第五章 炎の魔女 其の五
変更履歴
2011/04/07 誤植修正 機会を伺っていた様で → 機会を窺っていた様で
2011/04/22 記述統一 我輩 → 吾輩
2011/10/19 誤植修正 固体に対しての → 個体に対しての
2011/10/19 誤植修正 比較になら無い程大きな絶叫を → 比較にならない程大きな絶叫を
2011/10/19 誤植修正 命が欲しければ早く解放しろと → 命が惜しければ早く解放しろと
2011/10/19 句読点調整
2011/10/19 記述修正 黒衣の一団の者達は → 一方その声を聞いた黒衣の一団の者達は
2011/10/19 記述修正 その女の声は → 女の声は
2011/10/19 記述修正 夜盗と黒衣の者達の中央へと姿を現しました → 夜盗と黒衣の者達の集まっていた場所に姿を現しました
2011/10/19 記述修正 叫び声と同じ声、正確には思念、の今までとは → 声とは
2011/10/19 記述修正 比較になら無い程大きな声を発したのです → 比較にならない程大きな絶叫を発したのです
2011/10/19 記述修正 虚像としての自分だと理解していたのかは → 虚像としての自分だと理解していたのかも
2011/10/19 記述修正 彼らの方が自らの意思だけで、他の媒介を必要とせずに捕食出来る分だけ → 他の媒介を必要とせずに自らの意思だけで捕食出来る分だけ
2011/10/19 記述修正 何も出来ずに拘束され続け兼ねないので → 何も出来ずに拘束され続ける事態に陥りますので
2011/10/19 記述修正 非常に杜撰なものが多く → 非常にお粗末なものが多く
2011/10/19 記述修正 あれは → 要するにあれは
2011/10/19 記述修正 貴殿が焼き払って半壊させた → 貴殿が焼き払って半壊させてから百年後の
2011/10/19 記述修正 彼らは盗掘目的でこの地を訪れる者達を襲撃して → 盗掘目的でこの地を訪れる者達を襲撃して
2011/10/19 記述修正 やがて全員が動かなくなると → やがて誰一人動かなくなると
2011/10/19 記述修正 白い女は思念を止めました → 白い女は叫ぶのを止めました
2011/10/19 記述修正 吾輩の存在を何と理解して → 吾輩の存在をどう理解して
2011/10/19 記述修正 意思の疎通が出来ないので → 意思疎通が出来ないので
2011/10/19 記述修正 戦場、処刑場、事故現場辺りです → 戦場、処刑場、被災地、事故現場等です
2011/10/19 記述修正 復活した女の姿であった → 復活した女の姿をした分身であった
2011/10/19 記述修正 超自然の存在でも → たとえ超自然の存在でも
2011/10/19 記述修正 行ったとしても戻って来れませんし → 行けたとしても戻って来れませんし
2011/10/19 記述修正 もし全てが演劇だとしたら → もし全てが演劇だとして
2011/10/19 記述修正 彼の言う通りそれは召喚をこなし続けていれば → 取り敢えず現状は深く考えずに召喚をこなし続けていれば
2011/10/19 記述修正 そのうちに実感出来るのかも知れない → そのうちに何らかの真実が判明するかも知れない
2011/10/19 記述追加 女司祭の宣言には悪魔から~
2011/10/19 記述修正 それともかつての自分を模した → それともかつての己を模した
2011/10/19 記述修正 自分だと理解していたのかも → 自分だと理解していたのか
2011/10/19 記述修正 時代が進むと随分と変わってしまって → 時代が進むと随分と変わって
