第二十章 背反の双丘 其の八
変更履歴
2012/01/30 記述統一 一センチ、十メートル → 1cm、10m
2012/01/30 記述統一 “!、”、“?、” → “! ”、“? ”
2012/01/30 記述修正 流血は治まらず → 流血は止まらず
2012/01/31 誤植修正 乗っかる様に、乗る様な → 載っかる様に、載る様な
2012/10/05 誤植修正 タウロス → タウルス
2012/10/05 誤植修正 饅頭頭の怪人よ」 → 饅頭頭の怪人よ。
2012/10/05 誤植修正 私か入った → 私が入った
2012/10/05 誤植修正 只一つだ → 只一つだ。
2012/10/05 誤植修正 羽毛のに → 羽毛に
2012/10/05 誤植修正 笑みがが → 笑みが
2012/10/05 誤植修正 王を横っ面を → 王の横っ面を
2012/10/05 誤植修正 タイツを履いていた → タイツを穿いていた
2012/10/05 誤植修正 必至に → 必死に
2012/10/05 句読点調整
2012/10/05 記述修正 私は二つの『屍諫の守護天使』を → 私は『屍諫の守護天使』を
2012/10/05 記述修正 家令を先頭にして、四方を近衛兵に囲まれながら、一団は廊下を進んで行く → 四方を近衛兵に囲まれながら、家令を先頭にした一団は廊下を進んで行く
2012/10/05 記述修正 “ジェスター”については色々と考えてみたものの → その間も“ジェスター”について色々と考えてみたものの
2012/10/05 記述追加 その噴水の中心にはガラス張りらしき透明な塔があり~
2012/10/05 記述追加 そんな中庭が見える窓を過ぎて~
2012/10/05 記述追加 そこは控え室らしく~
2012/10/05 記述追加 家令は数人の使用人と短く会話を交わした後~
2012/10/05 記述修正 奥へと扉が開いた時に中から静かな音楽と → この部屋には全部で三箇所の扉が見えていて、その中の一つだけは両開きで作りも通り過ぎてきた両開きの扉と同様である事や、使用人の出入りの際扉が開いた時に中から静かな音楽と
2012/10/05 記述修正 少しだけ聞こえて来た → 少しだけ聞こえて来た点から、それが晩餐会の会場に繋がる扉だと判った
2012/10/05 記述削除 廊下の奥にあった~
2012/10/05 記述削除 こちらは先程とは異なり~
2012/10/05 記述結合 廊下で待っている間、手にしている天使の錘に違和感を感じた。何だか地下牢から出て来た時と比べて → 控え室で待っている間、手にしている天使の錘に違和感を感じるとそれは、地下牢から出て来た時と比べて
2012/10/05 記述修正 その状態なのではないだろうか → その状態なのではないかと思える
2012/10/05 記述修正 猊下、私が合図を致しましたら → 猊下、入室後に私が合図を致しましたら
2012/10/05 記述修正 『屍諫の守護天使』を → 立ち止まって『屍諫の守護天使』を
2012/10/05 記述修正 篤とご覧あれ → 篤と御覧あれ
2012/10/05 記述修正 これが世にも珍しい → 世にも珍しい
2012/10/05 記述修正 白人の生皮が貼られた壁や床には金髪の分厚い絨毯が敷き詰められ → 人間を素材としていない壁紙や分厚い絨毯が敷き詰められ
2012/10/05 記述修正 沢山の燭台が灯る → 沢山の蝋燭が灯る
2012/10/05 記述修正 壁にもこの部屋の外と同じ燭台が並んでいる → 壁には金属製らしき燭台が並んでいる
2012/10/05 記述削除 だがやはりシャンデリアを吊るす鎖を掴んでいるのは~
2012/10/05 記述修正 そんな豪華ではあるが不気味さは拭い切れない室内を → そんな豪華な室内を
2012/10/05 記述修正 私は黒牛の後を鹿に囲まれたままに追い → 鹿に囲まれたままに黒牛の後に続き
2012/10/05 記述修正 広間の中程へと近づいて行く → 私は広間の中程へと近づいて行く
2012/10/05 記述修正 私が入った扉の逆側に当たる締め切りの扉の前には → ここに着く前に通り過ぎた二つの扉の方を見ると
2012/10/05 記述修正 楽士達が座っていて → 楽士達がが並び
2012/10/05 記述修正 漏れて来た音楽を → 漏れ聞こえていた音楽を
2012/10/05 記述修正 大袈裟な身振りをして → 大袈裟な身振りをしつつ
2012/10/05 記述修正 ご覧頂く事にした → 御覧頂く事に決めた
2012/10/05 記述修正 しかし、だ、若しかすると → しかし若しかすると
2012/10/05 記述修正 無い訳では無いと言う考えが → 無い訳では無いと言う願望に近い考えが
2012/10/05 記述修正 その腕も繋げる機会もやって来るかも知れぬ → その腕を癒せる機会だってやって来るかも知れんぞ
2012/10/05 記述修正 その屈強な上半身に載っかる様に → その屈強な上半身に載る様に
2012/10/05 記述修正 足は鳥の特徴を残した形状をした → 鳥の特徴を残した形状の
2012/10/05 記述修正 水掻きのついた大きな足だ → 水掻きのついた大きな足をしている
2012/10/05 記述修正 女王の衣装は他の者達とは異なり → 女王の装いは他の者達と異なり
2012/10/05 記述修正 半ば透けているレース生地に → 半ば透けているレース生地の
2012/10/05 記述修正 細かなフリルで装飾してあるらしい → 非常に細かなフリルで装飾してあるらしい
2012/10/05 記述修正 その後に続いて立ち止まった私へと → その後に続いて止まった私へと
2012/10/05 記述修正 手にしていた天使の錘を → 両手に抱えていた二つの天使の錘を
2012/10/05 記述修正 絨毯の上へと置いた → 絨毯の上に下ろした
2012/10/05 記述修正 ここで見せて貰えるのか? → ここで見せて貰えるのかえ?
