第六章 死別と孤独 其の二
変更履歴
2011/10/07 記述統一 変りつつある → 変わりつつある
2011/10/21 誤植修正 岐路を急いだ → 帰路を急いだ
2011/10/21 誤植修正 集落か微かに見えていて → 集落が微かに見えていて
2011/10/21 誤植修正 だがそん悠長に思考に → だがそんな悠長に
2011/10/21 記述修正 到底不可能なのが分かった → 到底不可能だろう
2011/10/21 記述修正 私は放出していた力を閉ざして → 障害物を除けたのを確認した私は放出していた力を閉ざして
2011/10/21 記述修正 上空からその周囲を眺めて → 遠見の力を使いながらもっと高い位置からその周囲を眺めて
2011/10/21 記述修正 外が明るくなっていて → 昇った朝日で外が明るくなっていて
2011/10/21 記述修正 もうすっかり日が昇っていた → もう空は白みつつあった
2011/10/21 句読点調整
2011/10/21 記述追加 外は徐々に明るくなっていて~
2011/10/21 記述修正 外が明るくなっていて、洞穴の中にまで陽光が差し込み → 更に陽光は子供だけでなく
2011/10/21 記述修正 死んだ行商人の姿を照らしていた → 死んだ行商人の姿も照らしていた
2011/10/21 記述追加 明るい光に照らされると~
2011/10/21 記述修正 力があったとは考えづらい → 力があったとは考え難い
2011/10/21 記述修正 それに、それはあの修道女も → あの修道女も
2011/10/21 記述修正 未来の出来事になるとすれば → 未来の出来事であるとすれば
2011/10/21 記述修正 弟がここで死ねば → 具体的には
2011/10/21 記述修正 再会する事になるのだろう → 再会する事になるのだろうか
2011/10/21 記述修正 契機が無いからの様に思われた → 契機が無いだけの様にも思える
2011/10/21 記述修正 暁の空へと変わりつつある空の下 → 暗雲を掃った月夜の空の下
2011/10/21 記述修正 私は → 時折集落の方向を遠見の能力で確認しながら、私は
2011/10/21 記述修正 意思に基づいて行動する限りは → 意思に基づいて行動する限り
2011/10/21 記述修正 左右に進む若干大きな道へとぶつかったが → 左右に進む若干大きな道へとぶつかったものの
2011/10/21 記述修正 一応暫く留まっていてみたが → 一応暫く留まって様子をみたが
2011/10/21 記述修正 大きな岩や木の幹等も流されていて → 大きな岩や木の幹等も流されており
2011/10/21 記述修正 岩山を沿う峠道と並行に続く河は → 岩山を沿う河と並行に続く峠道は
2011/10/21 記述修正 段々と道が下っていくに従い → 段々と下っていくに従い
2011/10/21 記述入替 これから向かう道が~、 岩山を沿う河と並行に続く峠道は~
2011/10/21 記述修正 救出の対象が → この時ばかりは、救出の対象が
2011/10/21 記述修正 十個の穴を残すだけとなった → 十箇所の小さな地割れを残すだけとなった
2011/10/21 記述修正 池と化していた道は大小の水溜りと → 冠水していた道は大小の水溜りと
2011/10/21 記述修正 一面を池へと変えて → 一面を水没させて
2011/10/21 記述修正 地表を目指して勢い良く流れ出し → 地表を目指して動き出し
2011/10/21 記述修正 青白い目の姉がいないかさえ → 青白い目の姉が居るかさえ
2011/10/21 記述修正 召喚者たる父親は → 外見からすると有り得ないのだが、実は召喚者たる父親は
2011/10/21 記述修正 多くの情報が得られるとも言うのだろう → 多くの情報が得られるのにとも言われるに違いない
2011/10/21 記述修正 たった子供一人を始末するだけで → たった一人の子供を殺すだけで
2011/10/21 記述修正 あの腕輪と同様に → これも緋玉の腕輪と同様に
2011/10/21 記述修正 消滅するのだろうか → 燃え尽き消滅するのだろうか
