第七話「射の行方、迷いの矢」中編
道場へ着くと、みんなで弓を出し、早速新しい弽を手にはめた。
「えっ」
その弽をはめて驚いた。全体が硬いことは当たり前なのだが、特に帽子部分(親指部)が硬いことに気付いた。こんなに硬くて、引けるだろうか。と不安に思っていると、その不安を口に出していたのは浜本さんだった。
「これまで使っていた弽とは全然違いますね。自分の弽というのは嬉しいですが、これで引けるのか少々心配になります」
少し困ったような笑顔を見せつつ、白井さんに語り掛ける。すると白井さんは、手にはめた弽を色んな角度から眺めながら答えた。
「そうだね。ちょっと怖いけど、でもやっぱり私は、“嬉しい”が勝つかな」
そう言ってニコっと笑って見せた。目つきの鋭い白井さんが笑うと、その目はキツネみたいに細くなった。
わたしは改めてその弽を見つめた。これまで使っていた弽は、帽子の付け根辺りが多少は曲がるため、そのお陰で弦をしっかり掛けられていたように思える。しかしこの弽は、帽子の付け根から先端まで、どこも曲がらない。多少は曲がるのだが、その範囲は知れている。使っていくと、馴染むのだろうか。
一年生メンバーがそうやって、各々の新品の弽を愛でていると、佐藤先輩の声が一同の注目を集めた。
「はーいみんなー、ちょっと聞いてー」
そちらを見ると、佐藤先輩が立っており、他の先輩たちはその周りに座っていた。何だか意味ありげに、みんなこちらに体を向けている。
一年生メンバーはちょっと身構え、おずおずと座り始めた。
「あ、そんなにかしこまらなくていいんだけど」
佐藤先輩は両手のひらをこちらに向けて、少し困った表情を浮かべた。が、すぐに笑顔を作り直して続けた。
「私たち三年生は、先日の総体で引退となりました。地方の大会には出られるんだけど、公式試合はもうないから、これからは一年生の育成に力を入れていきます。それも、マンツーマンで! 早速だけど、誰が誰につくか発表するね」
一年生たちは一瞬ざわついたが、皆、真剣な目を佐藤先輩に戻した。佐藤先輩は片手を腰に当て、もう片方の手で、該当の先輩と一年生を仰いだ。
「まずは、大塚さんと武田さん。高柳さんと白井さん」
いつもと違う呼び方で違和感があるが、この発表がそれだけ大切なものだということなのだろう。
「真鍋さんと上戸さん。三木さんと久留須さん。吉高さんと斎藤さん」
名前を呼ばれた子たちは、不安なのか期待なのか、入り混じった複雑な表情をしている。
「桜井さんと進藤さん」
自分の名前を呼ばれて、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
わたしのペアは、桜井先輩らしい。ちょっと怖い先輩だけど、怒ったりしたところは見たことないから、きっと大丈夫だよね……。
大丈夫……だよね?
少し不安になってきた。
佐藤先輩の発表は続く。
「矢田さんと姫木さん。そして、私、佐藤と浜本さん。以上です。吉高さんは二年生で申し訳ないんだけど、一年生の指導についてもらいます。指導をしながら、私たち三年生全員で吉高さんを見ながら、みたいにしていこうと思っています。いいかな?」
佐藤先輩がそう言うと、一年生は声を出さずに“うんうん”と頷いた。すると桜井先輩の声が控室に響いた。
「返事!」
一瞬で空気が張りつめた。わたしたちは驚いたが、「はい!」とばらばらに声を上げた。
こんなに厳しいテイストだったか? と思い、その厳しい桜井先輩の発言に、佐藤先輩が何かフォローを入れるかと思ったが、佐藤先輩は「じゃあ、そういう事だから」と、いつもの様にニコっと微笑んでその場に腰を下ろした。
一年生メンバーは、先ほどまでお喋りをしながら道具を出して、各々の弽をはめてみてキャッキャと燥いでいたが、今では誰も喋り出せないでいた。それどころか、その場から動けずにいた。
すると、桜井先輩は何かに気付いたらしく、固まった一年生メンバーへ、座ったまま向き直った。
「部活だから返事はしないとだから、ね。わかった?」
一年生たちからは、またしてもバラバラに「はい!」と返事が上がった。すると桜井先輩が「声を揃えて!」と、またしても厳しめに言った。
「はい!」
今度は声が揃った。すると桜井先輩は、親指を立てて「オッケ!」と言い、続けて「分かったら散る!」と両手で、一度だけバッと追い払う仕草をして見せた。一年生たちは一斉に立ち上がって、準備の続きに取り掛かった。
桜井先輩、やっぱり、怒っているようで怒っていない……のか? 全然掴めない人だ。
準備がある程度終わる頃、三年生がわらわらと立ち上がり、さきほど発表があった子たちのところへそれぞれが向かった。