2012/10/05 記述修正 今晩が雨であった事を → 今夜が雨ではなかった事を
2012/10/05 記述修正 致し方ない → 致し方ないかの
2012/10/05 記述修正 差し上げられぬ → これを直ぐ差し上げられぬ、
2012/10/05 記述修正 お詫びと言っては何ですが → お詫びと言っては何だが
2012/10/05 記述修正 もう一つ披露致しましょうか → もう一つ披露致そうか
2012/10/05 記述修正 後ろの執事へと何かを指示し → 脇に控える執事へと何かを命じ
2012/10/05 記述修正 執事はそれを聞くと一礼して → 執事はそれを聞くと一礼してから、
2012/10/05 記述修正 後ろに控えていた → 後ろに立っていた
2012/10/05 記述修正 何かを命じた → 指示を出した
2012/10/05 記述修正 角度的に全く見えず → 角度的に良く見えず
2012/10/05 記述修正 雰囲気を感じていた → 嫌な雰囲気を感じていた
2012/10/05 記述修正 その予感はこちらを面白そうに → それはこちらを面白そうに
2012/10/05 記述修正 どうしようもない私へと状態を知らせた → どうしようもない状態を私へと知らせた
2012/10/05 記述修正 根本的な所では何かの力を持っていて → 未だ見ぬ何らかの力を内在していて
2012/10/05 記述修正 これからが新たに道化の支配する → ここから新たに道化の支配する
2012/10/05 記述修正 混沌とした世界の始まりである → 混沌とした世界の始まりを迎えた
2012/10/05 記述修正 腕から蛇口の水の様に → 腕から湧水の様に
2012/10/05 記述修正 節度を以って語る → 節度を以って語っているが
2012/10/05 記述修正 耳鳴りに続いて大地震の様に → 耳鳴りに続いて地震の様に
2012/10/05 記述修正 疑念と不信感ばかり → 疑念と不信ばかり
2012/10/05 記述分割 捨てなければならなくなる、たとえそれが → 捨てなければならなくなる。たとえそれが
2012/10/05 記述修正 捨てなければならなくなる → 何もかも捨てて動かなければならなくなるかも知れない
2012/10/05 記述分割 演出の余興であっても、それらの行為が → 演出の余興であっても。それらの行動が
2012/10/05 記述修正 ここまでが以前に存在し続けていた → これが覚醒以降ずっと続いて来た
2012/10/05 記述修正 躊躇して命令に応じずにいたのだ → 躊躇して応じずにいたのだ
2012/10/05 記述修正 最も正しい選択だ → 最も賢い選択だ
2012/10/05 記述修正 ここに来るまでは決して軽くは無かったが → 実際には全く足は動かず、ここに来るまでも決して軽くは無かったものの
2012/10/05 記述修正 意外とあっさりと諦めて → 意外とあっさり諦めて
2012/10/05 記述修正 切り刻まれない訳が無い → 切り刻まれない訳が無く、何も打つ手がない
2012/10/05 記述修正 のう、この半人 → のう、ものは相談じゃが、この半人
2012/10/05 記述修正 それは披露出来ないのだ → それは披露出来んのだ
2012/10/05 記述修正 顔の半分が → 顔の上半分が
2012/10/05 記述修正 口元だけの表情からは → その部分的な表情からは
2012/10/05 記述修正 御身は実に色々な者を → 御身は色々な者を
2012/10/05 記述修正 食事の手は止まっていた → 食事の手は完全に止まっていた
2012/10/05 記述修正 奥の席の者達から → 奥の列の席の者達から
2012/10/05 記述修正 手にしていた王笏の石突で → 王笏の石突で
2012/10/05 記述修正 何度か二つの錘を交互に小突いて → 二つの錘を交互に何度か小突いて
2012/10/05 記述修正 空のグラス一つだけが置かれていたが → 空のグラスが一つと、透明な琥珀色の液体の入ったボトルが置かれていたが
2012/10/05 記述修正 座るべき椅子もそこには置かれていなかった → 座るべき椅子がそこには無かった
2012/10/05 記述修正 牛頭の家令に近づいた所で、入室する前に私へと → 二つの錘を抱えて近づいた所で牛頭の家令は、入室する前に私へと
2012/10/05 記述修正 静かな音楽と → 静かな音楽に混じって
2012/10/05 記述修正 良く通る女の声色とが歓談する声がもれ聞こえる点から → 良く通る女の声色の歓談が漏れ聞こえる点から
