第七話「射の行方、迷いの矢」前編
トーナメント、第二回戦一試合目、開進対煌永。
現在二本引き終わって、開進十射七中、煌永十射十中。
煌永は噂通りの圧巻の的中率で、注目していた九条さんだけではなく、御前から四番までの子たちも、的中マシーンの様に快音を響かせていた。
しかし九条さんは更に別格だった。一本目と二本目ともに、軽やかに引き、何でもないように中てていた。
佐藤先輩が言った、「いまの私たちなら、もしかしたらやれるかもしれない」という言葉を胸に、応援席のわたしたちは熱い眼差しを射場へ向けていた。
煌永が一本中てる度に鳴る地響きみたいな応援は、黎誠の比ではなかった。女子の応援も大きいが、男子の重く低い声が、座っている座席をも響かせた。
浜本さんも滅入っているようだったが、中でも、武田さんの顔色が見る見る悪くなっていった。
「武田さん、大丈夫?」
声を掛けると、武田さんは虚ろな目でわたしを見た。
「煌永の応援がみぞおちにも響いて、気分が……。ちょっと、シートで休んでいようかな。応援していたいけど、これ以上悪くなると、みんなに迷惑かけちゃ……うっ」
そう言って、口を抑えた。わたしは急いで武田さんを介抱すると、上戸さんも手伝ってくれた。シートへ武田さんを寝かせると、上戸さんがうちわで優しくあおぎ始めた。
「進藤さんは応援に行っていいよ。ここは任せておいて」
武田さんが心配ではあったが、煌永のものすごい迫力に、先輩たちが気圧されていないか不安だ。上戸さんの言葉に甘え、武田さんに「ゆっくり休んでね」と声を掛けて急いで席に戻った。
席へ戻ると、ちょうど九条さんと姫木さんが三本目を引くところだった。
二人はほぼ同時に打ち起こした。姫木さんの鋭い眼光に対して、九条さんは半分下りたまぶたのまま的を見つめていた。音も無く、力みもせず引き分ける彼女のその様子は、まるで弓を引く真似だけしているように見えた。
そして二人はほぼ同時に離れた。響く快音はふたつ。すかさず応援をしたが、わたしたちの声は煌永の応援にかき消されてしまった。
それにしても不思議だ。九条さんが引いた一本目と二本目、そして今引いた三本目。全ての射型が違っていたのだ。極端な違いはないのだけれど、押し方や離れ方が、毎回違うように見えた。どこがどんな風にと聞かれると、分からないけれど……。でも彼女の射を見ていると、「射型を大事にすれば、的中は後からついてくる」という姫木さんの教えが、少しずつわたしの中から抜けていくようでならなかった。
その後煌永の爆発的な的中は止まることを知らず、開進はあっさりと負けてしまった。
開進「十三中」、煌永「十八中」という、大差をつけられての敗北だった。的中が伸び悩んだ要因は、煌永の迫力のある応援が絶対的だろう。それに加えて、元々煌永が持っている的中率の高さも相まって、このような差がついてしまった。
しかし姫木さんはそんな大きな応援の中、まるでひとりだけ違う世界にいるみたいに静謐な空気を纏い、眼光こそ鋭さはあったが、静かな射を見せていた。退場するその背中に浴びる皆中の拍手は、この空気の中よくぞ中てた、という称賛でもあったように感じた。
わたしたち一年生は急いで控えへと向かい、先輩たちを迎えに上がった。
遠的射場で待っていると、先輩たちがこちらへ向かってきている姿が見えた。トーナメント敗退はしてしまったが、みんな笑顔だった。三年生は引退試合の最後の立だというのに、悔しくはないのだろうか。
わたしたち一年生の姿を見つけるなり、佐藤先輩は口を開いた。
「みんな、応援ありがとう。私たちの弓道はここまで。いいとこまで行きたかったけど、煌永と当たったのが運の尽きだったかな。これからは一年生の指導に、全力を尽くすよ。本当に、ありがとう」
そう言ってわたしたちへ頭を下げた。そして三年生メンバーにそれぞれ視線を送りながら、改めて言葉を送った。
