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第七話「射の行方、迷いの矢」後編

 いつもの練習中、桜井先輩に教わっている時、背後から乾いた音が聞こえた。


 ――ドス


 安土に矢が刺さった音だ。練習中にこの音は、何十回何百回と聞くことになるが、ことこの時に関して、わたしにとっては一大事の大事件だった。背後で引いていたのが、姫木さんだったからだ。練習や試合を含め、彼女が外したところは初めて見た。

 すぐに後ろを見やると、姫木さんは残心から戻るところだった。

「ひ、姫木さん! 今、外したのわざと!?」

 体ごと振り向き、わたしは思わず大きな声を出していた。

 すると姫木さんは、外したことを特別に感じていないような、いつも通りの表情のまま答えた。

「いいや、しっかり狙ったが、外れた」

 姫木さんは、なんなら少し微笑んでいた。そしてこう続けた。

「弓道をやっていると、たまにあるんだ。いつものように狙い、いつものように放しているのに、いつもと違う場所に矢が固まり始める。まあ俗に言う、スランプってやつだな」

 スランプと聞くと、そこを脱するまでに途方もない練習量と、夜も寝られないくらい悩み抜くことが必要なイメージがある。しかし彼女は、そんなことは微塵も感じさせない様子で弽を外し、矢上げへと向かった。

「桜井先輩、スランプって、一度なると大変ですよね」

 射型を見てくれいていた桜井先輩へ聞いてみた。先輩はこちらをちらと見ると、再び矢上げ道を歩く姫木さんへ視線を戻した。

「まあ、普通の人ならね」

「まるで姫木さんが、普通の人じゃないみたいな言い方ですね」

 わたしは含み笑いをしてそう言うと、先輩は珍しくケラケラと笑った。

「あはは、普通じゃないでしょあの子は」

 先輩のその発言に、わたしも同調し、声を出して笑った。

 よかった、姫木さんが普通じゃないって感じてたの、わたしだけじゃなかったみたい。

 続けてわたしは聞いてみた。

「さっき姫木さんが言ってたことって、よくあるんですか? いつものように引いてても違う場所に固まり始めるって」

「うん、あるよ。私も経験ある。そういう時はどこが悪いのか分からないから、狙いだけ修正したりするんだよ。でもそれをスランプと位置づけるのが正しいのかは、ちょっと疑問だね」

 どちらにしても、その“スランプ”という言葉は、わたしにはまだ遠い存在のような気がしたので「へぇ、そうなんですね」とだけ返して、矢を番えた。

 そう言えば陸上部の時にも、わたしはスランプとやらを経験することなく、その生活を終えたのだった。大会のメンバーの子たちは「タイムが伸び悩んで」とか、「フォームが定着しなくて」とか言っていたが、非メンバー民のわたしにとってはよく分からない悩みだった。

 この弓道部では、わたしはスランプを経験することになるのだろうか。スランプを経験するほど、上手くなれるといいけど……。

 そんな風に思いを巡らせていると、わたしの矢は明後日の方向へ飛んだ。

「どこ飛ばしてんのよ、あんたにスランプはまだ早いわよ」

 桜井先輩の冷たい言葉が、わたしの的を貫いた。

 その後、定刻の十八時半まで、みっちり桜井先輩の指導が続いた。



 *  *  *



 八代大会の一週間前の土曜日、三宅さんが道場にやって来た。

 土曜日なので全員私服で練習に来ている中、三宅さんは律儀に制服を着ていた。黎誠の制服は、薄い水色のセーラーと同色のプリーツスカートだ。暑くなってきたこの時期には、見た目からも涼し気で、そこに立っていてくれるだけで風鈴の役目を果たしてくれそうだと、そんなことが過った。しかしそんなことを、他校と言えども先輩の方に思ってしまうのは失礼かと、頭をぶんぶんと振った。

