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『誓約(ゲッシュ) 第一編』  作者: 津洲 珠手(zzzz)
序章
5/100

序章 其の五 嘶くロバの話 神眼の名医 其の一運命の夜

変更履歴

2011/08/23 行移動 優しかった祖父である老医師と、短い間ではあったが両親と共に過ごし、 → 下行移動

2011/08/23 行移動 この夫の医師としての力が失われ、 → 下行移動

2011/08/23 行移動 だからこそ、その二人から感じる、多忙から来る苛立ちを敏感に感じ取り、 → 下行移動

2011/08/23 行移動 完全に心臓を貫いており、 → 下行移動

2011/08/23 改行削除 感染者は火で焼くしかない為、 → 感染者は火で焼くしかない為、感染者狩りと、

2011/08/23 改行削除 ~この展開に一瞬迷ったが、 → ~この展開に一瞬迷ったが、自分の目の為に~

2011/08/23 記述修正 長く下り階段が続く。 → 長く下り階段が続いており、

2011/08/23 記述修正 息絶えつつある妻を静かに床へ寝かせた。 → 息絶えつつある妻を、静かに床へ寝かせた。

2011/08/23 記述修正 ~いなかったことをこの時悟った。 → ~いなかったことを、この時悟った。

2011/08/23 句読点変換 “。” → “、”

2011/08/23 句読点削除

2011/09/18 誤植修正 直す、直る → 治す、治る

2011/09/18 誤植修正 乗せられる、乗って → 載せられる、載って

2011/09/18 記述修正 薬の完成をさせる為 → 薬を完成させる為

2011/09/18 記述修正 更に下へと押し下げていく。 → 更に下へと引き下げていく。

2011/09/19 記述修正 滴 → 雫


その医者は子供の頃に患った疫病の影響で、すでに右目の視力は失われていた。

この村唯一の診療所である高齢の医師のところで、助手として学んだ。

そしてこの医者が青年になり、そろそろ独り立ちという頃に師であった医者が倒れた、高齢ゆえの心臓発作だった。

その後、倒れた師である老医師の孫で、看護婦として手伝っていた孫娘と結婚し、この診療所を継いだ。

しばらくすると、妻は身ごもり、やがて娘が生まれた。

この医者の腕はなかなかのもので、この村のみならず、山の向こうの大きな町からも患者がやってきた。

だが、この腕とは裏腹に、残る左目もかつての疫病の影響で、右目と同様に悪化していった。

自分の病状は医者ゆえに分かっていたのだろう、そう遠くない日に、失明することを。

そして、両目が見えなくなったときはもう末期で、死期もそう遠くないことも。

このことは妻も分かっていて、医者の夫が治すすべが無いのだからと、解決策をあらぬもの、神やまじないに頼り始めた。

妻は、あらぬものに傾倒するようになってから、外出する時間が増えていった。

診療時間以外、特に夜に出て行くことが増えていく。

外科医だったこの男からすれば、看護婦たる妻がそんなものに傾倒していく様をみるのは、大変な苦痛だったろう、自分の病が原因なのだから。

病さえなければ、愛しい妻と愛娘に囲まれた、幸せな家庭のはずなのに。

じきに失明し命を失う夫と、これを食い止めたいが故に平常心を失いつつある妻、家庭には常に重く暗い空気が立ち込めていた。




医者は妻のことが気がかりではあったが、それよりも気にかかる事があった。

この頃遠方から来た旅人や商人たちが伝えてきた、疫病のことだ。

かなりの死者が出ているらしく、大きな街ひとつが病により全滅したらしいとか、一度感染すると治療の方法はなく、感染者は火で焼くしかない為、感染者狩りと、死者や感染者を焼く焼却場からの黒煙が、途絶えることがないとか。

