第七章 ホムンクルス 其の二
変更履歴
2011/04/11 小題修正 ホムンクルス1 → ホムンクルス
2011/10/13 記述統一 1、10、100 → 一、十、百
2011/10/30 誤植修正 少々偏頗な場所にありまして → 少々辺鄙な場所にありまして
2011/10/30 誤植修正 ここに捉えて置くつもりであるのも → ここに捕らえて置くつもりであるのも
2011/10/30 誤植修正 四十週を行き続けるまでには → 四十週を生き続けるまでには
2011/10/30 句読点調整
2011/10/30 記述修正 まず、何度試しても精液とハーブと糞からでは → 書物通りに何度試しても
2011/10/30 記述修正 いくら四十日間寝かしても → 精液とハーブと糞からでは四十日経っても
2011/10/30 記述修正 一向に生物が現れないので → 一向に生物が現れず
2011/10/30 記述修正 質問については、はいか、いいえで → 質問については『はい』か『いいえ』で
2011/10/30 記述修正 はい、なら右腕を、いいえ、なら左腕を → 『はい』なら右腕を『いいえ』なら左腕を
2011/10/30 記述修正 多岐に及ぶのではなかろうか → 多岐に及ぶのではないかと思える
2011/10/30 記述修正 何として私を召喚したのかは → どういった器として私を召喚したのかは
2011/10/30 記述修正 呼吸や養分の吸収は → 呼吸や養分の摂取は
2011/10/30 記述修正 腹の中から鼓動の音やせせらぎの様な音色を → 鼓動音やせせらぎの様な音色を
2011/10/30 記述修正 想定では一月程 → 想定では一ヶ月程
2011/10/30 記述修正 私の思念と同様だと思われるが → 私の知る思念と同様だと思われるが
2011/10/30 記述修正 下手な脚色や誇張もまた無く → また下手な脚色や誇張も無く
2011/10/30 記述修正 クッションを抜き取って元の通りに寝かせてから → クッションを抜き取って寝かせてから
2011/10/30 記述修正 窓を見ると今は夕暮れ時らしく → 窓を見るといつの間にかもう夕暮れ時らしく
2011/10/30 記述修正 使用人が俯いた時に → 使用人が俯いた瞬間
2011/10/30 記述修正 フードからはみ出して → フードからはみ出したのだが
2011/10/30 記述修正 早く実験の成果を確認したくて → 早く実験の成果を確認したいと思いまして
2011/10/30 記述修正 切除した状態では → 母体より切除した状態では
2011/10/30 記述修正 二人同時に同じ部位をまるで → まるで
2011/10/30 記述修正 全く同じ速度でこなしていく → 二人同時に同じ部位を全く同じ速度でこなしていく
2011/10/30 記述修正 毛布を取ってから → ブランケットを取ってから
2011/10/30 記述修正 フード付きのケープを着ており → フード付きの黒いケープを着ており
2011/10/30 記述修正 横たわる母親の女の額に手を当てている → 横たわる母親である女の額に手を当てた
2011/10/30 記述修正 せせらぎの様な音色をかなり大きくした → せせらぎの音色をかなり大きくした様な
2011/10/30 記述修正 何を言っているのかは判別する事までは → 何を言っているのかを判別する事までは
2011/10/30 記述修正 成長活動は保持される筈です、植物状態の胎児として → 、植物状態の胎児として成長活動は保持される筈です
2011/10/30 記述修正 臍の緒を遮断し → 臍の緒を遮断する事で、酸欠に因って大脳皮質の一部を
2011/10/30 記述修正 呼吸や養分の摂取は → 通常の胎児の場合の呼吸や養分の摂取は