2012/10/05 記述修正 一枚の鉄板で出来ている様な → 一枚の鉄板で出来ているかに見える
2012/10/05 記述修正 黒色のシャツを着ている → 黒い色のシャツを着ていた
2012/10/05 記述修正 袖幅の小さい長袖の銀色の刺繍が入った → 銀色の刺繍が入った袖幅の小さい長袖の
2012/10/05 記述修正 それは確かに仰る通りだ → それは確かに仰る通り
2012/10/05 記述修正 余としても貴女の訪問が、より快適で安全になるのを望んでいる → 貴国にとって利益になる事であるならば、余としても協力は惜しまぬ所存だ
2012/10/05 記述修正 護衛の白鳥の意匠は → 護衛の白鳥の衣服の意匠は
2012/10/05 記述修正 胴衣には紫の円に黒い三日月が重なっていて → 胴衣の中心に紫の円があり、それに黒い三日月が重なっており
2012/10/05 記述修正 赤ワインらしきボトルが置かれていて → 赤ワインらしきボトルが置かれ
2012/10/05 記述修正 女中が二人控えていて → 女中が二人控えており
2012/10/05 記述修正 右手には大きな窓が並んでいて → 右側には大きな窓が並んでいて
2012/10/05 記述修正 窓から外壁に灯されたランタンの灯りと → そこから外壁に灯されたランタンの灯りと
2012/10/05 記述修正 どんどん暗くなりつつある → 急速に暗くなりつつある
2012/10/05 記述修正 私がこの部屋に来た方とは → 私がこの部屋に来た時とは
2012/10/05 記述修正 その方向へと曲がると、一階でも目にした → その先は一階でも見かけた
2012/10/05 記述修正 全ての束縛と封じられた秘密を → あらゆる束縛と封じられた秘密を
2012/10/05 記述修正 全ての謎を握っているのは → 全ての鍵を握っているのは
2012/10/05 記述分割 これからこれから、もう少しお待ちあれ → そう慌てなさるな。女王よ、今暫くお待ちあれ
2012/10/05 記述修正 残念そうな黄金の女王の声が → あからさまに落胆した黄金の女王の声が
2012/10/05 記述分割 遠くから聞こえる、出血の所為で → 遠くから聞こえている。出血の所為で
2012/10/05 記述修正 これだけ吹聴しておいて → これだけ吹聴しておきながら
2012/10/05 記述修正 失敗してお咎め無しは → 仕損じてお咎め無しは
2012/10/05 記述修正 この晩餐の場で → この晩餐の場にて
2012/10/05 記述修正 つまり顔の鼻から上を覆う形状の → つまり顔の鼻から上を覆う
2012/10/05 記述修正 幾多の召喚に応じていく → 幾多の召喚に直面する
2012/10/05 記述修正 足首までの黒色のタイツを履いていた → 足首までの黒いタイツを履いていた
2012/10/05 記述修正 私に与えたのと同じに見える金貨を積み上げた → 金色に輝く指先程度の大きさをした、豆に似た菓子らしきものが盛られている
2012/10/05 記述修正 それはこの館の支配者の → それでもこの館の支配者の
2012/10/05 記述修正 この糧の力を使えぬ体では → 糧の流れさえ追えない状況で
2012/10/05 記述修正 決断すべきだと結論づけた → 検討すべきだと結論づけた
2012/10/05 記述修正 それに加えて → また
2012/10/05 記述修正 多重人格者の様な道化達に挑み → 道化達に挑み
2012/10/05 記述修正 声も出せずにその場に倒れ跪いた → 声すら出せずにその場に崩れ落ち跪いた
2012/10/05 記述修正 が、実際には全く足は動かず → ……筈だったのだが、実際には全く足は動かず
2012/10/05 記述修正 優雅にグラスを傾けて中身を飲み干した → 優雅に傾けて中身を流し込んだ
2012/10/05 記述修正 静かな音楽だけが流れた → どちらの支配者も発する事なく、静かな音楽だけが流れていた
2012/10/05 記述修正 横目で見てはほくそ笑み → 横目で見ては女王に見えない様に冷笑を浮かべ
2012/10/05 記述修正 原石と鉱石ならば → しかし高地故に鉱石ならば
2012/10/05 記述修正 今夜が雨だったなら → 若しも雨が降っていたなら
2012/10/05 記述修正 面白い余興になったのだが → 面白い余興になったのだが……
2012/10/05 記述修正 その両翼には猛禽類に見える → その両翼には猛禽類と思しき