そして、だんだんとこの疫病は、この地方に近づいていることも、もたらされる噂をまとめると、もはや明確だった。

医者はこの疫病に関する情報を、師である老医師の過去の文献から見つけていた。

老医師が若い頃にも、同じような疫病がこの村でも広まったが、特効薬を作り出し、村の壊滅を免れたらしい。

しかしこれはその当時の疫病のものであり、今回の疫病に合わせた特効薬の精製には、もう少し時間が必要だった。

医者は、体に無理をすれば、それだけ病の進行は早まるのも承知の上で、薬を完成させる為、寝る時間も惜しんで研究を続けた。




妻にとって、この診療所はかけがえのないものだった。

優しかった祖父である老医師と、短い間ではあったが両親と共に過ごし、疫病により両親が亡くなった後も、同じく近しい人を亡くした村の人々と、共に励ましあい支えあいながら生きてきた、かけがえのない場所。

それがこの村であり、診療所だった。

そして祖父もまた亡くなったが、その代わり今は愛する夫と娘がいる、妻は以前にも増してこの場所と、この生活を守りたいと願っている。

また別の側面では、医療に携わる者として、夫の能力を誰よりも高く評価していた。

この夫の医師としての力が失われ、更に命までも失っていくのを、黙ってみていなければならないのか。

いいえ、もう両親や祖父の時のように、運命という一言では諦める事は出来ない。

運命を変えられるのであれば、何としてでも変えてみせる。

だが夫には、そんな妻の悲壮な決意を、読みきれてはいなかった。




娘は、それぞれに異なる思惑に自らを追い込んでいく両親を気遣ってか、非常に賢い手の掛からない子供であり続けた。

両親の言うことには、素直に聞き、駄々をこねることも無く、まだ幼いのに、二人の邪魔にならないようにと、気遣っているようにさえ見えた。

娘は父親も母親も大好きだった。

だからこそ、その二人から感じる、多忙から来る苛立ちを敏感に感じ取り、好きであるが故に、嫌われたくないという思いから、両親に気を配っていたのかもしれない。

この時の娘は、また昔のように大好きな優しい両親に、戻って欲しいと願っていた。

だが両親には、娘の胸中を察する余裕はなかった。




医者が若い頃、原因となった病を患わなければ。

妻の過去に、両親を失った時の、深い悲しみがなければ。

娘が気を使うことなく、素直な感情を両親にぶつけていれば。

この医者にとって、もっと幸せな終焉を迎えられたかも知れなかったのに。

全ての歯車は、悪い方にかみ合い、そして悲鳴のような軋みを立てつつ回りだした。




この日もまた、医者は特効薬の研究に没頭していた。

感染の範囲は近づき、すでに山の向こうの町にまで、発症者が出たらしい。

それに、目の方もかなりぼやけて見えるようになっており、二つの意味でもう本当に時間が残り少なくなっていた。

この村でも、村を捨て、遠くに住む縁者のもとへと去っていった者も、多く見られるようになった。

妻は、そういった話を聞くたびに、まるで自分のせいで出て行ったかのような、いたたまれない表情をした。

夫たる医者には、その妻の自責にかられた心痛が伝わってくるようで、それがまた辛かった。

妻のためにも、何とか薬の完成だけは間に合わせなければと、夜遅く診療室の奥にある調合室にいた時。

扉をノックする音と共に、妻が調合室に入ってきた。

今まで一度もこんな夜中に様子を見に来ることは無かったので、医者はその手をとめて妻に声をかけた。

妻はそれには返答せず、ただ微笑みつつ、ついて来て欲しい、と言った。

医者は様子が少々おかしいとは思いながらも、今まで一度も無かったこの展開に一瞬迷ったが、自分の目の為にしてくれているであろう好意を、拒絶するのは心苦しくもあって、誘いに応じた。

