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トイレの手と、子供たちの奇妙な友情

 とある小学校の、西校舎三階、つきあたりの男子トイレ。

 その噂は、まるでインフルエンザのように瞬く間に全校生徒に広がっていった。


「誰もいないトイレから水の流れる音がする」


 最初は、よくある学校の怪談のひとつだった。花子さん、テケテケ、動く人体模型……。そのラインナップに新たに加わった、ありふれた都市伝説。誰もが面白がり、怖がり、そしてすぐに忘れるはずだった。

 小学四年生の男子生徒が、度胸試しにそのトイレのドアを開けるまでは。


 薄暗いトイレに、ぽつんとひとつだけある個室。そのドアは半開きになっていた。少年はごくりと唾を飲み込み、そろりそろりと中をのぞき込む。

 そして見た。


 洋式便器の、水が溜まっているはずのその場所から。

 にゅっと。

 まるで水面から突き出すようにして、人の手が現れたのを。


 肌の色は白く、すらりとした指。

 性別も年齢も分からない。

 ただ「手」だけがそこにあった。


「ギャーーーーーーーーッ!!」


 少年の悲鳴は、放課後の静かな校舎にこだました。

 その日からそのトイレには、突き出されたまま帰れなくなった何者かの手が、便座の中に鎮座しているという……。


 噂は尾ひれどころか、翼とジェットエンジンまでつけて校内を飛び交った。


『その手は、トイレに流された生徒の怨念だ』

『いや、異次元につながるゲートなんだ』

『触ると呪われるらしいぞ!』


 結果、西校舎三階の男子トイレは、厳重な封鎖措置が取られることとなった。「故障中」と書かれた札が何重にも貼られ、子供たちの好奇心と恐怖心を煽った。


 もちろん、大人たちが何もしなかったわけではない。

 最初に駆け付けたのは、学年主任の小林先生だった。彼は懐中電灯を片手に、恐る恐る個室をのぞき込み、「うわっ、ほんとにある……」と呟いて後ずさった。


 次に呼ばれた校長先生は、威厳たっぷりに「馬鹿な、非科学的な!」と一喝しながら現場を確認し、青ざめた顔で校長室に戻り、胃薬を飲んだ。


 水道業者が呼ばれた。ベテラン風の作業員は、配管を調べ、便器の構造を睨みつけ、やがて首をひねった。


「いや、社長……こんなケースは初めてです。配管に異常はないし、詰まってもいない。物理的に、ありえないんですよ。ここに『手』があることが」


 次に呼ばれたのは、近所で評判の霊能者を名乗るおばあさん。彼女は数珠をじゃらじゃら鳴らしながらトイレに入り、数分後、血相を変えて飛び出してきた。


「だ、だめだ! あんなものは祓えん! 霊じゃない。悪魔でもない! もっとこう……次元の迷子みたいな……とにかく無理!」


 そう言って、お祓い料だけはきっちり受け取って帰っていった。


 かくして、大人たちは匙を投げた。手は相変わらずそこにあり、時折、退屈そうに指を動かしたり、水をぱしゃぱしゃと跳ねさせたりするだけ。誰に危害を加えるでもなく、ただ、便器の真ん中にちょこんと収まっていた。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



「なあ、見に行こうぜ」


 狂気の沙汰ともいえる提案をしたのは、五年一組の田中健太だった。クラスきっての好奇心の塊であり、トラブルメーカーとしても名高い少年だ。そんな彼が、噂でもちきりの『トイレの手』に興味を持たないはずがない。


