失われた力1
「……ライサ様! よかった、お目ざめになったのですね……!」
目を覚ますと、枕元でメイドのピアが涙目になっていた。
「ピア……私は……?」
「ライサ様は大階段から落ちてお怪我をされ、高熱を出されて、二日ものあいだ眠ってらしたのですよ」
「二日…………」
額に鋭い痛みを感じた。思わず額に手を伸ばすと、包帯が巻かれていた。その包帯ごしに触れただけでもズキズキと傷が痛む。
ピアが言いにくそうに口を開いた。
「ケンドリック家の医師が手当てをしたのですが……手すりで額を切ってしまっていて傷が深く、痕が残るかもしれないと……」
「……そう。スタンリー様はなんと?」
「えっと……」
その反応で、ろくなことを言われていないとはっきりわかった。きっと、お見舞いにも一度も来ていないんだろう。
「ライサ様のお怪我のことは、すでにロヴェット家にも連絡しました。勝手なことをして申し訳ございません」
「……わかったわ。ありがとう」
「あたし、厨房でお水と果物をもらってきますね。すぐに戻ります」
ピアが部屋を出てしばらくすると、ドスドスと足音がして、スタンリー様が入ってきた。機嫌の悪そうな顔をしている。
「ようやく起きたのか。たいした怪我でもないくせに、おおげさなやつだ。すぐにベッドから出て父上を癒やせ! 父上は二日前から熱で苦しまれているのだぞ!」
呆然としていると、乱暴に腕を掴まれ、ベッドから引きずり降ろされた。
額以外にもあちこち打ったようで全身が痛い。
けれど、これだけは確認しないといけない。
私は彼に尋ねた。
「スタンリー様、ケンドリック家がロヴェット家との協定を破っているというのは本当ですか?」
スタンリー様の顔色が、さっと変わった。
「……そんなはずがないだろう! 俺の家に喧嘩を売る気か!?」
俺の家。
結婚したはずなのに、いつまで経っても、ここは私の家じゃない。
わかっていたはずだけど、弱っている心にその事実を突きつけられ、重く沈んだ気持ちになる。
私はスタンリー様に手を引かれ、無理矢理ベンジャミン様の部屋へ連れてこられた。
ベンジャミン様は苦しげに薄い胸を上下させている。
彼は横たわったまま弱々しく顔をこちらへ向けた。
「……やっと来たのか……おい、なんだその包帯は? 女のくせに顔に怪我をしたのか? …………治癒は明日でいいから、今日は戻って休め」
私の口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
頭の包帯を見たとたん、ベンジャミン様の声色と目つきが心配そうなものに変わったからだ。
気位が高く頑固だけれど、少しは優しいところもあるみたい。
「……いえ、大丈夫です。すぐに治癒をいたしますね」
私はふらつきながらも彼の枕元に膝をつき、両手を合わせ、祈祷の言葉を唱えた。
「慈悲深き女神の御名において、すべての痛み、呪い、病苦が取りのぞかれんことを。聖なる紋章よ、わが願いを叶えたまえ」
────けれど、いつまで経っても両手は光らないし、温かくもならなかった。
そのまま指で空中に女神の紋章を描いてみる。
けれど光り輝く水の意匠は現れず、何の効果も生まれない。
横から見ていたスタンリー様が怪訝な顔をした。
「おい、何をしているんだ。さっさとしろ!」
もう一度最初からやってみた。
やはり、女神の力は発動しない。
どうしてなんだろう? 今までは何の問題もなくできたのに……。
もう一度やってみる。
できなかった。
私は愕然として両手を見つめ、呟いた。
「……癒やしの力が、使えなくなってしまいました……」
◇
結局、それから何度やってみても、聖女の癒やしの力は発動しなかった。
もしかしたら私は、大階段から突き落とされるという強いショックを受けたことで、聖女としての力を失ってしまったのかもしれない。
そういう事例はいくつか聞いたことがある。女神の神聖力は繊細なもので、事故に遭ったり暴力を受けたりした聖女は、その身に宿していた癒やしの力を失うことがあると。
翌日、私は朝からベンジャミン様の部屋を訪れ、枕元に膝をついて治癒を行おうとした。
