第一章 キマイラ 其の四
変更履歴
2010/09/23 誤植修正 召還 → 召喚
2011/04/11 小題修正 キマイラ1 → キマイラ
2011/08/29 改行追加 そうすると、器を媒介して~ → 行分割
2011/08/29 記述修正 ~どうやら微笑のようだ。単なる~ → ~どうやら微笑のようだが、単なる~
2011/08/29 句読点変換 “。” → “、”
2011/08/29 句読点削除
2011/09/27 記述修正 この鏡から → その鏡から
2011/09/27 記述修正 鏡の世界へと → その強大な力を恐れた他の神々から陥れられて、鏡の世界へと
2011/09/27 記述修正 冥界の神々とは → 冥界の神々とも
2011/09/27 記述修正 解けていない部分で → 解けていない部分を表し
2011/09/27 記述修正 手首、足首、首に → 両手首・両足首・首の五箇所に
2011/09/27 記述修正 首輪、腕輪、足輪 → 首輪・腕輪・足輪
2011/09/27 記述修正 あの枷を外す為には、自分では出来ず、 → あの枷を外すのは自分では出来ず、外す為には
2011/09/27 記述修正 向こう側での → それは向こう側での
2011/09/27 誤植修正 同胞意外には → 同胞以外には
2011/09/27 誤植修正 ちぎられた鎖がついたの首輪 → ちぎられた鎖がついた首輪
2011/09/27 誤植修正 深々と下げつ → 深々と下げつつ
2011/09/28 記述修正 分離した相手に破壊させなければならない → 枷をその手で取り付けた五柱の神の血を注がなければならない
2011/09/28 記述修正 自分の半身と → 共に天界を目指すべく自分の半身と
2011/09/28 記述修正 トンネルの途中で糧が尽きたらしく、向こう側へすら行き着けませんでしたからな → 鏡の外に辿り着く前に息絶えてしまいましたから
気がつくと、またしてもいつもの暗闇、闇の世界に戻っていた。
私の意識や状態には、特に変わりは無い様に思えた。
鏡の中の自分が殺されていくのと同時に、力を失っていたことを思い出したが、それはあくまでキマイラとしての力であって、この私の精神とは連携するものではなかったらしい。
とりあえずは、あの黒山羊の悪魔から逃れられたようだ。
それにしても、本当に向こう側の世界には、悪魔や神などが存在しているのだろうか。
あれが手品や幻覚の一種だったという可能性も、当然ありはしたが、私の本能ともいうべき直感は、あれをトリックの類とは判断しなかった。
それ以外の根拠などはないが、私の記憶が無い以上、自分の感覚を信じる他は無い。
これも疑ってしまえば、私には目の前で起こる事象に対して、何一つ判断することも出来なくなってしまう。
今回の件に関しては、"嘶くロバ”にも聞いてみたいことも多い。
だが、今はまず、休息が欲しい。
私は今最も欲しているもの、安らかな眠りを求める為に、意識を閉ざして眠りについた。
私が目を覚ますと、目の前には、かの紳士の姿があった。
どうやら、私が目覚めるのを待っていたらしい。
私が目覚めたのに気づいて、語り掛けてくる。
「ごきげんよう、氷の国の騎士たる雪だるま卿、どうやら向こう側で活躍なさったようですな。
如何でしたかな、人間への奉公の首尾は」
口元を若干ゆがませ目を細めているところを見ると、どうやら微笑のようだが、単なる皮肉だけでなく、僅かに嘲りも含ませているように私は感じた。
だがそれに関しては特に触れず、私は向こう側で味わった体験を、彼に語って聞かせた。
ロバの紳士は、興味深そうに大きく長い耳をこちらに傾けて、時折ブルブルと振るわせつつ、私の話に相槌をうちながら、熱心に聞き入っていた。
そして、一通り話し終えると、さもあらんと言わんばかりに、大きく笑顔を作った。
「貴殿の行動、そのご自身の直感に頼ったのは正解でしたぞ、いやぁ、さすがは雪だるま卿、見事な洞察力。