「はあ!? 正気かよケンタ! 呪われるって!」


 親友で、慎重派の佐藤聡が即座に反対する。


「大丈夫だって! 昼間なら平気だよ。それに、どんなやつか見てみたくないか? 便器から生えてる手!」


 ケンタの目は、これから始まる冒険にキラキラと輝いていた。

 その隣でもうひとりの仲間、大柄で気の優しい大木大樹がなり声を上げる。


「うーん。ちょっと怖いけど……気になるかも」


 まんざらでもない様子だ。

 結局、聡は多数決(という名のケンタのゴリ押し)に敗れ、三人は放課後、問題のトイレへ向かうことになった。


 西校舎三階は、不気味なほど静まり返っていた。太陽がまだ高いというのに、廊下はひんやりとしている。三人は息を殺し、壁に貼られた「故障中」の札をそっと剥がした。


「いいか、何かあったらすぐ逃げるぞ」


 聡が小声で注意する。


「分かってるって」


 ケンタはドアノブに手をかけ、ゆっくりと、本当にゆっくりとドアを開いた。


 キィィ……


 古びた蝶番が悲鳴を上げる。

 トイレの中は、噂通り薄暗かった。

 そして、一番奥の個室。ドアはやはり、少しだけ開いている。

 三人は壁伝いに進み、息を止めて個室をのぞき込んだ。


 いた。


 本当に、いた。


 真っ白な陶器の便器。その中心から、手首から先だけが、すっくと伸びている。

 指は長く、綺麗に切りそろえられた爪はほんのり桜色をしていた。

 ホラー映画で見るような、血塗られた禍々しい手ではない。

 まるで、マニキュアのモデルが、一番美しいポーズで静止しているかのような。

 恐怖というより、むしろ芸術的ですらある光景だった。


 三人は言葉を失い、ただそれを見つめていた。

 と、その手が、ぴくりと動いた。


「「「ひっ!」」」


 三人は同時に、小さく悲鳴を上げ、後ずさる。

 手は、怯えさせるつもりはなかったようだ。

 人差し指を立て、ゆっくりと左右に振った。

 それはまるで、「違う、違う、怖くないよ」と言っているかのようだった。


「……おい、なんか、喋ってないか?」


 大樹が震える声で言う。


「喋るかよ、手だぞ」


 と、聡がツッコむ。

 だが、ケンタは違った。

 彼は恐怖よりも好奇心が勝っていた。

 一歩、前に出る。


「おーい」


 ケンタが呼びかけると、手はピタッと動きを止めた。

 まるでこちらに注目するような、そんな気配を見せる謎の手。

 中指と人差し指を立てて、ちょこちょこと歩くような仕草をする。


「……歩いてる?」

「なんだあれ。ピースか?」


 首をかしげる三人。

 すると、手は今度はまた別の動きを始める。

 五本の指をきゅっと握り、また開いた。

 グー、パー、グー、パー。


「……ジャンケン、したいのか?」


 ケンタが呟くと、手はぶんぶんと、激しく横に振られた。違うらしい。

 それから手は、親指と人差し指で輪っかを作った。


「オッケー?」

「金か?」

「ドーナツ?」


 三人の珍回答に、手はがっくりとうなだれるように手首を傾けた。

 どうやら、コミュニケーションは前途多難のようだ。


「なあ、腹減ってんじゃねえか?」


 ケンタが、ふと思いついて言った。

 さっきのグーパーは、口をパクパクさせている動きに見えなくもなかった。


 その言葉に、手はハッとしたように動き、今度は激しく縦に振られた。

 指を一本一本、順番に折りたたんでいく。

 どうやら、大正解らしい。


「マジかよ!腹減るのか、手だけなのに!」


 聡が驚愕の声を上げる。


「待ってろ!」


 ケンタは叫ぶと、教室にダッシュで戻っていった。

 再びトイレにやって来て、ランドセルから給食で残したコッペパンを取り出す。


 そして、ちぎったパンのひとかけらを、恐る恐る手のひらに乗せてみた。

 すると、手は指先で器用にパンをつまんだ。

 そして、そのまま便器の水の中へと、そっと沈めていった。

 パンは水に溶けるように、すうっと消えてしまう。


「……食った?」

「みたいだな……」


 三人は顔を見合わせた。

 恐怖の対象だったはずの謎の手。

 しかし今の彼らには、腹を空かせた迷子の子犬のように見えていた。


「よし、こいつの名前、今日から『てっちゃん』な!」


 ケンタが宣言した。

 三人の小学生と、便器に生えた謎の手「てっちゃん」。

 こうして、彼らの奇妙な友情が始まったのである。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 それから三人は、てっちゃんの世話を焼くようになった。

 毎日、給食のパンや牛乳をこっそり運び、てっちゃんにあげた。

 てっちゃんは最初こそ遠慮がちだった。

 だがすぐに慣れ、三人が来ると嬉しそうに指を振って出迎えるようになった。


 ある日、聡が「てっちゃん、ずっと水の中じゃ冷たいだろうな」と言い出した。

 そこで三人は、家庭科室から内緒で布巾を拝借。

 お湯で濡らして、てっちゃんの手をそっと拭いてあげた。

 てっちゃんは、うっとりとしたように指を伸ばし、気持ちよさそうだった。


 またある日、ケンタが持ってきたミニカーで遊んであげた。

 てっちゃんは指先で器用にミニカーを弾き返す。

 キャッチボールならぬキャッチカーをして楽しむことができた。


 言葉は通じない。手だけなのだから当たり前と言えば当たり前。

 しかし、ジェスチャーと雰囲気で、彼らの間には確かな絆が芽生えつつあった。


 てっちゃんは、とても器用で、賢い手だった。

 三人が出した算数のドリルを指で指し示して答えを教えたり。

(なぜか全問正解だった)