「こんにちは、黎誠の三宅です。よろしくお願いします」

 三宅さんは、かつての毒々しい雰囲気からは一変しており、爽やかな笑顔で頭を下げた。

「いらっしゃい、どうぞよろしくね」

 佐藤先輩が、荷物を置いている場所の方へ促しながら、そう言った。

 三年生メンバーは、「よろしくねー」みたいな気の抜けた挨拶をしていたが、わたしたち一年生メンバーと吉高先輩は、「よろしくお願いします!」と、一同声を揃えた。声が自然に揃うようになったのも、桜井先輩の、日ごろの指導のお陰だろう。

 三宅さんは、どこか慣れた様子で荷物をそこに置いた。そして持ってきていた弓と矢筒も、近くの壁に立て掛けた。

「三宅さん、もうわたしたちに噛みついたりしないよね」

 わたしは姫木さんへ、こそっと耳打ち(身長差がありすぎて耳には届かないけれど)をした。姫木さんは腕組をしたまま、わたしへと視線を落とした。

「さあ、また何かきっかけがあれば、“元に”戻るかもな」

「ええ……やだなぁ」と思いつつ、姫木さんを見る。わたしの顔が不安に満ちていたのだろう、姫木さんはこちらを見るなり。

「あははは! なんだその顔は!」

 と、珍しく声を出して笑った。わたしは慌てて両手で顔を隠し、顔を作り直して改めて姫木さんを見た。「ふふん」と微笑んで見せる。姫木さんは、「変なやつ」と少しだけ口角を上げた。

 姫木さんはそのまま、矢田先輩を連れて射場へと消えていった。

 わたしも、もたもたしていられない。まだまだ的中率が上がらないのに、大会はもう一週間後と迫っているのだ。

「桜井先輩、巻き藁、お願いします」

 わたしは、アイスをぺろぺろと舐める桜井先輩へ声を掛けた。

 このところ桜井先輩に、「射場に行く前には必ず巻き藁で調子を整えるように」と言われていた。いきなり射場で引くと、変な癖がついたり早気になったりするとの事だった。

 まだ基礎のついていない今だからこそ、綺麗な射型を体に染み込ませていきたい。その綺麗な射型が、癖になればいい。そんな風に考えた。

 しかしどうだろう、桜井先輩の指導はかなり厳しい。「まだ伸びてないでしょ、何で放すのよ!」「離れの切れが悪い、もっと弾いて!」「引き分けが汚い! 最初が汚いと会が汚くなる!」などなど。毎日練習が終わる頃には、肉体的にはもちろん、精神的にも疲れ果て、帰りの自転車を漕ぐ足に力が入らないのだった。

 浜本さんは、そんなわたしによく声をかけてくれる。「桜井先輩はとても熱いお方ですね。ああいう方に指導を頂くと、きっと上達も早いのでしょうね」というセリフ。もう何十回も聞いた。励ましというよりも、どちらかと言えば、桜井先輩の指導を受けられて、羨ましがられているようなニュアンスではあるけれど、しかしそう言われると、俄然やる気が出てくるのもまた事実。わたしはこの、浜本マジックに乗せられ、今日もまた桜井先輩の熱い指導を仰いだのだった。

 先輩はアイスを持ったまま、ひょいっと立ち上がった。

「おっけーよー、やろやろ」

 入口は軽いが、指導に入った途端いつもスイッチが入る。最初は戸惑ったが、もう今では慣れっこだ。

 案の定、巻き藁一本目から、「昨日言った事がもう出来てないじゃん!」と、怒号が飛んだ。

 怒鳴られつつ巻き藁を二十ほど引いた頃、「よし、射場いこうか」と、ゴーサインが出た。

 後ろで見ていた三宅さんが、

「厳しい指導してるんだねぇ」

 と、佐藤先輩に話しかけていた。佐藤先輩は、微笑みながら答えた。

「んー、厳しいのは南央だけだよ。今までそんな感じじゃなかったんだけど、一年生に指導する時は熱くなってるねえ。これまでは、後輩が一人だったからそんな一面は見せなかったけど、もともと、後輩育成には熱心なタイプなのかもね」