2011/10/19 記述修正 そして最後に女は → そして最後に白い女は
2011/10/19 記述修正 良く見ると上半身だけの服を着た → 良く見ると上半身に何かを羽織り、下半身は何も着ていないか或いは体に密着している服を着ているらしい
2011/10/19 記述修正 人間達は皆自分の頭を抱え、耳を塞いで → 人間達は皆自分の頭を抱えて耳を塞ぎ
2011/10/19 記述修正 やがて耳や鼻から血を流して → やがて目や耳や鼻から血を流して
2011/10/19 記述修正 短く混ざって聞こえて、どちらの声も止みました → 短く混ざって聞こえてから、すぐにどちらの声も止みました
2011/10/19 記述修正 どうやらその夜盗は魔女の伝説を知らないのか → どうやらその夜盗は魔女の伝説を信じていないのか
2011/10/19 記述修正 黒衣の生き残り達は → これを見た黒衣の生き残り達は
2011/10/19 記述修正 彼らの尊大な態度や詠唱の拙さや → 彼らの尊大な態度や詠唱の拙さと
2011/10/19 記述修正 与えられた願望と比べて圧倒的に足りない生贄の量に → 願望と比べて圧倒的に足りない生贄の量に
2011/10/19 記述修正 消滅する事無くその力を振るって → 消滅する事無くその力を振るい
2011/11/17 誤植修正 関わらず → 拘わらず
「掻い摘んでご説明致しますが、それはもう随分前の事、勿論貴殿がここへ招待されるよりずっと前の事です。
吾輩は、貴殿が焼き払って半壊させてから百年後の、あの廃都の中央部へと召喚されました。
吾輩を呼び出したのは二十人ほどの黒衣を纏う怪しげな一団で、その者達の中には、かつてこの地で処刑された聖職者達の同胞の末裔が居り、その者を使って百年前の伝説を具現化し、魔女の力を使って富と力を得ようとしたようです。
つまり、私利私欲の為にこの伝説を利用したかっただけの、卑しい者達でありました。
恐らくは魔女を蘇らせて、その力でこの廃都に眠る財宝と、更には悪魔再臨を企んでいたようですが、彼らはあまりにも無知で、その要求に必要な生贄の量も分かっていない有様でした。
吾輩は大きく燃え上がる焚き火の炎として現れたのですが、彼らの尊大な態度や詠唱の拙さと、願望と比べて圧倒的に足りない生贄の量に、かなり呆れたのを覚えております。
そんな吾輩の感情などお構いなく、ひたすら次なる願いの埋もれた財宝の場所を示せと、彼らは唱え続けていました。
それ以上構う価値も無さそうだと感じていた吾輩は、適当な場所を告げようとした時に、別の一団がこの儀式の場に現れたのです。
それは盗掘団で、彼らもやはりこの廃都の財宝を目当てに潜伏していて、盗掘目的でこの地を訪れる者達を襲撃して、持っていた情報や金品を巻き上げている、半分は夜盗と言った方が正しい者達でした。
黒衣の一団がこの廃都へ向かって来た時から、襲撃の機会を窺っていた様で、儀式の場所は完全に包囲されていてもう退路もなく、数においても盗掘団は倍の人数はいて、明らかに不利な状況でありました。
吾輩を召喚した黒衣の者達は、吾輩への望みを財宝の在り処から自分達の守護へと切り替えましたが、その詠唱は不完全で吾輩を呪縛する前に戦闘が始まってしまい、吾輩は何もせずにその戦いを傍観しておりました。
黒衣の一団は戦いに不慣れで、ものの十分ともたずに半数が切り伏せられました。
夜盗の者達は黒衣の一団の生き残りを捕らえて、財宝の場所を吐かせる為に拷問を始めたり、何人かいた生け捕った女への暴行を始めていた時、何処からか女の声が聞こえて来たのです。
