第七章 ホムンクルス 其の三
変更履歴
2011/01/03 語句修正 隠者 → “隠者”
2011/04/11 小題修正 ホムンクルス1 → ホムンクルス
2011/04/14 誤植修正 私の様子を伺って → 私の様子を窺って
2011/05/10 記述修正 産婦人科医 → 産科医
2011/10/14 誤植修正 位 → くらい
2011/10/14 誤植修正 乗せられた → 載せられた
2011/10/15 記述統一 一センチ、十メートル → 1cm、10m
2011/10/15 記述統一 1、10、100 → 一、十、百
2011/11/01 誤植修正 状態の異常を検地する機能も → 状態の異常を検知する機能も
2011/11/01 誤植修正 “隠者”との一方的な語りによるものか → “隠者”の一方的な語りによるものか
2011/11/01 句読点調整
2011/11/01 記述修正 眠っている間に → 丁度
2011/11/01 記述修正 外の清々しい、のだろう、澄んだ空気が → 外の清々しいのであろう澄んだ空気が
2011/11/01 記述修正 それと、午前と午後の十二時に → それと午前と午後の十二時になったら
2011/11/01 記述修正 機械が調子が悪くなるのか → 機械の調子が悪くなるのか
2011/11/01 記述修正 無意識とは言え脳死状態では → 無意識とは言え完全な脳死状態では
2011/11/01 記述修正 しかし、胎児と言うのは → それにしても胎児と言うのは
2011/11/01 記述修正 未だに感情を出している所を見ていないところや → 一度も感情を露にしている所を見ていない事や
2011/11/01 記述修正 薪を追加して行ったらしい → 定期的に薪を追加しているらしい
2011/11/01 記述修正 すぐに壊れてしまう儚い夢の世界へと → すぐに消え失せる儚い夢の世界へと
2011/11/01 記述修正 壁に灯されていた灯りの位置は、朧げにしか見えておらず正確には判っていない → それでも朧げにしか見えていないので正確な距離は判らない
2011/11/01 記述修正 外の清々しいのであろう澄んだ空気が → 外の清々しい澄んだ空気が
2011/11/01 記述修正 外側は半径3mが視野の限界らしい → 詳細が明確に判るのは半径3m程度が限界らしい
2011/11/01 記述修正 単に“隠者”の一方的な語りによるものか → “隠者”の語りによるものか
2011/11/01 記述修正 産科医か助産婦の様である → 産科医の様である
2011/11/01 記述修正 下部の砂山の位置で時刻を読み取って下さい → 上の砂山の位置で時刻を読み取る様に出来ております
2011/11/01 記述修正 何かを感じたら → 何か異変を感じたら
2011/11/01 記述修正 左右交互に上げ下げして下さい → 左右交互に動かして下さい
2011/11/01 記述修正 インクとペンを取り出しているのが → インクと羽根ペンを取り出しているのが
2011/11/01 記述修正 幅は使用人の体の幅と同じくらいの → 幅は使用人の体と同じくらいの
2011/11/01 記述修正 脆弱な印象であった → 高齢で脆弱な印象であった
2011/11/01 記述修正 サイフォンが置いてある → 半分程入っているサイフォンが置いてあるのも見えた
2011/11/01 記述修正 どの時かは判らないが → 私が気づいていない時にも
2011/11/01 記述修正 かくもあっさりと降伏してしまったのだった → かくもあっさりと降伏してしまった
2011/11/01 記述修正 ずっと疑っていたのだ → ずっと疑っていた
2011/11/01 記述修正 色素が無いに等しい肌と瞳孔の色からして → 色素が無いに等しい肌からして
2011/11/01 記述修正 滅多にしないのだが、たまに → 時折
2011/11/01 記述修正 女が寝言らしき言葉を発したり → 女が発する寝言らしき言葉や
2011/11/01 記述修正 何も見えない視界しか → ぼんやりとした暗い視界しか
2011/11/01 記述修正 今は右側から体の前に垂らしている → 右肩から体の前に垂らしている
