音楽会1
音楽会当日、私はドレッサーの前で何度も自分の姿を確認していた。
額の傷はふさがり包帯は取れたけれど、傷痕は結構目立った。
だから朝食のあとで、ピアがハサミで私の髪を切って前髪を作り、傷痕を隠してくれた。
今着ているドレスは落ち着いたデザインと色味で、私の紫色の瞳にも合っている。
ただ、このまっすぐなミルキーブロンドと前髪が、麗しいお義兄様の隣に立ったときに子どもっぽく映らないか少し心配だ。
いつもは音楽会へなど行くことのないエドガーお義兄様が、ロヴェット家の評判を回復するためにわざわざ私と出席してくださるのだけど……これで大丈夫かしら?
いきなりノックの音がして、椅子から飛び上がりそうになった。
「ライサ、用意はできたか?」
「はっ、はい、お義兄様!」
急いでドアを開けるとお義兄様が立っていた。
最近は屋敷の中で当主代理の仕事をこなすためのラフな服装しか見ていなかったので、きちんとした外出着姿の格好良さに、思わず目が吸い寄せられてしまう。
そのお義兄様に私の前髪をじっと見つめられ、頬が熱くなった。
やっぱり子どもっぽかった……?
「な、何かおかしいでしょうか?」
「いや、問題ない」
問題ない?
…………そっか。よかった、問題なくて。
私はほほえみを浮かべた。
堅物のお義兄様にとっては、きっと「問題ない」は最大級の褒め言葉に違いない。そう思っておこう。
馬車が出発した。
隣には一人分の空間を空け、お義兄様が座っている。
横顔もびっくりするほど整っていて、気を抜くとつい目がそちらへ行ってしまう。
いつもはガードが固く社交場に一切姿を見せない、麗しき次期侯爵エドガー・ロヴェットが出席するのだから、今日はさぞ女性たちが色めき立つだろう。そしたら私はお義兄様のもとに集まった女性たちに、ロヴェット家には何も過失のないことを説明して──
音楽会でのことを考えていたら、突然名を呼ばれた。
「ライサ」
「はい」
「おまえのことだから『会場に着いたら集まっている人たちに事情を説明しよう』と考えているかもしれないが、それは逆効果だ」
「……お義兄様は私の考えが読めるのですか?」
「……やはりそうだったか」
私が目をぱちくりさせると、彼は眉根を寄せた。
それからお義兄様は私に向き直り、こういった場合にどうふるまえばいいのかを詳細にレクチャーしてくれた。
◇
本日の音楽会の主催であるロック男爵家は、事業で頭角を現して爵位を得た新興貴族だ。
王都中心部からやや離れた場所にあるとはいえ邸宅はとんでもなく広く、巨大なシャンデリアがいくつもきらめく大ホールに、大勢の客と当世一流の豪華な楽団を呼んでいる。もちろん飲み物や食べ物もお金に糸目をつけずに用意されていて……よしよし、ロヴェット家の領地産のワインもたくさんサーブされていて、人気みたい。
見慣れたワインのラベルを見つけたのはうれしかったけれど、私はこういう場にはまったく慣れていない。
社交界デビューの前に聖女になり、神殿に入ってしまったからだ。
着飾った人たちや場の雰囲気に、どうしても圧倒されてしまう。
そんな不慣れな社交の場であるにも関わらず、私たちが人々から浴びる注目はすさまじかった。
まだ結婚式の記憶も新しいというのに、もう離婚したロヴェット家の養女がのこのことやって来たのだ。
さらに、エスコートしているのは社交嫌いで有名なロヴェット家次期当主。
いやがおうにも視線を集め、あることないこと噂される。
「ライサ・ロヴェット様よ。彼女、怪我をしたせいで聖女の力を失って離縁されて出戻ったのですって。お気の毒に」
「あら、わたくしは夫に愛人がいることに腹を立てて、自分で階段から飛び下りたと聞きましたわよ?」
「まあっ! 田舎の騎士家で育ったという養女ですものねえ。向こう見ずなことをしてもおかしくないですけれど、王族に近いケンドリック家を虚仮にするのはいかがなものかと思いますわ」