2012/10/05 記述修正 巨躯をした白鳥の兵士達が → 猛禽らよりも巨躯をした白鳥の兵士達が
2012/10/05 記述修正 ニヤニヤとほくそ笑んでいた → ほくそ笑んでいた
2012/10/05 記述修正 切られた右腕から → 切られた右腕と脇腹から
2012/10/05 記述修正 鳥人達の背後には皆 → どの鳥人の背後にも
2012/10/05 記述修正 特徴が現れているらしい → 特徴が顕著に現れているらしい
2018/02/25 誤植修正 増して → 況して
今度は牛のタウルスが現われて、いよいよ晩餐会の会場へと案内にやって来たので、私は『屍諫の守護天使』を抱えて後に続き、四方を近衛兵に囲まれながら、家令を先頭にした一団は廊下を進んで行く。
その間も“ジェスター”について色々と考えてみたものの、結局のところどう判断すべきなのかは、思案中に呼び出されたのもあり、決断までは至らなかった。
なので今回は下手な行動は起こさずに静観し、やはり“嘶くロバ”への面会で真実を確認してから、検討すべきだと結論づけた。
だからこの召集では、多少の不快な言動や要求でも、ここは耐え忍ぶ心算でいた。
控えの間を出たタウルスは、私がこの部屋に来た時とは逆の方向へと向かい、廊下はすぐに突き当たり左に曲がっていて、その先は一階でも見かけた内装が異なる廊下へと出た。
廊下の角に当たる部分を過ぎると、左手には昇降室ほどではないが、今までの部屋の扉とは異なる意匠の、両脇に鹿達が立つ閉じた両開きの扉が見えてきた。
この扉には本来ドアノブがあるべき場所辺りに、やはり人間の腕が生えており、それが腕を組む様にして扉を閉ざしている。
その閉ざされた扉の前を通り過ぎると、右側には大きな窓が並んでいて、そこから外壁に灯されたランタンの灯りと、それを下げた手が規則的に並ぶ壁面が見えており、その下には開かれた中庭らしき景色が見えた。
管理が行き届いた庭園になっている中庭には、白骨と同様の原理なのか、敷石になっている地面がランタンよりも強く光っていて、その青白い光に照らされて中央にある噴水が浮かび上がっていた。
その噴水には小島があって、その中心にガラス張りらしき透明な塔があり、どうやらそれは昇降機になっている様で、透明な塔から伸びている互い違いに各階へと繋がる橋もまた、照明に照らされている。
そんな中庭が見える窓を過ぎて、更にもう一つの鹿達が警護している両開きの扉の前を横切ってから、黒牛はそれらより小さい、片開きの扉の前で立ち止まると中へと入り、鹿や私もその後に続いた。
「猊下、ここで一旦お待ち下さい」
そこは控え室らしく、十人程度のメイドや使用人姿の獣人達が皆忙しそうに動き回っていて、私が部屋へと入った途端に、二人の犬頭の使用人が台車で運んで来た、例の錘を取り付けられてしまった。
この部屋には全部で三箇所の扉が見えていて、その中の一つだけは両開きで作りも通り過ぎてきたものと同様である事や、その扉が開いた時に中から静かな音楽に混じって、道化の高い声と良く通る女の声色の歓談が漏れ聞こえる点から、そちらが晩餐会の会場だと判った。
家令は数人の使用人と短く会話を交わした後、その両開きの扉の中へと入って行った。
控え室で待っている間、手にしている天使の錘に違和感を感じるとそれは、地下牢から出て来た時と比べて軽くなっている様な気がしてならず、馬頭の執事が忠告していた事を思い出し、実は重くなるだけでは無く逆に軽くする方法も存在していて、今はその状態なのではないかと思える。
そう考えていると、再び扉が開きタウルスが扉の外へと出て、私を呼んだ。
とうとう出番が来たらしい。
二つの錘を抱えて近づいた所で牛頭の家令は、入室する前に私へと最後に一言告げる。
「猊下、入室後に私が合図を致しましたら、立ち止まって『屍諫の守護天使』を床に置いて下さい、宜しくお願い致します」
少しは軽くなっているとは言えそれなりに重く、そろそろ腕も痺れて来ていたのもあり、その指示には素直に従う事にして、無言で了解の意思表示をする。
そしてその後、私は晒し者になるべく、四人の鹿頭の近衛兵に包囲されたまま、『胃の間』と言う名の晩餐会の会場へと入場した。
「ほほう、良く似合っているではないか! 純白のクロークの着心地はどうだね? 饅頭頭の怪人よ。
やはり余の見立てには間違いなかったな、さあ、黄金の女王よ、篤と御覧あれ、世にも珍しい、如何なる種族でも無い饅頭頭の半人を!」
入室した途端に聞こえて来たのは、大きな部屋の中に響き渡る耳障りな甲高い道化の声だった。
『胃の間』は今まで見て来た部屋では最も広く、大広間と言っても良い大きさをしていた。