2011/10/30 記述修正 これを血液を満たした水槽で培養しても → これを血液で満たした水槽で培養しても
2011/10/30 記述修正 私の住まいの一つの中にある研究室の一室です → 幾つかある私の住まいの中の一つである、研究室の一室です
2011/10/31 記述修正 無であろう → 無でしかない
2011/10/31 記述修正 状況以上に悪くなる可能性と → 状況以上に悪くなる確率と
2011/10/31 記述修正 白色人種と言っても白すぎる手の色 → 白色人種だとしても白すぎる手の色
2011/10/31 記述修正 自分の事もどうすべきか → 自分の事すらどうすべきか
2011/10/31 記述修正 体の関節を屈伸させたり → 体の色々な関節を屈伸させて
2011/10/31 記述修正 色々な可動する箇所を動かしたり → 可動する箇所を動かしたり
2011/10/31 記述修正 次第に部屋の中が赤く光る部分が → 次第に部屋の中に赤く光る部分が
2011/10/31 記述修正 ブランケットを取ってから → ブランケットを剥いでから
2011/10/31 記述修正 また下手な脚色や誇張も無く → また下手な脚色や誇張も見られず
2011/10/31 記述修正 微かに伝わって来るものの → 臍の緒を通じて微かに伝わって来るものの
2011/10/31 記述修正 特に何の道具や呪文の詠唱も無くそんなものを使える筈は無い、只の人間であるならば → 只の人間であるならば、何の道具や呪文の詠唱も無くそんなものを使える筈は無い
2011/10/31 記述修正 再開されている筈です → 再開する筈です
2011/10/31 記述修正 実現させる事を優先させる様に → 実現させる事を優先する様に
2011/10/31 記述修正 受精出来ていないので → 受精も出来ないので
2011/10/31 記述修正 まず精液と糞とハーブでは → まず精液と糞とハーブだけでは
2011/11/01 後半ネタバレ記述の修正
2011/11/01 記述修正 例えばこの世界に~ → 例えばこの世の全ての~
2011/11/07 記述修正 例えばこの世の全ての~ → 例えば世界中に点在しているであろう~
2011/11/07 記述修正 質問の総数は一万に及ぶ事を踏まえると → 質問の総数は一万に及ぶ事を考えると
2011/11/07 記述修正 判り様も無いものばかりで → 判り様も無いものであり
白衣を着た長身の男は私に向かってそう言うと、近くにあった椅子に腰掛けて語りだした。
「その様な粗末なお体に閉じ込めてしまい、大変申し訳ありません。
ですがどうしても、早く実験の成果を確認したいと思いまして。
貴方には暫くの間、窮屈な思いをさせてしまいますが、どうかご勘弁願います。
まずは自己紹介を致しましょう、私は“隠者”と申しまして、錬金術師をしております。
ここは、幾つかある私の住まいの中の一つである、研究室の一室です。
少々辺鄙な場所にありまして、窓からの景色はなかなか雄大で大変美しい場所です。
貴方にも是非ご覧頂ければと思ったのですが、まだ視力はそれほど高くないでしょうし、申し訳ないがそこからは動かす事は出来ないので、景色の方は又の機会に致しましょう。
さて次は貴方の体について、お教えしておきましょうか。
それは、貴方の様な存在を招くのに最も的確だと私が考えて生成した、人造の人間、かの著名な錬金術師の書物では、ホムンクルスと言う名のものです。
ただ生成方法については、私なりの検証や実験の結果を反映させて、かなり著書とは異なるやり方で作成しました。
書物通りに何度試しても、精液とハーブと糞からでは四十日経っても一向に生物が現れず、様々なハーブの種類を試したり、糞だけでなく尿も入れたり、人間以外の物も試したり、これらを掛け合わせての検証も行いましたが、やはり駄目でした。
