大切な人
ノエルが訪ねてきた翌日、私はエドガーお義兄様と二人で王都市街へ出かけることになった。
なぜか今日は二人とも、貴族らしからぬラフな服装で。
朝食のとき、私は突然お義兄様から「今日は気分転換に出かけないか」と誘われた。
なんでも、神聖力を取り戻すためにも、たまには息抜きをした方がいいということらしい。
今日も聖女の修練の予定をみっちりと詰めこんでいたので躊躇する私に、ピアがすごい勢いで「それはいいアイデアですね! すぐに用意しましょう! さあさあ!」とお義兄様の要望通りの服を用意してくれた。
そして今、お義兄様と私は王都の下町に来ている。
もちろん侯爵家の二人の外出なので、離れた場所から護衛が付いてきてはいるけれど。
私は町娘のようなワンピースに髪をゆるくおさげにして、麦わら帽子を被ったスタイル。青い聖石のネックレスは街中では不用心なので、服の下にしまってある。
お義兄様は下町で働く青年のようにシャツの袖をまくり、ダークブラウンのベストとトラウザーズを洒脱に着こなしている。
私は平民っぽい服を着ると平民にしか見えないのに、お義兄様は何を着ても高貴なオーラで格好よく着こなしてしまうのだから、美形はずるい。
自分たちの服装を鏡で見ると、故郷のサイベル伯領に戻ったような錯覚に襲われた。
騎士団の人たちは騎士爵を持っている人も多いとはいえ、非常時に備えて動きやすさ重視ということもあって、非番のときは大体こんな格好をしていたっけ。
でも、なぜ街へ行くのにこんな服を着る必要があるんだろう?
そういえば昨日、ノエルが「高位貴族は堅苦しくて息が詰まりそう」と言っていたけれど……もしかしてお義兄様も息抜きをしたいのかな?
そんな軽やかな服装で、二人で王都の街中を歩く。
お義兄様はさっきから本物の町娘たちの熱い視線を浴びているのに、本人は全然気がついていない。
「人が多いな。ライサ、俺から離れるな」
「はっ、はい」
差しだされたお義兄様の腕に、私はしっかりと手を絡めた。
いつもより距離が近くて、手も頬も熱くなる。
雑多な人たちが行き交い、たくさんのお店が立ち並ぶ王都の繁華街を、私たちは並んで歩いた。
屋台で串焼きを買って食べ歩きをしたり、露店の品物を眺めながらお店の人とお喋りしたり。
ここには、侯爵邸では考えられないほど自由でのびのびとした時間が流れている。
人ごみに疲れると、王立公園の池のボート乗り場へ行った。
ボートに乗るのは生まれて初めてだ。
先に乗り込んだお義兄様にエスコートされ、おっかなびっくり乗り込む。
木の板をたった一枚隔てた下は水だと思うと、不思議な気分だ。
ボートが岸を離れた。
ゆったりとオールを漕ぎながら、お義兄様が呟く。
「気持ちがいいな」
「はい、とても」
彼の言う通り、水面にぷかりと浮かんだボートの上は気持ちが良かった。
都会の中だけれど喧騒から離れ、穏やかな水音だけが聞こえる。
涼しい風が吹き抜けていき、見渡すかぎり平穏な風景が……遠くの空に真っ黒な雲が見えるけれど……今のところは平穏だ。
風に吹かれる私を見つめ、お義兄様が尋ねる。
「おまえの故郷のサイベル伯領でも、ボートに乗ったりしたのか?」
「えっ? ……いえ、あそこは山の麓なので……川はありましたが、流れが速くてこんなにゆったりとは……」
そこまで言って、私はふと気がついた。
「あの……もしかしてこれは、私が故郷を懐かしめるようにとのお心遣いなのでしょうか?」
サイベル伯領で、私は平民とほとんど変わらない生活を送っていた。
今日、下町の屋台で買った串焼きも、露店で買った木の実のデニッシュも、私には馴染みのある庶民的な食べ物だ。
さすがにボートは初めてだったけれど。
お義兄様は一瞬押し黙り、それからまっすぐに私を見つめた。
「……そうだ。おまえはずいぶんと故郷を大切に思っているようだったから……王都にいても、少しでも故郷と同じように過ごしてほしかった」
「お義兄様……」
心が温かな毛布でふわりとくるまれたようだった。
お義兄様のあまりの優しさにちょっと泣きそうになりながら、私はほほえんだ。
「ありがとうございます、お義兄様。でも、私は王都も大切な故郷だと思っているのですよ? お母様もお義父様も……お義兄様もいる、とても大切で、大好きな場所です」
「……そうか」
お義兄様は私を見て、美しい笑みを浮かべた。
湖水のきらめきを背景にしたお義兄様の笑顔はあまりにも眩しくて、私は心臓を鷲掴みにされた。
帽子のつばを直すふりをして、赤く染まった頬を隠す。
どうしてこんなにお義兄様は素敵なのかしら?
それに、どうして義妹の私にここまでしてくれるの?
