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第八話「震える膝で、前へ」後編

 自動販売機にお金を入れて、どれを買おうかと迷っていると、横からぬっと手が出てきた。その手は、わたしの苦手な炭酸飲料を押した。

 赤い缶が“ガタン”と音を立てて落ちてきた。

「ありがたくもらっておく」

 姫木さんだった。

 そんなことを言われても、姫木さんの為にお金を入れたわけではない。まあ、別にいいけど。姫木さんの方を、ジトっとした目でわざと見てみる。すると姫木さんは笑った。

「あははは、何だその目は」

 楽しそうで何よりだ。わたしはそれどころではないと言うのに。わたしは「人の気も知らないで」と、大げさにため息をついて見せて、もう一度お金を入れた。飲みたかったお茶を押すと、すぐに音を立てて出てきた。

 お茶を取り出すと、姫木さんは缶のプルタブを開けた。プシュっという音が、この暑さを少しばかり拭ってくれる。わたしもペットボトルの蓋を開け、一気に半分飲んだ。

 冷えた液体が、体の真ん中を通っていくのがよく分かる。


「中らなかったな」

 不意打ちのように、姫木さんが言葉を発した。構えていなかったので、二口目を流し込んでいた喉から、お茶が逆流した。

「げほっ、ごほっ! ちょ、ちょっと、急にやめてよ」

 口からこぼれたお茶を手で拭いながら、姫木さんを見た。

「落ち込んでいるのか」

 普通に考えて、もう少し慎重に聞かなければいけないような事を、ずばっと聞いてくる姫木さんに、何故だか悪い気はしなかった。それどころか、「やっと聞いてくれた」とさえ思った。

 先ほど体育館の控えで、桜井先輩にきついことを言われ、そのまま落ち込み、開進メンバーがいなくなるまで顔を突っ伏していたけれど、その間誰も声を掛けてくれなかった。

 そこにいたのはCチームメンバーと、佐藤先輩と三宅先輩だけだった。少なくはあったが、それにしても、その中で誰も声を掛けてくれないというのは、わたしの中ではちょっとした珍事だった。

 他校の人間ならまだしも、普段一緒に練習している仲間なんだから、誰かは目を止めてくれると思っていた。もしかして、落ち込んでいるのではなくて、ただ疲れたからそうしている、と思われていたのだろうか。その可能性は高い。

 自己解析をしながら、姫木さんの言葉に返事をした。

「うん。正直、二立目引くのが怖いよ」

 姫木さんは、汗をかいた缶を口に当てて逆さにした。そして、「ぷっはぁー、これは効く!」と、まるでCMの様な飲みっぷりを披露した。

 ……わたしの声、届いてる? そう思ったが、ちゃんと答えてくれた。

「そうだな、ドスったなら、そう思うのが自然だ。進藤、ドスった瞬間の気持ち、当ててやろうか」

 わたしは少し俯いていたが、そのまま上目づかいで姫木さんを見た。

「いままでわたしがやって来たことって、一体何だったんだろう。全部無駄じゃん。教えてくれた桜井先輩に、なんて謝ろう。チームメンバーに、どんな顔をすればいいんだろう。と、そんな具合だろう」

 ほとんど合っている。というか、全部正解か。言い当てられて、視線を地面に戻し、小さく頷いた。

「その気持ちは、とても分かる。私も最初はそうだった。練習ではそこそこ中るのに、試合ではからっきし駄目でな」

 意外だった。完璧な姫木さんしか見たことがなかったから、そんな時期が彼女にもあったのかと驚いた。しかし当然か。弓道なんて癖のある競技、最初から完璧にこなせる人なんていない。

「大事な一本を中てられなかったり、的中数が少ないと、そういった思考になるものだ。それがとても嫌だった。だから、人一倍練習をした。いや、十倍は練習していた。大げさでなくな」