2011/10/21 記述修正 沈黙したままこちらを見つめ続けていた → 沈黙したままこちらを見つめていた
2011/10/21 記述修正 傍らから動き出そうとはしなかった → 傍らから動き出そうとはしない
2011/10/21 記述修正 依然として動こうとはしなかった → 依然として動かない
2011/10/21 記述修正 子供は目を覚まし始めて → 子供は目を覚まして
2011/10/21 記述修正 首飾りから遠くの場所で → 首飾りから遠く離れた場所で
2011/10/21 記述修正 排除するより仕方がなかろう → 排除するより仕方がない
2011/10/21 記述修正 道は河を渡って続いているが → この先道は河を渡って続いているが
2011/10/21 記述修正 対岸へと繋がっている筈の吊り橋は → そこで対岸へと繋がっている筈の吊り橋は
2011/10/21 記述修正 先に麓まで誘導する事 → 子供を麓まで誘導する事
2011/10/21 記述修正 見つけたのは、どうやら狼の群れの様だ → 発見したのは複数の動物の命で、どうやら狼の群れの様だ
2011/10/21 記述修正 昨夜の大雨がこの辺りの地表までの水の通り道も → 更に昨夜の大雨が浸透して、地表までの水の通り道も
2011/10/21 記述修正 父親もまたあの洞穴で風化して行き → 父親と共に誰にも気づかれずあの洞穴で朽ちて風化し
2011/10/21 記述修正 送っているのではないだろうか → こちらに送っているのではないだろうか
2011/10/21 記述修正 下見に行く事にした → 状況を確認しておく事にした
2011/10/21 記述修正 全く謎ではあった → 子供の心中は全くの謎であった
2011/10/21 記述修正 などと言う飛躍し過ぎた仮説を考えてしまう → などと言う希望的観測をしてしまう
2011/10/21 記述修正 座り込んでしまったらもう終わってしまうので → 座り込んでしまったらもうその時点で終わってしまうので
2011/10/21 記述修正 子供が眠っている天井部から → 子供が眠っている真上に当たる天井部から
2011/10/21 記述修正 予測出来ない事を事実として確認出来る → 予測出来ない真実を現実として確認出来る
2011/10/21 記述修正 被っていた帽子は床に落ちていて → 被っていた帽子は解けて地面に落ちていて
2011/10/21 記述修正 谷底の濁流へと流れ落ちていた → 谷底の濁流へと流れ落ちていった
2011/10/21 記述修正 あの濁流の氾濫に巻き込まれていない事を祈りつつ → あの濁流の決壊で崩壊していない事を祈りつつ
2011/10/21 記述修正 まだ感じる筈の無い疲れを感じた私は → まだ感じる筈の無い疲労を感じた私は
2011/10/21 記述修正 さすがは野生の生物だけあって → さすがは野生動物だけあって
2011/10/21 記述修正 それに向けて思念を込めて凝視する → それに向けて強く思念を込めて凝視する
2011/10/21 記述修正 私は幾つかの橋を渡り → その後私は幾つかの橋を渡り
幼い子供が泣き疲れてぐっすり眠っている間に、私は目指すべき集落への道の状況を確認しておく事にした。
今回は、予め調査する時間とそれが可能な器を持っているのだから、それを最大限に生かす事にしたのだ。
後もう一つの思惑としては、糧の供給源である首飾りとの物理的な距離と、糧の供給についての関係を確認しておきたかったのもある。
私の推測では、先程陽炎の女神と共にこの洞穴を出ても何の変化も見せなかった事から、子供を救出する意思に基づいて行動する限り、どれだけ遠距離になっても糧の供給については、大丈夫なのではないかと予想していた。
ただし、首飾りの意思がどんなに協力的であろうと、糧と言うものがある種のエネルギーである限り、距離が開けば到達するまでの遅延や損失、劣化が発生するのではないだろうかとも危惧していた。
つまり離れれば離れる程に、糧の供給量は距離に比例して低下するのではないか、そして完全に届かなくなるところが、首飾りの糧の供給の限界距離になる筈だ。
暗雲を掃った月夜の空の下、時折集落の方向を遠見の能力で確認しながら、私は岩山を沿って進む峠道を辿って、宙を漂いながら集落を目指して進んでいく。
