表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

第六話「三宅という女」

 全員が三本目までを引き終え、現在、黎誠高校、十五射「十三中」。開進は、十五射「十四中」。開進が一本リードしている。

 そして今、姫木さんが三本目も的枠に中てた事により、会場は大きなどよめきが起きていた。先ほどまで静まり返っていた会場とは思えないほどに、ざわついている。これでは、とてもじゃないが黎誠の御前は集中することは出来ないだろう。

 案の定――


 ――ドスッ


 その矢は的を大きく外れた。

 御前は下唇を噛みしめつつ、四本を引き終え退場した。

 姫木さんの言っていた通り、黎誠の一人は“死んで”いた。

 その後、黎誠は二番も外し、中(三番)と落前(四番)は的中させた。ここまでで合計「十五中」となり、残すは三宅さんの一本だ。

 対して開進は、ここで大きく崩れてしまった。皆中コースだった佐藤先輩、桜井先輩、高柳先輩の三人が、立て続けに外してしまった。大塚先輩が外すと、敗退となってしまう。つまりそれは、姫木さんの弓道人生にピリオドが打たれるということを意味する。

 わたしは矢田先輩を振り返った。すると目が合った。矢田先輩は神妙な面持ちで、こくり、と頷いて見せた。言葉には一切出なかったが、きっと、「信じよう」と言っているのだろう。わたしも、こくりと頷いて返事をした。

 大塚先輩は現状を把握しているのかいないのか、高柳先輩が引き終わってもまだ打起しをしておらず、どこか難しそうな顔で空を眺めていた。姫木さんは大塚先輩をじっと見つめたまま、首の体操をさせる様に頭を左右に振っていた。

 そこに快音が響いた。


 ――パァン!


 黎誠の最後の一本、三宅さんの放った一矢だ。的中したらしく、となりの黎誠の部員たちからは優位に立ったことで、安堵の声が上がっていた。開進は、大塚先輩と姫木さんの二人とも、的中させる必要がある。

 良くて同点、悪くて敗退、ということになる。同点の場合は競射(再度五人で、ひとり一本ずつ引いて、その合計で勝敗が決まる。同点の場合は繰り返し、勝敗が決するまで行われる。)が行われる。

 大塚先輩は三宅さんの的中音で目を覚ましたらしく、はっとして慌てて打起した。そんなに焦って中てられるのかは不安だったが、緊張感のない表情でさっくりと引いて、さっくりと中て、小さくガッツポーズを決めると、厳か(なフリ)に退場した。大塚先輩は退場した先で、佐藤先輩たちに頭をくしゃくしゃにされているのが見えた。“ここぞの一本”を決めたことで、称賛を浴びているのだろう。

 そしてただ一人、射場に残された姫木さんは、通常であれば的を見ながら打起しをするのだけど、真正面を見たまま静かに打起した。打起しが終わり、そこで初めて、ゆっくりと的を見た。その動作に、どのような意図があるのかは分からないけど、きっと何か意味があるのだろう。

 大三、引分け、そして会。

 姫木さんが引く姿は、これまでの異例の連続的中も相まってか、会場にいる全員が注目していた。今度はどこに中てる気だろう、まさか――

 姫木さんが離れた直後、またしてもあの音が鳴り響いた。


 ――カァン!


 その瞬間、会場は盛大に盛り上がった。


「おおお! また的枠、最後は前か!」

「すげぇー! 狙ってるだろあれ!」


 姫木さんの矢は、三時方向の的枠に刺さっていた。

 姫木さんはさらに皆中ということもあり、会場から大きな拍手を送られた。恐らく、姫木さんのファンが生まれたに違いない。

 どんな人が姫木さんのファンになったのかと、拍手を送る人たちを観察していると、対面の矢上げ道で観戦していたひとりの女の子が目に入った。その子だけが、拍手をしていなかった。

 周りの色づいた空間から、その子一人だけが放り出されたみたいにモノクロに浮いて見えた。一見何も考えていなさそうな、呆けた眼差しではあったが、真っすぐに射場を見つめていた。きっと姫木さんを見ていたに違いない。