2011/11/01 記述修正 末端は腹に届く程の長さがあり → 末端は腰まで届く程の長さがあり
2011/11/01 記述修正 半径3m程度が限界らしい → せいぜい半径3m程度が限界らしい
2011/11/01 記述修正 丁度使用人達が朝の日課なのだろう → 光の方を見ると、使用人達の朝の日課なのだろう
2011/11/01 記述修正 部屋の中の灯りを消して → 丁度部屋の中の灯りを消して
2011/11/01 記述修正 炎の色と大きさが → いつ見ても炎の色と大きさが
2011/11/01 記述修正 フードは払われていて → ケープのフードは払われていて
2011/11/01 記述修正 その通り過ぎる時に見た → その通り過ぎる際に見た
2011/11/01 記述修正 赤く照り返しているのが判った → 仄かに赤く照り返しているのが判った
2011/11/01 記述修正 始める前にまずはこれの説明を → 始める前にまずはこれの説明を致しましょう
2011/11/01 記述修正 巨大な砂時計らしい物を持って来た → 巨大な砂時計らしい物を載せている
2011/11/01 記述修正 二人は無言で頷いて → 二人が無言で頷いて
2011/11/01 記述修正 肩くらいの高さまで持ち上げて → 肩より上の高さまで持ち上げて
2011/11/01 記述修正 気分がすっきりして来ている気がしていた → 気分もすっきりして来た様に感じる
2011/11/01 記述修正 そうすれば究極の焙煎方法とか → そうすれば究極の焙煎方法や
2011/11/01 記述修正 この力強い雰囲気は昨日から変わらない → この力強い雰囲気は出会った当初から全く変わらない
2011/11/01 記述修正 精悍な印象を終始私へと与えており → 精悍な印象を終始揺らぐ事無く私へと与えており
2011/11/01 記述修正 長身でとても堂々としていて → 彼は長身でとても堂々としていて
2011/11/01 記述修正 髪は黒くて直毛 → 髪は黒色の直毛で
2011/11/01 記述修正 やはりこの未完成の目と → やはりこの未成熟の目と
2011/11/01 記述修正 女の頭側の奥にあるのが判った → 女の頭側の後方にあるのが判った
2011/11/01 記述修正 鎧戸を開け放っている途中だった → 鎧戸を開け始めたところだった
2011/11/01 記述修正 私は興味を持った物が失われた途端に → 興味を持った物が失われた途端に
2011/11/01 記述修正 かくもあっさりと降伏してしまった → 私はかくもあっさりと降伏してゆく
2011/11/01 記述修正 不死者なのではないかと → 人形か或いは不死者なのではないかと
2011/11/01 記述修正 瞬きしているのを見ていない等だ → 瞬きや口を開いているのを見ていない等だ
2011/11/01 記述修正 小ぶりの鼻と口と顎をしていた → 小ぶりの鼻や口をしていた
2011/11/01 記述修正 身長に適合した小さめの頭 → 身長に適合した小さめの頭と細い輪郭
2011/11/01 記述修正 フードを後ろに払った → ケープのフードを後ろに払った
2011/11/01 記述削除 研究室は暖炉の小さな火だけがまともな光源でしかなくなっており
2011/11/01 記述修正 とてもでは無いが移動出来ない暗さとなっていた → 移動出来ない暗さとなっていた
2011/11/01 記述修正 そこへ二人並んで腰掛けてから → そこへ二人並んで腰掛けると
2011/11/01 記述修正 時間が掛かってしまって、そうか → 時間が掛かってしまいましてね、ああそうか
2011/11/01 記述修正 実に残念です → これは次回での楽しみに取っておきましょう
2011/11/01 記述修正 態度が変わるのかどうか、確認してみるか → 態度が変わるか確認してみるか
2011/11/01 記述修正 静かに眠り続けている様だ → 静かに眠り続けている
2011/11/01 記述修正 部屋を最短距離で横断しながら → 部屋を最短距離で縦断しながら
2011/11/01 記述追加 それに起きていられる時間も~