暫く進むと、左右に進む若干大きな道へとぶつかったものの、荒れ具合は変わっておらず、一応暫く留まって様子をみたが、やはり誰も何も近づいてくるものは無く、私は諦めて先へと進んだ。
更に道を辿って進んでいくと、遠くから何か耳慣れた音が響いてくるのが聞こえてきて、その音の正体が濁流と化した渓谷を流れる河であるのが分かった。
濁流の河は土砂を多量に含んでいて、凄まじい勢いで流れる泥水の中には、大きな岩や木の幹等も流されており、あれを泳いで渡るのは大人であっても、到底不可能だろう。
これから向かう道が、あの濁流の決壊で崩壊していない事を祈りつつ、先を急ぐ。
岩山を沿う河と並行に続く峠道は、段々と下っていくに従い水面との距離が近づいていく。
この先道は河を渡って続いているが、そこで対岸へと繋がっている筈の吊り橋は、昨夜の嵐の所為なのか、落ちてしまっているのが見えた。
この吊り橋の位置は、河の水面からはだいぶ上で、濁流に因って流されてしまった訳では無く、一度渡れる様にさえ出来れば問題無さそうだ。
私は自分へと注がれ続けている糧の状況に変化が無い事を確認してから、切れた吊り橋の根元を確認した後に、対岸へと浮揚しつつ渡り、こちらも同じ様に吊り橋の根元を確認する。
この時ばかりは、救出の対象が子供である事を感謝しつつ、私は先へと進んだ。
どうやらこの集落への道は、この濁流の河沿いをひたすら進んでいくのが分かって来て、少々荒れ狂ってはいるものの、水を司る女神の立場からすると、非常に心強く感じた。
橋さえ落とされていなければではあるのだが、この問題に関しては対処方法を思いついているから、それほど問題とは捉えていない。
そう考えつつ進んでいると、早速新たな問題が姿を現した。
それは、崖崩れである。
昨晩の大雨で地盤が緩んで起きたのだろうか、かなりの量の岩を含む土砂が、峠道に覆いかぶさっていて、それを登らなければ先へは進めない状態だった。
しかしそれが出来るのは大人の話で、年端も行かない子供ではとても不可能だろう。
これは排除するより仕方がない、私は左の腕を下方へと下げて、地下水脈を探してみる。
今回はかなり浅い層に水源を見つける事が出来て、更に昨夜の大雨が浸透して、地表までの水の通り道も示しているのが感じられた。
私はその水源の水を、地中の水の通り道へ向かう様に念じて、力を放出する。
水は私の要求に応えて地表を目指して動き出し、地面は僅かに揺れ始めた。
やがてその振動は、地震と変わらない規模の大きな揺れとなって、轟音と共に目の前の土砂を押し流して水が噴き出した。
大地から噴き出す水の柱はその数を増やしていき、十本程の間欠泉の様な噴水になった頃には、大量の土砂の代わりに一面を水没させて、山の様な土砂は谷底の濁流へと流れ落ちていった。
障害物を除けたのを確認した私は、放出していた力を閉ざして水を導くのを止めると、途端に大きな噴水は萎み、峠道を満たした水は谷底へと流れ落ちていき、冠水していた道は大小の水溜りと、十箇所の地割れを残すだけとなった。
まだこれだけの距離が開いても糧の供給には変化も無く、一定量が届いているのと、一気に力を使ってみても減退する事も無いのが判った。
これにより私は、逆の不安を感じ始める。
首飾りは距離が開いても私へ一定量の力を与え続ける為に、伝達の損失分を増加させて、こちらに送っているのではないだろうか。
もしそうだとすると、首飾りから遠く離れた場所で力を行使する程に、消耗を大きくしてしまう結果になる。
しかし、これは首飾りに封じられている糧の残量が判らなければ、確認しようも無い事だ。
今後は出来るだけ今力を振るうのは避けて、子供にあの首飾りを持ち歩かせて来た時に、行う様にすべきだろうか。
しかしそれは、どうやって首飾りを子供に持たせるか、と言う大きな問題が残っているが、それは今は忘れておこう。
私はそう思いつつ、土砂を除けた道を漂いながら先へと急いだ。
その後私は幾つかの橋を渡り、河に沿って下りながら道のりを確認していき、とうとう麓まで降りて来た。
この辺りまで降りると、溢れた濁流が峠道にまで氾濫している箇所もあったが、これは子供を連れて来た時に対応する事にして、私はその上を漂い進んだ。
もう遠見の力を使わなくとも、視界の彼方に集落が微かに見えていて、ここからの道は河からも離れており、ここまで辿り着ければどうにかなると判断して、ここで来た道を引き返してきた。