 わたしも、そのくらい練習をすれば、今の姫木さんくらい上達できるのだろうか。四本全てを、狙った場所にドンピシャに中てられるような技術を、身に付けることができるのだろうか。それだけ上手くなったら、試合も楽しいんだろうな。

「進藤だって練習すれば、その具合によっては優勝常連の腕にだってなれる。しかし次の立はもうすぐ始まる。いまからどうこうできるものでもない。腹を決めて、堂々と引くしかない」

 姫木さんはそこまで言うと、きびすを返した。そして顔だけこちらに半分向け、こう繋げた。

「やるべきことをやるんだ。中てることより、ずっと大事なものがある」

 そう言って、「ごちそうさま」と、空き缶をこちらにひょいと投げてきた。咄嗟に受け取ったが、口に残った飲料が飛び、道着に小さな跡を残してしまった。すぐに洗えそうもないから、これはシミになりそうだ。小さいゴミみたいな点だ、別にいいか。

 持っていたお茶を、一気に飲み干した。

 空を見上げると、わたしの気持ちなんて嘘みたいな表情をしている。


 ……やるべきこと、か。中てることより、大事なもの。



 第一控え、Aチームに続いて、我らがBチームが後ろに並ぶ。

 この立、またドスったら、桜井先輩はどんな顔をするのかな。一本でもいいから、中てなきゃ。そうでないと、桜井先輩が教えてくれたこと、全部無駄になっちゃう。

 でも、姫木さんは、的中させることより大事なものがある、と言っていた。どうすればいいのだろう。

 やるべきことをやる、というものより、わたしの脳内は、桜井先輩の怒った顔で支配されていた。違う、怒っていたんじゃない。落胆、呆れ、そういった類の顔だった。まるでわたしを見放したみたいな、そんな表情。

 またあの顔をされるのだろうか。またあの目で見られるのだろうか。本当に怖い。そのくらいなら、思い切り怒ってくれた方がまだいい。それなら、まだ繋がっていられるから。

 あの時の桜井先輩は、怒らなかった。「もう知らないから」、そう言って去っていった。

 次ドスったら、桜井先輩とは本当にこれっきりなような気がする。桜井先輩に見放されたからといって、弓道部にいられなくなるわけじゃあない。けれど、それって、何だかわたし自身を否定されたような、そんな気がする。見捨てるって、そういうことだもの。

 ……桜井先輩の、あの目が怖い。次は、絶対に中てなきゃ。


 アナウンスとともに、Aチームが入場を始めた。

 いよいよだ。足が震えている。一立目よりも、大きく。息も苦しい。わたし、呼吸できてるかな。なんだかよく、分からない。目の前が、薄い砂嵐みたいに霞んで見える。あれ、射場って、こんなに広かったっけ。

 観客席の目が、全部わたしを見ている。「あ、さっきドスってた子だ」そんな風に思っているのかな。ああ、わたしを見ないで。

 射位について、思い切り目をつむる。そして大きく深呼吸をした。吐き気はないが、顔から血の気が引いているのが分かる。

 矢を番える手が震えている。利かないほどではないけれど、ブルブルと、小刻みに。番えた後、右手首を大きく振って、手の震えをごまかした。

 斎藤さんが打起す。もう一度、深呼吸をする。

 今度こそ、中ててみせる。

 弦に勝手(右手)を掛ける。そして、ゆっくりと打起す。


 ――パァン


 斎藤さんの矢が、的を貫いた。わたしも、続いて見せる。

 しっかりと狙う。練習の時よりも、じっくりと、確実に。

 そして勝手の親指を弾き、弓手ゆんで(左手)を的に伸ばすように押す。


 ――いけっ!


