第九話「快音、天に帰す」
夏休みに入り、宿題には一切手を付けないまま八月となった。宿題よりも、今のわたしの脳内は弓道で埋め尽くされていて、それどころではなかった。
自転車を漕いで道場を目指す。昇りきった太陽は、容赦なくわたしの体を焼く。噴き出す汗をタオルで拭いつつ、極力汗が出ないように力まずに漕ぐ。しかしその甲斐なく、下りはいいが、平坦な道と上り坂で汗が一気に出る。早く道場の扇風機にあたりたいものだ。
先日行われた八代大会の結果は、佐藤先輩率いる三年生チームの、Dチームが優勝をかっさらっていった。矢田先輩は、「引退選手に負けてちゃあ話にならないよ」、なんて冗談めかして言っていたけれど、引退試合からまだ二か月弱しか経っていない。現役と言っても差し支えないのでは、と考えていたところ、姫木さんが「引退試合からさして時間は経っていないだろう」と代弁してくれた。
ゲストでチームに入っていた三宅さんは、その後も道場へ遊びに来ており、一年生の指導をしてくれている。黎誠の指導はいいのかと尋ねたけれど、黎誠は顧問の先生が指導をしているとのことだった。
開進の顧問は弓道を知らない。だから指導は先輩の役目だと思っていた。けれど、弓道を知る先生がいて、直接教えてくれる学校もあるという。珍しい気もしたが、考えてみれば――それもそうか、と思った。ということで三宅さんは、放課後や休日は、とてつもなく暇なのでここへ来ているとの事だった。
道場に着くなり、わたしはロッカーに入れてあるうちわで、力いっぱい自分をあおいだ。あごをくいと上げ、胸元をぐいと引っ張りその中に空気を送る。ああ、涼しい。熱された体から、火照りが引いていくのがよく分かる。
目当ての扇風機は、すでに到着していた一年生数人が使用していたので、そこにずかずかと割り入るのは忍びなかった。それに首振りしている扇風機の前に行くより、うちわで一気に風を送った方が涼しいだろうとも思った。
扇風機前にいる五人の中で、唯一うつ伏せで突っ伏している子がいた。久留須さんだ。聞くと、床の冷たさが心地いいとの事だったが、床に潰されたほっぺから発せられる言葉は、少々聞き取りづらかった。
現在は二時半。練習は三時頃からぼちぼち始まるので、三年生はまだ誰も来ていない。それに、三年生が来るのも三時半だったり四時だったりと、その時間はまちまちである。
その後もひとりひとりと一年生メンバーが徐々に集まり、三時直前に姫木さんが到着し、全員が揃った。
佐藤先輩が三時半頃やってきて、開口一番こんなことを言った。
「みんなー、新人戦の選抜するよー」
一同は若干ざわついたが、その声は、どれも期待に満ちたもののように聞こえた。わたしも、選抜戦ではいい成績が納められそうだという自身があり、同様の声を上げた。
選抜戦は、全員で四立引き、計十六本の的中数を競うらしい。上位五人がスタメン、六人目が補欠という。
一人は姫木さんで確定しているので、残りの席は四つとなる。
一年生メンバーで、現在主力といえるのは、上戸さん、白井さん、浜本さん。この三人は、普段の練習から安定した的中数を出している。そしてこの三人よりも、少し的中が安定しないのが、斎藤さんとわたし。さらにそれより的中数が下がるのが、久留須さんと武田さんとなる。
名前を挙げた順が、わたしの中でのランキングとなっている。
残りの席は四つと前述したが、吉高先輩の席を考慮すると、その数は三つと言ってもいいかもしれない。吉高先輩は、上戸さん、白井さんと同じくらいの実力と言える。いや、実力というと吉高先輩の方がよほど上だろうけれど、単に的中率を考慮しただけで言うと、である。
わたしは空いた席に座ることは出来ないだろうけれど、精一杯やるつもりだ。
――へえ、一本も中らなかったんだぁ。まあ、弓道って難しそうだし、最初の試合なんて、そんなもんなんじゃないの。
弓道のことを何も知らないお母さんに言われたその言葉に、わたしは、「お母さんは何もわかってない」と返したかったが、実のところ一本も中てられなかった手前、何も言い返すことが出来なかった。しかし、胸の奥には、「今に見てろ」と熱いものが灯るのを感じていた。
次の試合には、絶対に出たい。そして結果を残したい。
現在わたしの的中率は、八本引いて、二本か、三本。たまに四本中ったり。とそんなところ。(まだ皆中の経験はない。)