 ケンタが描いたヘタクソな似顔絵を見て、指でくの字を作って笑うような仕草をしたりした。


 彼らにとって、西校舎三階のトイレは、もはや恐怖の場所ではなかった。

 誰にも内緒で潜り込む、秘密基地のような存在になっていた。


 一方で、大人たちの混乱はまだ続いている。

 校長室では、連日緊急対策会議が開かれていた。


「一体どうなっているんだ!あの手はまだいるのか!」


 校長が机を叩く。


「はい……非常に元気に、そこにいらっしゃいます」


 小林先生が報告する。いつの間にか、先生たちの間でも「手」は「いらっしゃる」という敬称で呼ばれるようになっていた。


「PTAにはなんと説明するんだ!『お子様方の安全のため、トイレに手を設置しました』とでも言うのか!」

「校長、それは意味が分かりません」

「分かっている! 比喩だ! もういっそ便器ごとコンクリートで固めてしまうか」

「それはさすがに……」


 大人たちは問題解決の糸口が見えず、頭を抱えるばかり

 その間にも、子供たちの中では新たな噂が広まっていた。


『あのトイレの手、実は学校の守り神なんだって』

『触ると頭が良くなるらしいよ』

『てっちゃんっていう名前らしい』


 いつの間にか、てっちゃんの存在はポジティブなものとして受け入れられ、一種のアイドルとなりつつあった。もちろん、その中心にケンタたちがいることを、大人たちはまだ知らない。


 そんなある日の放課後だった。いつものように三人がてっちゃんの元を訪れると、てっちゃんの様子がいつもと違った。パンを差し出しても食べようとせず、力なく水面に指を浮かべているだけだ。


「どうしたんだよ、てっちゃん。元気ないな」


 ケンタが心配そうに声をかける。

 すると、てっちゃんはゆっくりと動き出し、あるジェスチャーを始めた。


 まず、自分のいた場所、つまり便器の中を指さす。

 それから、指を二本立てて歩くような仕草をし、トイレのドアの方を指さす。

 そして最後に、空を見上げるように、指先を天井に向けた。


「えーっと……なんだ?」

「便器から歩いて、ドアを抜けて空へ……?」


 聡がジェスチャーを反芻する。


「わかった!UFOに会いたいんだ!」


 大樹が的外れなことを言う。

 てっちゃんは、違う違うと指を振る。

 そしてもう一度、同じジェスチャーを繰り返した。

 今度は、もっと切実な動きで。

 空を指さした後、手をバイバイと振ってみせた。

 その時、ケンタはハッとした。


「……もしかして、帰りたいのか? 自分の場所に」


 その言葉に、てっちゃんは今までで一番大きく、深く、何度も頷いた。

 その指先は、どこか寂しそうに震えているように見えた。

 てっちゃんは、この世界にいたくているわけじゃない。

 帰れなくなって、困っていたのだ。


「そうか……そうだよな。ずっとこんなとこにいるわけにもいかないもんな」


 ケンタは、少しだけ胸がちくりと痛むのを感じた。

 友達になったばかりなのに、もうお別れかもしれない。

 でも、てっちゃんがそれを望んでいるのなら。


「よし、わかった!俺たちが、てっちゃんを家に帰してやる!」


 ケンタが力強く宣言すると、聡も大樹も、こくりと頷いた。

 小学生三人組による、「てっちゃんお帰り大作戦」の始まりである。


 作戦会議は、放課後の図書室で開かれた。


「まず、てっちゃんがどこから来たのかを特定する必要がある」


 聡が、まるで名探偵のように腕を組んで言った。


「異次元、だよな? 霊媒師のおばあさんが言ってた」

「異次元への帰り方なんて、本に書いてあるか?」


 三人は手分けをして本を読み漁った。

 オカルトや都市伝説、果ては物理学の難しい本まで。

 しかし、便器から異次元へ帰る方法など、どこにも載っているはずがなかった。


 途方に暮れていたその時、ケンタが学校の古い歴史が書かれた分厚いアルバムを見つけた。その片隅に、小さな記述があった。


『創立記念日に、西校舎の裏で不思議な光の柱が目撃されたという記録あり。当時の校長は「天からの祝福」と述べたが、一部の生徒の間では「時空の歪み」ではないかと噂された』


