6.か、可愛すぎる……!
「うーん……」
俺は現在、トイレの個室に腰掛けて唸っている。
だが勘違いしないで欲しい。トイレに座って唸っているからと言って、決してウ〇コをしているとは限らないという事だ。
確かにトイレという場は用を足したり出したりする場だが、今は面倒な追求から逃れる為に避難しているだけであって、本当にナニかを捻り出している訳ではないのだ。うーん。
というのも、先程俺は謂れのない嫌疑を掛けられ、弁明をしようにも聞く耳を持って貰えない状態だった。あれでは俺が何を言おうと全てが裏目に出ると判断した。
あとメンバー全員に鬼詰めされたら俺のメンタルが持たん。
「う~ん……」
という訳で、俺は予鈴が鳴ってHRが始まるまでトイレに避難し唸っているという訳だ。
だがそろそろ壁を見詰めても穴が開かない事が証明されたし、少し昔の事でも振り返ってみようか。
俺には昔、好きだった女の子がいた。今は女子の顔を認識する事すら碌に出来ないが、昔はちゃんと認識できていたし、好みだってあった。
だがその子には理不尽に思える理由で、心を抉る様な事を言われ、俺は完全に心を閉ざしたんだと思う。
思う、という言い方をした理由としては、俺は別に人間不信になった訳でも女性恐怖症になった訳でもないからだ。
女子とでも普通に話せるし、怖いとも思わない。ただ顔を認識できなくなって、恋愛感情というものが綺麗さっぱり無くなっただけだ。
顔を認識できないのも歳の近い女子だけで、子供や高齢の女性の顔はハッキリ分かるというのが謎な所だ。
この不可思議な体質が発症した時は少し焦りもしたが、同時に仲のいい女子も居ない俺は、直ぐに開き直って「まぁ、しゃーないか」と切り替える事が出来た。なったもんはしゃーないやん?
だが何かの用事があったりして顔を覚えなければいけない時などは少し困る事もある。最近知り合ったばかりの渡海さんがいい例だ。
くそゴリラに当面の面倒を押し付けられたわけだが、顔を覚えていないので毎回しっかりと確認を取らなければならない。これは相手にも少し面倒を掛ける事になるし、早く雰囲気を覚えなくてはいけない。
長く関われば、その人物が持つ雰囲気や背格好、身に着けている服や装飾品を覚えて判断できるのだが、関わりが薄いうちは、なかなかに難しい。
昔の事を久しぶりに思い出していたからか、思ったより時間が経っていたみたいだ。HRの開始のチャイムと同時に、俺はズボンを上げて便器から立ち上がる。いや、ウ〇コしてねぇから。ただズボン越しに座るのはマナー違反かなって思っただけだから。
「あー……休み時間どう乗り切ろう……」
俺はこの後も来るであろう追撃に胃を痛めながら、それでも何とか便器の水を流し、男子トイレを後にした。
―――――――――――――――――――――――
悠斗が男子トイレへと逃げ込んだのと同じ時間、教室内では不穏な空気が漂っていた。
「とりあえず全員落ち着けよ、な?」
陽介が諫める様に声を和らげて少女達に声を掛ける。親友である悠斗にいつも何かしら絡む彼女たちだが、どうやら今回のは様子が変だと思ったのか、流すのではなく話を聞くことにしたらしい。
その効果はあったようで、先程までは殺気すら出ているのではないかと思われた彼女たちも、今は当人が居ない事もあってか幾分か柔らかくなる。
「とりあえずなんとなくは悠斗君から聞いてるけど、君たちがそこまで怒っている理由を聞かせてくれる?」
張り詰めていた空気が弛緩したタイミングを計り、碧唯がハスキーな良く通る声で面々を見渡し声掛けをした。
「まあそうだね~本人居ないしね~」
「碧っち相変わらず空気読めるよねー。そういう所、嫌いじゃないよ?」
物腰柔らかな物言いと、碧唯の人柄もあってか、険悪な空気はかなり薄れていた。が、本題を思い出したのだろう、先頭に居た夕奈が一度は霧散しかけた怒りが戻り、再び目を吊り上げ怒り心頭な面持ちへと逆行し語気が強まる。
「あのバカが転校生ナンパしたって言ったっショ?それがマヂかどうか確かめに来たのに、逃げるからこれガチぢゃんって事になるわけじゃん!?」
悠斗の予想通り、聞く耳など持たず、自分なりの理論のみを固めた意見で悠斗を責める。
この言葉を後ろにいる少女達も黙って聞いており、意見は一致している事が分かる。
「はぁ……それは何か確信があって言っているのかな?」
深い溜息を吐き出し、半ば答えは予想出来ているが、一応の体裁として碧唯が質問する。
「無いけど!でも登校中に、悠斗が女の子に話し掛けて困らせてるの見たもん!」
ずいっと夕奈の隣に移動し、先ほど悠斗と綾華が居るところを見ていた美弥は、常から大きめな声を更に一段大きくし、見たことを伝える。
それは確かに傍から見ると、悠斗に話し掛けられた少女が困っていて、それでも構わず声を掛け続けた様にも見えただろう。だが実際は、言葉が分からずに困惑していただけなのだが、その事は詳しくは説明していない陽介と碧唯も知らない。
