第八話「震える膝で、前へ」中編
射位に立つと、“今度は自分が見られている”という気持ちが強く出てきて、胸の鼓動と膝の震えは強くなっていた。足踏みをして矢を置く。そしてそこから二本の矢を掴む。その指が震えていることに気付いた。
わたしは、こんなに緊張しいだったろうか。中学生の頃は、大会に出ることはなかったけれど、クラスの前で発表することはあった。しかしその時は、そこまで緊張することはなかった。もちろんこの場面と比べると、その大きさは比にならないのだけれど。
言うことを聞かない指に、なんとか矢を二本持たせた。そして上体を起こすと、すでに斎藤さんは矢を番え、的の方を見ていた。その横顔は凛としていて、とても落ち着いているように見えた。するとわたしの心臓は少しだけ、その鼓動のスピードを緩めたように感じた。斎藤さんの横顔にヒーリング効果があったことは、本人には後で伝えておこう。
そうは言いつつも、胸の鼓動が強いことには変わりはなく、いつもの様に引くことは到底叶わないだろうことは、容易に想像がついた。
矢を番え、会に入っている斎藤さんの横顔を見て、もう一度深呼吸をする。その吐き出す呼気が、体のこわばりを溶かしてくれるようなイメージを必死にする。
斎藤さんが矢を放った。
――ドス
練習で、一本目をほとんど外すことが無かった斎藤さんの矢は、安土に刺さった。
そうするとわたしの役目は、ここで止めなければいけないのだけれど、感じるはずのプレッシャーは一切感じなかった。それどころか、斎藤さんが外してくれたお陰で(と言うと語弊があるけど)わたしが外しても、「斎藤さんが外したんだから、しょうがない」と思われるかもしれないという、不謹慎ながらそんなところにわたしの心は救いを見出していた。
この一本は、外してもいい。そういう気持ちで、気軽に引こう。
弓を引分け、ゆっくりと会に入った。
しっかりと狙いを定め、十文字に伸びる。練習で何十回何百回と繰り返してきた動作だ。的中した時の感覚を思い出して、矢の飛ぶ軌道をイメージする。
そして、放つ。
――ドス
その矢は、的の後ろに刺さった。
落ち着いて放ったつもりだったが、快音を響かせることは出来なかった。
残心を保ちながら、安土に刺さった矢を見つめる。斎藤さんが外して、プレッシャーが最小のうちに引いた矢だったけれど、それでも中てることが出来なかった。次は中てられるだろうか。……大丈夫、きっと大丈夫。
そう言い聞かせるのは、大丈夫じゃないからだと自分でも気づいている。でも、そうやって律していないと、この場の空気に飲みこまれてしまいそうでならなかった。
――パァン
背後から聞こえたその音に、肩がぴくりと跳ねた。浜本さんが的中させた音だ。
落の役目は、前の二人が外していたら、その流れを断つ為、絶対に外すことはできない。そして、二人が中てていたら、その流れを崩さないよう、中てなければならない。
つまり、基本的に外していい場面などない、という厳しい立ち位置なのである。
圧倒的に、プレッシャーに直面する回数が多い。そしてその一回一回のプレッシャーの重みが、とてつもなく大きい。
普段は頼りのなさそうな雰囲気の彼女が、こうやってしっかりと仕事をしている。浜本さんのどこに、その度胸が隠れていたのだろう。そしてわたしにも、その度胸はあるのだろうか。今のところ、一切見えてはこない。未だに震える膝が、なによりの証拠だ。
――パァン
前の方から聞こえたその音は、姫木さんの的中音だった。その後、会場から拍手が沸いた。通し矢だったらしい。さすがはAチーム。その名の通り、精鋭が集められたらしい。
それを考えると、BチームのあとにCチームもある。わたしがBチームに配属されたということは、わたしの実力が、Bチームに相応しいと、そう認めてくれているということなのだろうか。もしそうだとすると、とても嬉しい。一年生の中で、的中までに一番時間の掛かったわたしが、CチームではなくBチームに入れた。これは、“そういうこと”だと、勘違いしてもいいよね。
わたしは俯いていた顔をキリっと上げ、胸いっぱい深呼吸をした。熱気を帯びた空気の中、少しだけ甘い香りを感じた。斎藤さんの香りだろうか。髪の香りなのか柔軟剤の香りなのかは分からないけれど、その香りにまた少しだけ、緊張が解れた気がした。