2011/11/01 記述修正 もう一人はワゴンと言うよりも台車に → もう一人が押しているのはワゴンと言うよりも台車だった。
2011/11/01 記述分割 台車に、この使用人よりも → 台車だった。その台車には使用人よりも
2011/11/01 記述修正 意識は無いものの → 意識こそ無いものの
2011/11/01 記述修正 この男のジョークか何かなのかも → この男なりのジョークか何かなのかも
2011/11/01 記述修正 やけに白いと思ってはいたが → あの小さな使用人達、やけに白いと思ってはいたが
2011/11/01 記述修正 珈琲でも入っていそうなマグからは → 珈琲でも入っていそうな白いマグからは
2011/11/01 記述修正 扉へと進んでいく途中で → 扉へと進んでいく途中
2011/11/01 記述修正 一時間としていたのか → 一時間区切りとしていたのか
2011/11/01 記述修正 是非味わって頂きたかったのだが → 是非堪能して頂きたかったのだが
2011/11/01 記述修正 ここだけ、この直径1m程度の → この直径1m程度の
2011/11/18 誤植修正 関わらず → 拘わらず
あの後、何度も眠っては目覚めると言うサイクルを、想像よりも短い周期で繰り返し行っているのが、自分でも身をもって判ってきた。
その理由は実に簡単で、何度眠りについて目を覚ましても一向に朝にならず、いつもの闇の世界に似た、ぼんやりとした暗い視界しか無いからである。
この胎児の睡眠時間と言うのは相当に短く、もっても一時間も連続して眠れていないのではないのかと思えた。
それに起きていられる時間も睡眠時間と変わらず、短い周期で覚醒と睡眠が交互に訪れており、これは言わばずっと微睡み続けている状態だ。
だから“隠者”は、明日からの計画の問答に充てる時間を、一時間区切りとしていたのか。
それにしても胎児と言うのは、これ程短いサイクルで睡眠と覚醒を繰り返すものなのか、それともこの特異な環境で様々な薬を投与された結果、この様になっているのか、そこまでは良く判らない。
それとこの胎児の睡眠の質はかなり浅いもので、時折管の繋がっている機械の調子が悪くなるのか振動や音を発したり、無意識とは言え完全な脳死状態では無いらしい、女が発する寝言らしき言葉や、異変とは言えないレベルでの女の体調変動に因る羊水の変化にも、敏感に気づいてしまい時々目が覚めるのだ。
とある覚醒時は、寝惚けた状態で周囲を見てみると、丁度あの使用人達が来たところだった。
使用人達は夜の見回りにも拘わらず、手にランタン等の照明器具を持っていないのが、疑問に思えた。
深夜は灯りを最低限のものだけにするのだろう、彼らは二人で左右に分かれて入り口の扉近くから順に、壁の灯りを消しながら壁沿いに部屋の奥へと進んで行き、暖炉の火と出入り口付近だけを残して消灯していく。
これで最後まで灯りを消してしまったら、自分達は何も見えなくなるのではないだろうか。
案の定、最後は窓辺の私や母体の女のいる位置の、ほぼ真横の窓際で合流したらしい場所まで到達した時には、手探りでなければ移動出来ない暗さとなっていた。
これだけ雑多に物が散乱していそうな研究室の中だ、手に灯りを持たず部屋の中を進んだら、何かに足を取られたり引っ掛けてしまうのではないかと、少々気になりだした。
どうするのかと思って彼らのいる方へ目を凝らして眺めていると、彼らはずっと被っていたケープのフードを後ろに払った、その様に思えた。
ここからでは暗くて良く見えず、はっきりした事は言えないが、二人の頭部の高さに当たる部分が、今までは何も見えていなかったのに、突然暖炉の炎を反射して赤く照らされているのが判ったからだ。
これは恐らく、その手には何も持っていなかった所からして、フードを払って銀髪を露にした結果ではないだろうかと推測した。
二人は、普通に周囲が見えているかの様な確かな足取りで、部屋を最短距離で縦断しながら扉へと進んでいく途中、私や女の脇へと近づいて来た。
その通り過ぎる際に見た彼らの状態は、私の推測した通りで、どうやら遮光の為だったらしいケープのフードは払われていて、銀色の髪が暖炉の炎で赤く輝き、手と同じく白い肌をした横顔も、仄かに赤く照り返しているのが判った。