「これだ!」


 ケンタが叫んだ。


「創立記念日…それって、来週の金曜日じゃないか!」


 聡がカレンダーを確認して、目を見開く。


「てっちゃんは、創立記念日に関係があるのかもしれない!」


 仮説は一気に熱を帯びた。


「でも、光の柱ってだけじゃ……。どうすればいいんだ?」


 大樹が首をかしげる。

 その時、てっちゃんのジェスチャーを思い出した。


「便器、歩く、ドア、空……」

「そうだ!てっちゃんは帰り方をジェスチャーで教えてくれてたんだ!」


 三人は再びトイレへ急いだ。


「てっちゃん!帰り方のヒント、もっと教えてくれ!」


 ケンタが頼むと、てっちゃんは待ってましたとばかりに動き出した。

 まず、五本の指を広げ、きらきらと輝くように振る。星のようだ。

 次に、両手……いや、片手なので指を波打たせる。水だ。

 そして、何かを奏でるように指を動かす。音楽?

 最後に、くるりと手首を回転させた。


「星、水、音楽、回転……」


 聡がメモを取る。

 てっちゃんのメッセージを取りこぼすまいと、真剣だ。


「星は……夜ってことか? 満月の夜とか?」

「水は……トイレだから、水を流すこと?」

「音楽は……校歌とか?」

「回転は……なんだ? みんなで回るのか?」


 子供たちの突拍子もない、しかし真剣な推理は続いた。

 そして、いくつかの仮説を組み合わせた、壮大な計画が練り上げられた。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 作戦決行は、創立記念日の夜。

 満月が煌々と輝いていた。


 ケンタ、聡、大樹の三人は、固い決意を胸に、夜の学校へと忍び込んだ。

 もちろん、こんな大事な作戦を三人だけで行うわけにはいかない。彼らは、信頼できるクラスメート数名に事情を打ち明け、協力を取り付けていたのだ。


 さらに、彼らの熱意にほだされた意外な協力者もいた。担任の鈴木先生だ。

 最初は「夜の学校に忍び込むなんて、絶対にいかん!」と叱っていた鈴木先生だったが、ケンタたちが涙ながらにてっちゃんの事情を説明し、「先生の力が必要なんです!」と訴えると、「……わ、分かった。今回だけだぞ。校長先生には内緒だからな!」と、懐中電灯を片手に作戦に加わってくれたのだ。


 西校舎三階のトイレは、昼間とは違う神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 便器の中央には、いつもと変わらずてっちゃんがいる。

 月明かりを浴びて、その手はいつもより白く輝いて見えた。


「よし、てっちゃんお帰り大作戦、開始!」


 ケンタの号令一下、作戦が始まった。


 第一段階「音楽の儀」。

 鈴木先生が、おもむろにリコーダーを取り出した。


「いいか、みんな。仮説によれば、音楽が鍵だ。普通の音楽じゃない、何か特別な。だから、校歌を逆から吹いてみる」

「先生、そんなことできるんですか!?」

「練習してきた」


 鈴木先生は頬を膨らませ、ピーヒョロロ、と世にも奇妙なメロディを奏で始めた。それは校歌というよりは、猫が喧嘩しているような音に近かった。しかし、子供たちは真剣な顔でそれを聞き入っている。

 てっちゃんは、きょとんとしたように指を動かしている。効果はないようだ。


 第二段階「回転の儀」。


「だめだ、音楽じゃないなら回転だ!みんな、てっちゃんの周りで回るぞ!」


 ケンタの指示で、子供たちと鈴木先生は、手をつないで輪になり、便器の周りをぐるぐると回り始めた。


「わー!」

「目が回るー!」

「鈴木先生、足がもつれてます!」


 カオスな状況の中、聡だけが冷静に観察していた。


「てっちゃんが困ってるぞ。指でバツ印作ってる」


 回転の儀も、失敗。


 第三段階「水の儀」。


「やっぱり水だ!トイレなんだから!」


 大樹が叫び、トイレのレバーに手をかけた。


「一気に流すぞ!せーの!」


 ジャーーーーーッ!!


