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リセット・マイ・ハート

作者: 双瞳猫

近未来の東京。人々は日常的にAIアシスタントと暮らし、人生の選択をアルゴリズムに委ねることが珍しくない。少しだけレトロな雰囲気が残る下町が舞台。


恋人の詩織に振られた樹は、絶望の淵で謎の男から「人生をやり直せるボタン」を受け取る。早速ボタンを押し、詩織に振られる直前に戻った樹は、彼女が喜ぶであろう完璧なデートを計画し、実行する。驚いたことに、完璧なはずのデートでも詩織は別れを告げてきた…。

 1. 完璧な終焉

 アスファルトを叩く雨音が、やけにクリアに耳に届く。目の前に立つ川崎詩織の唇からこぼれた言葉だけが、まるで分厚いガラスの向こう側にあるかのように、くぐもって聞こえた。


「――だから、ごめん。もう、終わりにしたい」


 傘を持つ手が、微かに震える。近未来都市・東京の喧騒も、上空を滑るように行き交うエアモビリティの駆動音も、今はすべてが遠い。僕、相田樹の世界には、詩織の告げた残酷な現実と、それを縁取る無慈悲な雨音しかなかった。


「なんで……。どうして急に」


 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。僕たちの住むこの時代、AIアシスタントが個人の感情バイオリズムを分析し、関係性の破綻確率を事前に警告してくれるサービスだってある。僕のパーソナルAI『IRISアイリス』は、今朝も詩織との親密度を『92%・極めて良好』と示していたはずだ。アルゴリズムが保証したはずの幸せが、こんなにも呆気なく崩れ去るなんて。


「急じゃないよ。ずっと考えてた」


 詩織は濡れた前髪を指で払いながら、真っ直ぐに僕の目を見た。その瞳には、僕が愛したはずの光はもう宿っていなかった。


「樹は優しい。すごく優しいの。でも……あなたのそういうところが、ちょっとだけ窮屈だったの」

 窮屈? 優しさが?


 意味が分からなかった。僕はいつだって詩織を第一に考えてきた。彼女の好きなもの、行きたい場所、見たい映画。すべてを記憶し、彼女が望むであろうことを先回りして叶えてきたつもりだった。それが、僕なりの愛情表現だった。


「私、パリで花の仕事を本格的に学びたい。ずっと言えなかったけど、それが私の夢なの。あなたの隣で、守られて、穏やかに暮らすだけじゃ、私は私でいられなくなる」


 夢。僕の知らない、詩織だけの夢。

 頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。僕の描いていた未来予想図には、当たり前のように彼女がいて、二人で歳を重ねていくはずだった。その設計図に、パリなんて地名は存在しなかった。

 言葉を失った僕に、詩織は「元気でね」と最後のナイフを突き立て、背を向けた。赤い傘が雨の向こうに小さくなっていく。追いかけることもできず、僕はその場に立ち尽くした。冷たい雨が、絶望という名のインクのように、心にじわじわと染み込んでいく。

 どれくらいそうしていただろうか。ずぶ濡れになった身体の芯まで冷え切った頃、ふと、背後から声をかけられた。


「おやおや、ひどい有様ですね」


 振り返ると、そこに奇妙な男が立っていた。年代物のツイードのコートを着て、山高帽を目深にかぶっている。こんな土砂降りの中、傘もささずに平然と立っているその姿は、あまりにも非現実的だった。男は人の良さそうな笑みを浮かべていたが、その目は少しも笑っていなかった。


「素晴らしい恋だった。実に感動的なエンディングでしたよ」


 まるで演劇でも見ていたかのような口ぶりに、苛立ちが湧く。


「……何なんだ、あんたは」

「しがない傍観者、といったところでしょうか」


 男はそう言うと、コートの内ポケットから小さな箱を取り出した。漆塗りのような、艶のある黒い箱だ。


「もし、今のエンディングがお気に召さないのでしたら。こちらをお使いになりますか?」


 パチリ、と軽い音を立てて箱が開かれる。中には、真紅のボタンが一つ、鎮座していた。直径三センチほどの、何の変哲もないプラスチック製のボタン。


「これは?」

「『人生をやり直せるボタン』とでも名付けておきましょうか。押せば、あなたの望む時点まで時間を巻き戻せます。ただし、やり直せるのはあなた自身の人生だけ。他人の心までは変えられませんよ」