以前の道化と会話した部屋と同等に、人間を素材としていない壁紙や分厚い絨毯が敷き詰められ、更に天井からは沢山の蝋燭が灯る巨大なシャンデリアが幾つも吊り下げられていて、壁には金属製らしき燭台が並んでいる。
そんな豪華な室内を、鹿に囲まれたままに黒牛の後に続き、私は広間の中程へと近づいて行く。
ここに着く前に通り過ぎた二つの扉の方を見ると、数名の様々な楽器を演奏する鼬の頭をした楽士達が並び、先程漏れ聞こえていた音楽を奏でている。
長方形の室内の中心には、長い方の辺に合わせた長大なテーブルが部屋を縦に二分する様に設置されていて、扉に面する側の中央に“ジェスター”が座り、体を反転させてこちらを見てほくそ笑んでいた。
その右脇に馬の執事と女中が二人控えており、左脇には剣と杖をそれぞれ持たせた二人の犬の従僕が控えている。
テーブルの道化の席の前には料理は見当たらず、今道化が手にしている不透明な銀色の液体が満たされているグラスと、金色に輝く指先程度の大きさをした、豆に似た菓子らしきものが盛られている平皿が置いてあるだけだ。
道化の王の左隣には誰かがまだこれから来るらしく、ナプキンの上に伏せられた空のグラスが一つと、透明な琥珀色の液体の入ったボトルが置かれていたが、不思議な事に座るべき椅子がそこには無かった。
一方向かいの席の鳥人達の前には、豪華な宮廷料理の皿が並んでいて、そこには肉以外の食材も使われているのが見えており、赤ワインらしきボトルが置かれ、グラスには赤い色の液体が注がれていた。
テーブルの向こう側である奥の窓側には、道化の正面の座席にひと目で判る容姿をした黄金の女王が座り、その両翼には猛禽類と思しき、右側には鷲や鷹の頭をした大柄の鳥人が、左側には梟や木菟らが並んでいて、女王の後ろには護衛なのか、少し離れた位置に長刀の様な長柄の武器を持っている、猛禽らよりも巨躯をした白鳥の兵士達が六人整列していた。
どの鳥人の背後にも、体よりも大きな一対の翼があるのが判り、肉体的にも有翼人種の特徴が顕著に現れているらしい。
この城の獣人達が西洋的な姿なのに対して、鳥人達の格好はその肉体的な特徴の所為か、見慣れない服装をしている様に見える。
通常の鳥類では翼と連動する筋肉である胸筋が発達しているのと同様に、背中にある翼を羽ばたいて揚力を得るのに必要な筋力なのだろうか、鳥人達の上半身は皆かなり逞しい体型をしているのが、正面からの姿を見ても判る。
その屈強な上半身に載る様に、体と比べるとかなり小さめな、羽毛に覆われた鳥の頭がついている。
“嘶くロバ”や他の獣人もそうだったが鳥人も同様に、半人の特徴でもある頭部と同等かそれ以上に太い首をしている様だが、鳥人の場合羽毛に覆われた実際の頚部の径は判らないので、これに関してはそう断定も出来ないかも知れない。
肩からは翼ではなく通常の人間の腕が生えていて、両手を使いナイフやフォークを普通に利用している。
腰から下の下半身については、背後で起立している白鳥達を見るに、鳥の特徴を残した形状の水掻きのついた大きな足をしている。
脚のどこまでが人であり、どこからが鳥に変わるのかは、着衣で隠されていて見る事が出来ないので判断は無理だった。
あまり良くは見えないが、白鳥の両足の間から膝上当たりまで白い羽が見えており、翼だけでは無く尾羽も持っている様だ。
これ以上背部は確認する事が出来ないが、恐らくは肩甲骨の上に載る様な形で、分厚い筋肉に支えられた翼がついていて、背部は頭部から臀部まで羽毛に覆われているのではと推測した。
翼の骨格は一体どうなっているのかがとても気になるが、それも現状は確認する術は無い。
着衣については、飛行するのに抵抗とならない様にか、体の前にはボタンや合わせ等が何も無い、一枚の鉄板で出来ているかに見える、詰襟状に首元まで覆う鎧の胸甲の様な胴衣の下に、銀色の刺繍が入った袖幅の小さい長袖の黒い色のシャツを着ていた。
女王を除く臣下の猛禽達や護衛の白鳥の衣服の意匠は、それが鳥人の国での正装らしく共通していて、胴衣の中心に紫の円があり、それに黒い三日月が重なっており、その両脇に羽ばたく白い翼が放射状に三対描かれている。
ただ役職に応じて地の配色が異なるらしく、右隣の鷲や鷹の胴衣は黒色であり、左隣の梟や木菟は白色の胴衣を着ていた。
一方護衛の白鳥達の方は本当の鎧なのか、シャツは鈍色をした鎖帷子であり、胴衣の地は金属そのものの色であろう、くすみのある銀色をしており、下半身は腰の部分を太いベルトで留められた鎖帷子の裾が、腿の中央辺りまで下がっていて、その下には脚に密着している足首までの黒いタイツを履いていた。