まだ仲間の女が隠れていると思ったのでしょう、夜盗の首領の命令で手下達はその手を止めて分散し、周囲を捜索し始めました。
一方その声を聞いた黒衣の一団の者達は、詠唱した魔女の守護が来たのだと勘違いして、夜盗達を脅し始めたのですが、どうやらその夜盗は魔女の伝説を信じていないのか、それとも作り話と思っていたらしく、黒衣の者達の言葉を聞くと首領は笑い飛ばしていました。
その女の声は段々と近づき大きく聞こえてくるようになり、やがてその声は何かを叫んでいるように聞こえ始めました。
それと同時に、女の声と同じ方向へ探しに向かっていた、夜盗の仲間の一人の悲鳴が短く聞こえて、すぐに静かになりました。
その仲間の悲鳴が途絶えてから十秒も経たないうちに、真逆の方向から再び女の声が聞こえ始めて、またもすぐに別の仲間の悲鳴が短く混ざって聞こえてから、すぐにどちらの声も止みました。
夜盗の首領は探索で散らばった仲間を急いで呼び戻そうとしましたが、女の声は一瞬で移動しているかのように、声の聞こえる方向は数秒ごとに変わって行き、その度に仲間の断末魔の叫びが響いていました。
これを見た黒衣の生き残り達は、これこそ我らの魔女の力だと、勝ち誇ったように騒いでいました。
一人、又一人と夜盗の手下達は謎の女の声と共に倒されていき、無事に儀式の場所へと戻れたのは、十人も残ってはいませんでした。
夜盗の首領は黒衣の者達に詰め寄り、あの女を今すぐ消せと命じましたが、黒衣の者達は自分達の儀式の成功にすっかり酔い痴れてしまっており、夜盗の脅迫に対して、命が惜しければ早く解放しろと、逆に脅迫していました。
そんな馬鹿げた争いをしているうちに、その女の声は、だんだんと近づいて来るかと思うと、一気に夜盗と黒衣の者達の集まっていた場所に姿を現しました。
それは真っ白い濃霧で出来た人間、良く見ると上半身に何かを羽織り、下半身は何も着ていないか或いは体に密着している服を着ているらしい、女であるのが分かりました。
その白い女は、周囲の人間達が驚いているうちに、最初に聞いた叫び声とは比較にならない程大きな絶叫を発したのです。
人間達は皆自分の頭を抱えて耳を塞ぎ、その場に転がり悶え苦しんでいて、やがて目や耳や鼻から血を流して動かなくなっていきました。
全員が動かなくなるまでその思念の叫びは続き、やがて誰一人動かなくなると白い女は叫ぶのを止めました。
そして最後に白い女は、吾輩の方を一瞥すると姿を消し、その後吾輩の糧は尽きて、こちらへと戻って来ました。
これが、吾輩の見た百年後の廃都での召喚時の出来事です。
吾輩がこの炎の魔女に関する詳しい情報を知ったのはこの召喚時ではなく、最初の医者の男と共にいた時の文献からで、つまり医者の男が生きていた時代は、これよりも更に後の時代であった訳です。
召喚者である黒衣の一団は、吾輩の事を煉獄の魔女と呼んでいましたから、百年の間に伝説は多少変化していて、いつの間にか煉獄の世界の魔女へと昇進したのでしょうかねえ。
それに、あの街の財宝の在り処を知る存在にされていた様で、史実では狂気も孕んではいたもののその決意は高尚なものであったのに、時代が進むと随分と変わってすっかり世俗に塗れてしまったようですな。
それに対して、百年経っても変わらず存在していた、白い女たるあの死霊ですが、あの正体が何なのか良く分からないままだったのが、今日はっきりと理解する事が出来ました。
あれは女司祭の魂が変貌した死霊であり、そして自分がかつて貴殿に命じて行わせていた、あの街に存在する者全てを殺す行動を自ら続けていたと言う事も。
死霊が吾輩の存在をどう理解して、一瞥の後に消えたのかは、興味深い謎として残ってしまいましたが、これはもう判らないでしょう。
