第一話 カレー屋で、水紀は窓から何を見る
「あいよ、ミズキちゃん。『いつもの』でいいんだったよな?」
「はい。・・・・・・もっと高いの頼めれば、お店にも貢献できるのにな・・・・・・」
「わっはっは! そんなこと気にしなくて良いよ。これだって、十分貢献してるさ」
「・・・・・・ありがとう、イノシシ店長! ・・・・・・じゃ、いただきます」
あたしが住むアパートの一階は、「マチナカ」という小さなカレー店と「川熊ボクシングジム」がある。十八歳で東京に出てきてこのアパートに住んだ初日に、ここの店のカレーを食べたんだ。その時の味は、忘れられない。
それからずっと、この店の「マチナカカレー 三百五十円」はあたしのお気に入り。何回かビーフカレーやマトンカレーも食べたことあるけど、ちょっと高かったの。
店長の仲島猪ノ七さんは、優しい笑顔で客から愛される「イノシシ店長」のアダ名で通る素敵なおじさん。
昔、東京の超一流ホテルの副料理長まで務めた本格シェフだったと聞いた。でも、「著名人や国賓ではなく、一般大衆に食べて欲しい」という思いで、ホテルから独立してこの店を開いたんだって。
あたしにも、そういう熱い思いが湧いてきて欲しいよ。
「・・・・・・いつも通り、おいしい! ・・・・・・あたし、何度作っても、この味は真似できない・・・・・・」
「わっはっは。じゃあもし、味を完全コピーできたら、ミズキちゃんに店長の座を譲ろうかな?」
「え! ほんと? ・・・・・・でも、この店は、イノシシ店長だからこその店だと思うんだよな」
「わっはっはっは! ありがたい言葉だね。嬉しいよ。・・・・・・じゃあ、今日もごゆっくり」
「はい。・・・・・・またちょっとだけ、いさせてもらうね、イノシシ店長」
総務省を辞めてから、あたしはこの店の窓から眺める景色が、きちんと見えるようになった。
目の前の通り沿い街路樹の桜も、四季折々に変化している。
春は花咲き、夏には青葉。秋は色付き、冬には裸。そんなことも、以前のあたしは見えてなかった。
いったい何を毎日見てたんだか。
「・・・・・・。・・・・・・いろんな人が通るんだなぁ。みんな、何を思って歩いてるのか・・・・・・」
店の前を、いろんな人が行ったり来たり。右から来たり、左から来たり、男だったり、女だったり、若かったり、高齢だったり、いろんな人が行き来してる。
あたしはこの場から、そんな流れを頬杖ついて見てるだけ。あたしはいつ、そっち側に戻れるんだろうね。
「おっ。来た来た。待ってたぞー」
なんかイノシシ店長が、笑顔で厨房から出てきたぞ。誰か店に向かってやってくる。誰だろう。
「仲島さん、すみません。遅くなってしまって! 車を停める場所がなかなかなくて・・・・・・」
「ここらは駐車場がないからねー。搬入だけだったら、店の前に停めてもよかったんだぞぉ」
「そうでしたか。すみません。今後は、そうします。・・・・・・あ、お客さんがいたんですね」
なんだか爽やかお兄さん系な人だな。いかにもスポーツやってました系のオーラが出てる。
「イノシシ店長ー。・・・・・・忙しそうだし、あたし、帰った方がいいかな?」
「ああ、大丈夫だよ。ゆっくりしてて。こちらは、契約している青果店の副社長さんなんだ」
「あ、そうなの。業者さんかぁ。・・・・・・こんにちは」
「こんにちは、初めまして。株式会社 岡山岬青果の副社長、岬行光と申します」
「岡山岬青果? ・・・・・・あ、本社は岡山県なんだ・・・・・・」
桃のイラストが可愛い名刺。なるほど、岡山は本社で、この副社長が東京支社の支社長も兼務してるって訳ね。大変そうだな。
「わっはっは。岬副社長、こちらは、当店の常連であるミズキちゃんだ」
「申し遅れました。藤咲水紀です」
ああ、まただ。この声の出し方、あたしじゃない。これは、役人モードのあたしの声。何だかんだで、こういう時に役人時代の自分が出ることに、ものすごいモヤモヤ感があるんだよ。
「あ、常連さんなんですか。ここのカレー、美味しいですよね」
「はい。あたしは一番のお気に入りです。・・・・・・なんか、他とはひと味違う風味というか・・・・・・」
「わっはっは。ミズキちゃん、その秘密が、岡山岬青果の野菜と果物にあるんだ」
「え? そうなの?」
「そうなんだよ。僕自身、元々は岡山の出身でね。カレーに岡山特産の農産物を使っているんだ」
「そうなんだ・・・・・・。だから、あたしが作っても同じ味にならないのかな・・・・・・」
イノシシ店長、岡山出身だったんだ。知らなかったな。まさか東京の真ん中で、岡山の人とこうして絡むとは思ってもなかったわ。