中央に陣取る黄金の女王は、こちらから見えている部位は全て基本的に金色で、所々にアクセントの様に銀色の装飾が施された、実に煌びやかな姿をしていて、蝋燭の白く強い灯りを反射して常に輝いていた。
女王の装いは他の者達と異なり、エデンの民と同様の西洋的な形状をした細身のドレスで、見えている上半身はと言うと、大きめに開いた胸元に細い七分の袖をした、体の線がはっきりと判る衣装であり、全体としては半ば透けているレース生地の要所に、非常に細かなフリルで装飾してあるらしい。
それらの繊細な意匠は大変素晴らしいのかも知れないが、ドレスに覆われていない開いた胸元や手や首等の素肌の部分にも、金箔を塗っているかの様に全てが金色なので、これ以上細かな所はこの距離では良く判らない。
両側に陣取る鳥人の家臣達と比べると小さくてかなり華奢に見えるが、座っている状態でも頭の位置からすると、背の低い道化の頭一つ以上は差があり、人間の女としても背丈はかなり高い様だ。
それにしても衣装だけではなく皮膚までも金色とは、まさに黄金の女王と言う名に相応しい存在だと、若干呆気にとられながら眺めていた。
頭部には冠羽があり、それはどう見ても黄金の孔雀だったのだが、女王の口元は金色なのは置いておいて、鳥ではなく人間のそれが付いている様に見える。
良く見ると肩よりも下へと落ちている豊かな金髪は、羽毛ではなく人毛の形状をしており、つまり顔の鼻から上を覆う孔雀の仮面をしているだけなのが判り、種族の王が異種族で、それも口元からして道化師と同じく人間である事に少々驚いた。
少なくともこのエデンでは、人間は最下層の生物に当たり、家畜扱いだと聞いていたのもあって、道化だけが特別な存在なのだと推測していたのだ。
この色々と不可思議な黄金の女王は、どう言った経緯で人間の頭をしながら鳥人の国の支配者になったのか、それが気になりつつも歩を進めた。
道化の席から3m程度離れた場所まで歩み寄るとタウルスは立ち止まり、その後に続いて止まった私へと無言で指示をして来たので、私は廊下での約束通りに両手に抱えていた二つの天使の錘を絨毯の上に下ろした。
私の動きを確認すると、家令は主へと一礼してすぐに扉の方へと戻って行き、それと入れ替わる様に、道化の所持品である王笏を手にした従属が私の前へとやって来て、王笏の石突で二つの錘を交互に何度か小突いて戻って行く。
その奇妙な行動を見届けた後に、ここで私は一週間振りに道化の王“ジェスター”と対峙した。
が、その前に道化の視線よりも強い興味を持った眼差しが、奥の列の席の者達から注がれているのに気づいた。
私がこの席にいる者達を見て色々と驚いているのと同様に、この席の大半の半人達も私の姿を見て驚いている様に見えた。
その中でも女王は私の姿を見て強く興味を抱いている様子で、ずっとこちらを見つめたままで食事の手は完全に止まっていた。
「真ん丸い頭をした半人とは、これは確かに珍しい、この様な者は妾も見た事が無い。
御身は色々な者を飼っておるな、実に羨ましい限りじゃ、それも鉄と真鍮の指輪の為せる業なのかのう。
してジェスターよ、先に話しておったこの者の技と言うのも、ここで見せて貰えるのかえ?」
存分にこちらを眺めていた女王は再び道化の王へと向き直ると、私も理解出来る共通語で話し始めて、その声は外で聞いたものと同じ、抑揚が強く音楽的な音色を持った声色で以って、王へと問い掛けていた。
顔の上半分が仮面で覆われていて口元しか見えず、その部分的な表情からは完全に感情が読み取れないのだが、それでも声色からすると少々興奮気味である様にも思えた。
「いや、女王よ、残念ながら今宵は晴れていて、それは披露出来んのだ。
若しも雨が降っていたなら、この日和坊主の持つ日乞いの呪術をお目に掛ける事が出来、面白い余興になったのだが……」
道化はこちらをちらりと見てから、さも残念そうに両手を上げて大袈裟な身振りをしつつ、女王へと謝罪の返答を返していた。
日乞いの呪術なんて私は使えないが、この姿を理解した際朧げに思い出された風景に、首を括られて屋外に吊るされている姿が浮かび、それの意味するのはこの身を呈して気候を操る力があったとも捉える事が出来るが、それは恐らく命懸けであったろうと思うと、今夜が雨ではなかった事を感謝せずにはいられなかった。
危うく余興で縛り首にされるのは凌げた様だが、道化がまだ何か他に突拍子も無い事を、この好奇心の強い女王に吹き込んでいない事を祈りつつ、私はじっとこの場の動向を窺っていた。
「王よ、その日乞いの儀式と言うのは、要するに雨や嵐を静める力なのであろう?
のう、ものは相談じゃが、この半人、妾に譲ってはくれぬか?