診療所を出る時、ふと娘がちゃんと寝ているかが気になり、様子を見たいと妻に告げた。

しかし妻は、微笑みつつ、よく寝ているから大丈夫、私がすでに確認してあります、と言った。

医者は、それならと、思い直して外に出た。




妻は診療所を出ると、村の外れの方にある、かつて裕福な商人の住まいだった、今は廃屋と化した屋敷へと向かう。

普段は子供たちの隠れ家だったり、度胸試しの場といった遊び場所のひとつではあるが、ここに何があるのだろうか。

医者は、あまり時間を取られたくないという正直な気持ちもあり、半壊している屋敷の奥へ奥へと、先んじて進んでいく妻の背に向かって、ここに何があるのかと尋ねた。

妻は振り返らずに、ここには皆が望んでいるものがあります、とだけ答えた。

やはりまじないや儀式の類か、恐らくはこの奥で私に対して、何かのまじないをかける為の儀式をやるつもりだろう。

それで目が治るように祈りをささげる、その結果目が治って薬も完成し、村人も救われる、という筋書きか。

医者は、妻が行うであろう子供だましのような展開を想像して、張り詰めていた意識が緩み、若干眠気が襲ってくるのを感じた。

しかし医者が目にしたのは、想像だにしないものだった。

妻は屋敷の最も奥に位置する、最上階の三階にある書斎へと入っていく。

書斎といっても書物などは一切無く、朽ちた大きな机と、崩れかけた壁一面の本棚があるだけの部屋だ。

ここも子供たちが出入りしているのだろう、机の上には落書きが、まだ崩れていない本棚には宝物なのだろうか、いくつか玩具が置いてある。

妻は周囲には目もくれず、天井を見つめると、すぐに床に目を落とし、落ちていた長い棒を拾った。

その棒で、先ほど見つめていた近くの天井の長い板の一つの端を、押し上げるように突いた。

すると、押された板は天井へと上がり、その長い板の逆側の端が、板の中央部を支点として逆に天井から下がってきた。

妻は何も言わずに、その下がってきた板の端を、押していた棒を使い、更に下へと引き下げていく。

手が届くところまで下げると、棒を床に置き、その板の端を両手でつかみ、ぶら下がるように下へ引っ張った。

すると、引っ張った板の隣の天井部分が、板数枚分まとめて軋みながら下がり、床まで下りてきた、それは隠し階段だった。

妻はこちらへ向き、さあ、いきましょう、と一言告げると、隠し階段を上っていく。

医者はだんだんと、嫌な予感を感じ始めたが、その不安を押し殺して妻の後に続いた。




隠し階段は、人一人通ることが出来る程度の幅で、一度天井裏へ出た後、今度は下り階段になった。

先ほど上がった隠し階段よりも、長く下り階段が続いており、医者は下っている階段の段数から、地下まで達していると推測した。

不安は先ほどよりも、更に大きくなっていく。

階段が終わったところで、妻の姿が不意に見えなくなった、階段を下り終えた所で、死角へ入ったようだ。

急いで医者も後へ続き、地下へと降り立った。

そこは、地上の屋敷の敷地と同等の広さがある、巨大な空間だった。

もともと鍾乳洞だったのかもしれないところの上に、屋敷を建てていたのだろう。

この地底の大広間は、規則的に燭台が左右二列に立てられ、火が灯っており、そのかなり先の方には、妻が走っているのが見えた。

医者は妻の名を呼びながら、急いでその後を追いかけていく。

妻が向かっている先には、この燭台の道よりも明らかに明るい場所があり、そここそが呼び出された目的の場所であるのは明白だ。

そこは中央に牛一頭が載せられるほどの巨大な祭壇が鎮座していて、その周囲の床には判読できない文字で、巨大な魔法円が描かれている。

妻をとめなければいけないと、医者の本能が警鐘を鳴らすが、最近の不眠不休の生活により、足がやたらともつれ、追いつくことが出来ない。

二人の距離は縮まらないまま、ついに妻はその目的の場所、祭壇へとたどり着き、祭壇の上にあった銀色の短剣を手に取った。

短剣は、実用のものではなく、細かな装飾が施された、祭事に使われるもののようだ。