その鏡から出てきた悪魔は幻ではなく、本当の悪魔ですからなあ。
ただし、悪魔として存在している、という意味ではなく、そういった悪魔が人間達に因って定義されている、という意味でいるのですがね」
ロバの紳士の言葉は、定義されているが実在していない、と言っているように聞こえる。
それはつまり、居ないと言う事なのではないのだろうか、どうも話が見えないと思っているのを承知の上なのか、紳士はすぐに解説を付け加えた。
「向こう側の世界に、超自然の存在、神や悪魔などは居やしませんよ、我々以外にはね。
向こう側にあるのは、様々な欲望や恐怖から作り出された超自然の存在の定義で、それに模することが出来るのは、ここに囚われている我々だけなのです。
すなわち、貴殿が見た悪魔は、紛れも無く実体化した定義の一つであり、それは我々の同胞以外には有り得ないのですよ」
今まで、私の周囲では神や悪魔などが、人間の前で単独でしか、つまり自分しか現れたことは無かった。
だから、そんなことは考えてみたことも無かったのだが、今のロバの紳士の話では、私を食い殺そうとしていたのは、この闇の世界に住む、私と同じように囚われている者だというのか。
つまりは、あのまま私が生贄として殺されていたら、それはこの闇の世界の住人に殺されていたということだろうか。
更に言えば、私を殺そうとしたのは、この"嘶くロバ”自身かも知れないということなのか。
彼は、表情を真顔に戻して、言葉を繋ぐ。
「貴殿は聡明でしたから、無事に助かりましたが、あの悪魔に魂を捧げていたら、ここには戻って来れなかったところでした。
こういった事象は起こる頻度が稀でして、最初の説明であまり色々とお伝えしても、かえって混乱を招きかねないと判断して、あえてお伝え致さなかったのだが、それが危うく仇となるところだった。
ただ、吾輩の心情も察して頂きたいのだが、最初のまだ何も見聞きしていない頃の貴殿がそんな話をされて、果たしてどう思われるか、と言うことを」
そういうと、そのロバの頭を深々と下げつつ、謝罪の言葉を発した。
私の心情としては彼がこの情報を、私に与えていなかった事について、それほど気に触ってはいなかった。
彼は私にそれを与える義務など無く、善意からの情報提供なのだから、受け取った情報があるだけでもありがたいと思うべきで、色々な情報を提供されている恩義を反故にして非難するのは、私には過ぎた行為に思えた。
そこで、私がそれを気にしてはいないことを彼に伝えると、"嘶くロバ”は安堵し、再び微笑の表情を作って解説を続けた。
「向こう側で肉体の死を迎えたり、召喚された器の力が途絶えるか、その器を維持する力が不足すれば、我らの精神が器から剥がれてしまいます。
そうすると、器を媒介して向こう側の世界に留まっているのですから、その手段が無くなって、こちら側へと戻されてしまいます。
これは、器としての肉体に対する死であるから、その肉体に定着させられていただけの我々の意識にとっては、言わば入っていたものが無くなって出て行くだけの話で、影響はありません。
一方、生贄として捧げられた魂についてですが、魂を糧として使う際に、魂に対して取り込む為のある変換を行った後に、養分へと取り込んでいます。
この変換が不可逆的なものでして、生き物であった意識としての魂の構造は破壊され、全く別の形状に再構築されているのですよ。
だから、決して、糧となった魂の意識がどこかに残っているとか、現われることも、有り得ないのです。
生贄となった者たちの魂は、死の次の状態である、消失しているのですから。
召喚時に捧げる生贄は、別に定命の生物に限定されている訳ではなく、神によっては同種たる神や反目する悪魔を喰らう者も定義されていて、これらの者達にとっては超自然の存在も、我々から見た定命の生物の生贄となんら変わりはありません。
彼らは超自然の存在としての生贄の魂、すなわち、我々の意識を糧として喰らうのです。