帰りは行きとは違って峠道の確認ではなく、遠見の力を使いながらもっと高い位置からその周囲を眺めて、別の種類の危険を確認しつつ上空を進んでいく。
私が危惧していた気配を察知して、その周囲を確認すると、やはりそれらは見つかった。
発見したのは複数の動物の命で、どうやら狼の群れの様だ。
風の流れは上流から下流へと谷間を下る山風で、子供を同行して行けば、この獣が人間の匂いを嗅ぎつける可能性は高そうだ。
さて、どう排除すべきだろう、私は少々考えた後にその狼の群れを探り、その群れのいる場所へと近づくと、最も強い命を持つ狼を見つけ、それに向けて強く思念を込めて凝視する。
するとその狼は、私の気配を察したらしく、急に立ち上がり警戒する姿勢でこちらへ顔を向けた。
さすがは野生動物だけあって、尋常ではない気配には敏感だ。
私がこの群れのリーダーだと推測した狼は、仲間へ警告を発する様に唸りながら、じりじりと後ずさっていき、他の仲間は後方の狼から順番に、別の岩山の方へと逃走し始めた。
そして最後の一匹も退いた事を確認してから、リーダーの狼も後を追って消えて行く。
これで、もし子供の匂いに気づいたとしても、私の気配がそばにあれば、近づいては来ないだろう。
私は再び辿るべき道の上空へと戻り、帰路を急いだ。
あの狼の群れ以外には、特に危険なものは見つからず、洞穴へと帰ってきた時には、もう空は白みつつあった。
さて、道中の確認は完了した、次は子供を連れ出さなければならない。
これからが、この召喚の使命の最大の難関であろうと思いつつ、私は入り口へと入った。
外は徐々に明るくなっていて、洞穴の中にまで斜光が差し込んでおり、最深部に居る子供までその光は届いていた。
子供はまだ眠っている様で、微かな寝息を立てている。
眠っている最中に多少動いたらしく、被っていた帽子は解けて地面に落ちていて、埃塗れの金髪が横顔や首にかかっているのが見えた。
明るい光に照らされると、その淡く輝く金髪や白い肌は際立って見えて、余計に貿易商の男を髣髴とさせる。
この髪の長さから考えると、性別は女だろうか、だとすると私の推測は外れるが、単に長旅で髪を切る機会が無くて長いだけで、男かも知れない。
言葉も通じないのだから聞く事も出来ないし、声だけ聞いてもこの幼さでは判断出来まい。
もはや衣服を脱がしでもしないと、性別の確認は出来ないだろう。
更に陽光は子供だけでなく、死んだ行商人の姿も照らしていた。
子供がしがみつく様にしている父親の容姿は、暗褐色の髪とこの子供よりも暗い肌をしていたのが判った。
あの姉の話と照合すると、父親は普通の人間だったのだろうから、この親子が修道女の父親と弟だとしても矛盾は発生しない。
しかし首飾りの力を呼び起こせたのだから、何の力も無い人間でもないのだろうか。
あの修道女は、母親から色々と聞かされていたとは言っていたが、父親の事は特に告げなかったところを見ると、力があったとは考え難い。
それに今の私は蒼玉の女王だから、外見からすると有り得ないのだが、実は召喚者たる父親は、女王を守護神としていた部族の出身だったのか。
いや、異なる部族の者同士の婚姻は認められず追放されたと仮定すると、やはり修道女が母親からそれを聞かされていないのは、おかしな気もする。
あの修道女も部族としての教義を知らずに、緋玉の王を呼び出した実績を考えれば、この男もまたそういった要領で、私を呼び出したと考えるのが筋か。
この子供に、青白い目の姉が居るかさえ聞く事が出来れば済む事なのに、実に歯痒い限りだ。
しかし根本的に、私の仮説は紳士が言っていた通りに時間の繋がりが同一ではなく、今回の召喚があの時よりも過去である前提が無ければ、全てが有り得ない話だ。
それもまた、私の混乱を大きくする要素でもあり、もしここでそれが実証されてしまったら、私はここでどう振る舞うべきなのかを、慎重に考えなくてはならなくなるだろう。
修道女の召喚が未来の出来事であるとすれば、ここで弟が息絶えると未来は変動し、あの修道女に因る召喚は起こり得ない出来事となり、タイムパラドックスが発生する。
具体的には、貿易商として将来姉が尋ねてくるのではなく、父と並ぶ墓標として再会する事になるのだろうか。
いや、父が埋葬されていたのは、弟が助かったからではないのか?