妾の民はこの通り飛んで移動するのが常、天候には御身の民よりも大きく影響を受けるのじゃ。
況して妾の国土は高地にあり、気候の変化も激しい土地。
しかし高地故に鉱石ならば幾らでも取れる、今回持参した土産の倍の宝石と貴金属を払おうではないか。
それで天気が変えられるのであれば安いものじゃ、妾の翼に賭けて約束を守ると誓うぞ、どうじゃ、それで譲ってくれぬか?」
道化の実に簡単な説明だけで、すっかり気に入ったらしい女王は、どうしても私が欲しいらしく貢物の提示を道化へとし始めていた。
ここでもし道化が受諾しようものなら、私は鳥人の国に売られてあの儀式をさせられる事になるのではないか。
それは日乞いが本当に成功しようが、単なる迷信の類で失敗しようが、いずれにしても儀式の実行方法を考えると、私の死を意味するとしか思えない。
この脆弱な定命らしき体では、首を吊って生き永らえるとは思えないし、それは上手く誤魔化せたとしても、糧の流れさえ追えない状況で日乞いなんて魔法は、成功する気が全くしない。
まさかこれだけ吹聴しておきながら、仕損じてお咎め無しは有り得まい、こんな形でこの晩餐の場にて窮地に陥るとは、予想していなかった。
それともその様な状態になれば、そういった力が発動するだろうか、その可能性に賭けるのは出来る事なら最後の手段にしたい。
私からは王族たる女王へと話し掛けるのは許されない行為であり、況して反論などしようものなら、その言葉を言い終える前に回りの鹿達に切り刻まれない訳が無く、何も打つ手がない。
女王の懇願に対して考えあぐねているかの様な態度を取りつつ、こちらを何度と無く横目で見ては女王に見えない様に冷笑を浮かべ、明らかにこの状況を楽しんでいるであろう紅白の王の横っ面を、私は強く睨み続けていた。
すると、そろそろ私を動揺させるのに飽きたらしい道化は、黄金の女王へと返答する。
「それは確かに仰る通り、貴国にとって利益になる事であるならば、余としても協力は惜しまぬ所存だ。
だが申し訳ないが、これには余の手駒としてやらせるべき事があるのだよ。
それが終わった時であれば、これを貴女に贈呈しようではないか。
だからそれまでは、どうか待って頂きたい」
道化の王は、口調は丁重だがきっぱりとした拒否の返答を返した。
「……そうか、ならば残念じゃが、致し方ないかの。
ではその時まで、大人しく待つとしよう」
女王も道化の態度を見てこれ以上は食い下がっても無駄だと悟り、掌を返した様に意外とあっさり諦めて、取引の交渉は無事に決裂して終了した。
交渉決裂であってもそれほど気にはしていない様子の黄金の女王は、赤く透き通る赤ワインの注がれたグラスを手にすると、優雅に傾けて中身を流し込んだ。
この後暫くの間、どちらの支配者も発する事なく、静かな音楽だけが流れていた。
「これを直ぐ差し上げられぬ、そのお詫びと言っては何だが、ちょっとした余興をもう一つ披露致そうか」
そう口を開いた“ジェスター”は、脇に控える執事へと何かを命じ、執事はそれを聞くと一礼してから、後ろに立っていた白猫のメイド達へと指示を出した。
白猫も頭を下げてから、この長大なテーブルの端に置かれていた、ワインのボトルの内の一本とグラスを一つ持って戻って来ると、静かにグラスをテーブルの上に置いた後、丁寧にワインボトルをその隣に並べて置いた。
それをカバルスは見届けてから置かれたワインボトルを手にすると、ポケットからソムリエナイフを取り出して、ゆっくりとコルク栓を抜き、白毛のカトゥスが持って来たグラスに中身を注ぐ。
注がれた液体は鮮血の様な真紅の色をした赤ワインで、この場にいる賓客達は皆そのグラスへと注目していた。
ワインラベルは私のいる場所からでは角度的に良く見えず、どの様な代物なのかは全く判らなかったが、何となく只の葡萄酒では無さそうな嫌な雰囲気を感じていた。
それはこちらを面白そうに眺める道化の王の視線からも、強く察する事が出来てしまい、不吉な予感は更に増して行く。
「さぁて、饅頭頭の日和坊主よ、遂に召喚の儀式の時は来た。
今回は特別に、国賓である黄金の女王その人と、その忠臣である鳥人族の官吏達にも御覧頂く事に決めた。
さあ、余からそちへと贈る心からの品であるぞ、聖なる神の血である『聖血』を一気に飲み干すが良い、そして旅立つのだ!」
栗毛馬の執事が運んで来た、曰く有り気な真っ赤なワインを差し出されて、思わず私は一歩後ずさる。
……筈だったのだが、実際には全く足は動かず、ここに来るまでも決して軽くは無かったものの、それほどの重さでもないと感じていた筈の天使の錘が、今やびくともしない程に重くなっているのに気づいた。
「あぁ、そちには伝えていなかったが、余の王笏を使い、秘術の一つで余の愛する天使像を重くしておいてやった。
今は既に1インチすら動かす事は出来ぬぞ、どうした、早く飲むが良い、それがこの場でそちに出来る最も賢い選択だ。
それとも今晩早速、日乞いの儀式を執り行いたいか? ククククク……」
忌々しい笑い声を上げながら、どうしようもない状態を私へと知らせた道化の王は、余興として召喚の儀式をここで行わせようとしているらしい。
この怪しげなワインが本当に儀式なのか?
