貴族令嬢として
あれは、五年前──私がロヴェット家の養女になり一か月ほど経った頃だった。
私の故郷のサイベル伯領は、きらびやかな王都のはるか東方、辺境と呼ばれる地にある。
粗野で口の悪い騎士やその子どもたちの間でもまれ、私は学校が終わると木登りや狩り、野いちご摘みをして仲間と遊んでいた。
そんな私が、お母様の再婚にともない、王都の名門侯爵家の養女になった。
でも、たかだか一か月程度都会で過ごしたくらいで、急に令嬢らしいふるまいができるはずもない。
さすがに侯爵家の庭の木に登るのはメイド長に厳しく叱られたのでやめたけれど、急いでいれば屋敷の中でも走るし、大階段の長い手すりを滑り降りたくてうずうずしていた。
騎士の子どもなら緊急時に走るのは当然で、むしろ走らないと大人にどやされる。だから、メイド長に小言を言われても内心では反発していた。
そんな私をメイド長は早々に見放し、何も言わなくなった。
私の母ソニアも、田舎の騎士の未亡人から突然王都の侯爵夫人になり、急激な変化についていくので精一杯のようだった。
だから私にもマナーの本を二、三冊与えただけで、あとは新米侯爵夫人として必死に新生活に慣れようとしていた。
たぶん自分が先に慣れることで、故郷から一緒に連れてきた娘のことも守ろうとしていたのだろう。
今ならそれがわかるけど、十二歳だった私は、大好きな母から放っておかれたような気分になった。
それに、母が亡くなった父と故郷のことを忘れ、軽薄な貴族の色に染まろうとしているみたいで、少し腹も立てていた。
本当は、サイベル伯領にはもう私たちの居場所などないのだとわかっていたけれど。
貴族の令嬢が王立学校へ入学するのは十六歳なので、まだ先だ。
マナーの本は一度ぱらぱらとめくっただけで、机の上で埃をかぶっていた。
私は毎日庭園を散歩してカエルを捕まえたり、噴水で水切りをしたりして退屈を紛らわせていた。
ここに幼馴染のノエルがいたらいいのにな、と何度思ったかわからない。
そんなある日のこと。
突然、私は母とともに貴族のお茶会に招待された。
招待してくれた伯爵夫人の邸宅には、他にも五組ほどの母子が来ていた。
同年代の子どもたちを見て、私は委縮していた。
サイベル伯領の騎士団にはこんなお人形のような令嬢や令息など一人もいなかった。喋り方も、笑い方も、指先一つの動かし方も、全然違う。
貴族の子だろうが騎士の子だろうが、優しい子もいれば意地悪な子もいる。
そのお茶会に来ていた令嬢の一人、大きな赤いリボンをつけた子は、ちょっと意地悪だった。
飲み物を渡してくれた一人の伯爵令息とぎこちないスモールトークを交わしていた私に、赤いリボンの令嬢は、こちらを見ながら聞こえよがしに他の令嬢たちに向けて言った。
「ライサ様の発音って、ちょっと変わってません? なんだか田舎っぽいと言いますか……」
令嬢たちが忍び笑いを漏らす。
全身が茹でられたように熱くなった。大好きな故郷のサイベル伯領ごと馬鹿にされたようで、悔しくてたまらない。
だけど、この場でムキになって言い返してはいけないということ位はわかっていたので、必死に拳を握りしめながら、笑顔を作ってスモールトークを続けた。相手の令息もなんだか気の毒そうな表情を浮かべ、話に付き合ってくれた。いい子だった。
けれども、そのことが赤いリボンの子の気分を逆なでしてしまったのだろうか。
彼女はとげとげしい言葉を放った。
「ライサ様のお母様はご自分で剣を振るうんですって。わたくしたちも気をつけないと、獣と間違えて斬られてしまうかもしれませんわね」
私はカッと頭に血が昇り、振りむきざまに大声で叫んだ。
「母上を馬鹿にするな!」
その場が静まり返った。
全員から注目を浴びた私はひどく戸惑った。
一人の令嬢が、怖がってしくしくと泣き出した。
母親たちが自分の娘をさっと私から遠ざける。
話し相手をしてくれていた令息も、彼の母親にどこかへ連れていかれた。
離れた場所で主催者の伯爵夫人と歓談していた私の母も、何が起きたのかと驚いてこちらを見ている。
私は動揺していた。
泣かせるつもりなんてまったくなかった。
私はただ母の名誉のために言い返しただけで、騎士団ではこれが普通だ。
喧嘩を売ってきたのだから、当然、相手も同じように言い返してくると思っていたのに……。
(な、なんであれぐらいで泣くの? なんで言い返してこないの?)