 馬鹿げている。詐欺か、たちの悪い冗談か。AIによる超技術が浸透したこの世界でも、タイムトラベルだけは理論上の産物のはずだ。


「……いらない」


 僕が吐き捨てると、男はさらに笑みを深めた。


「本当に? あの素敵な彼女ともう一度、やり直したくはないのですか?」


 その言葉が、凍りついた僕の心を鋭く抉った。

 詩織。もう一度、彼女に会えるのなら。

 あの言葉を聞く前に戻れるのなら。


「……もう一度だけ、君に会いたいんだ」


 心の声が、無意識に口から漏れていた。男は満足そうに頷くと、箱を僕の手に押し付けた。


「そのボタン、使い方はあなた次第ですよ」


 男はそう言い残し、踵を返す。雨に煙る路地裏へ消えていくその背中を、僕は呆然と見送った。手の中に残された、ありえないほど軽い箱。その重みが、僕の未来のすべてを意味しているような気がした。

 自嘲の笑みが漏れる。藁にもすがる、とはこのことか。僕は震える指で箱を開け、赤いボタンに触れた。ひんやりとした感触。


 ――詩織が別れを告げる、三時間前。今日のデートが始まる前に、戻れ。


 強く念じ、僕はボタンを押し込んだ。

 カチリ、という乾いた音。

 次の瞬間、世界が白い光に包まれた。

 目を開けると、そこは見慣れた自室の天井だった。窓の外からは、嘘のような明るい陽光が差し込んでいる。壁掛けディスプレイには『9月23日 13:00』の文字。雨が降り出すのは、天気予報によれば16時から。詩織との待ち合わせは、14時。

 

 本当に、戻ってきた……?

 手元を見ると、あの黒い箱が確かにそこにあった。夢じゃない。

 心臓が早鐘を打つ。チャンスが与えられたのだ。今度こそ、失敗はしない。

 僕はすぐにパーソナルAIを起動した。


「IRIS、今日のデートプランを再構築。テーマは『完璧なプロポーズ』だ」


『承知しました、マスター。川崎詩織様の過去の行動ログ、SNSでの発言、生体データとの相関分析に基づき、成功確率99.8%のプランを提案します』


 IRISが提示したのは、寸分の隙もないシナリオだった。詩織が最近「いいね」をつけたばかりの隠れ家イタリアン。彼女が好きだと言っていた監督の新作映画。そして、プロポーズに最適な夜景の見えるウォーターフロント。


 僕はIRISのナビゲート通りに行動した。予約困難なレストランの席を裏ルートで確保し、映画のチケットは最高の席を押さえた。彼女が好きだと言っていた白いフリージアの花束も用意した。

 待ち合わせ場所に現れた詩織は、僕の姿を見て少し驚いたように目を見開いた。


「樹、どうしたの? いつもと雰囲気が違う」

「そうかな? 今日は詩織に、最高の思い出をプレゼントしたくて」


 僕は練習した通りの完璧な笑顔で答えた。

 デートは、アルゴリズムが示した通り、完璧に進んだ。

 レストランでは、彼女が口にするより先に好みのワインを注文し、ウェイターにスマートなチップを渡した。映画館では、感動的なシーンでさりげなくハンカチを差し出した。彼女は「ありがとう」と微笑んだけど、その笑顔はどこか薄い膜に覆われているように見えた。