 ……何だか少し寂しそうな、静かな目をしている。

 その子を見ていると、空いた隣の席に矢田先輩が移動してきた。

「危なかったねー、“つかっち”が外したら終わってたよ……ん、どうした?」

 わたしの視線に気付いたらしく、矢田先輩もそちらを見た。

「いえ、あそこにいる人だけ、拍手してなくって。ただ拍手とかいちいちしない人なのかなとも思ったんですが、姫木さんの事まっすぐ見てて」

 わたしがそう言うと、矢田先輩は教えてくれた。

「ああ、あの子。煌永こうえい学園の九条夜くじょうよるよ。あの子も中学から弓道をやってて……っていうか、いつも弓具買いに行く“九条弓具老舗”あるでしょ。あそこの娘さんよ」

 そう言われて、道場へ行く道すがら、毎日通る弓具屋さんを思い出した。何か必要な物があれば、道中立ち寄る弓具屋さんだ。わたしが「ああ、あそこの」と言うと、矢田先輩は続けた。

「あの子、中体連での県大会で、決勝で文とやりあった仲なのよ。結局文が勝ったんだけど、三人チームで当時お互いに落だった二人は、競射で勝負矢(その一本で勝敗、または同点が決する矢。外せない一本。)を決め続けたの。前の二人は中てたり外したりだったんだけど、なんとその二人は、二十一本も中て続けたの」

「に、にじゅういっぽん!? ――っ!!」

 思わず大きな声が出てしまい、咄嗟に自分の口を両手で塞いだ。そして塞いだまま、少しだけ隙間を開け、「それで、どうなったんですか?」と聞いてみた。

「集中を切らしたのか、二十二本目で煌永のあの子が矢こぼれしてね、矢は頬で戻したんだけど、的下に蹴って(的枠に弾かれて外れる事。)、文がその一本を決めて終わったわ。射型の綺麗な子だったんだ」

 煌永学園と言えば、八代にある弓道名門の高校だ。先日行われた市内大会と同大会の、八代の地区予選は煌永が優勝したと佐藤先輩が言っていた。県大会、九州大会と駒を進め、きっと国体本線へと出場するのだろう。

「……そうなんですね」

 その子を見つめつつそう返事すると、矢田先輩は的中表の冊子に目を落とし、パラパラとめくり始めた。

「そう言えばー、……あった。ほら、黎誠に勝ったら、ちょうど次に当たるの、煌永だよ」

 そう言って、冊子のトーナメント表を見せてくれた。

 矢田先輩の指が置かれたところに目をやると、そこには、「こーえー」と、金魚の糞みたいな手書きの文字が、「かいしん」という文字の二つ隣に這っていた。そしてその「こーえー」の文字の伸ばし棒はかわいい蛇で描かれており、ちっちゃい舌をぴょろぴょろと出していた。十中八九、大塚先輩が書いたに違いない。

 大塚先輩のちょっとした遊び心に頬が緩む。そのまま顔を上げ、再度九条さんとやらがいた方を見るが、その姿はもうなかった。きっと、控えに向かったのだろう。どれだけすごい人かは、この後の立で見せてもらおう。


 そうこうしていると、早速競射が始まった。黎誠の御前から順に、姫木さんまでの十人が厳かな摺り足で入場した。

 そして射位に並ぶ。

 競射の為、全員、その手に持つ矢は一本のみ。その一本の重みが、今までのそれとはまるで違う。

 会場はしんと静まり返っている。肌を撫でる風の音が聞こえそうなほどだ。

 黎誠の御前と、佐藤先輩が打起す。弓を引き絞る音、捻りをきかせる音までもが聞こえてくる。誰もがその二人に注目している。


 ――ビュン


 ひと際大きく聞こえたその音は、黎誠の矢音だった。直後――


 ――パァン


「よぉし!」

 黎誠の応援が響いた。会を持つ佐藤先輩が、その空気に飲まれていなければいいが……。

 佐藤先輩は眉ひとつ動かさず、狙いを定める。そして、離れ。


 ――パァン


「よぉし!」

 佐藤先輩さすが! わたしは手に持っていたハンドタオルを握りしめ、その手を胸元にぎゅっと抱いた。一本決まるだけでこんなにも熱くなるなんて、競射はわたしが思い描いていたよりもはるかに高揚するものだった。

 いま射場にいる十人は、それぞれの学校で、部員同士で切磋琢磨し、精神を鍛え、腕を磨き、自分自身を乗り越え、出場の切符を手にした心の強い人たちなんだ。それはだれひとりとして、欠かす事のできない登場人物……いや違う、そんな軽いものじゃなく、もっと重要な何か。