こういった、同種を喰らう者達の中の一柱が、あの悪魔と言う訳です。
もっとも、あの鏡の魔神の場合は喰らうのが目的ではなく、鏡の外の世界に属する神々全てに対して憎悪を抱いていて、滅ぼす事を目的としているらしいですけどね。
あの悪魔の正式な名称は、『鏡の世界の支配者にして虜囚たる、鏡像の双魔神』と言いまして、悪魔としては比較的新しく作られた存在です。
伝承によると、あの魔神は元々普通の世界の神の一柱で、かなりの力を持っていたのですが、更に多くの力を求めて堕落した為に、その強大な力を恐れた他の神々から陥れられて、鏡の世界へと追放されてしまったのだそうです。
彼を鏡の世界へと封じる際に、そのままの姿では押さえつける事が出来ず、彼を二つに引き裂いた後、鏡の世界の最も深い場所、合わせ鏡でのみ辿り着く無限回廊の最深部に閉じ込めたのです。
元の姿は、たくましい褐色の人間の男でありましたが、その強大な力を削ぐ為に、神々から力を封じる呪いをかけられてしまいます。
彼の姿は変貌し、頭は弱者・犠牲・捻くれ者の象徴たる白い山羊に変えられ、体は服従すべき者としての女に変えられ、脚は愚鈍の象徴たるロバの脚に変えられ、翼と足は翼を持ちながら飛ぶことが出来ない鶏に変えられ、裏切り者の象徴として鼠の尻尾を生やされてしまいます。
しかし彼は呪いに抵抗し、封じようとする神々への憤怒と憎悪によって、封印されかけた力を取り返しつつ、更にその姿は変貌していきます。
白い山羊の頭は黒く変わり、角はねじ曲がりながら伸びて四本となり、口からは牙が生えて、胴は腕だけが元の姿へと戻り、その指の爪は鉤爪のように長く伸びて、脚は敏捷さを持つ馬へと変わり、翼と足は狡猾さを持つ鴉へと変化しました。
ここで彼は力尽きてしまい、鏡の世界の最深部である、無限回廊の最果てに囚われる身となったのです。
しかし、彼はその呪縛を破り、鏡の世界を我が手中に収めますが、自力では鏡の世界から抜け出すことが出来なかった。
そこで彼はひたすら待っているのです、無限回廊の出口から、自分をここから外の世界へと招く召喚の声を。
なので、あの魔神は、鏡の外にいる超自然の存在全てを敵視し、封印に対する復讐を成し遂げることを目的としている存在です。
彼は元々生と死も司る神であり、冥界の神々とも敵対していたので、これ以降鏡の世界には、冥界の住人達は入ることが出来なくなり、その証拠として、霊や不死者などが鏡に映らないのだと云われています。
四本の角には意味があり、前の二本が抵抗を象徴し、後の二本が報復を象徴していると、云われています。
色が黒い部位は彼が力を取り戻した部分で、白い色の部分が呪いが解けていない部分を表し、弱点は白い女の胴であると云われています。
両手首・両足首・首の五箇所に付けられた、ちぎられた鎖がついた首輪・腕輪・足輪が、飽くなき抵抗と逃れきれない呪縛を表していて、これが外された時に呪縛も封印も全てが破られて、完全なる復活を遂げると云われています。
完全なる復活とは、全ての枷を外して力の封印を解き、分かれた体を一つへと融合して、元の肉体を取り戻すことです。
あの枷を外すのは自分では出来ず、外す為には枷をその手で取り付けた五柱の神の血を注がなければならないそうで、その為にあの魔神は真っ先に合わせ鏡の出口へと辿り着き、共に天界を目指すべく自分の半身と合流しようとするのです。
これが、あの鏡の悪魔の定義ですよ」
私は、ここまでの細かな情報を持っている彼こそが、あの時、私の前に現われて殺しに来た、鏡の魔神そのものだったのではないかと疑っていた。
私が遭遇した鏡の魔神は、"嘶くロバ”であったのかを尋ねると、彼は否定した。
「それは吾輩では無い筈ですぞ、吾輩はかの魔神として召喚された事はありますが、鏡の外に辿り着く前に息絶えてしまいましたから。
何故ここまで色々と知っているかと言えば、全てはあの医者の知識ですよ、彼は神学にも魔術にも精通していましたからな、彼の眼として見た知識を吾輩も記憶しているのですよ」