彼らの顔は非常に印象的で、二人は双子かと思う程にそっくりの顔、身長に適合した小さめの頭と細い輪郭、眉の所で水平に切られた前髪と肩に付かない高さで切り揃えられた髪、顔と比べて大きな吊り目の瞳、瞳と比べると顔のサイズに合った小ぶりの鼻や口をしていた。
そして気のせいだろうか、瞳孔の色は炎を映しているからか、赤く光って見えている。
光を嫌っている所や、色素が無いに等しい肌からして、この二人はアルビノだろうか。
とても整った端正な顔立ちをしていて、中性的な印象を私に与えており、性別はその顔からは見定められず、その表情は二人共に同じく全くの無表情であった。
特徴的なその瞳は揺らぐ事無く正面を見据えたままで、私には何の興味も持っていないらしく、私の居るフラスコには全く視線を向ける事無く、真っ直ぐな銀髪を僅かに左右へと揺らしながら、二人は遠ざかって行く。
あの小さな使用人達、やけに白いと思ってはいたが、白子であれば納得がいった。
だが未だに一言も声を聞いていないのは変わっておらず、まだ全うな人間であるとは完全に信じきれない箇所も残っている、一度も感情を露にしている所を見ていない事や、瞬きや口を開いているのを見ていない等だ。
どうも動きが人間らしくない、と言うよりも生物らしくないと感じていて、だからこそこれほどまでに気にかかっているのであり、もしやあれは人形か或いは不死者なのではないかと、ずっと疑っていた。
ホムンクルスを作り出す男の元にいる存在なのだ、只の召使いではないと私は踏んでいる。
しかし、それを確認するのはこれからの課題とせざるを得ない様だ。
興味を持った物が失われた途端に、音も無く近づくこの器の最大の天敵である睡魔の襲撃に、私はかくもあっさりと降伏してゆく。
この後も何度と無く目は覚めたが、もう目新しい事に因って覚醒させられたのではなく、ちょっとした物音、薪が爆ぜる音や女の身体的な微々たる変動等に因るものだった。
この地域は夜間は冷えるのだろう、こんな夜遅くなっても暖炉の火は消されておらず、いつ見ても炎の色と大きさが変わっていないところからすると、私が気づいていない時にも、使用人達は定期的に薪を追加しているらしい。
それら以外には何の変化も無く、“隠者”としてはあってはならない事だろうが、女の方にも特に異変も無い様で、静かに眠り続けている。
目覚めても何も目立った変化が見られなければ、私はすぐに次の眠気の波へと飲み込まれ、意識は脳から溶けて流れて行くかの様にぼやけていく。
そうして私は、すぐに消え失せる儚い夢の世界へと送り込まれるのだった。
何度目の目覚めであったかもう判らなくなった頃、今回は物音と同時に窓側からの光に気づいて、やっと長かった夜が終わったのが判り、安堵した。
光の方を見ると、使用人達の朝の日課なのだろう、部屋の中の灯りを消して、窓のカーテンと鎧戸を開け始めたところだった。
外の清々しい澄んだ空気が、締め切られていて淀んだ室内の空気と入れ替わっている筈だ、フラスコの中なので私には判らないが。
きっと母親の吸う空気が新鮮になれば、体液に取り込まれた状態ではあるが、胎盤を通じて私の所にもそれが届くのではないだろうか。
今は夜明け直後なのか、陽の光はかなり水平に窓から部屋の中へと差し込んでいて、昨日よりもこの研究室の奥が見えており、ずっと判らなかったこの部屋の出入り口も私から見て右側の奥、女の頭側の後方にあるのが判った。
この部屋は突飛な形状では無く、四方を壁に囲まれた正方形か長方形をしているのだろうから、窓の光と奥の扉の位置から部屋の奥行きは何となく判ってきたが、それでも朧げにしか見えていないので正確な距離は判らない。
やはりこの未成熟の目と羊水の中からでは、詳細が明確に判るのはせいぜい半径3m程度が限界らしい、もしかすると奥の扉も実は扉では無い様な気もしてくる。
仮にあれが扉だとすれば、この部屋は部屋と表現するには少々広すぎるのではないかと思えていた。
だがこの部屋がどれだけ広くても、この部屋の他にどれだけ多くの部屋があろうと、この“隠者”の住まいがどれだけ広大でも、私が見知る事が出来るのはこの直径1m程度のフラスコの周辺だけなのだから、それには大した意味など無いかとも思える。
私がそんな事を考えている間も、使用人の二人は今朝もやはり一言も発する事無く、黙々と作業をこなして部屋を出て行く。