 ――ドス


 矢は、的のわずか前に刺さった。惜しい。もう少し後ろだったら、中っていた。射型に問題はないように思える。それなら、狙いがずれていたのだろうか。いつも通り狙いを付けたつもりだったけれど、少し前だったろうか。次は、気持ち後ろに付けてみよう。

 次の矢を番えていると、後ろから快音が響いた。浜本さんの的中音だ。

 斎藤さんと浜本さんに挟まれて、柱のわたしはその役目を果たせないでいる。惨めだ。観客の目が気になる。「あの子、やっぱり今回も中てられないんだ」、そう言われているようでならない。

 改めて、大きく深呼吸をする。

 あと、三本。八本中、あと三本しかない。中るだろうか。……中てなければ。

 矢を番えて、斎藤さんが引く姿を見る。

 いいなあ、斎藤さんはもう、一立目で二本を中てていて、この立でも一本目を中てている。絶対に中てないといけないプレッシャーなんて、ないのだろうな。そうすると、ある程度は緊張せずに引けるはず。その気持ちが、次の一本を的中に導くはず。いい流れだ。

 わたしはその逆だ。中てなければいけない気持ちが焦らせ、結果、矢をあさっての方向へと飛ばしてしまう。

 せめて一本中れば、気持ちはかなり楽になるのだろうに。

 チームの的中数がどうだとか、そんなことを気にしている場合ではなくなってきた。本当に、一本でいい。一本だけでいいから。

 想いを巡らせつつ、引分ける。途中、斎藤さんの矢が、またしても的に吸い込まれるのが見えた。

「また中った、いいなあ」なんて思いが過るところが、集中できていない証拠なのだろうなと思う。そんなことじゃあ、的中なんて……。


 ――ドス


 やっぱり。中らない。


 その時、前方から「ガツン」という、矢が的枠に刺さる音が聞こえた。そちらを見ると、姫木さんの放った矢が、的枠上部に食い込んでいた。

 どこでも狙える姫木さんが、どうして的枠になんて……。斎藤さんの背中越しに見える、姫木さんの背中。彼女は、ゆっくりと残心を解いた。

 姫木さん、そう言えば、スランプだかって練習の時言ってたっけ。今のも、それであんなところに飛んだのかな。

 姫木さんはすごいな。スランプでもちゃんと的中させてる。もちろん、練習してきた量がわたしとは桁違いなのは理解している。スランプだとしても、以前言っていた「中ての射」とやらを持っているのかもしれない。でも姫木さんは、いまどちらを重視して引いているのだろう。

 自分の為に射型重視なのか、チームの為に的中重視なのか。

 姫木さんがどちらを重視しているのかは分からないけれど、わたしは、どちらにしても中てることができない。それなら、徹底的に射型に拘って引いてみようか。ダメもとだ。やってみよう。

 矢を番え、斎藤さんが引分け始めたところで打起す。打起し、大三、引分けと、ゆっくりと行い、全身の隅々にまで神経を巡らせる。その動作の中ひとつひとつ、その時々に注意されたことが蘇る。

 肘の引き方、勝手に力が入りすぎていないか、肩が詰まっていないか、全てに集中する。

 会に入り、ここでも全てに集中する。押す方向、体の十文字線、丹田に力を込めて足踏みをしっかりとする。姫木さんに教わったことや、桜井先輩に教わったことをそこに総動員させる。

 もういい、的中は諦める。姫木さんの教えに従って、射型を大事にする。

 わたしにできることは、これだけなんだからっ!