“嘶くロバ”がここで一息ついたので、私は今回の召喚で確証を得たと感じたことを、ロバの紳士に尋ねてみた。
それは向こう側での、生存時間についての推論だ。
紳士は、まるで生徒の提案に耳を傾ける教師のように、大げさにも見えるほどの相槌をうちつつ、私の話を聞き、そして口を開いた。
「うむ、結果的には貴殿の言うとおり、生物として生存可能な状態により近いほど、より滞在時間は増えますな。
ただそれは結果論に過ぎません、生物として有り得ない器を必要とする超自然の存在もいますが、それらは必ずしも、生存状態に近い器を用意された召喚よりも短命かと言うと、そんな事もないですから。
簡単に言えば捧げられた生贄の量、細かく言えば、その召喚された者の姿が、質量を構築し続けられるだけの糧を与えられているかで、滞在時間は決まって来るのです」
私は、キマイラとして呼び出された直後から終始感じていた、肉体が消耗していく様な感覚は、糧が消費されているからなのかを尋ねると、紳士はそれを否定した。
「糧を消費しても、肉体は疲弊などを感じることはありません、それはキマイラとしての肉体の維持が出来るだけの糧が足りず、器たるキマイラの体力が消耗している感覚でしょうな。
向こう側の世界の人間達も、自分らで定義した神の力をある程度は判っているはずですから、必要と思われる量の生贄は捧げてくるでしょう、ただその量は呼び出す為の数量であって、具現化した肉体の維持の力や、彼らの願望を叶える為の力の分が足りない事が多いですな。
どうも彼らは、召喚に成功することと、願いが叶う事が同義であると、勘違いしているのです。
まあ、彼らからすれば、超自然の存在が目の前に現れたと言うことは、その存在に定義されている力を内在して願いを叶えてくれる為に現れていると捉えるのが自然なのでしょうから、無理からぬこととも言えますが、実際には召喚時と同様にその姿で存在し続けることにも、更には定義された力を使うのにも糧は消費されていくのです。
たまに召喚者達の計算違いによって、偶然叶うだけの糧が足りていた場合に、願いが成就することもあるようですが、これはその術者の愚かさ故の幸運と言ったところでしょうか。
あるいはそれとは全くの逆で、どれだけの糧が必要なのかなど何も考えず、大量の糧が捧げられた召喚も時には起こります。
この場合、その願望は成就することが多いですが、願望自体は平和的なものでなく、それは殆どが報復ですな。
まったく、殺戮に対する報復として殺戮を行うのですから、永遠に続く負の連鎖を積み重ねているだけなのですがねぇ。
あぁそうか、今気づきましたぞ、捉え方が逆なのかもしれません。
ああして適当に数を減らすことにより、世界が人間で溢れかえるのを未然に避けていると考えれば、彼らなりの本能的な種の防衛行為と捉えることも出来ますな」
“嘶くロバ”は、向こう側の人間に対する、侮辱とも思える感想を付け加えて、自問自答した後に、不適な笑みと共に肩をすくめて見せた。
この後、紳士は別れの挨拶と共に姿を消して、再び一人きりの闇の世界へと戻った。
ロバの紳士との会話は有意義なものとなり、またいくつかの新たな話も聞くことが出来たのは良かった。
しかし、出会った当初から変わっていないが、どうして彼は、そこまで向こう側の人間を忌み嫌うのだろうか。
その態度には、自分と同じ人間に対する同情は感じられず、まるで獣か虫のことを語るかのようだった。
私には、他の点においては好意的に感じている彼の、唯一の疑問であり、疑念と感じるところだ。
それほどまでに、向こう側での過酷な召喚があったと言うことなのか、それとも長期にわたる虜囚としての扱いを受ける間に蓄積された、不満や苛立ちが使役者の人間達を攻撃の対象としている結果なのか。
この疑問については、時が経てば私が理解できるのか、或いは理由が判明するか、そのうちに何かしら見えてくることを期待するとして、今は考える事はせずに、眠りについた。
第一章はこれにて終了、
次回から第二章となります。