単に儀式の焚き火を眺めただけだったのか、生物とは異なる吾輩の存在に気づいていたのか、それともかつての己を模した虚像としての自分だと理解していたのか。
それ以前に、この死霊は自らの意思で惨殺を続けているのか、魂としての本能が継続させているのか、それとも意思でも本能でもない、死霊の本質として生きた人間を襲っていたのか、それすらも判りません。
そもそも死霊に魂を超える力がどれだけ保持されるかについても、多くは謎で全くと言っていいほど解明されていないのです。
今回の女司祭の場合は、自らの死に際の恐怖と苦痛から来る悲鳴を思念と変えて、百年経っても揮発して消滅する事無くその力を振るい、当時の本能の目的を遂行し続けていました。
死霊化した魂でも、通常の魂と変わらず揮発する筈なのですが、もしかすると死霊も我々と同じ様に、糧として魂を喰らう事が可能なのかも知れませんな。
もしそうだと仮定すると、他の媒介を必要とせずに自らの意思だけで捕食出来る分だけ、死霊の方が我々よりも優れていると言える事になり、神や悪魔ともあろう我々が召喚の度に自分の食い扶持に苦しんでいて、死霊如きにさえ劣ると言うのは、実に皮肉な話と言えましょう。
しかしながら、向こう側の世界にあって霊という存在は、その他の架空の生物や怪物とは一線を引くもので、人間達にはその存在が曖昧でありながらも本質的には信じられているのは、我らが糧として取り込む実在する物と認識しているのと、何か関係しているのかも知れません。
もう少し死霊については確認したい点がありますが、なかなか遭遇しないのと、遭遇しても彼らとは意思疎通が出来ないので、相当に難しそうです。
不死の者を統べる冥界の神々として召喚されれば、何かを掴めるかも知れませんが、こちらからは器を選択出来ませんから、やはり機会を待つより他に手は無いでしょう。
因みに蛇足とは思いますが説明しておきますと、女司祭が貴殿を召喚した際に生贄として捧げられていたのは、魔女裁判で処刑された聖職者達の魂であろうと思われます。
魂は最期に抱いた思念が召喚者の意思と共鳴すれば、召喚者自身が死に至らしめなくとも供物となり得るので、女司祭は何も手を汚さずに貴殿を召喚し得たのです。
この手の現象が発生するのは、同一の相手や事象が原因で、一つの場所で死者が発生した場合に限定されます。
後は、時間的に出来るだけ短期間に起きていた方が、より強く魂が残留しているので、発生しやすくなりますな。
これが期待出来るのは、大量虐殺、自然災害、大火事や大事故等の人災に因る事が多く、場所としては、戦場、処刑場、被災地、事故現場等です。
周囲を見ても生贄が見当たらないので、すぐに把握する事が出来るでしょう。
この召喚で注意すべき点としては、召喚者自身が死者の魂に同調して偶然召喚出来てしまった場合があり、こうなると召喚者はその自覚がありませんので、明確な召喚目的である願望が聞きだせず、不明のままになる事が在り得えます。
更に酷いと召喚者すら分からない事や、召喚者は既に死者となって召喚時の糧にされている可能性もあり、この時は糧が切れるまで何が出来るのかを手探りで探りながら、世界を彷徨う事になり、運が良ければ絶好の機会とも言えますが、最悪の場合は、願望の呪縛により何も出来ずに拘束され続ける事態に陥りますので、ご注意を。
今回の召喚では実に色々と体験して来られたようで、以前の講義で敢えて触れなかった、悪魔の契約も体験されたようですが、貴殿は契約が成功したと思っていたのに、女司祭を僕とするのに失敗したのだとお考えのようだが、あれは吾輩からすれば、契約には十分に成功していたと思いますぞ。
良く考えてみて頂きたい、貴殿は悪魔の僕、と言うものが実在するとお思いですか?