 うん、きっとこれだ。色んな苦難を乗り越えて、激しいメンバー争奪を勝ち残って、そしてこの場に立っている人たち。この表現が相応しい。


 ――全員が主役。


 それは御前だろうと二番だろうと、その立位置は関係ない。それぞれがその場所を守らなければいけない、責務を胸に立っている。

 黎誠の人も敵ではあるが、わたしから見ると、みんな輝いて見えた。

 それはきっと、これまでのドラマがそうさせたのだろうと思う。他校の三年生が、どんな弓道人生を歩んできたかなんて知る由もないけど、きっと、素晴らしい物語を紡いできたんじゃないかなと、そう思える。

 わたしもいつか、こんな風になれるのだろうか。


 ――ドスッ


 乾いた音が、わたしを現実に引き戻した。はっと意識を射場に戻すと、黎誠の二番が残心に入っていた。外したらしかった。

 その結果は喜ぶべきとは思われたが、この人にもこの人の物語があるのかと考えると、心境が迷子になってしまった。「あなたも頑張った、あとは他のメンバーを信じて」と心打ち、それ以上に「開進のみんな、負けないで!」と、気持ちを風に託した。


 ――パァン


 静かな射場に快音が響いた。

「よぉし!!」

 わたしはお腹から声を張り上げた。桜井先輩、的中! 残心を終え、厳かに退場する。

 これで一対二で優位に立った。心にゆとりがある分、そこに隙入すきいよこしまな何かがなければいいが……。

 わたしは射場のメンバーを見つめ、心から祈った。


 ――みんな、どうか負けないで。


 すると左肩に、“ズサッ”と重みが掛かった。そちらを見ると、浜本さんが「はあ……はあ……」と息を切らし、わたしの左肩に寄りかかっていた。

「ちょ、ちょっと大丈夫!?」

 そう声を掛けると、浜本さんは虚ろな目でわたしを見上げ、か細い声でこう言った。

「し、進藤弓さん、ごめんなさい。ちょっと……このプレッシャーのせいか、貧血気味で」

「そ、そうなの。無理しないで。シートで休む? 連れて行こうか?」

 わたしが言うと、浜本さんは俯きながら首を横に振った。

「いいえ、大丈夫です。わたくしもメンバーの一員ですので、退場するわけにはいきません。一緒に……戦います」

「――!」

 そう言われてハッとした。そして背筋に、ぞわぞわっと素早い何かが走り、両腕に鳥肌が立った。

 そうか、応援席のわたし達も“メンバー”なんだ。全員が、開進弓道部の“選手”なんだ。

 そう思うと、先ほど、隣の黎誠の子たちの応援に圧倒された事を思い出した。圧倒されたのは、隣にいたわたしだけではないのではないか? それは、射場にいた先輩たちも同じなはずなのでは。という事は、わたしたちの応援だって、射場にいる黎誠の人たちを圧倒できるはず。

 それに、圧倒できなくったって、気持ちを届けることが大事なんだ。浜本さんの言った「一緒に戦います」というセリフ――彼女はきっと気持ちは射場に立っていて、一緒に弓を引いているのかもしれない。

 陸上部の時は、応援席にいたって自分の声なんてどうせ聞こえないだろうから、そこそこにしか応援していなかった。でも、気持ちを全面に出す事で、相手を圧倒し、味方の背中を押してあげる事ができるのかもしれない。


 ――なんだ、部活って、結構熱いじゃん。


 ――ドスッ


 安土に矢が刺さった。的前にかすめた、高柳先輩の矢だ。「ドンマイ!」と、声を大きく出したかったが、注意されてしまうことは目に見えていたので控えた。その代わり、次に引く大塚先輩をじっと見つめ続けた。――こっちを見て下さい。

 思いが通じたのか、口を尖らせてどこか遠くを眺めていた大塚先輩がこちらを見た。

 わたしは、「大塚先輩ならきっと大丈夫です、みんなで応援していますから!」という意味を込めて、両手を胸に握りしめ、大きく“うん”と頷いて見せた。すると大塚先輩は、弽をはめている手で、グッと親指を立てて“んふー”っと犬みたいに笑って見せた。