わたしの元へは……恐怖の桜井先輩。
「よ、よろしくお願いします!」
すでに目が怒っているように見えるが、これは、どうなんだろう。
わたしがそう身構えていると、桜井先輩は両肘を抱きながら辺りを見渡した。
「じゃあ最初は何しよっか。筋トレか、巻き藁か、それともゴム弓か」
そう言いつつ、桜井先輩はわたしの顔をじっと見つめてきた。何も言われないが、つい「は、はい!」と返事をしてしまった。同時に、頬がぴくりと引きつったのが分かった。背中には嫌な汗が流れる。
「私、進藤さんの射型とか的中率とか、全然知らないや」
取って食われるかと思ったが、そう言われて、全身の力が一気に抜けた。しかし、肘を抱いたまま片手を顎に持っていくと、またしても、しばらく何も言わず見つめてきた。再び全身が固まり、汗が噴き出る。そして少しだけ目の力を抜いて、口を開いた。
「とりあえず進藤さんの現状を知りたいから、巻き藁でも引こっか」
怒られるかも、と思っていたが、そんなことを言われたものだから体の硬直が、一気に解けた。いちいち意味ありげに間を取るのは、癖なのだろうか。……本当に疲れる。
そんな風に思っていると――
「返事!」
と、桜井先輩の声が鼓膜に刺さった。耳の奥で、キィーンと鳴る高い音の中必死に、「はい!」と答える。自分の声も聞こえないくらいに、耳が鳴っている。
視界に入って気づいたが、その桜井先輩の声で、控室のほぼ全員がこちらを見ていた。
早速、わたしが怒られたみたいに映ってはいないだろうか。(これじゃあ役得の逆バージョンだよ。)そう思いつつ、巻き藁を引く準備をした。
巻き藁の前で矢を番えると、新しい弽を使う高揚感と、桜井先輩が目の前に立っている恐怖が入り混じった。
番え終わり、桜井先輩をちらと見る。すると先輩は何も言わず、目くばせだけした。おそらく、「どうぞ」という事なのだろう。
巻き藁に向き直り、打起し、ゆっくりと引き分ける。なんだか、弽が手から“スポッ”と外れそうでならなかったが、そのまま会まで引いた。そして、離れ。
――ズドン、という低い音が控室に響く。
――あれ?
離れた際、若干引っかかる感じがあった。
(山、もう少し低くしたがよかったかな……)
帽子の腹を見ながらそう思っていると、桜井先輩が口を開いた。
「どうしたの、離れが切れないの?」
「はい、新品だったから山を高めにしたんですけど、ちょっと引っかかるかなって」
先輩はわたしの弽をぐいっと掴んで、帽子の山を見た。少し手首が捻じれて痛かったが、そんなこと言ったら、また桜井先輩の機嫌をそこねてしまうかもしれない。ここは我慢だ。
「まあ、確かに高いけど、離れを良くする機会だと思うといいかな」
わたしが、「え?」と返すと、先輩は続けた。
「そのくらいの山なら、親指をしっかり弾けば問題ないよ。これで引っかかるということは、普段から弾くことを疎かにしていた証拠かもね」
そう言って先輩は、顔は弽に向けたまま、目だけでこちらをぎろりと見た。
体がびくりと跳ねた。「また怒られるかも……」そう思ったが、先輩は弽をパッと離した。
「意識しているだけですぐにコツは掴めるから、頑張って」
真顔のままそう言うと、巻き藁に刺さったままだった矢を抜いて、わたしへ手渡してくれた。
矢を受け取り、改めて矢を番える。そしてもう一度、弽の山を見た。
しっかりと離れを切る……か。桜井先輩がそう言うなら、レベルアップのチャンスと思って、挑戦してみよう。
数本巻き藁を引き、桜井先輩の号令の下、射場へ入った。そして新品の矢を出す。
綺麗にピンと張った羽根は、まっすぐに切り揃えられており、指で触るとしっかりと芯を持っていた。自分の矢を持つなんて、考えてもいなかった。
なんだか、これでようやく“弓道人になった”という、誰も求めていないであろう自分だけの満足感が、そこにあった。
すると背後から、桜井先輩の声がした。
「進藤さん、弽が新品だから、しばらくはボロ矢で引いたほうがいいかも」
「あ、はい……」
少し残念な気持ちが、顔に出ていたかもしれない。せっかくの自分の矢なのに、まだこれは飛ばせないというのだから、そんな顔になるのも仕方がない。
その理由を聞くと、新品の弽で違和感のまま矢を飛ばすと、滑車したり暴発したりで、早速矢を傷物にしてしまうからだとのことだった。マイ矢を使うのは、もう少しこの弽が手に馴染んでからにしよう。
そう指摘されたのはわたしだけではなかったようで、他の一年生たちもボロ矢で挑んでいた。ただ一名、姫木さんを除いては。
彼女は新品の弽をはめ、その感触を確かめるようにゆっくりと引分けていた。山が低くて丸くて、さらにはツルツルの鮫皮とやらが貼ってあったのに、どうして暴発しないのだろう。不思議でならない。