このまま弟が死ねば、父親と共に誰にも気づかれずあの洞穴で朽ちて風化し、姉は父と弟を永遠に見つける事無く、彷徨い続けるのか?
ここで私は、ロバの紳士の言っていた言葉を思い出した。
ああ、これが彼の言う、深く考えるなと言う事で、歴史に絡め取られると言う意味か。
なるほど、確かに不毛かも知れない、無尽蔵に仮定の話を積み上げ続けたとしても、正しい未来は見えそうにないのは明白だ。
ここで私は歴史ではなく、もっと現実的な点に着目してみた。
もしここでタイムパラドックスを引き起こしたとしたら、この影響が何処まで波及するのかが、全く想像出来ない事に気付いた。
この世界のみならず、私の記憶にまでそれは及ぶのだろうか、私はその時どうなるのか、全く予想だにする事が出来ない。
それともここは逆に捉えるべきで、どれほど考えても予測出来ない真実を現実として確認出来る、絶好の機会を得たと見るのが正しいのか。
それだけのリスクを負ってまでして、弟かどうかも判らない子供を殺すのか、言ってみれば実験の為に使命に反してまで。
今の私にはそこまでは出来ないし、したくもないと感じていた。
そういった考え方は、“嘶くロバ”の持論へと繋がる気がしていたのもあった。
数千人の人間を既に死に至らしめた事もあるのに、たった一人の子供を殺すのに躊躇するとはと、あのロバなら言うのかも知れない。
たった一人の子供を殺すだけで、多くの情報が得られるのにとも言われるに違いない。
それでも私は、人としての精神を、道徳観を、理性を優先したい。
故に、この疑問は犠牲を出さずに、確認出来る方法を見出せたなら検証する事にして、本来の目的へと頭を切り替える。
今はそれよりも子供を麓まで誘導する事、その為には私の後を追って来る様に仕向けなければならない、これが最優先だ。
私は頭を巡る多くの疑問を片隅に追いやると、準備に入った。
まずは子供を起こすべく、子供が眠っている真上に当たる天井部から浸み込んでいる雨水を滲み出し、水滴にまで貯めてから子供の横顔目掛けて落下させる。
これと同時に昨夜に試した人影の濃霧を作り出し、私自身もそこへと重なる。
私が力を使い始めると、首飾りはそれに呼応する様に、薄く青い光を放ち始める。
この光が完全に無くなった時が、力の尽きる時なのだろうか。
これも緋玉の腕輪と同様に、最後は発光して燃え尽き消滅するのだろうか。
そんな事を考えていると子供は目を覚まして、もぞもぞと動き出した。
私は幼い子供に向けて、通じはしないと判っているが、一応名前を尋ねる思念を発してみる。
子供は両手で目をこすりながら体を起こすと、私の方へと振り返り、沈黙したままこちらを見つめていた。
やはり判ってはいたが駄目なのか、意思さえ通じれば私の疑問も解消されるかも知れないし、この後の作業も随分楽になったのだが、やはり予定通りにやってみるしかない様だ。
私は意思の疎通を諦めて、単に思念を向けて気配を与え続けつつ、霧の人影を消すと同時に洞穴の出口近くへ新たに作り出し、出口への誘導を試みる。
子供は怖がる様子が無いのは救いだが、この白い影を追いかける気配も無い。
想像するに、何か見慣れないものがそこにある、そんな認識なのではないだろうかと思えた。
その程度の存在では、父親の亡骸から引き離すのは難しい、だが衰弱して動けなくなる前に連れ出さないと、本当に手は無くなってしまう。
しかし恐怖を与えての誘導、例えば水を使って脅かしながら逃げ道として進ませる、と言う手も考えてはみたが、そんなやり方では確実に向かわせるべき方向へ進んでくれる保証も無いし、脅した結果怯えてその場へ座り込んでしまったら、もうその時点で終わってしまうので、これは断念した。
後は父親の遺体を使う手は無いかとも考えたのだが、あれを水圧で動かし続けるのは不可能だろうし、父親とはいえ死んだと理解してしまっている人間が動き出せば、ついてくるどころか恐怖して逃げ出すに違いない。