著書では生物が生まれてから与える手順になっている、血液も同時に加えたりして、温度も色々試して腐敗速度を変えてみても、やはり上手く行きませんでした。
そこで著書の正式な手順には拘らず、私が最も確実と思われる手段で作る事にしたのです。
まず精液と糞とハーブだけでは、卵子が無いのだから受精も出来ないので、成長させるのは無理であろうと判断して、これは安易ですが受精済みのものを使う事にしました。
若い女の奴隷を集めて受精させる事により、この問題は解決しております。
この時点からまた著書に従って行ってみると、どれだけ試しても受精した卵子はフラスコの中で腐敗していくだけで、とても四十週間どころか四十日すら持ちませんでした。
ここで私はもう完全に著書のやり方から逸脱して、実現させる事を優先する様に考え方を変更しました。
受精した卵子を子宮内から取り出して血液の中へ移しても、やはり長くは生かす事が出来ず失敗するので、受精卵を使うのも諦めました。
それならばと、受精後一ヶ月経過した妊婦から子宮内の胎嚢ごと胎芽を取り出して、これを血液で満たした水槽で培養してもやはり上手く行かず、卵黄嚢を消費し尽くした胎芽は腐敗していくばかりでした。
今までの失敗する原因を検討してみると、精液でも受精卵でも胎芽でもそうですが、正しく生存出来るだけの養分や酸素の供給が、出来ていないのではないだろうかと判断しました。
通常の胎児の場合の呼吸や養分の摂取は子宮内の胎盤から行っているので、供給手段を失わせない様に考慮すると、着床後の子宮内で胎盤ごと胎児を取り出す方法が良いかと思い実行してみたところ、これは今までよりは長い時間生存させるのに成功しました。
ただ今度は胎盤が先に壊死してしまい、その後に養分供給の手段を失った胎児も死に至り、四十週を生き続けるまでには届かないのが判り、色々と胎盤の延命を試みてみましたが、これは母親側の器官として存在しているものである為に、母体より切除した状態では壊死は免れないとの結論に至りました。
何度かの試行錯誤の末、胎盤や臍の緒が完成した受精後四ヵ月の妊婦から取り出すのが、培養するフラスコのサイズと、胎児が手術に耐えられるだけの体力との、バランスが良いと判明しました。
その際に胎盤は母親に残して、子宮から胎児だけを取り出して育成してみると、やっと安定して成長させる事に成功しましたが、この方法では過長臍帯の胎児でなければならないのが必須条件となり、この条件に合致する胎児を見つけるのに非常に苦労しました。
何しろ子宮を開けてみない事にはその長さが確認出来ないので、かなりの数の胎児を犠牲にしましたが、死んだ胎児と実験中に死んだ女も全て、貴方の召喚時の生贄として役立っております。
費やした母と子の命の数は、貴方の体が生存してきた日数分程にはなるでしょうか。
この多くの犠牲の上に成り立っている、貴方の宿る胎児ですが、勿論貴方がそこに入る事が出来る様に、召喚の直前に一度死んでいます。
酸素の欠乏と言う形が貴方にとっては最も都合が良いかと判断して、少しの時間だけ臍の緒を遮断する事で、酸欠に因って大脳皮質の一部を脳死させておきました。
憑依する対象の脳自体が損傷していても、貴方がたにとってはその精神と知性には関係ないでしょうが、その他の部位、例えば腕や足や頭等が無いと何かと不便でしょうから、適切な判断だと思っております。
貴方がそこに入った事により、胎児の肉体的な生命活動は再開されて、存在を維持するのに必要な部位は正常に動作し、胎児としての成長も再開する筈です。
本来の生成方法とはかなり変わってしまいましたが、私からすれば、人の手に因り生命を与えた知識を有する人造の人間じみたものであるので、ホムンクルスと言っても差し支えないのではないかと。
実際にこの子宮に見立てた、羊水で満たされたフラスコ内でなければ生きられないところも、現段階では同じですし、かの偉大な大錬金術師も大目に見てくれるのではないでしょうか。
