気に食わない男(スタンリー)
「ねえスタン、早く結婚許可証を手に入れて」
「ああ、今手配しているところだよ」
俺の腕にからみついてくるモニカに優しく答える。
実際はまだ手配していないが、そのうちするのだから、どうせ同じことだろう。
ただ、正直なところ男爵令嬢でしかない彼女と再婚するのには二の足を踏む。ライサという障害があったときはわりと本気でモニカと再婚しようと思っていたのだが、聖女の力を失った妻と離婚した今、このまま自由な独身でいたいという思いの方が強くなった。
一方のモニカは、愛人状態に眉をひそめたり小言を言ってくる家族や友人に、早く自分が侯爵夫人になったところを見せつけて自慢したいようだ。
俺はそんなくだらないことはどうでもいいのだが、彼女の褐色がかった肌は柔らかく、甘えるようにこちらを見上げる大きな瞳は蠱惑的で、耳元で囁かれるとなんでも叶えてやりたくなる……まあ、一人になると我に返るんだが。
げっそりとやつれて頬のこけた父上が、俺たちのいる居間へ怒鳴りこんできた。
「スタンリー、今すぐその女を追い出して、あのロヴェットの聖女を連れ戻せ!」
ああ、またか。
俺はうんざりしながら答えた。
「父上、今さら何を言ってるんです。ライサとはもう離婚したのですよ」
「わしは認めておらん! 貴重な聖女をみすみす離縁し、ロヴェット家に返してやるとはなんと愚かな……うちに置いておけば、力はおいおい戻っただろうに」
「ですから、他の聖女を呼べばいいではないですか」
「あの女でなければ、わしの病は癒やせんのだ!」
先日も、煩くわめき散らす父上のために俺は大金を積んでライサと同じ中級聖女を屋敷に呼び、父上を治癒させた。
だが父上は「違う! この女では駄目だ!」と勝手にその聖女を追い返してしまった。
値も張ったし、せっかくコネを駆使して呼んでやったのに……。
癒やしの力なんて、どうせどの聖女も一緒だろう。毎日ライサの顔を見ていたから情が移ったのか? 猫の子じゃあるまいし、勘弁してくれ。
父上はたしかに高貴な血筋だ。そのおかげで息子の俺もちやほやされる。
それはいいのだが、ライサが出ていってから「あの女を連れ戻せ」と毎日のように命じられるのにはほとほと困り果てていた。
モニカもいつも通り嫌そうな顔をしている。
だが空気など読んだことのない父上は、さらにまくし立てた。
「しかも、わしに黙って勝手に協定を破り、ロヴェット家の恨みを買うなど浅はかなことをしおって……おまえはあの家の執念深さを知らんのだ。どんな仕返しをされることか……」
俺はムッとした。
ロヴェット家の嫡子エドガーは、俺よりも二つ年下のくせに、王立学校の中等部の頃からすでに俺を学力でも体力でも上回っていた。
しかも去年、俺を差し置いて神殿騎士に任命された。今年に入ると筆頭神殿騎士となった。腹の立つことに、あいつがオーレリア王女の婚約者になるという噂まで聞くようになった。
そんなのは何かの間違いだ。俺の方が上のはずだ。
ケンドリック家が、ロヴェット家に負けるはずなどないのだから。
子どもの頃から、わが家と同程度の家格の侯爵家であるロヴェット家は、目の上のたんこぶだった。
家門の古さも同じ、財産も同程度、社交界での立ち位置も似てる、王の覚えもだいたい平等のあの家とは、もう何十年も前から仲違いをしていて険悪だ。
特に父上はあの家を目の敵にしていて、俺は幼い頃から「ロヴェット家にだけは負けるな」と言い聞かされて育ってきた。
俺がライサ・ロヴェットと結婚しようと思ったのも、その刷り込みがあったからかもしれない。
大神殿で偶然見かけたライサはまあまあ綺麗だったし、あれなら俺の妻にしてやってもいいと思った。聖女の力で父上の病も癒やせるし、ついでに事業の協定を結んでおけば莫大な利益も得られる。
別に真面目に結婚生活を送る必要はない。俺は侯爵家の正当な後継者だが、あっちは後妻の連れ子で養女だ。お飾りとして適当に扱い、俺はモニカとよろしくやっていればいい。表向きだけでも侯爵夫人になれるのだ、それだけでも田舎騎士の娘なんかにはもったいない話じゃないか。
そして裏では、ライサは俺の愛人に虚仮にされ、ロヴェット家と結んだ協定はバレないように破る。
エドガーにはいい面の皮だろう。
──ふと、この屋敷を出ていくときのライサの顔が目に浮かんだ。
常に仏頂面のエドガーの横で、この世の終わりみたいな悲愴な顔をしていた。
俺と離婚するのがそんなに辛いのかと、あのときはちょっと引き留めそうになった。
嫉妬深いモニカのせいで初夜すらなかったが、可哀想なことをしたかもしれない。
エドガーに無理矢理連れ帰られ、それっきりになってしまったが──
「おい、スタンリー! 聞いとるのか!」
父上の声で、はっと我に返った。
「はい、父上……と、とにかく、協定がなくともわが家の海運業は順調ですし、農業などという時代遅れなものに力を入れるロヴェット家を恐れる必要はありません。せっかく育てた養女も聖女の地位を失い、わが家に離婚をつきつけられ、今はさぞ社交界での評判も地に落ちたことでしょう。はっ、あの偉そうにふんぞり返ったエドガーの泣きっ面を早く見てやりたいものです」
部屋の隅に控えている使用人たちが、俺の言葉を聞くと意味ありげに目を見交わした。
……なんだ? 使用人は耳が早いから、もうロヴェット家の株が下がったという噂でも聞いたのか? それにしては顔つきが辛気臭いが……いや、使用人などどうでもいいか。
父上が苦しそうに背を曲げた。
「父上、もうお部屋にお戻りください。おい、トーマス! 父上をお連れしろ」
ワインを片手に執事を呼び、父上を部屋へ連れていかせた。
その後ろ姿を見ながら、やれやれとグラスを呷る。やたらと美味いワインで、最近の俺のお気に入りだ。
そのワインがロヴェット家の領地特産のもので、格別に美味しいと巷で大人気だということ。
そして、社交界での評判を落としているのはわがケンドリック家の方だということを、そのときの俺はまだ知らなかった。