けれど、やはりできなかった。以前なら両手を合わせたらすぐに白く温かな光が発現したのに、何度やっても、いくら待っても、私の手は一向に光らない。
私は部屋にこもり、神殿でしていたのと同じ修練をした。
周囲には、水を張った容器に花を浮かべた花水盤をいくつも用意した。女神パーシアが喜ぶとされているものだ。
ピアに手伝ってもらって酒や食べ物といった捧げ物もかき集め、女神を祀る儀式を行った。
そして、何時間も女神に祈りを捧げた。
次の日も、その次の日も同じことを繰り返した。
けれど何をしても、力は戻ってこなかった。
「ライサ様……少しはお休みになってください。もう四時間も同じ姿勢で祈り続けているではありませんか」
「……ピア」
心配そうな声で呼ばれて振りむくと、ピアはさらに表情を曇らせた。私はよほどひどい顔色をしているのだろう。
「でも、早く聖女の力を取り戻さないと……」
この屋敷に私の居場所など最初からない。あるのはお飾りの聖女としての役目だけだ。
ケンドリック家が事業の協定を破っているという話はスタンリー様に一蹴されてそれっきりだった。
使用人たちが何か知っているかもしれないとピアに探ってもらったけれど、海の上のことなので誰も詳しく知っている者はおらず、ただ一人知っていそうな執事のトーマスさんは非常に口が堅いので、何一つ聞き出せなかったらしい。
おそらくスタンリー様は協定を破っているのだろう。
けれど、今の私には何もできない。聖女の癒やしの力があれば、それを盾に真実を聞き出し、協定で決められた内容を守らせることもできたかもしれないのに。
聖女の力は私の唯一の武器だったのに、それすら失ってしまった。
心細くて怖くて、聖典を読むか祈るかしていないと落ち着かなかった。
そうこうしている内に、大神殿から神官が派遣されてきた。
聖女の力は、失った場合はすぐに検査を受け直すことが義務付けられている。聖女というのは社会的にかなり高いステータスであり、資格がないのにその身分が悪用されることはあってはならないから。
ケンドリック家の応接間で、若い神官が測定器を操作した。神聖力を測定するための機器で、数値はHPで表される。
彼は針を見て事務的に言った。
「HPは……ゼロですね。お気の毒ですが、あなたの中級聖女としての資格は喪失ということになります」
「……そんな……」
早くも帰り支度を始めた神官に、私は身を乗り出した。
「待ってください! もう一度測ってもらえませんか?」
「測定は一度だけと規約で決められています」
「でも、数日前まではたしかに癒やしの力が使えたんです! あの、一度失った神聖力を取り戻す方法をご存知ありませんか?」
「すみませんが、わかりかねます。それでは、ぼくはこれで」
神官は気の毒そうな表情を浮かべながら帰っていった。
◇
その一時間後だった。
何をする気も起きずにぼんやりしていたら、強いノックの音が聞こえた。
返事も待たずにドアが開けられ、スタンリー様が不機嫌そうな顔で私に告げる。
「きみが聖女の力を失ったことで、離婚が決まった。すぐに荷物をまとめてここから出ていくんだ」
「え……? そ、そんな……! いくらなんでも急すぎるのでは……」
「うるさい! もう迎えが来ているんだ、早くしろ!」
「迎え?」
「そうだ。用意ができたら応接間に来い」
ぽかんとする私を置いて、スタンリー様はなんだかとても苛立った様子で廊下を歩いていった。
同じ部屋にいたピアが両手を合わせ、輝くような笑みを浮かべた。
「離婚するのですね! すぐに荷物をおまとめいたします!」
「え、ええ……」
なぜそんなにうれしそうなの?
ロヴェット家への恩返しにも、結婚生活にも失敗した私は喜べるはずなどなく、絶望に打ちひしがれながら部屋を出て、廊下を歩いた。
応接間をノックし、ドアを開ける。
すると、目に飛び込んできたのは思いもよらない人だった。
均整の取れた逞しい長身。
眩いブロンドに、海のように深い青の瞳。
思わずため息が出てしまいそうなほど整った容貌。
仕立てのいいシャツのボタンを一番上まで留め、ベストにもトラウザーズにもしわ一つない、堅苦しいほど端然とした服装。
その男性は──
「…………エドガーお義兄様…………!?」