな傾斜がつけられており、水槽から若干高い位置に私は存在しているから、より広範囲が見渡せている。
死体が磔にされている範囲は、この場所を埋め尽くしてはいない様で、私が居る生き血の水槽を中心とした巨大な円の範囲内に配置されていて、円からはみ出た四隅の空間にははっきりとは見えないが、様々な道具の置き場所になっている様だ。
この巨大な部屋の四方の壁の中央には、搬入口になっているらしい大きな両開きの扉があり、その脇には人間一人が普通に出入り出来る大きさの片開きの扉がついていて、更に四隅の角にも似た様な扉がついているのが見える。
そこまで確認したところで、丁度今向いていた方の壁にあった大きな扉から、軋む音と共に白衣の一団が現れた。
白衣の一団は、屍の体液が流れる溝を踏まない様に組まれた細い足場を伝いながら、死体の脇を擦り抜けてこちらへと向かって歩いて来る。
その人間達は、こちらへと近づくにつれて一人ずつ別れ、目的の死体へと近づくと何かを調査して、確認を取る様な行動をしていた。
結局、私の近くまでやって来たのはたった一人、先頭でこの場所へと入って来た老人だけだった。
この老人は、かなり痩せていて猫背で小柄な体をしており、右手に杖を持ち左手で書類の束を抱えていた。
研究者らしく日に当たらない生活を表す青白い肌の色で、齢を感じさせる皺が刻まれた顔は、外見を意識していない様な無頓着に絡まった白髪、頭頂部まで禿げ上がった広い額と細く開いた茶色の目、老眼鏡だろうか眼鏡を掛けており、高い鷲鼻に薄い唇と尖った顎をしていて、私の方を見るとしかめっ面から一転して驚いた表情に変わって、狼狽しながら話し始めた。
「おお! とうとう御出でになられましたか、偉大なるマナよ、命の導き手よ!
儂の声が、聞こえておれば良いのじゃが。
五年後と御約束致したのに、十年も経ってしまった、此れは儂の力不足故、どうか御許し下され」
そう言うとこの老人は私へと向かって、水槽の淵で膝をついて土下座をした。
これで視覚と聴覚は通常に機能しているのと、その声からは人間の発する言葉の意味も、正しく理解出来るのが確認出来た。
私は一瞬、以前の召喚相手だった“隠者”を思い出したのだが、この老人では外見があまりに違いすぎるので、どうやら約束していた“隠者”の二度目の召喚とは違うらしい。
こちらへと平伏している老人に対して、私は自分の正体について問おうとしたが、声を出す手段も判らず、思念も通じないのがここで判った。
この老人の態度に気づいた者達が、博士と口々に呼びながら急いで老人の元へと集まって来ると、起き上がって私の方を確認していた老人は、又も態度を一転させてその者達に対して怒鳴り出した。
「お前達、騒々しいぞ、神の御前であるのを弁えよ! 急いで受け皿の準備をせい、今直ぐにじゃ!」
すると集まっていた者達は慌ただしく動き出して、大広間の隅に急いで向かっていく。
どうやらここでは、この老人を博士と呼んでいる点からして、研究者で最も地位が高く、老人以外の白衣の姿の人間は、全て助手等の老人よりも地位の低い者達らしい。
言ってみれば老人がこの施設の責任者で、他は研究員と言った所だろうか。
しかしそれにしても、助手達と老人が色々と違いすぎる気がする。
老人と助手の男達とは頭二つ分は身長差があり、根本的な人種の違いに因る骨格の差があった。
それに老人の想定する年齢からすると、助手の男達は孫に相当する程の年齢の差もあるのではないかと思われた。
助手達は老人の病的な白さとは異なる白色人種であり、僅かに見える髪色は金髪や栗毛が多く、瞳の色も淡い琥珀色・緑色・灰色等をしていた。
その他の部位は、老人とは異なり衛生を考慮してか、目の下から覆っている大きなマスクや、額から上の頭部の大半を手術帽の様な白い帽子で覆っている為に、顔の特徴や髪型に関してこれ以上は判らず、この全身白装束の所為で助手達は個別に区別しづらい。
助手達が戻って来ると、その手には足場と同じ物であろう長い板が四本と、四方に脚の生えた小型のテーブル、それに大きな木箱を幾つか持って来て、まずは足場を井桁状に水槽の上を跨ぐ様に設置してから、井桁の中央部が丁度私の真下に当たる位置へと来る様に、テーブルを調整しながら慎重に設置した後、木箱から取り出した小箱の中に入っていた、受け皿と言う表現から想像していたシャーレではなく、フラスコ状のガラス容器をテーブルの上に配置した。
作業を終えた助手達がそそくさと引き下がって行くと、老学者はその新たに作られた足場を通って私の目の前までやって来て、私を覗き込む様に顔を近づけてから、興味深い一言を発した。