そもそも我々は、人間の作った神や悪魔と言った、超自然の存在の定義を元に召喚されている、言わば実在しない、作られた物です。
更に超自然の存在を想像出来るのは、我々ではなく人間だけなのです。
つまり、人間から転じた存在たる悪魔の僕もまた超自然の存在であり、我々が今まで器としてきた物と何ら変わりない、定義の一つに過ぎないのですよ。
故に吾輩は、炎の魔女そのものとして百年後に召喚されたのです。
ここで貴殿は疑問を持つ事でしょう、ならば自分の前に現われた魔女としての女は、何だったのかと。
その答えは、貴殿の分身です。
ここがものによって違ってくるので、今回のパターンが定型と思っては欲しくないのですが、そもそも貴殿の器たる隷属と粛清の悪魔は、法と裁きの神を堕落させて捏造された存在で、目的の為の手段として作られた定義です。
時代が進むに連れてこの手の定義が増加してくるのですが、こういった新しい神や悪魔は、古くからある存在と違い非常にお粗末なものが多く、詳細が定義されていないものが多いのです。
隷属と粛清の悪魔も同様で、あの儀式も見せしめの為に作られたものであるから、実際の僕の存在がどういうものなのかが定義としては欠落しているのです。
不完全な定義で作り出された僕は、貴殿自身が詳細を補足して生み出した存在で、外見こそは全く違えども、その前に貴殿が作り出していた武器があったと思いますが、中身はそれと同じ物なのです。
要するにあれは、貴殿自身がこう現われて欲しいと望んだ、復活した女の姿をした分身であったと言うことなのですよ。
実際の女の肉体については、同じ空間に貴殿が僕を具現化させたと同時に、一瞬で焼き尽くされて消滅したと思われます。
女司祭の宣言には悪魔から危害を受けぬ様にはなっていたが、もう見届けられなくなった死体まで保護するものではなかったから、貴殿の炎で以って消し去る事も出来た訳ですな。
女が現れた時に貴殿に対して発した言葉も、看板にその様に主たる悪魔に仕えると記載があったか、或いはそういうものであろうと言う貴殿の認識があったか、そのいずれかが作用して想像した通りに、女の形をした武器は喋っただけの事です。
貴殿は僕の女に対して、それどころではなくて命令も指示も出せず、動かす為の働きかけはしていなかったので魔女の女は一切動かず、最後に消えていく時は鞭や槍と同様の消滅の仕方だったのが、分身たる証明ですな。
さて最後に、今回の語るべきもので最も難解な点である、時の話を致しましょう。
吾輩の話で御理解頂けているかが少々怪しいのですが、この闇に満ちた我らの世界と、多くの人間達が住む向こう側の世界、この二つの世界は同じ時間軸で繋がってはおりません。
故に今回のような、貴殿が最近行ってきた場所へ、貴殿がおいでになる前に吾輩が未来の同じ場所へ行っていた、などという事が起きるのです。
実のところ、今までの貴殿の召喚についても、恐らく全て同一の時代では無かったのだが、あまりそれが明確に表されていなかっただけなのです。
どちらの時間軸が歪んでいるのか、それとも別次元の世界なのか、或いは並行世界なのか、これらについてはまだ吾輩も確認出来てはおりません。
更には、過去に起こした事象に因る矛盾やタイムパラドックスなどに関しても、具体的に作用した実例は、今のところ確認出来てはいません。
ただし一つだけはっきりしているのは、たとえ超自然の存在でも、個体に対しての時を操る力と言うのはあっても、その次元全体の時間を変えるものや、異なる時間へと移動出来るものは存在しません。
人間は神に頼らなくとも、未来へは行けそうではありますが、行けたとしても戻って来れませんし、過去へはどうやっても無理でしょう。
つまりこちら側から向こう側へ繋がる際に、人間の想像以上の力で時間の壁を越えて繋がっている事になります。