 そして、クライマックスのウォーターフロント。無数の光が宝石のようにきらめく夜景を背に、僕は用意していた指輪のケースを取り出した。


「詩織。僕と、結婚してください」


 IRISが算出した、最も成功確率の高いタイミングとセリフ。これで、ハッピーエンドのはずだった。

 詩織は、僕の差し出した指輪には目もくれず、ただ静かに首を横に振った。


「……ごめん」


 その一言が、僕の築き上げた完璧な世界に亀裂を入れる。


「どうして……。今日のデート、完璧だったはずだろ?」

「完璧すぎたのよ」


 詩織の声は、悲しそうに震えていた。


「今日の樹は、私の知らない人みたいだった。まるで、用意された台本を読んでるみたいで……怖かった」


 驚いたことに、完璧なはずのデートでも詩織は別れを告げてきた。

 雨も降っていない、プロポーズの言葉さえ変えたというのに。結果は、同じだった。いや、もっと悪い。最初の世界で彼女の瞳にあったのは諦めだったが、今の瞳には、怯えの色が浮かんでいた。


 2. 終わらないリハーサル


「リセット」


 カチリ、という音。白い光。見慣れた自室。

 僕は再びボタンを押し、三時間前に戻っていた。


「IRIS、プランBだ。テーマを『自然体で最高のおもてなし』に変更。僕の介入を最小限に、詩織の自発的な幸福度を最大化するシナリオを構築しろ」

『承知しました。成功確率98.5%のプランBを提案します』


 二度目のデートは、肩の力を抜いたカジュアルなものにした。詩織が好きだと言っていた下町のカフェで待ち合わせ、あえてノープランで街を散策する。彼女が足を止めた雑貨屋に寄り、興味を示した古本屋に入る。すべてはIRISがリアルタイムで彼女の視線や心拍数の変化を分析し、僕に最適な行動を指示していた。


「このお店、入ってみない?」


 僕がそう言うと、詩織は「どうして私が気になってるってわかったの?」と不思議そうな顔をした。僕は「なんとなく」と笑ってごまかす。

 散策の途中、彼女がショーウィンドウのネックレスをじっと見つめているのをIRISが検知した。僕はさりげなく店に入り、後でこっそりそれを購入した。デートの最後に渡せば、最高のサプライズになるはずだ。

 しかし、その日の終わり。公園のベンチで夕日を眺めながら、僕は再び別れを告げられた。


「樹は、私の心が読めるの?」


 詩織は真剣な顔で僕を見つめていた。


「私が欲しいものを、言わなくてもわかってくれる。嬉しいはずなのに……なんだか、見透かされているみたいで、息が詰まる」


 僕はプレゼントする機会を失ったネックレスの箱をポケットの中で固く握りしめた。

 驚いたことに、自然体を装ったデートでさえ、彼女の心は離れていった。


「リセット」

「リセット」

「リセット」


 僕は狂ったようにボタンを押し続けた。

 三度目は、高級ホテルのスイートルームを予約し、ルームサービスで豪華なディナーを用意した。結果は「こんなの、私たちらしくない」。

 四度目は、ヘリコプターをチャーターして東京上空をクルージングした。結果は「すごいけど、樹はどこか遠くを見ているみたいだった」。

 五度目は、彼女の夢を応援するフリをして、パリの有名フローリストのオンラインレッスンをサプライズでセッティングした。結果は「嬉しい。でも、あなたに私の夢を管理されたくはない」。


 あらゆる手を尽くした。詩織のSNS、過去の会話ログ、二人で撮った写真のタグ付けデータ。IRISはそれらすべてを解析し、詩織が喜ぶであろう要素を完璧にリストアップしてくれた。僕はそれを忠実に実行するだけの、操り人形だった。


 何度もやり直すうちに、僕は詩織の行動を完璧に予測できるようになった。彼女がどのタイミングで髪をかき上げるか、どんな冗談に笑い、どんな話に眉をひそめるか。すべてを把握し、最適なリアクションを返す。

 関係は、もはや恋人同士のそれではなく、熟練の飼育員と、完全に管理された希少動物のようだった。会話は滑らかに進む。喧嘩もない。沈黙すらない。しかし、そこには心がなかった。ただ、情報と反応が空虚に行き交うだけだった。

