第十話 お茶漬けを求めて、花のない木々を見上げる
あたしは、これといって「これが無ければ死んじゃう」っていうほど大好きな料理はない。
マチナカカレーは、もちろん大好き。辛いものは苦手だけど、エスニック料理も中華も好き。でも、依存するほど好きってわけでもない。あ、野菜や魚の多い和食系は、けっこう好きな方かな。
そんな、料理にこだわらないあたしだけど、大学時代の学食メニューで「これは毎日食べてもいい」っていう料理に出会った思い出がある。「御湯ノ水女子大のお茶漬け」だ。
御湯ノ水女子大生ならば、誰もが知る激安メニューだったんだ。
今もあるのかな。あるといいんだが。
何だかよくわかんないけど、急に頭に浮かんだものが、無性に食べたくなって仕方ない時ってあると思う。今まさに、あたしはその状態。
そんなわけで、卒業後はろくに出入りしてなかった御湯ノ水女子大に来ちゃった。まぁ、家から歩いてそんなにかからないから、散歩がてらって感じでね。
「・・・・・・あたしが卒業した頃と、まったく変わってないなぁ・・・・・・」
明治時代を思わせる洋風の正門を通ると、すぐ目の前に長いイチョウ並木が出迎えてくれる。
あたしは、このイチョウ並木が黄色く色づいた時が大好きだった。ギンナンが実る時は、絶対に近寄らなかったんだけど。
大学卒業してから五年以上経ってる今、あたしはこのイチョウ並木を見て、ふと思う。
「(このイチョウの木々は、いったい何人の学生を迎え、そして見送っていったんだろう・・・・・・)」
何だか今日は、妙にセンチな気分だな、あたし。
あたしの周りを行き交う学生は、誰もあたしのことなんか知らない。関わったこともない。あたしも全然誰だかわからない。
でも、これらのイチョウはこの御湯ノ水女子大の現役生や卒業生たちを一人ずつ見ていたから、誰が誰かを知っているのだろうか。
あたしは、藤咲水紀だよ。文教育学部の言語文化学科にいた、あの変わり者のミズキだよ。
覚えてるかい、イチョウの木々よ。
「・・・・・・。・・・・・・あたしにとっては長い数年間でも、木々にとってはごく短い時間なんだろうな」
あたしはどう考えても三百年は生きられない。でも、よほどのことが無ければイチョウの木々は軽く三百年以上は生きる。
あたしの人生は、多く見積もってもあと七十年あるかないかだろう。その七十年は、イチョウにとってはあたしの五年程度なのかな。時の感覚って、よくわからない。
何やってるんだろう、あたしは。お茶漬けを食べに来たんだよ。イチョウと話してたら、学食が閉まっちゃうじゃないか。じゃあね、イチョウの木々。また、帰りに挨拶するわ。
「・・・・・・スゴイ並木ですよね。ココに来て、とっても驚きましたノ。ほんと、スゴイ・・・・・・」
「・・・・・・え?」
突然、同じようにイチョウ並木を見上げていた女の子が、あたしの横から笑顔で語りかけてきた。
やや、アクセントや発音がネイティブ日本語と違う感じ。留学生かな。誰なんだろう。
「あたし、あなたとは初めてだけど・・・・・・ここの学生さん?」
「そうデス。シンガポールから来た、留学生別科の、チェン・メイヤンと、いいマス」
シンガポールからの留学生なんて、初めて会うよ。見た感じは普通の学生なんだけど、着ている服は、今時の学生が着こなすファッションスタイルではなく、どちらかと言えばあたしと同じ感じだ。
オシャレだけど、落ち着いた色合いのコーデ。そのスカート、良い色だね。
「そちらは、どちらの学部ですカ?」
「あたし? ・・・・・・あたしは、卒業生なんだ。ミズキっていうの。よろしく」
「卒業生? あ、OGでしたカ。失礼しました。普通に現役生と思って、話しかけちゃいマシタ」
「あ、別にそんな、謝らなくてもいいんだよ。むしろあたしって、今も現役生に見えるの?」
「はい。普通に学生だと思いマシタ。ミズキさんは『ミス御湯ノ水』の子より、きれいですし」
何だかすごく嬉しいこと言ってくれるね、チェンさん。こんなあたしが、ミス御湯ノ水よりもきれいだってさ。お世辞だとしてもすごく気分良いな。あたしはミス御湯ノ水なんて程遠かったし。