 いい意味で、全然プレッシャーを感じていない。度胸がある。単純にそう思った。

 そんな大塚先輩の行動があってか、“彼女なら中ててくれる”という不思議な安心感があった。

 にまっと笑っていた表情から一変し、きゅっと顔が引き締まった。

 打起し、ゆっくりと引き分けてくる。大塚先輩も、射型は綺麗な方である。両肩は綺麗に一文字を描き、縦線も真っすぐに伸びている。会に入り、静かな時間ののち――びゅっと離れを切ると、彼女の大きな三つ編みがひゅんと跳ねた。


 ――パァン


「よぉし!!」

 わたしは今までで一番大きな声を出した。寄りかかっていた浜本さんの体が、ぴくりと揺れた。

「あ、ごめん、驚かせちゃった?」

「ええ、とても大きな応援で、少々驚きました」

「わたしも、一緒に戦いたいから」

 そう言って、浜本さんに微笑んで見せた。

「みんな、心はひとつです。勝ちましょう」

 浜本さんは体を起こし、「ふぅ」と息をついて、持っていたハンドタオルで額を拭った。そして改めてこちらを見ると、ニコっと優しく微笑んだ。

 応援席の熱もそのままに射場に目をやると、黎誠の四番が快音を響かせた。

「よぉし!」

 相変わらずの大きな応援だ。単に人数が多いようにも思えるが、わたしたちだって負けていられない。

 残すは、三宅さんと姫木さんの直接対決だ。黎誠の落か、開進の落か。

 会場は静かではあったが、若干ざわついていた。次の一本はどちらも外せないということもあるのだろうが、なんせ最後に引くのがさっきの立で的枠に中てまくったあの姫木さんだ。次はどこに中てるのか、そこに注目している人たちの声が重なっているのだろう。

 果たしては、三宅さんがこのざわついた空気をどの様に感じているのか。静かな顔をしてはいるが、“何か”を感じていることは見ていて分かった。

 一方姫木さんの方は、彼女の周りだけ全てが沈黙しているような、ひとりだけが無の時間を生きているような、そんな空間が彼女に纏っていた。“彼女なら絶対に中てられる”という、そういう凄味があった。このざわつきは、それを感じている人たちの声なのかもしれない。

 姫木さんは打起さず、ちらと三宅さんの方を見た。それは、「先に引いていいんだぞ。私はどちらにしても中てる」と言ってるように思えた。

 ゆっくりとした時間の中、三宅さんが打起しを始めた。しかし姫木さんはまだ動かない。じっと三宅さんを見ている。

 三宅さんが中てようが外そうが、どちらにしても大きなプレッシャーが掛かることは容易に想像できる。先に引いてしまった方が楽に決まってはいるが、姫木さんがそうしないのは、そこに絶対的な自信と、三宅さんをここで潰す、という意思表示があるようにも思えた。

 ギリギリギリと、弓のしなる小さな音が静かな射場に響き、反響した音が応援席にまで届いた。

 三宅さんは引ききり、会に入った。

 びゅっ、と真一文字に離れを切る。

 一直線に的に飛ぶ矢は――


 ――カツン


 会場の若干のざわつきと共に、黎誠の子たちのあからさまなため息が聞こえた。

 一直線に飛んだ矢は、的枠五時方向に嫌われて蹴っていた。

 姫木さんはそれを見ると、大きく肩を落とし首を一度横に振った。なんだか、残念に思っているような、そんな風に見えた。

 姫木さんは、キッと的を睨むと、素早く打ち起こし、その軽い流れのままあっという間に会まで引いてきた。本当に、“ちょっと練習で一本引こうかな”くらいの感じだった。

 会に入った姫木さんは、しばらくしたのちに離れを切った。

 相変わらずの鋭い矢走り。芝を揺らし、的に届く。


 ――パァン


 いままで的枠に中て続けた姫木さんのその矢は、ど真ん中、それも星(的の中央の白い部分)の中心に刺さっていた。三宅さんとは、圧倒的な力量差が伺える。彼女も、それをここで証明したかったのだろう。「もう私は、あなたには負けない」と。