「私も見たけど~あれは完全に女の子にしつこく話し掛けて困らせてたよ~絶対ナンパしてたよ~」
美弥と共に現場を見ていた叶依もその言葉に便乗し、少なくない偏見を交えて意見を述べる。
「あんまり決めつけるのはどうかと思うぞ。本人の言葉も聞かずに」
「え~だって~……」
「そもそもアイツが知らない女に話し掛けるのが悪いんじゃん……」
その言葉を改めて聞いた叶依はぶぅと頬を膨らませ、夕奈は先程よりも顔を歪めながら、癖なのか右耳に付けた赤いピアスを指で撫でていた。その顔は怒りと言うよりも、悲痛なものの様にも見え、キツイ印象を受ける大人びた顔立ちも、今は年相応かそれ以上に幼く見えた。
「とはいえあいつがそんな事するとは思えないんだよなぁ……とりあえずもう一人の方に聞いてみるか」
そう言うと一同は、その場に居た最後の一人であり、この場ではまだ誰も詳しい事を知らない一人の少女、綾華の方へと顔を向けた。
そして陽介は席を立つと、居心地が悪そうにきょろきょろと周囲を見ている綾華の元へと歩いて行く。
「突然ごめんな、俺は陽介。ちょっと聞きたい事がある……んだ、けど……?」
綾華がきょろきょろと顔を動かしていた所為か、しっかりと顔を確認していなかった陽介は、声を掛けてから初めて綾華の顔をしっかりと見た。
そこには現実離れした美少女が座っていた。
だが、今は目の前にいる少女に見惚れている場合ではない。親友の名誉に関わる話かもしれないという気持ちが陽介を素早く現実に引き戻し、取るべき行動を選択させた。
「さっき悠斗と一緒に登校してたんだよね?そこで何か困ってる風に見えたらしいんだけど、何かあったのか?」
その言葉を聞いた綾華の反応は、停止だった。
それも当然だろう。言葉の分からない綾華に、事前に気構えする間もなく日本語を長々と並べても伝わるはずがない。
だがその事を知らない陽介は更に疑念を深め、角度を変えてもう一度質問しようと、一度思考の間を置いた。
「ごめんなさい、日本語、あまり良くない」
顎に手を置き、一瞬だけ思考に意識を割いていた陽介の耳に届いたその言葉は、かなりの衝撃を届けると共に、全てが繋がる納得にもなった。
つまりこの少女は、日本語があまり分からない帰国子女か外国人で、そこでお人好しな悠斗が面倒を押し付けられたのだと。
今朝叶依と美弥が見た困らせていると言うのは、言葉が分からないからこその当然の反応だったのだと。
そうして頭の中で一人答えを纏めていると、悠斗の後ろから夕奈達もやって来る。
「どしたん陽介。あんま話し出来なそうならウチが変わろう……か……?」
叶依や悠斗よりも一回り背の高い陽介が座っている綾華の前に立っていた事で顔を見ていなかった夕奈は、陽介の体を回り込むようにして綾華の顔を覗き込み、そこで先程の焼き直しの様に言葉を詰まらせた。
夕奈と言う少女はかなり美というものに気を使っている。だがそれでも、到底目の前にある天然には敵わないと悟った。
流れる銀色の髪に、手を加えた様子も無いのに上を向く長い睫毛。肌は陽の存在を感じさせぬ程白く、口許はぷるりと瑞々しい。何と言っても特筆すべきはその瞳だ。青く、吸い込まれそうな程に澄んだ色は、綾華の持つ銀の髪と掛け合い、神秘さすら感じる。
夕奈が一瞬の間に、ここまで思考を加速させている間、予め顔を知っていた叶依と美弥以外の遅れて来た者も、後ろで同じ顔をして固まっていた。
その時の陽介や碧唯も含めた全員の脳内は、同じ言葉で埋まっていた。それは「か、可愛すぎる……!」だ。
陽介も気持ちは理解できるので、彼女たちが落ち着くまで先程気付いた答えを話すのは待つことにした。
そしてその間にも、一人何も理解できていない綾華だけが、眉を八の字にして困り顔でせわしなく一人一人の顔を見回していた。
それから待つこと数秒、少女たちがある程度現実に戻って来た所で、陽介は悠斗の無罪を証明する為言葉を放った。
「この子、あんまり日本語が出来ないらしくてさ、それでさっき悠斗と話してて苦戦してただけらしい。お人好しなあいつの事だから、暫く身の回りの事を頼まれたんだろうな」
その言葉は、綾華に見惚れ敗北を噛みしめていた夕奈の頭と心に衝撃を与えた。それはもう、かなり強く。
つまり自分は、困っている、それも日本語が話せないと云う、ある種厄介な少女を助けようとしている悠斗の事を、一方的な言いがかりで傷つけていたのかと。
善意で行動していた悠斗に対し、悪意を向けていたのかと。
これまでにも、悠斗と少女らは何度も言い争いをして来た。だがそれは双方にとって確固たる理由があっての事で、今回の様に冤罪では無かった。
自分は、自分たちはなんてことをしてしまったのか。これでまた、彼がもう一歩壊れてしまえば、もう自分の存在を否定せずにはいられない。
少女たちの間に、沈痛な空気が漂い始めた頃に、教室の扉が勢いよく開いた。
「めっちゃデカいウ〇コ出たー」
そこには渾身のドヤ顔を決め、右手でサムズアップをした悠斗が立っていた。