本当に、過去や未来へ行っていたのだとすればですがね、何しろこの闇の世界の時間は一体いつなのかが分からないので、ここと比べても果たして過去か未来か、どちらへ向かっているのかは判りません。
そして向こう側からここへと戻ってきた時に、果たして同じ時間分経過した時点へと帰っているのか、それとも全く同じ時間へと戻って来ているのか、はたまた実は戻る度にランダムな時の彼方へと飛ばされているのか、さっぱり分かりません。
でも少なくとも、吾輩と貴殿の会話は常に時系列が合致していて成り立っておりますから、我々は共に同じ時の流れに乗っているのは間違いないでしょう。
もっと飛躍した考え方をすれば、全てが大掛かりな演出で、その様に錯覚させられているだけなのかも知れません、吾輩はこの考えは否定していますが。
何故かと言うと、これを肯定すると、今現在周りにある物全ても同様に作られた物になり、全ての前提を失ってしまうからです。
もし全てが演劇だとして、吾輩にとっての貴殿、貴殿にとっての吾輩もまた役者の一人となり、この闇の劇場に座って次々と演じられる様々な芝居を鑑賞させられているのだとしたら、一体吾輩はどの様にして延々と続けられるこの劇場から、席を立って出て行けば良いのか判らないですからなあ。
まだ吾輩の話を信じていただけるとは思っておりませんよ、普通に考えてもこれはとても理解し難い事象でありますし、また納得してしまったら今度は猜疑心に囚われるでしょうからな、これは全て仕組まれているのではないかとね。
しかしながら直に貴殿にも、否応無く体験するのではないかと思いますぞ、その時の為に一つだけ助言しておきましょう。
それは、深く考えない事ですぞ、雪だるま卿。
時の織り成す歴史と言う名のタペストリーがどの様に変わろうとも、我らはそのタペストリーの中の住人ではなく、それを眺めている側の存在でしかない。
タペストリーの絵柄や模様は我々の介入の如何に拘わらず、然るべき変化を遂げながら常に織られ続けていくのですよ、我々が何をしようとも、何もせずとも、結果は全て常に正しいと言えるのです。
それを忘れてしまうと、歴史の織物に貴殿が絡め取られてしまいますから、ご注意あれ」
“嘶くロバ”はそこで語るのを終えて、手にしていた葉巻に目を向けるが、葉巻は既に殆んど燃え尽きていた。
それを見たロバの紳士は、軽く頭を振って苦笑すると、新たな葉巻を取り出し火を点けて一服する。
「雪だるま卿、今回は実に多岐に及ぶ有益な会話が出来て、吾輩は嬉しい限りですぞ。
貴殿にとっては色々と感慨深いものや、予期せぬ話等もあったとは思うが、経緯はどうであれ、遅かれ早かれ知る事になった事実には変わりありません。
吾輩の認識は今お伝えした通り、それをどう解釈して、吾輩の現状信じる仮説や持論に共感されるか、それとも否定されるかについては、どうか御自分でゆっくりと考察した上で、結論を導いて頂きたい。
と言ってもまだまだ未確認であったり、情報不足な点が多すぎて判断出来るレベルですらない、と言うのが現段階での最もな回答ではないかと、推測しておりますがね。
これにて吾輩はお暇致しますよ、どうぞ、ごゆっくりお考え下され、それでは失礼」
と、最後の台詞を言って、彼は消えた。
私には、今回の紳士の語った内容は、一度聞いただけで意見を返せる様な軽い内容ではなかった。
特に時間に関する点については、今の自分にすら影響するにも拘わらず、大変な謎である事が判明したに過ぎず、実質的には殆んど何も判っていないのが判った。
まだ私の内には、“嘶くロバ”に担がれているのではないかという疑念すら感じるが、取り敢えず現状は深く考えずに召喚をこなし続けていれば、そのうちに何らかの真実が判明するかも知れない。
私は彼の言葉でなく、事実として様々な謎を自らで確認し、それを解明する機会を待つ事にして、眠りについた。
第五章はこれにて終了、
次回から第六章となります。