「ありがとう。・・・・・・チェンさんは今日、一人なの?」
「はい。ワタシは、今日、一人です。仲の良い友達は、デビオで、寝込んでマシテ」
「え! デビオって・・・・・・」
デビオウイルス、か。
今から数年前に世界的大流行をした、風邪みたいな症状と急性肺炎を引き起こすウイルスだったね。ワクチンや飲み薬も普及して、当初よりはもう、一般化しちゃったけどさ。
久々に、それで寝込んでるなんて話を聞いたな、あたし。
デビオに罹患すると、全身から脂汗が出てすごく臭くなるっていうから、あたしは何が何でも絶対にかからないようにしてたんだ。
でも総務省の役人時代、三重県の出先機関に出張後、不覚にも食らったんだった。
ほんと、嫌だった。
全身が、高校時代の部室に干してあった年季の入ったタオルみたいな臭いになって、それだけでもう精神的に大ダメージを受けたっけ。ほんと辛かったな。
イチョウとか植物はいいよね。デビオにかからなくてさ。そんなグチを聞かされても、困るか。
「ミズキさんは、今日、母校へどんなご用なんですカ?」
「あー。あたしは、ちょっと、学食のあれを食べたくなってさ・・・・・・」
「あれ?」
「あ、チェンさんには馴染み無いかな? お茶漬け、知ってる?」
「オチャヅケ・・・・・・。あ! 学食の券売機では、名前を見たことはありマス!」
そっか。あたしはよく食べてたんだけど、御湯ノ水女子大生でも留学生にはあまり馴染みがないメニューなんだろうか。ま、とりあえずあたしは、お茶漬けを食べて帰るとしよう。
「ミズキさん、あのぉ・・・・・・」
「ん?」
「ワタシ、その、オチャヅケは食べたことないデス。差し支えなければ、ご一緒しても・・・・・・」
あたしは別に構わないよ。ってかチェンさん、日本語バッチリ使いこなせてるね。最近の若いやつは、日本人のくせにまともな日本語を使えない奴もいる。
あ、いけない。最近の若いやつなんて言っちゃ、あたし、若くない方に入っちゃうじゃないか。まだまだ、あたしも若いんだから。
卒業生のあたしが、現役留学生のチェンさんと、学食でお茶漬けを食べることになった。なんだか、すごくシュールだ。
イチョウ並木を抜けて正面に見える本館を抜け、中庭を通って理学部棟や図書館が見えたら右に行き、あたしの本拠地だった文教育学棟が見えたらその横に学食があるんだ。
途中、足を止めて本館中庭にあるシダレザクラを見上げ、チェンさんと語ってしまった。
「このシダレザクラ、あたしが在学中の頃より、多少、大きくなってる」
「そうなんですネ。ワタシは毎日見てるので、変化があまりわからないんですガ・・・・・・」
「春は花咲き、夏には青葉。秋に色付き、冬には裸。・・・・・・桜は、四季折々の色を見せてくれる」
「なんか、ミズキさん、詩人みたいですネ。そのフレーズ、心にすごく、染み込みマシタ」
あたし、どこでこのフレーズを知ったのか、実は覚えてないんだよな。でも、すごく心に残るフレーズだから、何かの折にいつも口ずさんでしまうんだ。あたし、花や木を眺めるのが好きでさ。
「チェンさんは、シンガポール人なのに、日本的な情緒が好きなの?」
「はい。日本、とっても好きなんデス。四季の風情、とっても大好きなんデス」
「そうなんだ。・・・・・・なんか、あたしよりも日本人っぽいかもね」
「そんなことないデス。いやいや、そんなぁ・・・・・・」
そういう謙遜の仕方も、妙に日本人っぽいよね。
きっと、チェンさんは元々この日本に縁があって、何かの運命によって必然的に引っ張られてきたんだろうな。
あたしはどうなんだろう。
何の縁があってこの大学を選んで学び、時を過ごし、そのまま東京に居座ることになったんだろう。
不思議だな。東京じゃなくたっていいのにさ。別に愛知でも大阪でも、京都でも兵庫でも福岡でも、どこにも同じ確率であたしが居座っていた可能性はあったはず。
でも、あたしは栃木から出てきて東京に居座った。
チェンさんはシンガポールから留学してきて、この東京にいる。
そして、あたしと運命の綾が絡み合った。本当に不思議だ。