会に入ると、しばらくの後――ブンっと音が聞こえるほどの速度で離れを切った。
射場に快音が響くと、姫木さんは弽を見ながら言った。
「すごいな……本当に、押しただけで離れが切れる」
姫木さんはそう言って、弽を着けた手を見つめた。彼女のような経験がたくさんある人でも、まだ経験のない事もあるんだなと、姫木さんを少しだけ近い存在に感じた。しかし、そう感じただけで、ただでさえモンスターみたいな的中率を誇っている彼女に、更にはとんでもなアイテムを装備させてしまったところを鑑みる。すると、その存在が、決して手の届かない存在となっていることは容易に想像ができた。
わたしって、とんでもない人に教えてもらえていたんだな……。
いつの間にか神妙な顔になっていたらしい、姫木さんが「なんだ、私の何かが気になるのか」と、問われてしまった。わたしは慌てて矢を持った右手を、ブンブンと振って否定した。
そして、「よしっ」と気を引き締めて射位に進んだ。桜井先輩も、並んでついてきた。
ここ最近の的中率は、八本引いて一本中ればはなまる、といったところだ。まだまだ低い的中率だけど、姫木さんや九条さんだって、同い年の女の子だ。姫木さんの体格はさておき、九条さんはわたしより少し大きいくらいで、極端な違いはなかった。それでいて、あの的中率だ。わたしも同じくらいの的中率を出す事ができる、ということだ。
どんな練習をしてきたかは知らないし、とても辛い練習ならちょっと敬遠しちゃうけど、それでも憧れてしまう。絶対的な信頼を得られるような的中率に。
そんな風に目標を、密かに胸に打ち、すぅっと息を吸い込んで打ち起こした。
巻き藁を引いていたお陰か、先ほどのような違和感は多少は消えていた。そしてさらに気付いたことがあった。
今までは帽子の付け根が折れていたせいか、弦を掛けていた部分を握り込むように力んでしまっていたが、この新品の弽は硬いお陰で、握り込むような力を入れずに引ける。「新品の弽は力入れて引くと、帽子が折れるから気を付けてね」と、吉高先輩が教えてくれていた。これまで使っていた弽は、帽子が折れていたのかもしれない。
力まず引き、会に入る。そして、しっかりと十字方向に伸びる。この伸びるという感覚も、最近分かってきた。
そして、離れは親指を――弾く!
――パァン
快音が響いた。
「おお!」
中ったことに一番驚いたのは、わたし本人だった。桜井先輩は、眉ひとつ動かさずにわたしの体をじっと見つめたままである。そして一言、「なるほど」とため息をつくように言った。
離れを思い切り弾いてみたが、巻き藁の時のような引っかかる感じはなかった。
「まあ気になるところはあるけれど、さっきの巻き藁より、全然良かったよ」
桜井先輩は、いつもの肘を抱いた格好で、そう静かにもらした。
続けて、二本目三本目、と、四本目まで全て引いてみたが、感覚こそ悪くはなかったものの、的中はしなかった。
「なるほどね。進藤さん、あなたは押し手が前に振られているのと、併せて離れが前で切れているみたいね。所謂、“前離れ”というやつよ。前者は、しっかりと押せずに弓の力に負けていて前に振られている。後者は弽が新しくなったせいか、離れがまだ切れていないみたいね」
その指導の内容を細かく聞き、ひとつずつ改善していく。しかしこれが、なかなか難しかった。こっちを直せばこっちが出て、またこっちを直せば……。といった具合に、全体が完璧になることはなかった。結局定刻までに、「今のはよかったね」と言われることは一度もないままだった。
先輩に見てもらってとても疲れたけど、なんだか今までで一番、“練習した”という、達成感があった。
姫木さんに見てもらっていても、上達してるという満足感はあったけど、先輩に見てもらっているとういうことが、そんな風に思わせているのかもしれない。
でもそれと同時に、「これからずっとこんな調子なのか……」という絶望感も襲ってきた。
一年生みんなで後片付けをしていると、またしても佐藤先輩の声が響いた。
「おつかれさまでしたー」
全員がそちらに注目した。
「部活始める時に言いそびれてたんだけど、再来週の日曜日に、一年生には大会に出てもらおうと思います」
またしても一年生から、ざわざわと声が漏れた。佐藤先輩は続けた。
「地方大会だから全然かしこまることはないんだけど、一年生には試合慣れしてほしくってエントリーしました。“八代大会”という大会です」
その“大会”というワードを聞いて、心臓を掴まれた感覚を覚えた。
わたしが、大会に出るのか? この悲惨な的中率で?