「偉大なるマナよ、あの愚かな者共の無礼をどうか御許し下され、儂以外に当時を知る者は居らぬ故、其の降臨された御姿を目にしても理解が出来んのです。
不自由を御掛けしますが、今暫く御待ち下され、明日には覚醒も完了し、其処から動ける様になりますので、其の際に十年間の成果を、御覧頂きとう御座います。
其の後に、此度の願いを御聞き頂き、偉大なる御力を、どうか此の卑しき爺に御貸し下され。
何卒、何卒、どうか宜しく御願い致します」
老学者はかなり謙った態度で、何度も私へと頭を下げてから、後ずさって立ち上がると戻っていった。
こうして話し掛けて来る相手も居なくなったので、私は周囲を観察しながら現状について考察する事にした。
この後、この死体の展示場とも言える大広間を、白衣の男達が入れ替わり立ち代わり死体の確認をしては、たまに死体を片付けてから、新たな生贄を運び込んで屠るのを何度と無く目撃した。
それはどうも、生贄として血を流さなくなると交換し、この水槽に常に血を流し込む様にしているらしい。
今まで何度と無く血生臭い惨劇は見てきたが、これだけ多種に渡っていて、且つそれを維持し続けているのは見た事が無い。
まるでここは生き血を取り出す工場かの様に、昼も夜も無く、ひたすら血が流され集め続けられているのだから、何とも不気味な空間に私には思えた。
しかしそれは偉大なるマナ、または命の導き手と呼ばれた私の為なのであろうし、ここで屠られた魂がこちらへと捧げられているのも分かった事から、この凄惨な光景には寧ろ感謝して喜ぶべきなのかも知れない。
それともう一つ気になったのが、白い光を放つ灯りはかなり明るい所為なのか消耗が激しい様で、助手の男達は死体の確認に来て戻って行く時には、必ず数箇所は灯りの燃料を充填していた。
これだけの広さの施設に、何人居るのか判らない助手の人間達、常に灯し続けている寿命の短い大量の照明、それはあの老人か、或いは老人を雇っている主かどちらか判らないが、相当に資産を持った富豪や地位のある人間なのだろうと思える。
こういった研究者の施設として記憶があるのは、あの“隠者”の研究室であるが、技術的な点で言えば、今のところはこちらの方が劣っている様だが、ここはあの部屋とは比較にならない程に広大で大規模だ。
それとこちらは、過去に実績が有る様な口振りであったのも、かなり気になっている。
あの老学者はこれからすべき事を、完全に把握している様子に見えた。
しかし私にはこの場所の記憶も無いし、あの老学者の人相の特徴を踏まえて若い姿を想像してみても、やはり関わった記憶は無い。
だとすると、老学者は私ではない別の存在を過去に召喚し、その時に明日にでも行われるのであろう同様の儀式を試みて、成功させたに違いない。
その証拠となる成果も、明日に見せると私へと伝えていたのだから、それを見ればより確実になるだろう。
今回の私の器は私の呼び名からして、破壊や殺戮を司るのでは無く、生命に関わる何か創造的な力を持った存在の様に思えるが、これだけの膨大な生贄を必要とするからには、相当に大掛かりな儀式なのであろうと予想出来た。
何をするのかもまだこれからだが、それ以前に今回の召喚では、未だに私は自分自身の姿を確認出来ずにいる事に、疑問と不安を覚えていた。
だが老学者は私に確りと視線を合わせて会話をして来たのだから、少なくともあの老人には見えている筈だ。
しかし他の助手達の様子は、何らかの超自然の存在が具現化している様な態度には見えず、寧ろ私が感じたのは怪訝な雰囲気、もっと言えば老学者の言動に疑念を持っているかの様な視線を感じた。
この点を踏まえて考えてみると、私の姿はとてもでは無いが神には見えない形状だと言う事になるが、実際のところはどうなのであろう。
周囲を確認してみた時に、上の部分だけは視界が途中からぼやけてしまい、はっきりと見る事が出来なかったのは、何かの手がかりになるだろうか。
ただ、この上がぼやけるのは、少しずつではあるがぼやけてしまう範囲が狭まっており、時間が経つ毎に上方の視界も確保されて来ていて、この事が容姿についての何かの情報になるのかも知れないものの、今のところは全く判らない。
これらの謎に関しても、あの老学者が再度現われた時には、何か状況が変われば良いのだが。
常に出入りを続けながらも、胡散臭げな表情で遠巻きにこちらを眺めながら、陰惨な作業を続けている白衣の助手達の動きを眺めつつ、私は待ち続けた。
時間を計る方法が無く、どの程度の時が経過したのかが判らないが、かなりの時間が経ったと感じた頃、私の視界は微妙にぶれて震え始めたかと思うと、真下へと垂直に自由落下した。
その距離は、下部に設置されたテーブルに置かれていたガラス容器の底面までで、要するに私は下に置いてあったガラス容器の中へと落ちたのだ。