 轟音とともに水が流れる。

 しかし、てっちゃんは流されることなく、しっかりとそこに留まっていた。

 むしろ、いきなりの激流に驚いたのか、指を固く握りしめている。


「だめだ……何が違うんだ……」


 ケンタは膝から崩れ落ちた。

 計画はすべて失敗。

 てっちゃんは、相変わらずそこにいる。


「ごめんな、てっちゃん……。俺たち、力になれなくて……」


 ケンタが謝ると、てっちゃんはそっと指を伸ばし、ケンタの頬に触れるような仕草をした。大丈夫だよ、とでも言うように。

 その優しさが、逆にケンタを悲しくさせた。

 もう、てっちゃんを家に帰してあげることはできないのかもしれない。


 作戦に参加したみんなの顔にも、諦めの色が浮かんでいた。鈴木先生は、「まあ、こんなこともあるさ……」と慰めようとするが、その声にも力がない。


 その時だった。

 ケンタは、ふと、てっちゃんと初めて会った日のことを思い出した。

 腹を空かせたてっちゃんに、パンをあげたこと。

 手を拭いてあげたら、気持ちよさそうにしていたこと。

 ミニカーで一緒に遊んだこと。

 たくさんの思い出が、頭の中を駆け巡った。


「てっちゃん…」


 ケンタは立ち上がり、もう一度便器の前に立った。


「楽しかったよ。お前と友達になれて、本当によかった。ありがとうな」


 ケンタは、心の底からそう思った。

 そして、てっちゃんの指先に、そっと自分の指先を合わせた。

 ハイタッチをするように。

 別れの挨拶をするように。


 ピカッ!!!!


 その瞬間、トイレ全体がまばゆい光に包まれた。


「うわっ! なんだ!?」


 誰もが目を覆う。

 光の中心は、ケンタとてっちゃんが触れ合った指先だった。

 便器の水面が、まるで鏡のように光を反射し、渦を巻き始めた。

 水が天井に向かって逆流し、光の柱を形成していく。


「うわあああ! 仮説の光の柱だ!」


 聡が叫んだ。


 星(満月)。

 水(トイレの水)。

 音楽(みんなの友情のハーモニー?)。

 回転(次元の渦)。

 そして、最後の鍵は、特別な儀式なんかじゃなかった。

 純粋な、感謝の気持ち。友情の証。

 それこそが、次元の扉を開くための、最後の鍵だったのだ。


 光の渦に、てっちゃんの身体がゆっくりと吸い込まれていく。

 いや、身体というより、その先にあるであろう、見えない何かが。


 てっちゃんは、渦に消える直前、ケンタたちに向かって精一杯、手を振った。


 バイバイ。

 ありがとう。

 また会えたらいいね。


 そんな声が聞こえた気がした。

 そして、最後に、力強くサムズアップの形を作ると。

 光の渦と共に、すうっと静かに消えていった。


 光が収まり、トイレには静寂が戻った。

 便器の中には、もう何もない。

 いつも通りの、ただの水が溜まっているだけだった。


 一瞬の沈黙。

 そして。


「「「「うおおおおおおーーーーーっ!!!」」」」


 子供たちの、そして鈴木先生の歓声が、夜の校舎に響き渡った。

 てっちゃんは、無事に家に帰ったのだ。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 翌日、西校舎三階のトイレから「故障中」の札が剥がされた。

 手はもういない。けれど、ケンタたちの心の中には、確かに「てっちゃん」という友達がいた証が残っていた。

 少しだけ寂しいけれど、胸は温かい。


「なあ、夏休みの自由研究、決まったな」


 聡がにやりと笑う。


「『異次元コミュニケーションと友情の可能性について』だな!」


 ケンタも笑って返した。

 大樹は腹を抱えて笑った。


 その日から、西校舎三階のトイレは「てっちゃんのトイレ」と呼ばれるようになった。怖い場所じゃない。少し不思議で、大切な友達がいた、特別な場所として。

 子供たちはトイレを使うたび、時々、便器の中をのぞき込む。

 もしかしたら、てっちゃんがひょっこり「やあ!」と手を振ってくれるんじゃないか、なんて期待しながら。


 もちろん、てっちゃんが再び現れることはなかった。

 けれど、水を流す音が聞こえるたび、ケンタたちは思うのだ。この音は、どこか遠い世界で元気に暮らしている友達からの、挨拶なのかもしれない、と。



 -了-

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