朝一番のこの部屋での作業は、出入り口の灯りの消灯と窓を開ける事だけであったらしい、ここで何か私や女の状態でおかしな所があれば、あの男を呼びに行くのだろうか、それともここの機械はそういった状態の異常を検知する機能もあるのだろうか。
いつか、死んだ振りでもして彼らの態度が変わるか確認してみるか、あまり意味はなさそうだが。
時間がまだ早朝の為か、“隠者”はここへ現れる気配は無く、小さな二人が出て行った後はまた動く物が無くなって、視覚的にも聴覚的にも静かになった。
興味を持つ物を失ってしまうと、すぐに睡魔はやって来る。
本当に良く眠るのだなと半ば呆れながらも、今はまだこの耐え難い誘惑に逆らう必要は無いと判断して、意識が遠のくのを受け入れた。
次に目覚めた時には、もう“隠者”は前日にも私との対話の際に掛けていた大きな椅子に座り、私の様子を窺っていた。
この男は私を起こしもせずに黙って見ていたらしい、片手に持った珈琲でも入っていそうな白いマグからは、僅かに湯気が上がっているのが見えて、すぐ脇にあったサイドテーブルには、半分程入っているサイフォンが置いてあるのも見えた。
今朝のこの男の格好は白衣ではなく、何故か判らないが古臭いデザインだと感じる、如何にも魔術師と言った感じのローブでは無い、ガウンの様なものを纏っていた。
ここで始めてと言うか、昨日はあまり注視していなかった、男の顔に注目してみた。
髪は黒色の直毛で、そしてそれはかなり長くて首の後ろで一つに括っているらしく、末端は腰まで届く程の長さがあり、右肩から体の前に垂らしている。
肌の色は使用人達とは違い乳白色では無く、若干暗いが白色人種と言っても差し支えない程度だ。
よくある魔法使いの老人じみた長い顎鬚などはなく、漠然とではあるが、どうも私の持つイメージとは大きく違いすぎていて、これが錬金術師のあるべき姿とはとても思えない。
私の偏見とも言えるのかも知れないが、錬金術師と言うのは魔術師と大差ないもの、と言うイメージを持っており、私にとっての魔術師と言うのはもっと痩せこけていて、高齢で脆弱な印象であった。
それと、この男が今まで私に語って聞かせた事から検証すると、彼は錬金術師と言うよりも医者、更に言えば産科医の様である。
百歩譲って、この男が様々な学問を習得している学者だったとしても、その容姿は研究に没頭している天才的な学者のそれとも、あまりにかけ離れていた。
彼は長身でとても堂々としていて、精悍な印象を終始揺らぐ事無く私へと与えており、この力強い雰囲気は出会った当初から全く変わらない。
“隠者”と名乗る錬金術師らしからぬ男は、まっすぐにこちらを見つめて微笑みながら、マグの飲み物を上品に喉へと流し込んで、ゆっくりと語りだす。
「お早う御座います、昨夜は良く眠れましたでしょうか、そのお体ですと長い夜であったのではないかとお察し致しますが。
胎児の睡眠は成人の睡眠とは違って、多相性睡眠ですから頻繁に目覚めてしまって、さぞかし大変だったでしょう。
私は不眠症とは無縁なもので、そういったものを実際に体験した事は無く、その辛さについては察して差し上げる事は出来ませんが、私の提案にご協力頂ければ、出来る限り体調を優先して対応させて頂きます。
出来る事なら、貴方と共に朝食でもご一緒して、この取って置きの珈琲の風味を、是非堪能して頂きたかったのだが、これは次回の楽しみに取っておきましょう。
この豆はなかなか入手出来ない極上の一品なのですよ、これは深みのある苦味も良いのですが、何よりもこの香りが素晴らしい。
胎児である貴方には、あまりカフェインを摂取させるのも宜しく無いでしょうから、せめて、この芳醇な香りだけでも味わって頂きましょうか」
そう言うと“隠者”は、マグをもう一つ取り出すと、サイフォンのフラスコから一杯の珈琲を淹れ、そのマグを女の頭の脇にある、丁度ベッドの面と同じ高さのサイドテーブルに置いた。
どうやら母体たる女に珈琲の香りを味わわせて、胎盤経由で私へとそれを伝達させようと言う事らしい。
それで果たして私の味覚に風味が届くのだろうか、と疑問に思いはしたが、きっとこれはこの男なりのジョークか何かなのかも知れないし、或いはその香りで以って意識こそ無いものの、この女にとって良い効果が現れるのかも知れない。