 わたしは隣に座っていた矢田先輩と顔を見合わせた。先輩は満面の笑みを浮かべ、目を潤ませていた。そして目くばせをすると同時に息を吸い込んだ。


「よぉぉぉぉしっ!!」


 開進全員の、大きな応援が会場に響いた。



 わたしは矢田先輩と、すぐに選手控えへ向かい、興奮そのままに先輩たちに声をかけた。

「やりましたね、みなさんさすがです!」

「応援すごかったよ、ありがとう」

 佐藤先輩が言うその後ろで、高柳先輩も笑顔で頷いていた。さらにその後ろから、遅れて来たらしい姫木さんが、相変わらずの真顔でわたしと矢田先輩を迎えてくれた。

「矢田先輩の分、きっちりぶつけてきた」

 そう言って握り拳を差し出した。

 矢田先輩は少し照れた様に微笑みながら、

「ありがとう。私の……ヒーロー」

 そう言って、左手で作った握り拳を、その拳にこつりとぶつけた。

 その光景は微笑ましく、それでいてわたしの涙を誘うにはじゅうぶんすぎるものだった。わたしが、「矢田ぜんばい、よがっだでずねぇ」と涙を拭いながら言うと、大塚先輩が後ろから抱きついてきた。

「ゆみちゃーん、ありがとー!」

 わたしは前のめりに倒れそうになるも持ちこたえ、「わあああ!」と慌てふためいた。そんなわたしの反応を見て「にゃはははは!」と笑いながら、大塚先輩は続けた。

「ゆみちゃんが応援席で、勇気つけてくれたから頑張れたよ!」

 競射の時、わたしが大塚先輩に大きく頷いて見せたことを言っているのだろう。

「わたし信じてました。あの時、大塚先輩なら絶対に中てられるっていう、確信がありました」

 大塚先輩はわたしから離れると、前に回った。そして体を左右に揺らしたり、くねくねと捻らせたりしながら言った。

「えーなにそれー。でも、あのお陰で本当に、ドキドキがなくなったんだよー。ありがとねん」

 そう言って、手刀をこちらに優しく切るようなジェスチャーをし、しなれてなさそうにウィンクをして見せた。三つ編みにいくつも着けられたカラフルな髪留めが、可愛く揺れた。そうしたら今度はわたしの後ろを指さして、「おー桜井くんきみ! よくも外してくれたねぇ!」と言いながら、そちらへ行ってしまった。なんだか忙しいひとだ。

 ふと姫木さんを見ると、矢田先輩との会話が終わっていたようなので、競射で気になったことがあったので尋ねてみた。

「姫木さん、三宅さんが外した時、どうして残念そうにしていたの?」

 すると姫木さんは、「ああ、あれか」と答えてくれた。

「あの時の、三宅先輩の外した状況を覚えているか?」

「えーっと、たしか的枠に蹴って外してたよね。五時の方向だっけ」

 姫木さんは、うんと頷いた。

「そうだ。そして私は対戦前に、三宅先輩の矢を見る機会があったから、矢じりを確認したんだ。その矢じりは丸くなっていた。」

「そりゃあ、練習してると丸くなると思うけど。それがどうしたの?」

 わたしは目を丸くして続けて聞いた。

「矢じりが丸くなっていると、的枠に蹴った時、そのまま弾かれやすいんだ。逆を言うと、矢じりが新品だと、弾かれずに的枠にめり込む可能性が高くなる。三宅先輩は私が中一の時よく言っていたんだ。『試合前には必ず矢じりを替えるように! ここぞの一本を外すぞ!』ってね。そんなストイックな先輩が、矢じりも替えずに試合に挑んで、挙句にはあのざまだ。弓道に対する熱が冷めてしまったのかと、残念に思ったんだ」