 思い切り放った矢は、


 ――ドス


 安土に刺さった。

 的中は諦めたつもりだったけれど、やるべきことをやってこれじゃあ、やはり切ない。でも、次もやる。射型に気を付けて、教えを守って引く。

 残りの一本を番え、自分の番を待つ。目をつむり、集中した。

 自分の為に引くんじゃない。その射型を、桜井先輩に見てもらう為に引くんだ。教えてもらった事は、ちゃんと生きていますと、そう伝える為に。

 斎藤さんの引分けに続き、打起す。先ほどと同様、全てに集中して。

 会を保ち、これまでの教えを思い出しながら、十文字に伸びる。

 そのまま的を見据えていると、矢の飛ぶ軌道が見えた。中る時にいつも見える、矢のイメージだ。

 そして、勝手の親指を弾く。

 勢いよく放たれた矢は、的に向かって飛んでいく。が、その矢はイメージしていた軌道から少しずつ離れ、やがて――


 ――ドス


 今までと同じように、安土に刺さった。

 駄目だった。

 八本すべて、中らなかった。最近の練習でも、八本引いて、一本も中らないなんてことは、どちらかというと少ないほうだった。

 残心を保ったまま、安土に刺さった最後の矢を見つめる。見つめ続ける。残心を解いたら、退場しなければいけない。退場すると、わたしは誰にも顔向け出来ないのに、メンバーと顔を合わせなければならない。

 四本ドスった時とは話が違う。さっきは、斎藤さんは「二立目があるよ」なんてことを言って励ましてくれたけれど、二立目が終わって、この大会はもう終わりなのだ。次は何と言って励ましてくれるのだろうか。きっと「次の大会は頑張ろう」とか、そんなところだろう。わたしだったら、そんなことを言うに決まっている。

 斎藤さん、浜本さん、ごめんね。チームの的中数が伸びなかったのはもちろん、変な気を遣わせることになってしまって。

 いい加減残心を解き、ゆっくりと退場口へと向かう。

 ゆっくりと摺り足で向かう途中、退場口にいた斎藤さんの顔をちらと見ると、悲しみとも労いとも言えない様な、とても優しい微笑みを浮かべていた。

 出口の敷居を一歩跨ぐと、斎藤さんはその表情のまま声を掛けてくれた。

「お疲れ様。初めての試合、めっちゃ緊張したね」

 そうか、的中数に関しては触れない感じか。それならそれでいい。触れられないのも何となく気になるけど、妙に気を使わせてる感じも、気の毒で仕方ない。

 わたしも、それとなく返答しておく。しかし、わたしが的中数に触れないわけにもいかず、

「うん、めちゃ緊張しちゃったよ。全然中らなくってごめんね」

 一立目と同様、少しごまかすような微笑みで、そんな風に謝罪も混ぜておいた。こちらが微笑むことで、気を遣わせないように運べると踏んだ。その甲斐あって、斎藤さんは気を遣わない様子で、「また練習、一緒に頑張ろうね」なんてことを満点の笑顔で答えてくれた。

 そんな会話をしていると、射場から快音が二つ、ほぼ同時に響いた。

 姫木さんと浜本さんの、最後の一本が中った音だった。

 姫木さんはもちろんだけれど、浜本さんもしっかり的中させるだなんて、とても頼りになる存在に成長したものだなと感じる。それは普段の、彼女のおっとりした雰囲気があるからこそ、余計にそう思うのかもしれない。

 姫木さんが、先に退場口をくぐった。すれ違う際、「お疲れ様」と声を掛けると、「疲れてなんていない」と、彼女らしく、足を止めることなく何もつまらなそうに答えると、そのまま去って行ってしまった。

 次に浜本さんが出てきた。

「お疲れ様」

 わたしと斎藤さんで、声が合わさった。すると浜本さんは、いつもの優しい笑顔で「お疲れ様でした」と、うやうやしく頭を下げた。彼女らしいな、と感じた。そして浜本さんは、こう続けた。

「なかなか、いつも通りとはいかないものですね。これまで先輩の試合を見ていて、あの人は中っているから上手いだとか、中っていないから上手くないだとか、そんな風に勝手にイメージ付けていましたけれども、今日この試合で、中る人も中らない人も、その結果ばかりがその人の実力ではないのだなということが、よく分かる経験でした」

 浜本さんはそう言うと、わたしの目をまっすぐに見つめ、「うん」と力強く頷いた。そして「行きましょう」と、わたしたち二人を促した。

 浜本さんの言葉は、どんな励ましの言葉より胸に刺さるものがあった。その言葉と頷きは、まるで「進藤弓さんは今回中らなかったけれど、あなたは決して下手ではないのです」と、そう言ってくれているようでならなかった。直接そう言ってくれるより、とても嬉しかった。