そのガラス容器の形状は小さな丸底フラスコだったが、使われているガラスの品質が高く、視界は一切歪む事も無く、真上を見ると落下してきた細いフラスコの口が見えている。
更にフラスコの口を中心とした円形状に、大きな球状の物体が浮いているのが見えて、これこそが私の視界を妨げていた物だったのだと判った。
この時に糧の流れが変わった事に気付いて確認すると、今は水槽からではなくたった今落ちて来た、この球体から注がれているのに気づいた。
上以外の方向については、この丸底フラスコのガラスの厚みは相当薄いらしく、何の遮蔽物も無いかの様な歪みも無い視界となっていた。
これに因り、私は自分の大きさと言うものが理解出来た。
このガラス容器を持っていた助手は、両手で抱えた箱に入れてここまで持って来た後に、片手で細い筒状の口を摘まむ様に持っており、その口の直径は指程度だった。
つまり私は、豆粒以下の大きさの器である事が、これで判明した訳だ。
ここまで小さな器であった事は、今までの召喚には無い。
ガラス容器に落下しても動けないのは相変わらずで、若しや老学者に謀られたのでは無いかと私は疑い始めた時、老人が再び姿を現した。
今回は助手を従えての登場では無く独りで現れて、右手で杖をついて私の前まで近づくと、フラスコに入った私を確認して、前と同じ様に跪いてから床に額が着くまで下げてから、挨拶を始めた。
「偉大なるマナよ、どうやら無事に覚醒された様で、安心致しましたぞ。
此れでやっと、待ちに待った最後の計画を始める事が出来る。
では早速、御約束していた十年の成果を御覧に入れましょう。
其れでは、少々失礼をば」
そう言うと老学者は、杖を使いながらゆっくりと立ち上がり、テーブルへと近づくと杖を立てかけた。
その後私が入っている丸底フラスコへと手を伸ばして、固定していた器具から取り外すと、一旦テーブルの脇に置いてあった台座へと載せた。
次に足場の隅に置いてあった箱を開けて、同じ様なガラス容器を再び固定器具に取り付けると、台座に置いた私の入ったフラスコを左手で持ち上げて、再び杖を右手で掴み、水槽から離れる様に移動を始めた。
老学者は僅かな傾斜のある骸の展示場を、足場を伝いながら抜けて行くと、その道すがらに通り過ぎる助手達の態度は、まるで王族に対する臣下の様であり、この老人の権力が絶大である事は間違い無いのが判ったが、そんな態度を取る白衣の男達を見ても全く意に介さず、相手にする価値も無いと言わんばかりに、老学者は歩み続けた。
そして、前に私の所へと組み立てられた足場やテーブルが置いてあった、この広大な部屋の隅にある片開きの扉を押し開けて、部屋の外へと出た。
そこは螺旋状の登りの階段で、ここに取り付けられているのは、普通の炎の色と明るさをしている灯りであり、やはりあの部屋の白く光る灯りは、特別に輝度の高い物であった様で、あの部屋の明るさに慣れていた私の目では、この螺旋階段がかなり暗く感じた。
同様の構造をしているのなら、直角に接していたもう一方の扉は、下りの螺旋階段へと繋がっていたのだろうかと想像出来た。
老学者は螺旋階段をぐるぐると回りながら、ひたすらにゆっくりと登って行き、もはやどの方向が先程扉のあった方角かさえ判らなくなった頃、やっと終点の同じ様な新たな扉が見えて来た。
その扉も杖を掴んだままの右手で、押し開けて中へと入ると、そこは窓のある部屋であった。
こちらはあの大広間の様な異様な空間では無く、側面の窓や天窓からは自然光が差していて、灯りが無くとも十二分に明るい。
建て付けられている様な壁は見当たらず、只の大広間が敷居で区切られているらしい。
この構造と天井の高さからして、この階も下の階と同様の広さがある様だ。
しかしこの階には、下の階とは決定的に異なる点があった。
それは、ここには下には無かった、喧騒に満ちていたのだ。
様々な動物の鳴き声が響き渡っていて、それは主に仕切りの奥から聞こえて来る事から、ここには見えている範囲以上に動物が居て、その中には人間の声も混ざっているかに聞こえる。
しかしその聞こえる人の声は、決してあの白衣の助手達が言い出しそうも無い罵声や悲鳴ばかりだった。
最初は檻の中の者達の声かと思ったがそうではなく、更に私の視界に届く範囲に居るのは、只の動物や人間ではないのが判った。
そこに居たのは、動物園宛らに並べられた大きな檻に捕らわれている、半人半獣の怪物であるキマイラ達であった。
この時、老学者は若干興奮気味に、言い放った。
「嗚呼、此の日をどれだけ待ち焦がれたであろうか、偉大なるマナよ、篤と御覧下され、十年前に儂等で生み出した、新たなる生物達の姿を!」