騎士団と違い、貴族は面と向かって怒鳴り合いの喧嘩などまずしない。すべては水面下でひそやかに行われる。
当時の私はそんなことも知らなかったのだけど、自分がこの状況を作ったことは明白だ。
自分のドレスの裾を握りながら、勇気を振り絞って謝った。
「……ごめんなさい」
けれど、誰もそれには答えず、お茶会はお開きになった。
ロヴェット家の屋敷に帰ると、私は母にこんこんと諭された。
「昔から、郷に入っては郷に従えと言います。あなたはもう侯爵家の養女となったのですから、侯爵令嬢らしくふるまわねばなりません。それができなければ、ロヴェット家の名を汚すことになるのですよ」
「ですが母上……」
「『お母様』と呼びなさい」
「……はい」
疲れたようにため息をつかれた。
どうして赤いリボンの子と揉めたのかは、母にはとうとう言わずじまいだった。
侯爵夫人の仕事で忙しい母は、私を気にしつつも、執事に呼び出されてどこかへ行ってしまった。
令嬢らしいふるまい方など、十二歳にもなって、今さら誰にも聞けない。
メイド長にはとっくに愛想を尽かされてしまっている。屋敷の中なんて走り回らなければよかった。自業自得とはこういうことを言うんだろう。
マナーの本は小難しい上に堅苦しすぎて、ちっとも頭に入ってこない。
だから私は義父の許可を得て図書室から物語の本を数冊持ち出し、庭園のバラの木に隠れるようにして、一人でそれを音読した。
「ご、ごきげんうるわ……しゅう……? わたくしは、あなたさまを……お慕い、申しあげて……」
駄目だ。
イントネーションも意味もよくわからない。
でもとにかく形だけでも……。
必死に練習していると、いつの間にか辺りが暗くなっていた。
ガサッ、とすぐ近くで足音が聞こえ、私は震えあがった。
庭園は広くて、お屋敷は遠い。
足音がさらに近づいてくる。
不審者だったらどうしよう?
私は本を抱いて息を殺した。
いざとなったらこの本で殴りつけて……。
「ライサ、ここにいたのか」
バラの木の陰から現れたのは、私の義兄のエドガー様だった。
もう王立学校に入学して寮生活をしているのだけど、そういえば連休に入ったので帰ってくると聞いていた。
彼は私が握りしめている本を見て尋ねた。
「……何をしていたんだ?」
安心したのも束の間、あれを聞かれていたのだと顔が熱くなる。
エドガー様は生粋の大貴族だ。
マナーは完璧だし、剣技も強いと評判なのに挙措は洗練されていて優雅だ。
そんな人に何をしていたか説明するのは非常に恥ずかしかったのだけど、わざわざ捜しに来てくれた義兄を誤魔化すこともできず、私は赤面しながら事情を話した。
でも彼は少しも馬鹿にしたりはせず、すぐに家庭教師を手配すると言ってくれた。
そのあとで、真面目な顔で付け加えた。
「気がつかなくてすまなかった」
私はふるふると首を横に振った。
ほっとして泣きそうだった。
優しい言葉をかけてもらったせいか、ぽろりと弱音がこぼれた。
「……私も……他の令嬢みたいになれるでしょうか……」
何を言ってるんだ、なれるかなれないかじゃない、なるんだ──と、騎士団だったらどやされたかもしれない。
けれど、エドガー様はかがんで私と目線を合わせ、真摯に答えた。
「おまえには向上心がある。望む場所があって、正しい努力をすれば、おまえは必ずその場所へたどりつける」
その言葉は、真っ暗だった私の心の中に、光を灯してくれた。
私にもできるかもしれない。
ロヴェット家の名に恥じない侯爵令嬢に、なれるかもしれない――
彼が言った通り、日を置かずに数人の家庭教師がつけられ、私はマナーや教養、ダンスなど、貴族令嬢に必要なことを毎日みっちりと教わった。
それからしばらく経ち、次にエドガー様が学校の寮から戻ってきたとき。
出迎えた私は思い切ってドレスの裾をつまみ、猛特訓したカーテシーを披露した。
「おかえりなさいませ、お義兄様」
「ただいま、ライサ」
お義兄様はお返しのように、レディを相手にするような優雅なお辞儀を、私にしてくれた。
とろけるようなほほえみと一緒に。
ドレスを着た私の胸に、誇らしさとうれしさがいっぱいに広がった。
みるみる令嬢らしくなっていった私に、メイド長は恭しく接してくれるようになった。
他家からのお茶会やお食事会の誘いも少しずつ増えていった。
十五歳になる頃には、私はすっかりロヴェット家の養女として貴族社会に溶け込んでいた。
すでに気の早い求婚の申し込みがいくつも舞い込んでいて、その中には初めてのお茶会で話相手になってくれた令息の名前もあった。
けれどもその頃には人よりも高い神聖力があることがわかっていた私は、王立学校には入らず、聖女になることを決めていた。
パーシア教が絶大な影響力を持つこの国で、ロヴェット家はこれまでに何人もの聖女を輩出しているし、聖女になれば私もロヴェット家の一員としてもっと胸を張れる気がした。
それに、お義兄様の亡きお母様も聖女だった。
だから聖女になれば、私もほんの少しだけ、お義兄様のいる場所に近づけるような気がしていたのだ。
十二歳のときからずっと、エドガーお義兄様は、私の憧れの人だ。
お読みいただきありがとうございます!
赤いリボンの令嬢は、ライサが話していた令息のことが好きで、意地悪をしてしまったのかもしれません。