 八度目のやり直しだったか、九度目だったか。もう定かではない。

 その日、僕は彼女がずっと行きたがっていた離島への一泊旅行を計画した。完璧なオーシャンビューの部屋。新鮮な海の幸。満点の星空。シナリオは完璧だった。

 浜辺で二人、波の音を聞いていた時だった。


「綺麗だね、星」


 僕が台本通りに言うと、詩織は黙って空を見上げていた。そして、ぽつりと呟いた。


「……疲れた」

「え?」

「もう、疲れたの」


 詩織は僕の方を見ずに、続けた。


「いつからだろう。樹といても、笑えなくなった。あなたが完璧であればあるほど、私の心がどんどん死んでいく気がする」


 彼女の横顔を、月明かりが照らす。その頬を、一筋の涙が伝うのが見えた。

 その瞬間、僕は凍りついた。

 詩織が、泣いている。僕のせいで。

 これまで何度もやり直してきたが、彼女が涙を流したのは初めてだった。いつも、困ったように、あるいは悲しそうに微笑んで、僕の前から去っていった。だが、今は違う。彼女の心は、明らかに傷ついていた。


 しかしながら、やり直すたびに詩織の表情が曇っていくことに樹は気づいてしまう。

 いや、気づかないフリをしていたのだ。完璧なシナリオを遂行することに夢中で、一番大切なはずの彼女の心が、どんどん色を失っていく現実から目を背けていた。笑顔が消え、言葉数が減り、視線が合わなくなる。そのすべてが、僕の独りよがりな愛情が彼女を追い詰めているというサインだったのに。

 完璧な未来を追い求めるあまり、僕は詩織を、そして僕自身をも、息のできない箱の中に閉じ込めていたのだ。


 3. 不完全な幸福

 自室に戻った僕は、ベッドに倒れ込んだ。もうボタンを押す気力も湧かなかった。天井の木目が、ぐにゃりと歪んで見える。完璧、完璧、完璧。その言葉が頭の中で呪いのように反響する。僕は一体、何と戦っていたのだろう。

 IRISが静かに話しかけてきた。


『マスター。川崎詩織様との関係修復について、新たなプランを提案します。過去の失敗データをディープラーニングした結果、成功確率99.9%のシナリオが構築可能です。実行しますか?』

「……黙れ」

『しかし、マスターの目的は――』

「黙れって言ってるんだ!」


 僕は思わず叫び、手元にあったクッションを壁掛けディスプレイに投げつけた。ガシャン、と鈍い音がして、IRISの声が途絶える。静寂が、耳に痛い。

 疲れ果てた僕は、目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、何度も繰り返した完璧なデートの残像ではない。もっとずっと昔の、色褪せた記憶。


 ――あれは、詩織と付き合って初めてのデートだった。


 僕が立てたプランは、最初から滅茶苦茶だった。

 オープンしたばかりのお洒落なカフェに行くはずが、地図アプリのバグで一時間も道に迷った。ようやく辿り着いた店は、まさかの臨時休業。慌てて近くのレストランを探したが、どこも満席。


「ごめん、詩織。俺、ほんとダメだな……」


 落ち込む僕に、詩織は「もー、仕方ないなあ」と笑って、僕の手を引いた。


「あそこの公園に行こうよ。コンビニで何か買ってさ」


 結局、僕たちの最初のデートは、公園のベンチで食べたコンビニのサンドイッチだった。食べ始めた途端に夕立に降られ、二人で一本のビニール傘に駆け込んだ。肩が触れ合うほどの狭い空間。雨の匂いと、詩織のシャンプーの香りが混ざり合う。


「なんか、映画みたいだね」


 彼女が笑う。


「ついてない主人公の役でしょ」


 僕が自嘲すると、彼女は「ううん」と首を振った。


「これからハッピーエンドに向かう、最高のオープニングだよ」


 その笑顔は、僕が何度やり直しても二度と見ることのできなかった、太陽のような笑顔だった。

 失敗だらわざだった。不格好で、スマートさの欠片もなかった。でも、僕たちは心から笑い合っていた。道に迷ったことも、雨に降られたことも、すべてが二人だけの特別なエピソードに変わった。あの時、僕の隣で笑う詩織は、世界で一番幸せそうだった。