近づいていくと、手にした短剣の刀身は、銀色ではなく、違う色合いで濡れたように、赤く光っている。

更に近づくと、祭壇の壇上は中央が淵より窪んでいて、その窪んだ中央には何かが載っているのが見えた。

医者が感じていた嫌な不安は、ここで頂点に達した。

大きさは、ちょうど、人間の、子供くらい。

そう、そこに横たわっていたのは、自分の娘だった。




まるで身じろぎせずに、横たわる娘は、小さな胸の上で両手を組み、安らかな愛らしい表情で、まるで眠っているかのように、そこにいた。

しかし、着ていた寝衣は深紅に染まり、祭壇の血抜き用の穴から滴り落ちて、祭壇の前に血溜りが出来るほどの出血で、流れた血の量を考えれば、もう命はないだろう。

祭壇の脇に立っていた妻は、医者が自分の娘を見て立ち止まったのを確認すると、もう起きることのない娘の頭を撫でながら、笑みを絶やさずに語りだした。

喜んでください、あなた、あなたの目は私たちが癒します、これであなたも村のみんなも、この疫病で苦しむ世界中の人々も救われますわ。

この子も、あなたの目を治す為と言ったら、喜んで手伝ってくれました、わが身を賭すことも厭わずに。

そこで、もうしばらくお待ち下さい、これで儀式は完成します……

妻は泣いていた、それは狂気ではなく歓喜からか、夫を救えると信じきり、最愛の娘をも手にかけてまでした、成果が得られる瞬間が来ることへの。

それとも、娘を殺めたことへの悲しみか、その真意は夫たる医者にはわからない。

そして妻は、何か聞き取れない言葉を発すると、夫がとめに入るより早く、自らの胸を突き刺した。

医者は、自力で刺せるはずがないほど深く貫いた短剣ごと、急速に死にゆく妻を抱きとめた。

妻は、抱きとめた夫に対して最後に、娘を奪ってしまってごめんなさい、これしか方法がなかった、と言い残し、弱弱しく微笑むと、目を閉じて動かなくなった。

医者は息絶えつつある妻を、静かに床へ寝かせた。

完全に心臓を貫いており、娘と同様に衣服を深紅へと染めていく、こちらも助かる見込みはないだろう。

医者は祭壇の上の娘に近づいて確認するが、予想通りやはりすでに息絶えていた。

妻が言っていたのは事実だったのか、娘の死に顔は安らかで、まるで眠っているかのように見えた。

そしてその愛らしい顔の上には、血ではなく、透明な雫がいくつも落ちているのを見た。

医者は、妻の精神が狂ってはいなかったことを、この時悟った。

最期の言葉は、本心から出たもので、娘をその手で殺める際も、その心は罪悪感と悲しみに満ちていたのだ。

医者は娘の顔にかかった髪を整えてやり、頬を撫でてやると、娘から目を離した。

妻の体に突き刺さった短剣を抜く為に、再び横たえた妻の脇に跪く。

実用のものよりも刀身の長いその短剣は、妻の体を貫き、切っ先は体を貫通して背中から突き出ていた。

医者は短剣を硬く握り締めていた、妻の両手を解く。

多量の流血のせいで指が滑りかなり手間取ったが、指を柄から剥がすことが出来た。

そして、刀身の割には短い、今では血に染まり、乾き始めて赤黒くなった柄を握り引っ張るが、まったく抜くことができない。

医者は握っていた柄から、両手を短剣の鍔へと持ち直し、力を込めた。

装飾用の鍔では強度が足りないかとも思われたが、力をかけても折れることはなく、短剣は妻の体から引き抜けた。

短剣の刀身は根元から途中までは刃の幅が変わらず、中央から先端にかけて細くなる構造で、刃にまで施された装飾が、血抜きの役割を果たしておらず、これゆえになかなか抜くことが出来なかったようだ。

医者は愛する家族の命を奪ったその短剣を、複雑な思いで見つめた。

しばらく短剣を無心で眺めた後に我に返り、その短剣を妻の体の脇に置こうとした時、祭壇の方から物音が聞こえ、医者はそちらに視線を向けた。


祭壇の上に、一人の人間が立っていた。

生け贄となり、息絶えたはずの娘が。




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