これではまるで……デートみたい。
……いえ、だめよ。
お義兄様は義妹の私を心配して、当主代理の義務として気分転換に付き合ってくれているだけなのだから、「まるでデートみたい」なんて不真面目で不謹慎なことを考えていたらいけないわ。
それでも、この時間ができるだけ長く続きますようにと、私は女神に願ってしまうのだった。
楽しい時間はあっという間だった。
ボートを降りて王立公園を出ると、そろそろ屋敷に戻らないといけない頃合いになっていた。
残念に思いながら、以前宝石店へ行ったときに馬車で通った狭い道を、二人で歩く。
すると急に空が暗くなり、雨が降ってきた。
低い雷鳴も聞こえてくる。
思わず足がすくんだ。
「ライサ、大丈夫か?」
「はい」
お義兄様は私が雷が苦手なことを知っている。
本当は屋外にいるときに雷に遭うのは初めてで、かなり怖かった。
この辺りには避雷針なんてないだろう。
ロヴェット家の馬車を停めた場所までは、まだ結構距離がある。
雨が強くなってきた。
エドガーお義兄様は私の手を引き、近くにあるパン屋の軒先に駆け込んだ。
私の髪からぽたぽたと雨の水滴が滴っているのを見ると、彼は顔を曇らせた。
「……濡れてしまったな」
「これぐらい大丈夫です、お義兄様」
そう言ってほほえんだら、彼は黙りこみ、至近距離で見つめられた。
息が止まりそうだった。
お義兄様の綺麗な青い瞳に、私が映っている。
他のものは何も目に入らなくなり、雷のことさえ忘れてしまう。
まるでここだけが違う世界になったかのようだった。
けれど突然、荒々しい車輪の音が耳に飛び込んできた。
猛スピードで馬車が走ってくる。
パン屋の前の急カーブを雨で滑って曲がり損ねて──
こちらへ突っ込んでくる!
「ライサ!」
逃げなきゃ、と思った瞬間、ひときわ強い雷鳴が轟いた。
体が麻痺したように動かなくなる。
ドン、と音がして、私は地面に投げ出された。
車輪の音が慌ただしく遠ざかる。
体を起こすと──
エドガーお義兄様が倒れていた。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
違う──理解したくなかった。
お義兄様がとっさに私を庇い、代わりに轢かれただなんて。
私はピクリとも動かないお義兄様の前に膝をつき、体を揺すった。
目は閉じられ、意識がない。
息もしていない。
「お義兄様……」
頬からどんどん血の気がなくなっていく。
その頬を震える両手で挟み、すがるように呼んだ。
「お義兄様、エドガーお義兄様っ!」
答える声はない。
聞こえるのは、ただ雨が降る音だけ。
ずっと私を支えてくれた人。
私の一番大切な人が。
死んでしまう。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
私はどうなってもいい。
だからどうか、お義兄様を助けて。
全身全霊で、私は女神に祈った。
「慈悲深き女神の御名において」
両手を合わせ、震える声で祈りを唱える。
「すべての痛み、呪い、病苦が取りのぞかれんことを」
はるか昔、女神パーシアは無力な人間を憐れみ、大いなる慈悲の心で地上に癒やしの聖女をお遣わしになったという。
「聖なる紋章よ、わが願いを叶えたまえ」
その慈悲をひたすら希う。
カチリ、と鍵の開く音が聞こえたような気がした。
……ああ、そうか。
私はケンドリック家で虐げられたことが本当はずっと悲しくて、慈悲の心をどこかに忘れてしまっていたんだ。
身を挺して私をかばったお義兄様が、それを思い出させてくださった。
聖石のネックレスが燃えるように熱くなり。
温かな白い光が、手の中に宿った。
輝きを放つ指で、ほとんど無意識に、女神の水の紋章を宙に描く。
それは古代の人々が女神の顕現を切望して流した涙の形だと、はじめて気がついた。
そして、あたり一面、真っ白な閃光に包まれた。
しばらくは目を焼かれたように何も見えなかった。
それからだんだんと視界が戻ってきた。
お義兄様が瞼を開き、呆然とした様子で私を見上げていた。
「……ライサ」
「お義兄様っ!!」
肘をついて体を起こしたお義兄様に、私はがばっと抱きつき、貴族女性のマナーなど忘れて泣きじゃくった。
彼はそんな私を黙って抱きしめた。
しばらくして私が落ち着くと、お義兄様が指で私の涙を拭ってくれた。
端正な顔に血色が戻っている。
急に恥ずかしくなって、体を離し、姿勢を正してお礼を言った。
「馬車から助けてくださってありがとうございます、お義兄様」
彼は私の言葉にうなずき、ほほえみを浮かべた。
「おまえも聖女の力で俺を助けてくれたんだろう? ありがとう、ライサ」
「……はい」
お義兄様が喋って、笑ってくれる。
それだけでもう、叫びだしたくなるほどうれしい。
聖女の力を取り戻せて、お義兄様の命を救えて、本当によかった。
お義兄様と私はずぶ濡れのまま笑い合い、立ち上がった。
雨はいつの間にか上がり、雲間から明るい陽が差していた。