実に疑わしいが、この場からは逃れる術も無く、言う通りにしなければ、それ相応の罰が与えられるのだろう。
しかし若しかすると、私は体力や痛覚は通常の定命の生物と同等だが、未だ見ぬ何らかの力を内在していて、それが本当の窮地になると発動する、その様な展開も無い訳では無いと言う願望に近い考えが、未だ頭の片隅に残っていた。
それが私の行動を疎外して、道化の命令に隷属的に従うのを拒み、躊躇して応じずにいたのだ。
それはほんの数秒も無かったのだが、それでもこの館の支配者の機嫌を損ねるのに十分な時間だったらしい、道化の顔から笑みがすっと消えて、小さく舌打ちするのが聞こえた、と思ったその時だった。
「……セルヴス、右腕だ」
呟く様なその声と同時に私の右前にいた鹿頭の近衛兵が、体を反転させつつ一歩離れてから一瞬で抜刀し、次の瞬間には首から体を覆う布へと剣を薙ぐ様に一閃させて、瞬く間に私の右腕を切断した。
二の腕の中央から切り落とされた右腕は、厚い絨毯の上に音も無く落下して転がり、腕と同時に脇腹も切り裂かれた私は、声すら出せずにその場に崩れ落ち跪いた。
私は咄嗟に左手で右腕の切断面を押さえたが、脇腹の傷も浅くは無く肺まで達している様で、その切り口からも血が溢れていて流血は止まらず、そちらの傷を押さえると今度は腕から湧水の様に血が溢れ続ける。
みるみるうちに白い衣装や淡い色調の絨毯を血に染めて、それと同時に早まる鼓動に合わせて切られた右腕と脇腹から、熱さを伴った激痛を越えた鈍痛が伝わり始める。
「王よ、これが余興なのか? だとすると残念じゃ、ただ殺してしまうだけなら、妾に譲って欲しかったのう……」
あからさまに落胆した黄金の女王の声が、無数の鐘が鳴り響く様な耳鳴りの中に埋もれて、遠くから聞こえている。
出血の所為でショック状態になりつつあるのか。
「いやいや、まだまだ、そう慌てなさるな。
女王よ、今暫くお待ちあれ」
女王に対しては常に節度を以って語っているが、半笑いであるのは間違いない道化の声色も、とても遠くから響いている様にしか聞こえない。
道化師の言葉を、多少でも単なる脅しではないか、この地でも何らかの力を発揮出来るのではなどと、甘い考えを一瞬でもしていた己を呪いつつ、耳鳴りに続いて地震の様に揺さ振られる感覚に襲われながらも、ここで倒れ臥してしまうとそれで本当に終わる気がしてならず、私は重傷を負いつつも必死に踏み止まっていた。
「そちが生き残る術は只一つ、『聖血』を飲み干す事だけだ。
そうすれば、命だけは取り留めてやるし、その腕を癒せる機会だってやって来るかも知れんぞ。
ほれ、もうあまり迷っている暇も無いぞ、早くしないと血を失い過ぎて冥府行きよ。
さあ、『聖血』を飲み干すのだ、ククククククク……」
その声と同時に、急速に暗くなりつつある私の視界の端に、執事が置いた『鮮血』のグラスが入って来た。
道化の言う通りもう迷っている余裕は無い、この状況では道化の甘言を信じる以外に道は残っていなかった。
私は傷口を押さえていた左手を放して、床に置かれたグラスを掴むと一気に呷る。
『聖血』の味は強いアルコールに凄まじく濃縮した血液を混ぜた様であり、酷い味で通常ならとても飲み込めるものではなかったが、命が懸かった現状ではそれこそ縋る思いで必死になって全てを飲み干すと、今までの失血から来る眩暈とは別の感覚に囚われて、意識が遠のいて行く。
恐らく私に何らかの変化が起きているのであろう、それを見た鳥人達や黄金の女王の感嘆の声が遠く微かに聞こえた所で、私の意識は失われた。
こうして瀕死の重傷を負った私は、“ジェスター”の思惑通りに動かされ、否応無く今までに無い形式で召喚へと誘われた。
これが覚醒以降ずっと続いて来た、虚無に満ちた闇の世界の終焉であり、ここから新たに道化の支配する混沌とした世界の始まりを迎えた。
この後に私には道化から課せられた使命に因って、己の価値観のみで行動を定めていた以前の召喚に、新たな逡巡や苦悩を加えて行く事となる。
また、こちら側の世界に於いても、脆弱な定命の我が身を守りつつ道化達に挑み、より混迷を深めて行く。
更に、この世界の謎を解く鍵を握っている、“嘶くロバ”を含めた『悪魔』の烙印を押された他の虜囚達との、容易ではない交渉や取引も控えている。
そして極めつけは、道化以上に怪しげで正体どころかその本質すら不可解な存在である、黒い蝶の事。
この様な実に様々な、私にとっては救済なのか或いは障害なのか、判断のつかない者達を相手にしながら、私は更なる幾多の召喚に直面する。
一時は取り戻せたかに思えた過去も、確りと握り締めていた筈の砂の様に、日を追う毎に手から零れ落ちてしまい、記憶や確信は、滲み、擦れ、次第に消え去り、それとは逆に鮮明になるのは、疑念と不信ばかり。
しかしどれだけ謎ばかりの窮地であろうとも、全ての鍵を握っているのは間違いなく紅白の道化師であり、それ故に私の目指すべきは只一つだ。
それは、道化に全ての謎の答えを吐かせて明らかにさせる事、或いは道化を殺してでもその力を打ち破り、あらゆる束縛と封じられた秘密を解き放つ事。
この目標を果たす為には全てを割り切り、私は自らの信念も、感情も、理性も、何もかも捨てて動かなければならなくなるかも知れない。
たとえそれが、道化の意図した演出の余興であっても。
それらの行動が、道化への忠誠を示す行為だとしても。
全ては最終的な目的である、私自身の救済の為に……
第二十章はこれにて終了。
第一編 『闇の世界』 完
次回から第二編、第二十一章となります。