そう思う度に、大会で恥をかいている自分が思い浮かんだ。そしてそれと同時に、“あの時”自分だけが矢を飛ばせなかった記憶が蘇った。
一瞬にして、握った手が汗で濡れる。足も震えた。
佐藤先輩の案内は続いた。
「チームももう考えてます、よければ、今日もう発表しちゃうけど、いい?」
そう言うと、矢田先輩が「うん、早いほうがいいよ」と促した。佐藤先輩はスカートのポケットから、四つ折りにした紙を取り出した。
「それじゃあ、発表しちゃうねー」
一同は、固唾を飲んだ。
「御前から順にいくね。あ、ちなみに三人チームね。えーっと、まずはAチーム。上戸さん、白井さん、姫木さん」
早速出てきた姫木さんの名前に、一年生からは「おー」という声が上がった。姫木さんは表情ひとつ変えずに、床をじっと見つめている。
「次、Bチーム。斎藤さん、進藤さん、浜本さん」
準備はしていたが、やはり名前を呼ばれてどきりとする。わたしが中をするのか。落よりかはプレッシャーが少ないかもしれない。けれど、もうチームに入っているという、ただそれだけで、絶大なプレッシャーがわたしを圧し潰そうとしていた。
浜本さんを見ると、彼女もわたしをじっと見た。
「進藤弓さん、わたくし、嬉しいです。あの時一緒に部活紹介を見ていた子と、同じ立に入って試合に挑む事ができるなんて」
浜本さんは、胸に両手を当ててそう言った。わたしも気持ちを共有したかったけれど、そんな余裕はなかった。浜本さんへは、「そうだね、頑張ろうね」と微笑んでおいたが、顔が引きつっていたかもしれない。
「Cチーム。久留須さん、武田さん、吉高さん」
佐藤先輩がそこまで言い終わり、一同は「これで全部かぁ」とざわつきだした。しかしその後の「一チームだけ三年生も出ます。Dチーム」という、続いた佐藤先輩の発表に、一同が一気に静まり、一斉に注目し直した。
「三年生も出るのですね。公式戦でなくとも、やはり試合には出たいものなのですね」
浜本さんはにこやかにそう言った。
そして佐藤先輩の声が発表を告げる。
「御前は私、佐藤。中は矢田さん、そして落は――」
そこまで聞いて、そのメンバーなら落は桜井先輩だろうと、誰もが思っただろう。しかしそのメンバーは、意外も意外、まったく想像もしない人だった。
佐藤先輩はそこまで言うと、みんなの方を見渡し、溜めた。そして、まるで小学生になぞなぞの答えを教えるみたいに、いたずらに笑い、口を開いた。
「落は、三宅さんです」
先輩たちは知っていたのか、その発表を聞いて騒ぐ人はひとりもいなかった。しかし一年生側からは、「え、黎誠の!?」「同じチームで出ていいの?」などと声が上がっていた。
満足そうに言い終えた佐藤先輩は、「さあ、聞きたい事ある人いるでしょ」と言わんばかりに、腰に手を当てたまま、誰かが“その事”を質問するのを待った。誰も聞きそうになかったので、わたしが手を挙げた。
「あの、他校の人とチームを組んでもいいんですか?」
そう聞くと、佐藤先輩は「うんうん」と頷きながら答えた。
「八代大会みたいな地方大会は、誰とチームを組んでも問題ありません。三宅さんとは今回、ちょっと問題があったけど、周知の通り矢田さんと仲直りしているようだし、それに――」
そこまで言って佐藤先輩は矢田先輩を見た。すると矢田先輩は微笑んで、小さく頷いた。
「三宅さんとチームを組むというのは、矢田さんの希望なのよ。それで早速なんだけど、今度の土曜からここに来てもらって、一緒に練習することになってます。八代大会までだけどね」
そう言って佐藤先輩は、ウィンクをして見せた。少し下手くそなのが、かえって可愛かった。
三宅さんが、この道場に来るのか。あの時の別れ際の一幕を思うと、少し楽しみでもある。
“異文化”というと言いすぎではあるけれど、これまで違う環境で練習をしてきた人だ。わたしが触れてこなかった“空気”を、運んできてくれることを期待してしまう。
来週の土曜からか……。大会までは、一週間だけ一緒に練習することになる。その一週間で、わたしのこの心の奥にある、不安な気持ちも払拭してくれるだろうか。
一縷の望みを胸に、あの時の三宅さんの笑顔を思い浮かべた。
第七話「射の行方、迷いの矢」中編 終わり