あたしが今朝、御湯ノ水女子大のお茶漬けを食べたいなんて思わなかったら、こうしてチェンさんに会うこともなかったのかもしれない。
先週だってそうだ。ちょっと外の空気を吸いに行くついでに、ウクレレを弾いていた賤ヶ岳さんに会いに行かなかったら、あの嫌いな東郷議員にも会わなかったかもしれない。
人の縁って何なんだろう。誰かが「こうなります」って決めてるんだろうか。本当に不思議だよね。
もしも、パラレルワールドなんてものがあるならば、あたしは賤ヶ岳さんにも東郷議員にも、そしてこのチェンさんにも会わない未来もあったはず。
でも、今のあたしはその時間軸にはいない。
「・・・・・・ミズキさん? ミズキさん?」
「・・・・・・え? あ!」
いけない、いけない。木を見つめながらあれこれ考えて、自分の世界に入っちゃってたな。
「ごめんごめん。ちょっと、考え事しちゃってさ。・・・・・・じゃ、お茶漬け食べに行こうか」
変な感じだ。あたしはもう、ここの学生じゃないのに、この大学に在籍している留学生と一緒に学食へ行くなんて。
現役生だった頃、こうなるなんて誰が予想できたか。誰も予想なんかできないだろうね。だって予想ができないから「未来」なんだよ。「未だ来ず」だもの。
先にわかってたら、それはもう未来じゃない。
そんなことを考えながら、チェンさんを連れて学食へ入ったあたしは、そこの雰囲気がまったく変わっていないことにも驚いたけど、メニューの値段が当時より一.五倍くらい上がっていたことにも驚いた。
一昨年前からの物価高で、学食も総値上げしたのか。あ、でも、お茶漬けはそのままだ。百五十円。変わってない。
これだけがそのまま時が止まったかのような値段で安心。
海苔と小さなせんべい、そしてワサビが乗っただけのシンプルなお茶漬け。そこに小鉢で漬け物が付く。
月・水・金はラッキョウ。火・木・土は柴漬けだったっけね。今日はラッキョウの日か。
「これだよ。これ。あたしが食べたかったお茶漬けだ。変わってないなぁ」
「これなんですネ! へー。きれいなグリーンで、香ばしい匂いがしマス。イタダキマス」
チェンさんは、匙でお茶漬けをすくって、美味しそうに食べている。あたしはただ、安いだけでこれを食べてたけど、留学生のチェンさんには珍しいんだろうな。
「これ、シンガポールの擂茶飯によく似てマス。オチャヅケ、美味しいですネ」
「サンダーティーライス? 初めて聞くわ」
「ミントやパクチー、あと、ゴマなどのハーブスープをライスにかけて食べる料理ですヨ」
へぇ、そんなのがそっちの国にはあるんだ。シンガポール風お茶漬けってことなのかな。あたし、アジア文化の講義も学生の頃には取ってたけど、全然他国のこと興味なかったからなぁ。
「(なんかあたし、もっとしっかり視野を広く持っていればよかった。後悔しても遅いけどさ)」
「・・・・・・? どうしたんですカ? ミズキさん、なにか、悩みがあるのですカ?」
「まぁ、ね。・・・・・・あたし、昔のことを思い出しては後悔する悪いクセがあるの。・・・・・・はぁ」
目の前のチェンさんが、きょとんとしてる。
あたしって、ほんと弱いな。すぐ後悔して、昔のことを思い出しては溜め息ばかり。
そういえば昔、溜め息は幸せを逃がすって誰かが言ってたっけな。
「”Nasi sudah menjadi bubur “ですよ、ミズキさん! スマイル! スマイル!」
「確かに。過去には戻れないもんね。その言葉、知ってるよ。『覆水盆に返らず』ってことだよね」
「スゴイ! よくわかりましたネ、マレー語! 『粥はもう元の飯には戻せない』って意味デス」
同じ意味の諺は世界各国にあることは、知ってる。それだけ、過去を何とかしたいって人がいたってことなのかな。英語では確か、「零したミルクを嘆いても仕方ない」だったっけ。
「(時は戻せない。時は未来に進むだけ。ならば、過去をあーだこーだ言っても仕方ない、か)」
あたしとチェンさんはその後、しばらく雑談をしながらお茶漬けを食べた。いい子だな、チェンさん。
ワサビが効いて、涙目になってるよ。やはりシンガポールには、ワサビって無いんかな。