「副社長さんは、岡山訛りっぽい感じが全然しない。・・・・・・普通に、標準語ですよね?」
「ああ、そうなんです。元々は、こってこての岡山弁だったんですけどね」
とは言ったものの、あたし、岡山訛りなんて知らないや。でも、この人は東京出身と言ってもそのまま信じられるくらい、きれいな標準語だわ。
あたし、地元の栃木訛りが無くなるまで何年かかったんだっけな。忘れちゃったな。
「そうですか。・・・・・・邪魔してすみません。じゃ、イノシシ店長、あたし、もう少しだけいるね」
「もう少しと言わず、好きなだけ居座ると良いさ。ミズキちゃん」
「ありがとう」
桃だの黄色いニラだのパクチーだの、いっぱい持ってきたんだね副社長。イノシシ店長もテンションが上がってる。故郷の食材が、やっぱり嬉しいんだろうか。
外行く人を見て思う。あたしの故郷にいる友達や後輩のみんなは、今、どうしてるんだろうか。
実家の家族や親戚なんかは、気が向いたときに連絡取ってるから状況はだいたい知ってるけどさ。
両親はまぁ、普通にしてる。兄貴は再来月に結婚するし、妹はあたしが公務員なんかつまんないからよく考えなと言ったのに、今年は市役所の試験を受けると頑なに言ってる。知らないかんね。
「・・・・・・はぁ。・・・・・・あたしは兄貴とちがって、結婚なんかはできそうもないや」
高校時代も大学時代も、仲の良い男子はいた。
でも、恋じゃない。
そういう関係になった男子っていなかったなぁ、あたし。
女子の煩わしい面倒臭さが嫌いで、男子とのさっぱりした付き合いが楽だっただけ。なのに、なぜ女子大に行ったんだろう。あたし、自分自身がたまによくわからない。
大学時代に知り合ったあいつ、風の噂で聞いた話だと、地元に帰って会社を継いだんだってね。どんな顔して仕事してるんだか。あたしがたまに差し入れた野菜料理、文句言いながらもうまいって食べてくれたっけ。通りのゴミ溜めを片付けてって言ったら、すぐやってくれたっけね。
女子で楽だったのは、高校当時の部活の仲間くらいか。その面子も、地元の役所で日々せっせと働いていると聞いた。あたしはドロップアウトしちゃったよ。みんな、あたしみたいにはならない方が良いよ。みんなそれぞれ、時は流れていってる。あたしは毎日、溜め息ばかりだ。
「仲島さん。・・・・・・あの、水紀さんって人、何か悩んでるんでしょうか?」
「ん? ああ、まぁ、そうだなぁ。僕はあえて、そっとしておいてあげるんだ」
「そうですか。・・・・・・ああして、女性が一人でずっと外見て溜め息ついてると、なんか・・・・・・」
「ま、ミズキちゃんも、いろいろあるんだろう。・・・・・・さて、次回の注文なんだがね・・・・・・」
ありがとう、イノシシ店長。左耳で、聞こえてる。
あたしも、この先どうにかして、人生の軌道修正をしなきゃならないことは、わかってるんだ。ただ、そのきっかけがつかめないというか、変に臆病になっているというか。
店内に漂うスパイスの香りが、今のあたしには妙に心地良い。もう少し、このままでいさせて。
「・・・・・・あ、ミツバチだ」
窓ガラスに、ミツバチが留まってあたしに何か言ってるよ。脚に花粉の団子を付けて、あんたも必死に働いてんだね。女王蜂が上司で、働き蜂のあんたは必死に動く係員ってことか。
蜂も立派に組織で働けるとは、あたしはあんたに頭は上がらないや。
カレーが冷めちゃうから、食べちゃうか。このカレー、少し冷めたくらいがまた美味しいの。
「・・・・・・(もぐ)・・・・・・(もぐ)・・・・・・」
あたしは、新しい道を見つけて、進まなきゃダメなんだろうな。でも、その道はどこにあるの。
カレーを食べてないで、教えてくれ。ねぇ、窓に映った、そこのあんた。
「・・・・・・(もぐ)・・・・・・(もぐ)・・・・・・。・・・・・・辛っ!」
ちょっと、イノシシ店長。今日はうっかり忘れたでしょ。あたし、唐辛子がダメなんだって。
「あ、ごめんよミズキちゃん。つい、うっかり。・・・・・・別な皿と交換するかい?」
「・・・・・・ううん、大丈夫。スプーンで掬っちゃうから。・・・・・・あー、舌がヒリヒリする」
マチナカでバイト募集してたら、すぐにあたしが飛び込むのにな。人生そう上手くはいかない。
街路樹の桜の花びらが、少し開いた窓から風と共に入ってきた。良い色だね。でも、次から次へとそんなに吹き込まないで。桜のカレーになっちゃうじゃないか。だめだこれ、閉めないと。
あたしはあたし自身の手を引いて、明日に続く道を探しに出かけてみようと思い始めたんだ。