厳密に言えば私のやり方では、単に死体を蘇生させているだけとも言えますがね。
この後については、またこれから状況を観察しながら対処を考えていく予定ですが、私の推測では貴方が消えたとしても、植物状態の胎児として成長活動は保持される筈です。
そうなってこそ、私が作り上げたかった、神を納める為の意思の無い肉体の容器、神の器の完成となる予定です。
貴方がたにとって、その能力の有無を排除して考えうる、最も長期間の召喚に耐えうる体の筈です。
と言っても、まだ生成途中のそのお体では、動く事もままならないでしょうし、羊水の中では声を発するのも無理でしょう。
ですが、貴方の体は現在受精後六ヵ月程経過しており、手足の動作や目や耳等が機能するまでは成長させておきましたので、私の声は聞こえていると思います。
最後に貴方の召喚対象についてですが、今回何らかの奇跡を起こして頂くのが私の召喚目的では無いので、貴方に知らせる事は考えておりません、どうぞご了承下さい。
私の言葉がご理解頂けているのであれば、右腕を動かして頂きたい」
ここまで他にしようも無く話を聞かされていた私は、この問いかけに対してどう応じるべきかを考えていた。
“隠者”と名乗った錬金術師だと言う男は、この私の肉体について経緯も含めた、髄分と丁寧な解説を語っていた。
これは自慢でも何でもなく、純粋に状況の説明であろう。
しかしながらその後に語っていた内容では、暗にろくに動けもしない受精後半年しか経っていない、無力な未熟児の器である事を強調している様にも聞こえる。
それにしても、私に超自然の存在としての力を使わせる気が無いとは、一体どういう事なのだろうか。
召喚対象の器の能力ではなく、その正体としての私を呼び出すのが目的だと言う事か。
いずれにしてもこのまま私が意思を示さなければ、この先にある男の目的を知る事は出来ないと思える。
結局はこの求めに応じて、男の出方を見て行くより進展は無さそうだと判断し、まずは理解出来た事を示すべく、自然な角度で下げていた右の腕を肩より上に上げて見せた。
それを確認した男は、頷いてから再び口を開く。
「ご理解頂けたようですね、では次に貴方を召喚した目的についてお話致しましょう。
最初に結論から申しますと、私は神の正体たる貴方がたの持つ知識を頂きたいのです。
その為に、まず確認しておきたい事があります」
そう言うと“隠者”は、横たわる母親である女の額に手を当てた。
すると、先程までフラスコの羊水を伝って、あらゆる方向から聞こえてきていた男の声の代わりに、鼓動音やせせらぎの音色をかなり大きくした様な雑音に紛れて、男の声と思える音が臍の緒を通じて微かに伝わって来るものの、何を言っているのかを判別する事までは出来ない。
暫くそれを続けている男に対して、これは思念の一種ではないかと気づいて、こちらからも思念を返してみるが、向こうからの声が聞き取れないのと同様に、男の方も表情は曇っている。
もう暫く互いに思念での会話を試みていたが、どうにも伝わらないと判断して、男は片腕を上げて思念を発するのを停めてから、女の額から手を放した。
それと同時に、私も思念を送るのを止めた。
「どうやら、心話は出来ないみたいですね、やはり胎盤から先へは伝わらないか。
直接会話が出来れば、これからの作業がより効率良くこなせたのですが、致し方ないので貴方には身振りでお答えして頂きましょう。
貴方には、いくつかの質問に答えて頂こうと思っております。
少々数がある為、それなりの時間をかける事になります、想定では一ヶ月程その体で滞在して頂く予定です。
質問の内容は多岐に及びますが、質問については『はい』か『いいえ』で回答出来る形式で行うので、『はい』なら右腕を『いいえ』なら左腕を、判らない場合は両腕を動かして頂きたい。
その脆弱な体であまり長時間の動作をさせるのは厳しいと思いますので、一時間で百問回答して頂き、その後二時間の休憩を挟みながら、一日四百問を消化して頂く予定です。