いっその事、地下水脈を使って子供を失神させた後に河へと落とし、流れを緩やかにした河の流れに乗せて、一気に下流の集落のところまで押し流してしまおうか、という更に強引な手段も考えてみたが、これを首飾りが許すとは思えないのと、あの長い距離を流されて肉体的に無事に辿り着くとも思えず、これも無理であろうと判断した。
よって、私には何の名案も浮かばず今に至っていて、ひたすらに思念を送りながら、こちらへ気を引けないかと必死になっているのだった。
つくづく神の無能振りを痛感させられる、いや、こんな事すら出来ないのが神なのか、それとも私は神のカードの引きが悪いだけなのだろうか。
バランスの悪い大きな力しか持たず、力を振るうのにも生贄を要求し、力を持ちすぎれば暴走する。
私は自分の無力さを嘆きつつ、ひたすらに子供へと思念で呼びかけ続けたが、どうしても子供は父親の傍らから動き出そうとはしない。
様子を見ていると、恐怖で動けないのでもなく、父親と離れたくないからと言う様にも見えず、何とも言い難いが敢えて表現するなら、動き出す契機が無いだけの様にも思える。
こんな小さい子供に、ここにいても助からない事など判る筈も無いのだから、その様に感じるのは妙だと我ながら思いつつも、あの修道女の弟だとすれば、この容姿なのだからある程度のそういった力を内在していて、無意識でそれを感じているのかも知れない、などと言う希望的観測をしてしまう。
しかし、そんな根拠の乏しい仮説を願ったところで、現実の子供は依然として動かない。
一向に動き出す気配の無い子供に言い様のない敗北感を覚えて、まだ感じる筈の無い疲労を感じた私は、子供から視線を外すと何気なく洞穴の外を眺めた。
視線の先には、昨夜に力を試す為に咲かせてみた草と、同じ種類のものが群生しているのが見えた。
花か、私は少々苛ついていたのもあり、あまり深く考えず、その雑草へ向けて力を放った。
意識はしなかったが、どうやら成長を与える力となって注がれた様で、日光と水分も満たされた雑草は、昨夜見たのとは色も形も別種と思う程の、純白の美しい花を次々と咲かせていく。
私は多少その結果に驚きはしたものの、花をいくら咲かせたところで仕方ない、今は子供をどうにかしなければならないのだ、と苦悩しつつ振り返ってみると、子供が立ち上がっているのが見えた。
子供はゆっくりと進み始めたのを見て、私は霧を一旦消した後、すぐさま花の奥へと作り出し、自身もそこへと移る。
洞穴の出口へと進んで来た子供は、私の目の前の花のところで止まり、花を暫く眺めた後に私の方を見上げた。
その表情は物珍しい玩具を見つけた楽しそうな顔、とは程遠く、ある種白昼夢を見ている様な、感情が希薄な印象だが、何かを言いたげな瞳で私を見つめている様にも感じられて、私はこの子の真意を読みきれず、正直戸惑っていた。
だがそんな悠長に思考に耽っている場合ではない、私はすかさず、出来るだけ道の中央にある雑草を探り、それに力を注ぎつつ自分はゆっくりとその草の方へと移動して、子供の視線を導き、急速に成長する草へと目を向けさせた。
まるで魔法の様に、みるみるうちに伸びて花咲く草を見た子供は、その不思議な草のところへと向かって、足を進めていく。
この時はもう、首飾りを持ってこさせるとか、父親の荷物とかが気にはなったのだが、どうにも出来ない物に固執して好機を逃すのは愚かな事だと割り切った。
どうして子供は父親を捨て置いて来る気になったのだろうか、子供の心の中には父と別れる葛藤が無かったのだろうか、幼すぎる子供故に単なる興味本位でついて来たのだろうか、生物の本能的に生き残る手段を理解して動いたのだろうか、あの部族の血統が持つ力に因るものなのか、子供の心中は全くの謎であった。
しかし今は、この動きを止められたらもう後がない、だからとにかく興味を持っているうちに、どんどん先へと進まなくてはならないのだ。
こうして私の使命の最大の難関は、取るに足らない名も知らぬ雑草のおかげで救われて突破し、遂に動き始めた。