選抜戦は五時から始めると言う。突然すぎて、いまさらじたばたしても何がどうなるわけでもないけれど、とにかく巻き藁と的前で体をほぐしておこうと思う。
一人で引いていても仕方がないので、そこら辺にいる姫木さんをつかまえたいところだけれど、彼女は彼女で絶賛スランプらしく、黙々と的前で自身の射型を確認していた。
こっそりと彼女の射を見てみると、本当にスランプらしく、的の上下前後にまばらに矢が刺さっており、その全てが外れていた。
スランプと言っても、彼女くらいの上級者ともなると、それでもある程度の的中率は出す事が出来るような気はするのだけれど。
仕方がない(と言うと語弊があるけど。)ので、浜本さんとお互いに射型を見合いながら巻き藁を引くことにした。
「進藤弓さんの射型、とても綺麗です。一年生の中で、一番綺麗なような気がします」
不意にそんな事を言われたものだから、思わず声が上ずった。
「え、えええ! そ、そんなことないよ! 姫木さんが一番綺麗だろうし、それに浜本さんや白井さんだってすごく綺麗な射してるし――」
そうは言いつつも、内心とても嬉しかった。的中で結果を出す事は難しそうだったので、いつからかわたしは、せめて射型だけは誰よりも立派にしようと心掛けていたのだ。(的中はあとからついてくる、なんて誰かさんの名言は、未だに証明出来てはいないのだけれど。)
「私もそう言って頂けて光栄ですが、生憎進藤弓さんには及びません。進藤弓さんの射型が光り輝く月とするなら、私の射型はドブに捨てられた残飯の様なものです」
お、おう。そこまで言うか。ただでさえ残されたご飯が、さらにドブに捨てられるのか。それは、さぞかしでございます。
謙遜する意味でそう言ったのか、本当にそう思っているのかは分からないが、自分より的中率のいい子にそんな事を言われると、とても自信が湧いてくる。
そうなると、もっと射型を良くしてやろうと躍起になる。部活内で一番、市内で一番、県内で一番、九州内で一番、と、その野心は広がる。わたしは、日本で一番射型が綺麗な弓道家になりたい。この時、心からそう思った。
射型に拘り巻き藁を引き、その後的前で引いた。的中こそいつも通りではあったが、選抜戦でいい結果を出したい。
定刻になる頃には、三年生はいつものメンバーが来ていた。佐藤先輩、矢田先輩、桜井先輩、そして三宅さんだ。三宅さんは、最近は一年生の指導もしてくれている。教え方も上手だし優しいと評判である。
丁寧に優しく指導している様を見た姫木さんは、「年齢を重ねると丸くなると言うが、本当なんだな」と、顎に手を当てて神妙な面持ちで呟いていた。
選抜戦は、ひとりずつ引く形式で行われた。ひとりが的前に立ち、他の全員はその人の前で跪坐(つま先立ちをした正座……の様な座り方)をして見学。といった具合だ。
これは緊張するだろうから、選抜する方法としてはうってつけだろう。と感心した反面、自分がそこに立つことを想像しただけで、みぞおち辺りがむずがゆくなり膝が少し笑った。
引く順番は、八代大会のAチームの御前から、ということになった。わたしはBチームの中だったので、五番目ということになる。
トップバッターの上戸さんが射位に立つと、こちらまで緊張が伝わり、一年生メンバー全員にそれが伝播しているようだった。さすがに、Aチームの御前を務めた彼女ですら緊張するか。試合ではないにしても、この内容で試合メンバーが決まるのだ。それに、頼れるチームメンバーがいないというのも、緊張の一因と言えるだろう。
これから引く結果が全てなのだ。誰もフォローしてくれない。ひとりきりの戦いなのだ。
カールがかった黒髪が、彼女の気の強さを印象付けてくれているせいか、なんだか中てそうな雰囲気を纏っている。その予想通り、
――パァン
快音が響いた。
上戸さんは安堵したのか、深く呼吸をしたらしい。残心のまま、その両肩が少し浮いて、沈んだ。そして残心を解いた。
その後も調子よく二本目を中て、三本目こそ外したが、四本目はきっちりと的内に収めた。一立目の合計は三本。さすがだ。
上戸さんが四本目の残心を解くと同時に、見ていた一年生たちの緊張も解けたらしく、全員が息を漏らした。
次の白井さんは、いつもの鋭い目つきのまま的を一瞥すると、すぐに矢を番えた。
もうなんだか、これだけで皆中してしまいそうな、そんなオーラさえあった。無口な分、矢で語る、みたいな。
そんな彼女は、一本目と二本目は外し、三本目と四本目を中てた。合計二本だ。