 こんな励まし方があるのだなと、浜本さんの心の大きさに関心した。浜本さん、優しいな。



 そうは言いつつ、控えに帰る道すがら、わたしはやはり桜井先輩に申し訳なくて、心が爆発しそうだった。ため息だって、何度ついたか分からない。その都度、浜本さんは「真摯に謝罪をすれば大丈夫ですよ。的中だけが全てではないのですから」と、何度も励ましてくれた。さきほどは上手く言い繕ってくれたものの、その時ばかりは、何度もわたしの的中数のことを口に出していた。

 いよいよ控えの体育館が見えてきた。その入り口に、腕組をして壁にもたれかかる桜井先輩がいた。

 ああ、どうしよう、めちゃくちゃ怒ってる……。さっき、「次もドスったら、分かってるわね」と言われ、こともあろうかわたしは、「はい、次は中てます」なんてことを言ってしまっていたのだ。そう言うしかなかったとはいえ、約束は果たせずに、桜井先輩はきっと怒っていることだろう。

 とにかく、まっさきに謝ろう。言い訳はせず、「すいませんでした」と。先輩の時間を、わたしの練習の為に割いてしまったことは事実なのだから。それから、先輩の教えてもらっていたことも、きっと出来ていなかっただろう。だから中らなかったと、自分でもそう思う。

 胃が痛くなってきた。もうこれ以上、体育館に近づきたくない。けれど、桜井先輩の視線は、もうとっくの昔にわたしを捉えている。じっとわたしを見ているせいか、ちらちらと桜井先輩の方を見ると、毎回目が合うように思えた。

 わたしの前を歩いていた斎藤さんと浜本さんは、体育館の中へすいすいっと入っていった。桜井先輩と対峙した際、二人がいるとわたしが気まずくなると思っての配慮だろう。

 わたしは、入口にもたれかかっていた桜井先輩の正面に立った。そして、すぐに頭を下げた。

「せ、先輩、すいませんでした!」

 すると桜井先輩は、「ちょっとこっち来て」と、低い声で吐き捨てるように言った。

 桜井先輩についていく。体育館の裏手に回るらしい。そんなところへ連れて行って、一体どんなことをするつもりなのだろうか。叩かれる、という選択肢もありうる。それだけ先輩を苛立たせるような結果を出してしまったのだから、怖いけれど、けじめとして受け止めよう。

 そして、もう弓道部は辞めよう。熱心に教わった結果がこれでは、今後弓道を続けていても、教える人も教わるわたしも時間の無駄というものだ。

 俯いて歩いていると、突然立ち止まった先輩の背中に頭をぶつけた。

「あたっ、す、すいません!」

 慌てて謝った。振り返った先輩は、無表情のままだった。押し黙った先輩を、怯えつつ、ちらちらと伺うように見る。腕組みをした姿勢に、威圧感を覚える。

 しばらくした後、ようやく口を開いた。

「で、どうだった」

 相変わらず、無表情だった。言葉自体も、その無表情を投影したかのようなトーンだった。

 わたしは、俯いたまま答えた。

「緊張しました」

「それから?」

 わたしの答えに、間髪入れずに重ねた。

「それから、怖かったです」

「うん、何が怖かった?」

 その問いに、「先輩がです」と出かかったけれど、すんでのところで止めた。それに、もっと怖いと感じたものがあった。それは、

「観客です。というか、会場全体、でしょうか」

「そっか、会場、か」

「それは、一立目がドスってしまったから、人の目が気になったというか、そんな感じで怖かったです。みんながわたしのことを、中らないからって馬鹿にしているんじゃないかって。そんな風に、わたしのことを見ているんじゃないかって。とても怖かったです」

 桜井先輩は、冷たいままの口調で言った。

「そんなの気にしなくていい。射場に立つ人間が戦っている相手は、自分自身なんだから。的中したからとかしなかったからとか、それで上手いとか下手だとか、そこを見ているのは素人の観客だけだ。弓道には、的中より大切なことがある」