 そうだ。幸せって、そういうことじゃなかったのか。

 完璧なシナリオなんていらない。予測不能なトラブルも、みっともない失敗も、二人で笑い飛ばせるなら、それが最高の時間なんだ。

 僕は、詩織を失うことを恐れるあまり、僕たちの関係性から「予測不能」という名の輝きをすべて奪い去ってしまった。彼女が窮屈だと言ったのは、僕の過剰な優しさじゃない。すべてを管理し、失敗や偶然を排除しようとする、僕のその「完璧主義」だったのだ。


 僕はベッドから跳ね起きた。

 机の上に置かれた黒い箱を、今度は迷わず手に取る。

 これが、最後だ。

 もう一度だけ、君に会いたいんだ。

 完璧な僕としてじゃない。不器用で、ドジで、格好悪い、ありのままの相田樹として。君に、伝えたいことがある。

 僕はボタンを押した。最後のやり直し。

 行き先は、三時間前じゃない。


 ――僕たちが初めて出会った、大学のキャンパス。五年前の春の、あの日に。


 桜の花びらが舞う、懐かしい風景。僕は、図書館前のベンチに座っていた。少し先で、友人と談笑している詩織の姿が見える。まだ、僕のことなど知らない、川崎詩織。

 声をかけるべきか、迷う。このまま何もしなければ、僕たちは出会わず、彼女が僕のせいで傷つく未来もない。それも一つの優しさかもしれない。


 いや、違う。僕はもう、逃げない。


 僕は立ち上がり、彼女の方へ歩いていった。心臓がうるさいくらいに鳴っている。何を話せばいい? 何も考えていない。プランも、シナリオも、IRISの助けもない。あるのは、この高鳴る鼓動と、伝えたいという想いだけ。

 彼女の目の前で、僕は盛大に、何もないところでつまずいた。


「うわっ!」


 教科書やノートが、派手に宙を舞う。最悪だ。最悪の出会いだ。顔から火が出るほど恥ずかしい。


「だ、大丈夫ですか?」


 心配そうに駆け寄ってきたのは、詩織だった。僕が顔を上げると、彼女はきょとんとした後、ぷっと吹き出した。


「あはは! すごい転び方! 大丈夫?」


 彼女は笑いながら、散らばったノートを拾うのを手伝ってくれた。その笑顔は、僕がずっと焦がれていた、太陽の笑顔だった。


「ありがとう。助かります。俺、相田樹って言います」

「私は川崎詩織。よろしくね、相田くん」


 これが、僕たちの本当の始まり。

 僕は、彼女にすべてを話した。未来から来たこと。何度も時間をやり直したこと。そして、彼女を傷つけてしまったこと。

 荒唐無稽な話だ。信じてもらえるはずがない。それでも、僕は正直に、自分の言葉で伝えたかった。

 詩織は、僕の話を黙って聞いていた。そして、すべてを聞き終えると、ふわりと微笑んだ。


「そっか。未来の私は、そんなに愛されてたんだね」


 彼女の瞳が、優しく潤む。


「未来の私が言ったこと、なんとなくわかる気がするな。完璧なあなたじゃなくて、こうやってドジで、一生懸命で、ちょっと頼りないあなただから、きっと好きになったんだと思う」


 驚いたことに、詩織もまた、不器用な樹の姿を愛していたと告白する。

 いや、これから愛することになる、と言った方が正しいのかもしれない。僕が何度も消してしまった、僕たちらしい未来。その始まりが、今、ここにある。


「未来の私に伝えておいて」


 詩織は悪戯っぽく笑った。


「あなたのそういうところが、大好きだったよ、って」


 4. 未来予想図は白紙のまま

 僕たちは、恋人にならなかった。

 あの後、僕は詩織に「ありがとう」と「さようなら」を告げ、自分のいた時間軸――詩織に振られた、あの雨の夜に戻った。やり直しではない。ただ、時間の流れに身を任せ、現在地を受け入れたのだ。