「それからみんな、三年間ありがとう。部活説明会で初めて会った日が、本当に昨日のことのように思える。三年間なんてあっという間だったけど、私たちは、きっとどの弓道部よりも濃密な三年間を過ごしたと、そう思ってる。いろんな地方大会に行ったのもそうだけど、中でも、都城大会に行った時、春が線路で寝ちゃって急行列車を停めちゃったのは、笑えないけど一番の思い出かな」
そう言うとクスクスと笑い声が上がった。佐藤先輩は続けた。
「部活を引退して、これからは進学やら就職やらで忙しくなるけど、もしよかったら、卒業まで、いつもの北岡弓道場に来てくれたら嬉しい。改めて、みんなありがとう」
佐藤先輩はもう一度頭を下げた。みんなは優しく微笑んでおり、佐藤先輩へ拍手を送った。
やっぱり、わたしの知らない物語を、先輩たちは持っているんだ。それはきっと、とても綺麗で素晴らしい思い出なんだろうな。一年生の時にみんな出会って、そのメンバーで仲良く、時には喧嘩し、あの弓道場で青春を紡いできたのだろう。大塚先輩が急行列車を停めてしまったというエピソードは、とても笑いごとでは済まされないのだろうけど、いまこうしてみんな笑っている。本当に、仲のいいメンバーなんだなと、そう思える。
わたしたち一年生も、これから三年間、いろんな物語を紡いでいくのかな。
今この時をもって引退となる三年生を我が身とし、これからの毎日を、大切に過ごそう。
開進の陣取っていたシートへ戻ると、みんなで先輩たちの弓や矢を片付け始めた。
一通り片付けた後、姫木さんと他校の試合を見学に行くことにした。
姫木さんと並んで歩いていると、あからさまにわたしの隣に視線が集まっていることが分かる。耳をすませていると、「的枠姫」や、「皆中姫」という言葉が聞こえてくる。わたしの知らないところで、すごいニックネームがつけられていた。
姫木さんはそんな周囲の視線を、意に介さずといった様子でずいずいと進む。
すると応援席の少し手前で、背後から声を掛けられた。水を引いたような透き通った声で、気を抜いたら周りの雑踏にかき消されて、聞き逃してしまうほどに小さなものだった。
「姫木さん……」
振り返ると、その子は姫木さんの右袖をちょこんと摘まんでいた。長めのポニーテールで、姫木さんを見上げるその目は、半ば下りていた。九条さんだった。
姫木さんは、九条さんに呼び止められたからといって特別な反応は見せず、「なんだ、九条か。どうした」と冷たく返すばかりだった。九条さんも、姫木さんにそんな対応をされたからといって、特に気にする様子はなかった。
九条さんは姫木さんの袖を放すと、静かに口を開いた。
「さっきは、どうも。でもわたし、勝ったって思ってないから」
九条さんは謙虚なんだな、と思っていたら、姫木さんはこう返した。
「そうか、私も負けたとは思っていない」
虚ろな眼差しの九条さんのその頬が、一瞬ぴくりと動いたように見えた。しかしそのまま、じっと姫木さんを見つめる。
「……」
「……」
――っく。何なんだこの空気は。九条さんは“話掛けた責任”で、姫木さんは“そんな返しをした責任”で、どっちかがこの空気をどうにかしてくれ。
二人は向かい合い、何を言うでもなくただじっと見つめあっていた。そしてそんな、“二大巨頭が睨みを効かせあっている”という珍事に、周囲はざわつきだしていた。
ねえちょっと……どうしてくれんのよ。注目されている二人の傍らに、ただ立たされている立場にもなってくれ。
わたしがそう思い、一歩ふたりから退いたその時だった。
「弓道に個人戦があればいいのに……」
九条さんが呟くように言った。そして、姫木さんから目を離す事なく続けた。
「そうすれば真の日本一が誰か、すぐに決められるのに。……ね」
姫木さんは「はぁ」とひと息つくと、腕を組んだ。
「九条は相変わらずだな。ひとりで日本一になるよりも、チームで日本一になった方が感動も大きくなるだろう。どうして個人戦に拘る」
「私が日本一だって、知らしめたいから」
さらりと言ってのけるその表情は、相変わらず覇気のない顔だった。しかし、圧倒的な強さを見せられたせいか、そんな彼女からは強烈なオーラを感じた。姫木さんには悪いが、「この子なら、日本一になれるかもしれない」純粋にそう思った。