それを五日毎に休日を挟みつつ、二十五日間行っていくスケジュールで考えております。
進捗状況や貴方の体の体調に因っては、日程が前後する可能性もありますが、とりあえずこの日数分の生贄は供してありますので、そちらについてはご心配なさらずとも結構です。
当然の事ですが、これは貴方の協力があってこそのものですから、私としては是非とも助力願いたいとお願いするだけです。
明日の朝より開始する予定ですので、本日のところはゆっくりと検討して頂き、翌朝に良い返事を頂ける事を願っております。
もうかなりの時間起きていてお疲れでしょう、まずは休息を取って頂き、ご検討下さい。
女の容態に変化が無ければ、先程ここへ来ていた者達だけが女の世話に時折この研究室へと出入りしますが、貴方には一切関わりませんので、どうぞ気になさらずにお過ごし下さい。
私は所用がありますので、返答は翌朝にここへ訪れた際に聞かせて頂ければと思います。
それでは、また明日に」
そう言い終えると、“隠者”は私へと頭を下げて遠ざかって行き、恐らくこの研究室の出入り口から出て行った様だ。
そして私は、再び一人になった。
窓を見るといつの間にかもう夕暮れ時らしく、右後ろからの光の色は茜色で、周囲も全てが赤みを帯びた色に見えている。
私はあの男の話を思い返しながら、これからどうすべきかを考えてみた。
男の望みは、私の知っている事を聞き出す事であると言っていた。
錬金術師だと名乗っているくらいだから、知りたい事と言うのはやはり賢者の石の事であろうか。
しかしそれを聞くだけで、一ヶ月近くも掛かるだろうか、質問の総数は一万に及ぶ事を考えると、それだけではなくもっと質問は多岐に及ぶのではないかと思える。
例えば世界中に点在しているであろう、グリモワールの在り処やその内容を知りたいとでも言うのだろうか。
まあ、いずれにしても私には判り様も無いものであり、答えられはしないのだが。
私が回答出来るか否かの確認も含めて、その問い合わせを実現する為に、最低一ヶ月はここに捕らえて置くつもりであるのも、間違いないだろう。
その予定は前後する可能性もある、これの意味するところは、私が要求を拒絶したり、抵抗を試みて時間を浪費すると言う意味も含まれていて、そうしたところで延長して対応するだけだと言う点を、暗に強調していたのだろうと邪推した。
そして今日一日は、自分の力を確認して、この体では何をどうする事も出来ず、指示に従う以外に選択肢が無い事を知らしめる猶予時間として、余裕を設けていたのか。
ここから周囲を見ようとしても、せいぜい識別出来るのは半径2m程度で、そこには召喚に用いた祭具なんて見当たらず、どういった器として私を召喚したのかは全く掴めない。
これでは糧を消費して、力を使ってこの状況を脱出するのも不可能だ。
どのみち従うしかないのが現実ではあるのだが、言われるがままに従っても良いのだろうかと言う不安が残る。
実は速やかに従わせる為に絶対的優位を演じている、私にそう見える様に演出しているだけで、逆らえば彼の隠されている計画はあっさりと瓦解するとか、そんな展開をかなりの希望を込めて検討してみる。
“隠者”の語る口調には一切の躊躇や迷いが無く、また下手な脚色や誇張も見られず、あれは単に事実を報告していた様に思えた。
ロバの紳士とのやりとりをそれなりにこなして来ているので、そういった表現で取り繕っているのであれば見抜ける自信はあったのだが、あの男の話ではその様に思われる箇所は無かった。
あの余裕すら漂わせる冷静さと、真意を掴み切れないと言う意味では不気味にすら映るあの笑顔、そこから察するのは裏付けのある余裕だった。
更にあの男は、心話と表現していた何らかの力を使っていた、あれは私の知る思念と同様だと思われるが、只の人間であるならば、何の道具や呪文の詠唱も無くそんなものを使える筈は無い。
ただ多くの知識を有している人間と言うだけではない、何かを感じるのも事実だ。