次こそは、きっと……。
「よぉし!」
観客席から不意に聞こえた応援は、開進のものだった。斎藤さんが中てたらしい。
わたしはその的中を受け、繋ぐ意思を強めて引き分ける。漂う甘い香りが、心を落ち着ける。背中からゾワゾワと、鳥肌のようなものが立つのを感じた。そのゾワゾワは、背中から両腕に抜けていった。全身に鳥肌が走るような感覚。
この感覚は好きだ。なんだか、体から邪気が抜けていくようで。
次は大丈夫、中る。
落ち着いて、落ち着いて。
狙いを定める。
……。
放つ。
――ドス
「くっ――」
また外してしまった。一本目同様、後ろに飛んだ。
練習では、平均一本から二本は中るようになっていた。もちろんドス(四本中一本も中らないこと)もあるけれど、それでも的中率は確実に上がっていた。
残りの二本も外してしまったらどうしよう。そんな負の考えが過り始めた。
そうなるともう止まらない。
何をしても中らないイメージ。狙っていても、矢がまっすぐ的へ飛んでいく想像が出来ない。矢がそこに浮かばない。「ああ、これ、中らないやつだ」そう思っていても、いつまでも会を持っておくわけにもいかない。
中らないと分かっているのに、放す。案の定、矢は的に入らない。
三本外してしまった。
――ああ、もう、だめだ。四本目は絶対に中てなきゃいけないと分かっていても、頭が真っ白で、練習通りの射型が出来ていたとしても中るとは思えない。
斎藤さんは二本目と三本目を中て、浜本さんは一本目と三本目を中てている。
――ドス
打起しから引き分けてくる途中、斎藤さんの矢が的下に刺さるのが見えた。柱であるわたしがここで中てて、浜本さんへ繋げなければいけないのだろうけれど、どうあってもこの一本は中る気がしない。引き分ける感覚も、何故か違和感に支配される。いつもと同じように引いているはずなのに。
矢が口割(口の端、口角)につき、会に入る。的を見つめて狙いを定めるが、三本目同様、矢が飛ぶイメージが全く浮かばない。
それでも中てなければいけない。この一本だけは、絶対に。そうでないと、桜井先輩に顔向け出来ない。
桜井先輩は何と思うだろうか……。
――無駄な時間だった。
――この子、やっぱり駄目だ。
――試合に弱いんじゃあ、使えない。
桜井先輩だけじゃない。他の先輩たちも、チームメイトからも。それどころか一年生全員から……。そんな風に思われるかもしれない。
そして高校三年間の弓道人生は、レッテルを貼られたまま過ごすのだろう。
浜本さんだって、表向いては励ましてくれるだろうけれど、心の内ではみんなと変わらないような想いを持つに決まっている。そんな弓道人生耐えられない。そうなったら、弓道は辞めて、弓道部のみんなとは関わらないように三年間を過ごそう。
しっかりと的を見据える。そして、放つ。
――パァン
会場に快音が響き、すぐにまばらな拍手が沸いた。
これは……わたしへではない。皆中をした姫木さんへの拍手だ。
わたしの矢は、その刺さる音が、姫木さんの的中音にかき消されてしまうような場所へと刺さっていた。
的上の、安土だ。
四本全てを外してしまった。ドスだ。わたしは今、どんな表情をしているのだろう。
残心を解き、足踏みを戻し、厳かに退場する。
その間も、「どうしよう、斎藤さんと浜本さんに何と声をかけよう。声をかけられたらどんな顔をすればいいのだろう。どうしよう、どうしよう――」そんなことが延々と脳内を駆け回っていた。
目の奥が熱くなってくる。でも、泣いては駄目、絶対に。出来なかった自分に非があるんだから、「慰めてください、責めないでください」とアピールをしているなんて思われたくない。だから、泣かない。
……こらえる。奥歯をぎゅっと噛みしめて、眉間に力を入れて、唇を噛みしめて、こらえる。
退場し終えるまでに、涙をこらえることは出来た。そしてそのピークも去ってはいるように感じたけれど、簡単にそのスイッチが入ってしまいそうでならない。誰かに何かを言われたら、すぐにでも流れてしまいそうだ。でもそんな時、わたしはこれのごまかし方を知っている。