そしていよいよ姫木さん。しんと静まり返った射場のど真ん中で、相変わらずの無表情のまま射位に立ち矢を番え、あっという間に会まで引いてきた。
これまでの二人とは違い、まったく緊張している様子はなく、こちらまでそれが伝わってきた。
ギギ、ギギ、と馬手(右手)から音が鳴る。会を持つその凛々しい横顔、そして完璧なほどに美しい射型に惚れ惚れする。身長の高さも相まって、そのフォルムは、どこぞの弓道大会にシルエットだけ使われていそうなほどだ。
――パァン
その高い音に、見惚れていた意識が戻される。姫木さんの的中音だった。
先ほどの練習ではたったの一本も中っていなかったのに、こういう場面ではきっちり中ててくる。さすがは姫木さんだ。どんなにスランプだと言っても、ちゃんと調整してくるあたり、やっぱり彼女はプロだと、そう感じる。
そして二本目、三本目と、しっかりと同じ場所に的中させ、最後の一本も、なんなく的中させた。
引き終えると、わたしを含め一年生メンバーからは、その見事な射に、思わず感嘆の吐息が漏れていた。
「完璧ですね」
声の方を見ると、浜本さんが真っすぐ姫木さんを見ていた。その表情は真剣で、あの時部活動紹介を見て、きゃっきゃとはしゃいでいた子の面影は消えていた。それだけ、真剣に取り組んでいることが伺える。
その後、斎藤さんは最初の一本しか中らず、合計一本という残念な結果で終わった。しかしまだ、二立目があるから分からない。
そしていよいよ、わたしの番となった。
顔にさえ出しはしないが、胸の奥で鳴る心臓は、爆ぜる寸前だった。
「それじゃあ次、進藤さん」
佐藤先輩に呼ばれ、「はい!」と返事をして、すぐに準備をして射位に立った。
そこに立つと、過日行われた八代大会がフラッシュバックする様でならなかった。あの中らなかった時の感覚、追い込まれていく記憶を、体が覚えていた。考えようとしていないのに、膝が勝手に震えだす。奥歯がガチガチと小さく振動し、ぶつかる。
本番でもないのに、こんなに緊張するなんて思ってもいなかった。いつも引いている場所で、いつもと変わらない練習。それなのに、みんなに見られているというだけで、こんなにも……。
震えながらも矢を番えて、打起す。そこで一呼吸。
動作に移してしまえば、震えはごまかせた。そのまま引き分ける。矢が口割についたところで動作を止める。
的を見つめ、しっかりと狙う。
ここまで来てしまえば、もう中てるだけだ。膝の震えは止まっていた。
狙いを定めつつ、体を十文字に伸ばす。
――っ!
その時、今放せば、この一本は絶対に中るという確信が持てた。瞬間弓手を押すと同時に、馬手の親指を弾いた。
ビュン、と音を立てて勢いよく放たれる矢。その矢は一直線に飛び――
――パァン!
的を射抜いた。
(よし! やった!)
残心を保ったまま、心の中では全身でガッツポーズを決めていた。涼しい表情をしてはいるが、今にもにやけてしまいそうだ。
残心を解いた際、正面で座っている部員の中から、浜本さんと不意に目が合った。
彼女は、目が合った時にはすでに優しく微笑んでいた。きっと、中った瞬間から、微笑んでくれていたのだろう。
浜本さんはその微笑みのまま、胸に当てた右手をぎゅっと握り、静かにうなずいてくれた。
その時、浜本さんが言ってくれた言葉を思い出した。
――中る人も中らない人も、その結果ばかりがその人の実力ではないのだなということが、よく分かる経験でした――
そうだ。中るから上手いとか、中らないから下手だとか、そうじゃなかった。八代大会の最後の二本を引いた時に気付いていたはずなのに、この選抜では結果を出さないといけないと思い、忘れていた。
わたしの言う結果は「的中」ではない、「射型」だ。
今決めた。わたしはこれからの三年間、射型だけに拘っていこう。それが姫木さんの言う「的中は後からついてくる」、という教えなのだから。
次の一本、誰からも絶賛される射にしよう。みんな、見ていてね。
チョークを塗りたくった握り皮を、親指の付け根をねじ込ませるように握る。
静かに打ち起こして、引き分ける。
八月の道場は、熱気が充満していてとても暑い。
セミも忙しく鳴いている。
射位のつま先に、陽がじりじりと差しかかる。
汗が頬を伝った。
――ビュン!
弦音が道場に響き、
――パァン!!
快音が、抜ける空に昇った。
第九話「快音、天に帰す」 終わり