「この珈琲に関する技術だけは、あの二人にはまだ任せられないのです、決められた動作を覚えさせるのは容易いが、こう言う微妙な匙加減等はなかなか上達しないものでして、だからこれだけは私が自分で豆を挽き、抽出して淹れております。
本当はウォータードリップの方が良いのですが、あれはとにかく時間が掛かってしまいましてね、ああそうか、貴方を珈琲の神としてお呼びすれば良かったのか、そうすれば究極の焙煎方法や、最高のドリップ等が解明出来たのかも知れませんね。
さて、冗談はこの辺にしておいて、一晩ご検討頂いた結果をお聞かせ願いますか、私の要求に応じて頂けるのであれば右の腕を、拒否されるのであれば左の腕を、まだ定まっていないのであれば両腕を、動かして頂きたい」
マグから立ち上る香りに影響されたのか、私の意識は先程よりも明確になって、気分もすっきりして来た様に感じる。
これは珈琲の効果なのか、それとも“隠者”の語りによるものか、はっきりとは分からないが、どちらにせよこれから頭を使わねばならないのだから、これは都合が良い。
まずは問いかけに対する返答からだ、彼への回答はもう決めてある、何を聞き出そうとしているのかは判らないが、一万にも及ぶ質問に応じようではないか、そしてこの男がどういった存在なのかを逆に見極めてやろう。
私はだらりと腰の辺りに下げられていた右の腕を、明確に判る様に肩より上の高さまで持ち上げて、“隠者”へと見せた。
「おお、ご理解頂けた様ですね、まずはそれに感謝致します、では早速本日のノルマ分の消化に入りましょうか。
これから準備をさせますから、その準備が終わるまで暫くお待ち下さい」
“隠者”がそう言い終えると、まるでそれを待っていたかの様なタイミングで、あの二人がこちらへと近づいて来るのが判った。
男は二人に対して、何かはっきりと聞き取れない言葉で指示を出すと、二人が無言で頷いて再び遠ざかって行くのを見届けた後に、私に一言声を掛けてから念の為のチェックなのか、管が繋がった機械の具合を確認していた。
そして問題無いのを確認し終えたと同時に、あの二人が異なる物が載せられた、二つのワゴンを押してやって来た。
一人は下の段も天台の所にもぎっしりと分厚い本を詰め込んである、木製のアンティークの様なワゴンで、もう一人が押しているのはワゴンと言うよりも台車だった。
その台車には使用人よりも大きなガラスの筒、丁度半分くらいの位置で括れているところを見ると、巨大な砂時計らしい物を載せている。
それは高さが使用人達より頭一つ高く、幅は使用人の体と同じくらいのかなり縦長な砂時計で、中に入っている銀色の砂はまるでダイヤか鏡の破片の様によく光を反射している。
一方アンティークのワゴンへと目を移すと、そこに満載されている本はワゴンとは対照的に、どれも真新しいものであるのが判った。
恐らく、あの大量の本の中には質問が記載してあって、これに私の回答を記録していくのだろうと推測出来た。
使用人達は、まず巨大な砂時計を台車から下ろして、私の居る巨大フラスコから1m程の場所にそれを設置した後、押してきたワゴンの傍に背凭れの無い木製の椅子を置いて、そこへ二人並んで腰掛けると、ワゴンに付いていた平たい抽斗から、インクと羽根ペンを取り出しているのが辛うじて見えた。
その後、“隠者”は使用人に記録すべき本の題名を告げている様で、使用人が言われた本を探し出して、指示された頁を開いたところで、再び男は私へと声を掛けて来た。
「お待たせ致しました、始める前にまずはこれの説明を致しましょう、この砂時計はご協力頂いたお礼と言う訳では無いですが、貴方も時間が判った方が生活しやすいだろうと思いまして、用意致しました。
これは十二時間を計る砂時計でして、一時間毎に数字と太い横線が、三十分の所に細い横線が入っていて、上の砂山の位置で時刻を読み取る様に出来ております。
これなら視力の弱い貴方でも、読み取れると思いますが如何でしょうか、それと午前と午後の十二時になったら、この者達に反転させますので。
では丁度時刻も午前九時となったので、質問を始めたいと思います。
最初は慣れない作業で、体調にも影響が出るかも知れませんから、一応こちらでも見てはおりますが、何か異変を感じたら両腕を左右交互に動かして下さい。
それでは、開始致しましょうか」
こうして、“隠者”との問答は開始された。