 そこまで言うと、桜井先輩は、わたしの肩にポンと手を置いた。

「よく頑張った、私は、しっかり見てたよ。ひとりで堪えて、戦ってた。最初の二本まではまだ頑張る意思があって、それからは徐々にパニック気味になって、そしてまた、最後の二本はしっかり引けてた。特に最後の一本は良かった。あの射型は、はなまる満点だよ」

 桜井先輩は「だよ」のところで、ニコっと笑って見せた。その瞬間、緊張の糸がプツンと切れてしまった。耐えていたものが、一気に壊れ、涙がぼろぼろと流れてきた。

 そうだ、わたしは戦っていた。斎藤さんと浜本さんが一緒に立ってくれていたけれど、結局的中は自分だけのものなのだ。中ると、チームに貢献できたという結果が残るが、それ以上に、胸を張っていられる。というところが、その本質なのだと、今日の試合で思い知らされた。中らなかったわたしは、その道中、「非難の目で見られたくないから中てたい」という、そんな想いに駆られていた。

 ずっと、わたしが戦っていた様子を、桜井先輩は見てくれていたのかと思うと、胸がいっぱいになった。胸を押さえ、漏れる嗚咽をそのままに、涙をぼたぼたと落とした。

「わだじ……わだじ……」

 一生懸命やったんです。と声に出したいが、乱れる呼吸に遮られる。しかし先輩は、

「うんうん、分かってる。必死だったよね。二立全部を見て、進藤さんの気持ちの流れ、全部理解してるから、大丈夫。誰も分かってなくても、私は分かってるから」

 先輩の手が、頭にぽんぽんと、優しく触れる。その言葉と動作の温もりで、また涙が溢れる。

「うううっ、ううっ、ぜんばい……ひぐっ」

「よしよし。一立目が終わった時、発破かけるつもりで言ったんだけど、プレッシャーかけすぎちゃったかな。ごめんね」

 桜井先輩は、「よし」というと、今度は少しだけ力強く、両肩をパシっと叩くように掴んだ。

「いい経験が出来たね。この経験は、試合に出ないと、そして、失敗しないと出来ない経験だから、大切にしてね。失敗は、成功した時よりも、はるかに大きな財産を手に入れることが出来る。心の財産よ。私はそう思ってる」

 先輩はそう言うと、またニコっと微笑んだ。そして、「じゃあ、帰ろっか。胸張ってね」と、わたしの背中にそっと手を添えてくれた。


 心の財産、か。素敵な言葉だ。

 失敗は成功した時よりも、大きな財産を手に入れることが出来る。この言葉も、わたしの心に強く刻まれた。

 成功する為に努力を積み重ねるのに、失敗した時の方がいいだなんて、それなら練習せずに失敗した方がいいじゃないかと揚げ足を取る人もいるかもしれないが、きっとそうではない。その努力をした末に失敗した時に、大きな何かを得ることができると、そういうことなのだろう。



 次の試合は、笑顔で終えることは出来るだろうか。チームとして貢献は出来るだろうか。先輩に褒めてもらえるような内容には出来るだろうか。

 色々なことが過るけれど、とにかく、やれることを精一杯やろう。

 後悔はしたくない。悔しい想いもしたくない。

 そうしてわたしは心に強く誓う。



 ――わたしはもう、絶対に泣かない。と。



「目が真っ赤だ。泣いちゃったの、みんなにバれちゃうね」

 桜井先輩は、わたしの顔を覗き込んで「あははは」と笑った。

「先輩が泣かしたんですからねぇ」

 わたしはわざと、ふくれっ面を作って見せた。すると先輩は、その膨らんだ両頬をつまむようにして潰した。口から「ぶっ」という音とともに空気が漏れ、そのしぼんだ頬に、赤らむ熱だけが残った。




第八話「震える膝で、前へ」後編 終わり


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