第二話 ストレス溜めずに、打ちまくれ
今日は朝から、下のボクシングジムが大騒ぎ。
何やら、伝説の四階級制覇世界チャンピオンの外国人だかが特別来日して、サプライズイベントをやってくれるんだって。
一人五百円で、元世界チャンピオンとスパーリング体験をさせてもらえるって話らしい。ふうん。ちょっと、面白そうかも。
そんなわけで、しばらく身体も動かしてなかったし、ストレス発散も兼ねてジムに来てみた。ここのジムに所属している選手やコーチは、たまにマチナカで会ったりもする。まぁ、ご近所さんみたいなもんだね。
「おはようございます川熊さん。・・・・・・あたしも、体験したいんですけど」
「あ、おはようミズキちゃん。体験ね? ちょうど、あと一人で締め切るとこだったんだ」
「え、そうなの。じゃあ、あたし、良い時に来たんだ。・・・・・・じゃ、五百円」
「はい、確かに。ケガだけは気をつけて、楽しんでいってね」
女性コーチの川熊愛子さんは、昔、女子ボクシングの国体選手だったらしい。日本三位のランキングだったとかで、実は結構ボクシング界で有名だったみたい。ごめん、あたしは知らなくてさ。
「じゃあ、そろそろ始まるから。あ、もう動ける服で来てくれたのね」
「はい。すぐ上ですし、ここで着替えるより楽だから、家で着てきました」
あたしの今日の目的は、溜まってるストレスやモヤモヤを一つでも多く吹っ飛ばして帰ること。あとは、運動不足の解消もね。
ここ最近、お腹が少したるんできた気がしてダメなんだ。
「じゃ、スパーリング体験イベント、始まりますよ。チャンピオン、お願いします!」
川熊さんが進行役なのか。あ、奥の部屋から出てきたあの人が、そのチャンピオンなのか。あたしなんかより遥かにでっかい男の人だ。筋肉ムキムキじゃないか。本当にもう引退してる人なのか疑っちゃう体格だよ。
「こちらは元世界四階級制覇のレジェンドチャンピオン、デミー・ドーン・ジュニアさんです!」
「Nice to meet all. Let’s have fan fist-fighting today. Let’s enjoy boxing !」
ふうん。良い人そう。リップサービスの挨拶かもしんないけど、優しい目をした人だわ。みなさんと会えて嬉しい、今日は楽しく拳を交えましょう、か。
「Let’s get started. 3 minutes per person. Let’s keep doing it.」
サービス精神旺盛な人だなぁ。早速始めようって言ってる。一人三分間か。あたし、三分間でストレス発散しきれるかな。
イベントに申し込んだお客さんが、どんどんリングに上がって、三分間を終えてゆく。
みんな、ボクシングなんて初めてだからすごく疲れるみたい。三分間動くのって、カップ麺が出来上がるのを待つよりも長く感じるんだ。あたし、部活で経験あったから、よく知ってる。
このジム内、独特な匂いがする。うん、部活の匂いというか、体育館の匂いというか、体育倉庫のマットの匂いというか。ひっくるめて、体育会系の匂いってことにしちゃうか。
ゴングの音が、やけに耳の奥まで残る。タイムアップのブザーより、あたしの耳にはゴングの金属音がじんわりと余韻を残して響いてるよ。
それにしても、さすがこの道を極めた伝説の元チャンピオン。全然、素人パンチなんか当たらない。
当たってるように見せて楽しませてくれてるけど、当たってない。当然か。ただの一般市民がチャンピオンを本気にさせたなんて言ったら、ある意味事件だよ。
「Hahahaha. You can hit more ! Here you go. Hit it, hit it ! Come on, punch !」
うわぁ、超余裕じゃん。すごいな。今上がってる男の人だって、けっこう良い身体して、いい動きしてるのにな。
でも、みんな楽しそう。汗いっぱいかくと、なぜかスッキリするしなぁ。
・・・・・・ビビーッ!
あ、終わっちゃった。次、もうあたしじゃないか。ええと、グローブを填めて、と。
「ミズキちゃんで、ラストだね。準備はいいかしら?」
「はい。いつでもあたしはオッケーです」
てか、参加者の中で女性ってあたしだけなのか。他のお客さんが、すごく物珍しそうな顔で見てるなぁ。あたし、今、動物園のコアラみたいな気分かも。
「じゃあ、ミズキちゃん。リングの中央へ」
すごく今、客観的に見てシュールな光景になってると思う。
伝説の世界チャンピオンと、国家公務員を辞めたアラサーのフリーター女が、ボクシングジムのリングで向かい合ってる。何だよそれ。事実は小説よりも奇なり、ってことかな。
「じゃあ、楽しくストレス解消する感じで、楽しんでね。ラストスパー、始めます」
せっかく、体験料も払ったんだ。ただ疲れるだけの三分間なんて、あたしは嫌だ。やるからには、とことんこっちも楽しむ。
チャンピオン。日本の東京に藤咲水紀ありってこと、よく覚えてから帰国するといいよ。
・・・・・・カァーン!