顔を見たところ、子供や老人ではないのは判ったが、どの程度の年齢なのかはいまいち読めなかった。
表情は若くもある様に感じたが、あの眼、あの眼には見た目よりもずっと年老いた、と言うよりも長らく生きて来た重さや深さを感じ取り、容姿に似合わぬそれが彼の年齢を不詳としていた。
不明な事だらけで色々と苦悩していた時に、前に出て行ったあの二人の使用人が現れたので、そちらへと視線を移す。
先程女の介護をしていた時と同じ格好、全体的に黒っぽいシャツと丈の短いズボン姿で、羽織る様なフード付きの黒いケープを着ており、そのフードは目深に被られていて、この顔を見る事は出来ない所も全く同じだった。
今回は一人が暖炉に火を起こしつつ、もう一人が窓の鎧戸とカーテンを閉めて回っていて、それが終わると私の視界ではぼやけて良く判らないが、次第に部屋の中に赤く光る部分が増えていくのが判り、どうやら部屋の壁に点在していたらしい、ランプへと火を灯して回っている様だ。
彼らは私の近くを通ったりしたが、男の言っていた通りこちらへと関心を示す事も無く、淡々と自分達に与えられている仕事をこなしていくだけであった。
灯りを灯すのが一通り完了した後は女のところへと来て、女の体に掛けられていたブランケットを剥いでから、一人ずつがそれぞれ女の左右に分かれて、女の体にマッサージを行い始めた。
手や足の指先から順に、体の色々な関節を屈伸させて捻ったり回したりと可動する箇所を動かしたり、掌や足の裏から体へと向かって揉み解したりを、まるで女の体の中心に鏡でも置いてあるかの様に、二人同時に同じ部位を全く同じ速度でこなしていく。
この時、女の向こう側にいた使用人が俯いた瞬間、肩に届かない程度の長さの銀髪がフードからはみ出したのだが、使用人はそれを素早くフードの中へと戻すのが見えた。
足と腕から肩までが終わると、今度は二人で女の上半身を浮かせる程度に起こしてから、浮かした肩の下辺りへクッションを入れると、二人で頭を両手で支えて首の関節を様々な角度に曲げたり回したりしている。
私はそんな興味深い動きをする小柄な使用人達を眺めつつ、何かを話さないのかと期待しながら見ていたのだが、前もそうだったが今回も只の一度も喋らない。
自分の事すらどうすべきか分かっていないが、この二人も何者なのかも気にかかっていた。
白色人種だとしても白すぎる手の色、金髪よりも更に色の無い銀色の髪、一言も発しない声、常にフードで覆われていて全く見る事が出来ない顔。
果たしてこの二人の子供と思える使用人達は、人間なのだろうかと疑問に思いつつ、一瞬でも顔が見えないかと期待してじっと眺めていた。
二人は女の首へのマッサージを終えると、再び体を僅かに上げてクッションを抜き取って寝かせてから、元通りに女の体へとブランケットを掛けた後に遠ざかっていったのだが、結局最後まで顔は一度も見える事は無かった。
ここに来てから、私はまだ何も判っていないし、このままではずっと何も判らないだろう。
何かしらの罠の可能性もあるが、今のどうしようもない状況以上に悪くなる確率と、男の要求に応じて得る物の大きさを比較すると、後者の方が有意義ではないかと思えて来る。
あの男なら、私に語るべき内容は伝えてくるであろうから、それが偽りではないとは言えないものの、何も聞き出せなければ真も偽も無く、無でしかない。
何も得ずに終わるより、何かを得るべきではないだろうか、真偽については後ほど確認していけば良い。
何よりも私はここで見た謎の多い人間達、“隠者”や二人の小柄な使用人に非常に強い興味を覚えており、今までに出会って来た人間達と比べて明らかに異質な彼らについて、もっと知りたいと望む感情も抱いていた。
これらを総合して、私は“隠者”の依頼に応じる事に決めた。
そうした途端に、気が緩んだ所為か強い睡魔に飲み込まれてしまい、ものの数秒と経たずに私は深い眠りへと落ちた。