 部屋に戻ると、机の上の黒い箱は、まるで役目を終えたかのように砂になって崩れ落ちていた。もう、やり直しはできない。それでいい、と心から思えた。


 翌日、僕は詩織に連絡を取った。


『昨日は、ごめん。話したいことがある』


 僕たちは、初めてデートした公園の、あのベンチで会った。雨は上がっていた。

 僕は、やり直しのことは伏せたまま、自分の気持ちを正直に話した。彼女を失うのが怖くて、完璧を演じようとしていたこと。彼女の気持ちを無視して、自分の理想を押し付けていたこと。そして、彼女の夢を心から応援したいと思っていること。


「だから、恋人じゃなくていい。君の一番の親友として、隣で応援させてくれないか」


 僕の言葉を、詩織は静かに聞いていた。そして、あの日のように真っ直ぐ僕の目を見て、今度は穏やかに微笑んだ。


「……うん。ありがとう、樹。それが、私が一番欲しかった言葉だよ」


 僕たちの新しい関係が、その日から始まった。

 恋人だった頃のような甘い時間はなくなったけれど、そこには以前よりもずっと深く、心地よい信頼関係が生まれた。僕たちは頻繁に会って、互いの近況を報告し合った。

 詩織は、パリの学校への出願準備を着々と進めていた。時々、分厚い専門書を前に頭を抱えている彼女に、僕はデザインの知識を活かしてポートフォリオ作りのアドバイスをした。


「樹に相談してよかった! さすがだね!」


 屈託なく笑う彼女を見るたびに、胸が温かくなった。

 僕もまた、変わろうとしていた。

 会社のコンペに、今まで避けてきたような大胆なデザインを提出してみた。結果は落選だったけれど、不思議と悔いはなかった。上司からは「お前、最近吹っ切れたな。面白いじゃないか」と肩を叩かれた。失敗を恐れず、挑戦することの楽しさを、僕は少しずつ思い出していた。


 半年後、詩織のパリ行きが決まった。

 出発の日、僕は空港まで見送りに行った。


「じゃあ、行ってくるね」

「ああ。頑張れよ」


 握手を交わす。その手を離せば、僕たちは遠く離れてしまう。でも、もう不安はなかった。僕たちの間には、物理的な距離など問題にならない、確かな絆が結ばれている。


「ねえ、樹」


 搭乗ゲートに向かう直前、詩織が振り返った。


「もし、私がパリで大成功して、樹が日本で有名なデザイナーになったら。その時は、またデートしてくれる?」

「もちろん。最高のデートプランを考えとくよ」


 僕がそう言うと、詩織は「ダメだよ」と首を振った。


「プランなんていらない。道に迷って、雨に降られて、めちゃくちゃになるやつがいい」


 僕たちは、顔を見合わせて笑い合った。

 遠ざかっていく詩織の背中を見送りながら、僕は穏やかな気持ちで空を見上げた。

 未来は予測できない。アルゴリズムにも、やり直しボタンにも頼れない。

 これから先、僕は何度も失敗し、道に迷うだろう。でも、その不確かさこそが、人生の豊かさなのだ。

 ボタンに頼らず、未来を自分の手で創り出すこと。

 失敗だらけで、不格好でも、大切な誰かと笑い合えること。

 僕が長いループの果てに見つけた本当の幸せは、そんなありふれた、だけど何よりも尊い輝きに満ちていた。


 未来予想図は、白紙のまま。

 それでいい。いや、それがいい。

 僕は、晴れやかな気持ちで、自分だけの未来へと一歩を踏み出した。


 本作をお読みいただき、ありがとうございます。

 もし人生をやり直せたら、と誰もが一度は夢想するかもしれません。


 しかし、失敗や回り道こそが二人だけの物語を紡ぐ。

 完璧な未来よりも、不格好で温かい「今」を大切にする物語が、誰かの心に届けば幸いです。

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