 なるほど、そういう事があっての、あの行動だったのか。

 それにしても、矢じりの話は初めて聞いた。そう言えば一昨日、メンバーはみんな矢筒を持って帰っていた。きっと、帰りに弓具店に寄って矢じりを交換したのだろう。

 弓道って奥が深いんだなと感心していると、聞き覚えのある声が聞こえた。

「まったく、やり方がずるいんだよ」

 三宅さんだ。矢田先輩はキリっと表情を変えた。姫木さんもそちらを見て、静かに口を開いた。

「どの様な試合内容であっても、勝ち負けに関して一切言い争わない。そう約束したはずですが」

「はいはいそうでしたね。私の負けですよ。今後あんたらにちょっかい出しまっせん」

 三宅さんは腕を組み嫌味ったらしくそう言うと、目を閉じ、ため息まじりにひとつ息をついた。そして改めて矢田先輩に視線をやった。

「ゆま、肩が治ったら、サシで勝負だ。そこのバケモンみたいなやつには到底勝てそうにない」

 そう言って踵を返し、背中を向けた。そして去り際に顔を半分だけこちらに向け、小さく呟いた。

「ゆま、怪我の件……悪かった」

 その声は、喉から絞り出された様に半ば上ずっていた。それを聞いた矢田先輩は、「ふふっ」と笑って返した。

「別に、これ転んだだけだし。あんたみたいなヘボに突き倒されるような、ヤワな造りしてないのよ私は」

 三宅さんは何も言わず顔を戻し、歩き出した。

「肩が治ったら連絡する!」

 三宅さんは何だか冷たい人だなと見ていると、矢田先輩は少し大きな声でそう言った。すると歩みを進めていた三宅さんは、くるりと体をこちらに向けた。そのまま後退する格好のまま、少しだけ頬を緩め、右手を軽く上げて見せた。そしてまた体を戻し、雑踏の中に消えていった。

 わたしは、矢田先輩に思っていたことを伝えた。

「矢田先輩いいんですか、自分で転んだことにしちゃって」

「いいのよ。あのプライドの塊みたいなやつが謝ってくれたから、それでいいの」

 矢田先輩は、優しい笑顔のまま続けた。

「それに多分だけど、さっきここに来たのは、文にいちゃもんを言ったり私に勝負を申し付けに来たわけじゃないと思うんだ」

 わたしが、「つまり、どういうことですか?」と尋ねると、矢田先輩はいたずらに笑った。

「んー、お子ちゃまには、わっかんないかなー。あの、人に謝らない子が、最後の最後に、勇気を振り絞って出した言葉の重さが」

「えええ、何ですかそれー」

 矢田先輩のわざとらしい笑みにつられ、わたしも笑いながら返した。

「それにしても、三宅先輩の笑ったところ、初めて見たかもしれない」

 姫木さんがぽつりと呟いた。

「人に謝れたことが、嬉しかったのよ。可愛いやつ」

 矢田先輩は姫木さんと、三宅さんが消えていった雑踏を見つめながら言った。

 そうか、矢田先輩もさっき言っていたが、三宅さんはわたしが思っているよりもずっと、プライドが高い人らしい。最後にわざわざ振り返ってまで見せた笑顔を思うと、彼女の心の成長を伺わせてくれるようにも感じた。

 しかし、どこでそんなに気が変わるようなことが起きたのだろう。あんなに悪評名高い三宅さんが、勝負で負けた相手のところへ行って、更には謝るだなんて。

 立の前でもないだろうし、“やり方が汚い”とか言ってきたから立の後でもなさそうだ。

 それなら、一体いつなのだろう。

 ……もしかして。

 本当はずっと前から、姫木さんや矢田先輩という旧友と、仲良くしたかったのではないだろうか。それが中学での事件もあって、その事も謝ることが出来ず、ずるずると引きずってきたのかもしれない。

 今思うと、市内大会で喋り掛けてきたのは、三宅さんだったようにも思える。ただ単に、矢田先輩を見つけたから嚙みついただけかもしれない。でも、今回の一連からすると、「久しぶり」と声を掛けたかったけど、過去の因縁が邪魔してしまったと考えられる。

 いずれにしても、最後の三宅さんの微笑みは、きっと“本物”だ。でなきゃわざわざ振り返らないもん。


「喉乾いた。矢田先輩、ジュース買いに行かないか」

「あーいいねー、いこいこー」

 背後から聞こえた姫木さんと矢田先輩の声は、少し遠かった。そちらを見ると、二人はすでに遠的射場の芝生を歩いており、私は急いで靴を履いた。

「ちょ、ちょっと待ってよー、わたしも行くー!」


 芝生へ出ると、夏にはちょっと早いけど、日差しが眩しくて気持ちのいい風が髪を優しく撫でた。

 二人を追いながら、もう一度だけあの背中が消えたほうを振り返った。三宅さんのあの笑顔が、嘘じゃないって信じたかったから。




第六話「三宅という女」 終わり


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