「そうか、しかし先ずは、チームで日本一になってからだ。個人より難しいぞ。チームを引っ張らなきゃいけないからな」
九条さんは、姫木さんのその言葉を、眉ひとつ動かすことなく聞くと、くるりと体を反転させた。そして去り際に一言呟いた。
「じゃあ今年の国体、優勝する」
そう言うと、音も無く去っていった。
「何だか、よく分かんない子だね」
「ああ見えて九条は、とても自分に厳しいんだ。ピーク時は、毎日弓を握れなくなるまで練習をしていたらしい」
「え、握れなくなるまで!?」
わたしがそう返すと、姫木さんは「ああ」と頷いて続けた。
「引き続けていると、弓を持つ握力が無くなってくるんだ。私も中体連前は、そのくらいやっていた。毎晩入浴時に、湯の中で手をこうやって握力を鍛えるんだ」
姫木さんはそう言うと、両手を握ったり開いたりして見せた。
「そうすると、ほら、こうなる」
指を広げた彼女の手の甲に、骨の隙間をなぞるように筋が隆起していた。
「すごっ! こんななるんだ」
「これでも少し引いた方だ。練習したいのに弓が引けないっていうのは、本当に苦痛なんだ」
弓が引けなくなるまで引き続けるなんて、想像も出来ない。けれど、日本一になるという事は、そういう事なのだろうなと、同時に過った。
その日の総体は、男女ともに煌永の優勝で幕を閉じた。
* * *
六月も終わろうとしている今日は、九条弓具店に来ていた。注文していた矢が出来たとのことで、受け取りに来たのだ。一年生メンバーはみんな、目を爛々とさせて各々の矢を受け取る。
わたしも矢を受け取った。ずっしりと両手に乗るその矢は、いつも練習で使っているそれよりも、ずっと重く感じた。
羽根は黒尾羽で、シャフトはシルバー。糸(羽根の両端に巻かれている糸)は朱色。
ああ、かっこいい。受け取った六本の矢(矢は予備も含めて六本購入が普通、競射用等)を、そこで選んだ黒い矢筒に入れる。そして、練習で使っていた矢筒から予め外しておいた“ふわたんの、体だけのキーホルダー”を、改めて取り付けた。それを姫木さんに見られて、ちょっと照れ臭かったけれど、彼女は微笑んでくれた。
続けて、それぞれ弽を選んだ。これまで、歴代の先輩が使い古した弽を使って練習していたが、いよいよそれも卒業となる。
わたしは茶色い弽を選んだ。姫木さんと同じ黒にしようとも思ったが、実際に新品を見てみると、茶色がなんだか大人びてかっこよく見えた。
そして弓具店のおっちゃんが、姫木さんに「ほい、出来てるよ」と言って弽袋を渡した。見るからに新品のようだった。
姫木さんが袋を開けると、新品の弽が出てきた。それも、やはり黒だった。
「え、姫木さんも買ったの?」
「まあな、今使っている物は中学からのやつで、もう古かったからな」
姫木さんはそう言って、新品の弽を手にはめた。その弽を見て、ひとつ目に入った。弦を掛けるところが、何だかわたしたちの物とは違っていたのだ。
「あれ、何これ?」
わたしが聞くと、姫木さんは教えてくれた。
「ああ、これか。これは鮫皮だ。これを貼っておくと山が削れないのと、離れが切れやすくなるんだ。慣れていないと暴発(離れを切っていないのに、弦が山から外れる事)するがな」
その箇所を改めて見ると、ツルツルとした皮が貼られていた。そして山というほどの山はなく、到底わたしに使えた物じゃないなと、一目でわかった。
「まあ恐らく、私も気を抜くと暴発するだろうが」
姫木さんが暴発するなら、誰でも暴発するだろう。そう思った。
他のメンバーの道具も気になり、辺りを見渡す。特に印象的だったのは、武田さんの矢だった。それは青いシャフトに赤い糸がまいてあり、その色の組み合わせから“おもちゃ”を連想させた。いましがた“かっこいい”と思って矢筒にしまったわたしの矢だったが、色の組み合わせだけでこうも印象が違うのだなと感じた。
子供っぽいその組み合わせを選んだ武田さんが、なんだか可愛く見えた。武田さんは手に持ったその矢を、愛おしそうに見つめていた。
第七話「射の行方、迷いの矢」前編 終わり