 佐藤先輩はそう言うと、わたしへガッツポーズをして見せた。わたしもニコっと笑みを浮かべ、佐藤先輩へガッツポーズを返した。


 射場へ入ると、姫木さんが引いていた。

「んー、もうちょい前、あー行き過ぎ、ちょっと後ろ、そこ」

 姫木さんの後ろから矢田先輩が、「山野酒屋」と印字されたビールケースを逆さにし、その上に立ち、姫木さんの狙いを覗き込む様に見ていた。

 びゅん、と鋭い矢音の後、「ドス」という乾いた音が鳴った。相変わらずスランプらしかった。

「今ので真っすぐ?」

 姫木さんが矢田先輩に聞く。

「うん、真っすぐだったよ」

 矢田先輩はケースに乗ったまま、両手を腰に当てて答えた。その目線は、姫木さんとほとんど同じ高さだった。その光景が、ちょっと可愛くも可笑しくも、微笑ましく映った。

 的の方を見ると、姫木さんの矢は一本だけ的中していたが、他の三本は的近くではあったが、バラバラに飛んでいた。最後の一本は的前だった。

 姫木さんは弽を着けた方の手を、顎に当てた。

「何故あれで前に飛ぶんだ」

 矢田先輩は腰に当てていた両手を、今度は手のひらを上に向け、「さぁ」みたいなポーズを取った。首をすくめたのが、おませなこどもみたいで、それも可愛く見えた。

「そんなんで、八代大会大丈夫?」

 おませな矢田先輩が聞くと、姫木さんは弓を立て掛け、弽を外しながら答えた。

「問題ない。中てようと思えばいつでも中てられる」

 きっぱりと言い切った。

(いつでも中てられるなんて、やっぱり姫木さんはかっこいいな。)そんなことを思ったと同時に、(いつでも中てられるなら、今も中てればいいのに。)とも思った。すると同じことを、矢田先輩が口に出していた。

「じゃあ、今も中てたらいいのに。その方が、今の感覚覚えられるじゃん」

 すると姫木さんは、表情を一切変えずに答えた。

「弓道は、中てること自体には何の意味もない。的はただの目安。的中というのは、その目安に矢が飛んだだけのことであって、それが“射型として正しい”とはならない。そもそも、的中を一点とすること自体、私は間違えているとすら考えている。的中に拘り過ぎて、弓道としての本質を見失っている気がしないか。成績なんて、どうでもいい」

 そう言って弽を置くと、矢上げへと向かった。

 弓道としての本質……か。姫木さんの提唱している、「綺麗な射であれば、的中はついてくる」という、アレかな。

 わたしは中てようと思っても中てられないので、今は射型を綺麗にすることだけに集中している。でもいつか、その目的を見失って、的中に拘るようになってしまうのだろうか。

 そんな時、ふと過ったのは、煌永の九条さんの射型だった。

 彼女の射型は毎回バラバラで、姫木さんの言っている射型なんて、二の次三の次と言った様子だった。でも正直、中てていると、それがかっこよくも見えていた。そして何より、“成績を残す”ということはとても大事で、その為に練習を頑張っているのだと思う。

 姫木さんの目指しているところは、わたしたちの目指している場所よりも、ずっとずっと先なのだろう。高校を卒業して、大人になって、生涯弓道をやっていきます、って人が目指す場所を目指しているんだと思う。

 でもわたしは、大会で良い成績を収めたい。それはつまり、「中てたい」ということ。射型が大事ってことも分かるけど、それよりも、中てたい。

 そう考えていると、こんな思考が過る。チーム戦の大事な一本を、姫木さんの信念である“射型”に拘って外す、なんてことはないだろうか。……彼女は、自分の考えは絶対に曲げないような気がする。

 そんな時、どうするかを直接聞いてみたい気もするけれど、聞いてしまったら、わたしが大事な一本を引いている時、そのことがちらつきそうで怖い。

 姫木さん、自分の信念と、チームの成績、あなたはどちらを選ぶの?

 遠ざかる姫木さんの背中が、何だかいつもより小さく見えた。弓と矢筒を壁に立て掛けると、矢筒のキーホルダーが、かたりと揺れた。





第七話「射の行方、迷いの矢」後編 終わり


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