あたし自身のストレスを、この三分間で無くしてやるわ。チャンピオン、覚悟っ。
「(This woman has a different spirit ! Probably not an amateur !)」
ざわざわざわざわ ざわざわざわざわ
「(なんだ、あの女の人! 一人だけ動きが違うよ! 雰囲気もクールで、何か違う!)」
「(唯一の女性参加者なだけあって、格闘技経験とかがある人なんじゃないか?)」
「(は、速いよ動きが! 元チャンピオンも一瞬で目つきが変わったぞ!)」
お客さんもざわついてる。あたしが見た感じだと、今日の参加者で格闘技経験ある人は、誰もいなかった。それじゃ、あたしだけが異質に見えても、仕方ないかな。
ボクシングは知らない。でも、空手だったら身体が隅々まで知ってる。今日は蹴ったり打ったりせず、突きだけ使えばいいんでしょ。
「はああああああぁーいっ!」
ヒュバババババッ! ドガガンッ! ズババンッ!
バシバシバシバシバシッ! ビシイッ! ズドォンッ!
「「「「「 うおおおおおっ! す、すげぇ! 」」」」」
あたしの身体、ありがとう。久々なのに、こんなしっかり動けるじゃない。空手やってた頃が懐かしいや。昔に立ち返ったような気分だ。
お客さんや川熊さんの目が、まん丸になってる。これじゃまるで、あたしがサプライズイベントを開いたみたい。
「はああぁいっ!」
タタァンッ! ヒュバッ ドッゴォンッ!
「「「「「 チャ、チャンピオンの身体が、後ろに押されたぞ! 」」」」」
「ちょ、ちょ、ちょっとミズキちゃん! どうなってるの、これぇ・・・・・・」
ごめん、川熊さん。言ってなかったけど、あたしは空手の有段者。競技は違うけれども、拳で打ち合うのは慣れてるんだ。
今、すっごく楽しい。頭の中が無になってる。まるで座禅みたいな感覚。
ざわざわざわざわ ざわざわざわざわ
ざわざわざわざわ ざわざわざわざわ
「はああぁいーっ! はああぁぁああぃっ!」
シュンッ! ヒュバッヒュバッ! ドゴゴゴンッ!
長い人生の中での、たった三分間。だけど、貴重で楽しい三分間。カップ麺と同じ三分間には、あたしは絶対にしたくないの。時間いっぱいやれるだけ、ストレス発散させてちょうだい。
「(Oh ! It’s so fast ! This woman, her punch power is amazing !!)」
ざわざわざわざわ ざわざわざわざわ
「(チャンピオンが、腕でガードしっぱなしだ! あの女の人、す、すげぇ!)」
「(マシンガンみたいなパンチだ! どうなってるんだよ、今日のイベント!)」
昔のあたしが、戻ってきた感じ。そうそう、この感じ。強い相手に向かい合って、大きな会場で、大歓声が沸き起こる中、元気いっぱいに戦ってたっけね。
だけど、どう頑張ったって、今あたしの頭の中に浮かんでいるあの頃には戻れない。それがわかっているだけに、なんだかすごく、もどかしい。
あたしは、前に進みたい。だけど、昔が懐かしい。昔に戻れはしない。でも、前に進むのもどうしたらいいのか答えが見えない。
「・・・・・・っ! はああぁぁーいっ!」
ダァンッ! ヒュバ・・・・・・
ヒュウンッ! キィーンッ!
カ、カウンターパンチが飛んできたっ。何してんのよ、チャンピオン。これ、お遊びイベントでしょう。あたしは普通の一般市民でボクシングは素人なんだよ。パンチ返してくるなんて、そんな話は聞いてないよぉ。しかも、ジェット機みたいな風切り音。
「チャ、チャンピオン! イベントスパーですよ! だめ! ノー、カウンターっ!」
・・・・・・ビビーッ! ・・・・・・ピタアッ!
「はぁ、はぁ・・・・・・。あ、危なかった・・・・・・」
「だ、大丈夫? ミズキちゃんっ!」
「あ、あたしは別に何とも・・・・・・」
川熊さんも、そりゃ焦るよね。一五五センチで四十七キロのあたしに、一八〇センチ近い本職のチャンピオンが、パンチ返しちゃったんだもん。寸前の寸前で止めてくれたから良かったけどさ。
おおおおおおおおおおーっ! パチパチパチパチパチ!
あれ。みんな、拍手してくれてる。何だかんだで、いい体験をしたのかもね。世界四階級制覇のチャンピオンとしっかり打ち合ったなんて、自慢できる話だよね。誰に自慢すんのと言われたら、特に誰もいないんだけどさ。でも、いいストレス発散にはなったわ。これ絶対に、明日以降は筋肉痛で動けなくなることが約束されたんだろうけど。
「I’m sorry. Because your movement was world ranker class ! So I moved unconsciously !」
「「「「「 なんだ、なんだ? チャンピオン、あの人に駆け寄って、何て言ってるんだ? 」」」」」
ああ、あたしは何となく言ってる意味がわかる。ある意味これは、事件だ。
お世辞なんだろうけど、あたしの動きは世界ランカー級だったみたい。だから、無意識にチャンピオンの身体が反応してパンチ打っちゃったんだってさ。むしろあたしこそ、参加料五百円じゃ安いくらいの貴重な体験をさせてもらってありがとう、チャンピオン。
「You can be a world champion now ! Why not aim for the world with me !!」
「す、すごいわミズキちゃん! チャンピオンが、あなたは必ず世界一になれるって言ってる!」
ダメだよ川熊さん。お世辞だってば。あたしはもうアラサーだし、そんなのあり得ないって。
さて、すっきりしたから、そろそろ帰ろう。たくさん汗もかいちゃったし、お風呂も入りたい。
あれ。もしかして、あたしが今、断ったからなのかな。リングの隅で真っ白に燃え尽きたって感じで、チャンピオンが項垂れちゃってる。
ごめんね。あたしも全身が痛くなってて、項垂れたいの。