「まったくですわ。養女を突き返されてすんなり離婚を受け入れるなんて、ロヴェット家もずいぶんケンドリック家に対して弱腰になったものだと思ってましたけど……そのような娘では仕方がないかもしれませんわねぇ」
「本当にそうですわねぇ……それにしても彼女、今日は新しい夫候補でも探しに来たのかしら?」
「あら、もう? こう言っては悪いですけれど、うちの息子の嫁にはちょっと……」
「うちだって同じですわ」
声をひそめる気もない無責任な噂話と、高みの見物からの上品な笑い声。
大きく口を開けたワニの群れの中に放り込まれたような気分だった。
羞恥や怒りや悲しみがないまぜになって襲ってきて、体が強張る。
カラン、と隣で涼しげな音がした。
氷の入ったレモネードのグラスを、お義兄様が私に差しだしてくれている。
「気にするな」
「……ありがとうございます」
グラスを受けとり、周囲の視線が突き刺さる中、できるだけ上品に飲んだ。
冷たくて甘いレモネードが、心までクールダウンしてくれる。
お義兄様は空になった私のグラスを恭しく受けとり、下げてくれた。
なんだかまるで、自分がとびきりのレディになったような錯覚をしてしまう。
こんな風に男性にエスコートされたことなんて初めてなので、そわそわと落ち着かない。
さらにお義兄様は私の耳元に口を寄せ、囁いた。
「そろそろ反撃開始だ」
「はい」
そうだ、動揺してる場合じゃない。家の汚名を雪げるチャンスなのだから、集中しなければ。
何をすればいいのかは馬車の中で予習済みだ。
お義兄様と私は、本日の主催者であるロック男爵夫妻の近くへ行き、挨拶の列に並んだ。
順番が来ると、男爵は私たちを見てうれしそうな笑みを浮かべた。
「これはこれは、麗しいロヴェット家のご義兄妹に来ていただけるとは光栄ですな」
「こちらこそ、素晴らしい音楽会へお招きいただきありがとうございます」
エドガーお義兄様は優雅にお辞儀をした。私もドレスの裾をつまんでカーテシーをする。
「義妹のライサは不幸な結婚で心身ともに消耗しておりましたので、音楽で心を癒やす機会を与えてくださったことに感謝いたします」
「ええ、お話はお聞きしましたわ。ライサさんはひどいお怪我をしたとか……お具合はいかがですの?」
心配そうな男爵夫人の言葉に、周囲の貴族が耳を澄ませる。
皆、離婚の詳細を知りたくてたまらないのだ。
私は眉を下げ、男爵夫人に微苦笑を向けた。
「ご心配いただきありがとうございます。足を滑らせて、大階段から落ちてしまって……あのときは本当に怖かったですわ」
男爵夫妻と周囲で話を聞いている貴族たちから、次々に同情のため息がこぼれた。
エドガーお義兄様から伝授された作戦その一、〈同情を買う〉は成功したようだ。
子どもの頃から木登りをしていた私は何度も高い所から落ちたことがあるのだけど、その話をする必要はないらしい。モニカに突き落とされたかもしれないということも、裏が取れていないのでまだここでは言わない。
おしとやかな貴族女性のフリをすることに少々違和感を覚えながらも、これも家のためと、私は控えめな声音で話を続けた。
「……幸い怪我は良くなったのですが、塞ぎ込みがちだった私を、こうしてお義兄様が素敵な音楽会へ連れ出してくださったこと、本当に感謝しております」
そう言って義兄を見上げた。
すると、彼は私の背中に手を回し、顔を近づけて甘い笑みを浮かべた。
見ている女性たちが頬を染め、ざわつきだす。
エドガーお義兄様はその距離のまま、私に優しく言った。
「大事な義妹のためだ。これぐらい当然だろう?」
ひぇっ……近いです、お義兄様……!
打ち合わせになかったアドリブに、この場にいるどの女性より、私が一番頬を真っ赤に染めていた。