笑う、だ。
笑ってごまかすと、涙のスイッチに触れている影は徐々に薄くなり、そのまま跡形もなく消え去る。だからわたしは、射場の出口に立っていた斎藤さんへ微笑んで駆け寄った。
「ごめーん、一本も中てられなかったよぉ」
わざと困った顔をして、申し訳なさを滲ませながら、笑顔も半分残しつつ。
すると斎藤さんも微笑んでくれた。
「うんうん、仕方ないよ、わたしだってめちゃくちゃ緊張したもん。二立目、また頑張ろうよ」
満面の笑みでわたしの肩を、ぽんぽんと叩いてくれた。
――パァン
快音に射場を振り返ると、浜本さんが残心を取っていた。さすが、的中させたらしい。浜本さんは三中。見事だ。
退場口で浜本さんを待つ。斎藤さんは満面の笑みを浮かべているが、わたしはその表情になれる権利を持っていない。薄く、微笑んで迎える。
退場を終えるその瞬間まで、浜本さんは無表情を貫いていたが、一歩射場を出た瞬間――「あああ、疲れましたぁ!」と、両肩をぐだっと下ろして見せた。
「さすがだね、浜本さん。落、お疲れさまでした」
わたしは哀愁の混じったような笑顔を浮かべ、浜本さんを労った。
斎藤さんは、はちきれんばかりの笑顔だ。
「浜本さんっ、しっかりと役目を果たしてくれて、ありがとう!」
浜本さんは少し照れたように答えた。
「なんとかやれましたが、正直、緊張で体が思うように動きませんでした。きっとまぐれです。斎藤さんも、御前の立ち回り、しっかりしていました。ありがとうございます」
まぐれ、か。わたしもまぐれで、一本くらい中れば良かったのに……。
なんて、そんな事を考えてしまうけれど、まぐれで三本も中てられるような、そんな簡単な競技ではない。それは私自身、身をもって体験しているからよく分かる。浜本さんはそう言っているけれど、まぐれなものか。彼女の実力だ。謙遜するのは浜本家のお家芸なのだろうか。
ここは素直に、喜んでほしかった。そうでなければ、ドスったわたしが浮かばれない。
それに斎藤さんの、「役目を果たしてくれてありがとう」という言葉と、浜本さんの、「御前の立ち回り、しっかりしていました。ありがとうございます」にも、胸が苦しくなった。
役目を果たせなかったわたしは、チームからの称賛どころか、労いの言葉ももらえない。的中は出来なかったけれど、わたしだって一本一本一生懸命に引いたんだ。少しくらい「進藤さん、頑張ってたね」みたいな言葉……欲しい。
高望みだろうか。
「まだ一立目が終わっただけです。二立目も、頑張りましょう」
浜本さんはそう言うと、わたしと斎藤さんの目を見て、力強く頷いて見せた。
その目は、普段おっとりしている浜本さんからは想像も出来ないくらい、強い意志を感じた。その目にわたしの心は、引きずり出される感覚に陥った。
ああ、駄目だ駄目だ、心が弱い方へ流れてる。さっきからマイナスの事ばかり考えてしまう。
働いていない者に、労いの言葉はない。称賛の言葉もない。そんなの当たり前か。
次こそは、中ててみせる。絶対に。
次の立まで時間がある為、一度控えの体育館へと戻った。
そこで待っていたのは、腕組みをしてわたしをじっと見つめる鋭い眼光。桜井先輩だった。
わたしはそこへ、吸い込まれるように向かった。
桜井先輩の前に立つ。わたしは俯いて、「……すいません」と呟くように吐いた。
桜井先輩は、あからさまなため息をひとつ吐き出すと、少し強めに、でも静かに、こう言った。
「次もドスったら、分かってるわね」
いつも聞く声よりはるかに低い声が、よりわたしを追い詰める。未だ先輩に感じた事のない恐怖が、心を支配する。
「はい、次は、中てます」
そう言うだけで精一杯だった。恐怖のせいか、喉が詰まって、その言葉すら上手く出てこなかった。去っていく桜井先輩を見るのも恐ろしかった。
もし次もドスったら、一体どうなってしまうのか。桜井先輩は、もう二度とわたしと口を聞いてくれなくなるような、そんな気さえする。
もう、二立目なんて来なければいいのに……。
その場に両膝を抱え込むように座り、その中に顔をうずめた。
膝が少しだけ、震えていた。
第八話「震える膝で、前へ」中編 終わり




