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元勇者は禍根渦中  作者: 数ビット
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「勇者の挑戦」


 僅か数日後、虚ろで無気力な平和に死が近付いていた。

 ネガティブ・ゴーストを監視していた部隊から「死の影が街を滅ぼしている」との報が伝えられた。


 大陸各地の人口の多い街に向かってネガティブ・ゴーストは移動し、逃げ遅れた人々を襲い続けた。ネガティブ・ゴーストの手から伸びる影の剣で攻撃を受けた者は怪我こそ無かったが、まるで魂が切り裂かれたかのように意識をなくし動けなくなった。そのまま意識が戻らず亡くなった者も相当な人数となっていた。


 ネガティブ・ゴーストは出現時から大きく姿を変えていた。空を突き抜けるほど巨大で(おぼろ)げだった人影は日が経つ毎に影が濃くなり、焦点が合うように身の丈は低くなっていった。いまでは30フィート(概ね9m)程となり、透通っていた影も漆黒の闇となって周囲の光さえ消し去っているかのように見えた。ゆっくりとした動きも人や動物と同等の素早さとなり、時には気力を失いつつ逃げ惑う人々より素早く襲い掛かった。その顔のあたりには血のように赤く濡れて光る一つ目のようなものが見えた。そのおぞましい姿はもはや影と言うより暗黒騎士の巨人のようで、どこかセシルに似ているようにも見えた。


 大陸各地の街がネガティブ・ゴーストの標的となった。人々の希望的な感情を食い尽くす為に街を狙って移動し続けていた。移動スピードはゆっくりとした歩みだったが昼夜問わず移動し続けるので、影の見えない夜中に襲われた街や村は容易く滅ぼされた。


 人々は死の影から逃れる為に街を捨て散り散りに逃げ惑ったが、旅に慣れぬ人々が気力が薄れ安全な場所のあてもなく一斉に逃げようとした為、街道や宿場町は難民と化した人々で溢れた。結局は街で死の影に襲われるか見知らぬ地で襲われるかの差でしかない現実に人々は更に希望を失い逃げ続ける事を諦める者が増える一方だった。


 ネガティブ・ゴーストを監視していた連合軍の部隊の勤めは避難民を誘導する事に変わっていった。

 身の丈3mの一つ目の暗黒騎士は近くにいる人間を見境無く攻撃しようとした。古参兵が襲われている避難民への攻撃を食い止めようと気力を振り絞って漆黒の影の剣をパリィしようと(=武器で弾き返そうと)剣を振った。古参兵の剣はネガティブ・ゴーストの影の剣をすりぬけずに受け止める事が出来た。どうやら影の密度が物質に干渉するほど濃くなっているようだ。しかしそれも一瞬の事で、古参兵の剣を影の剣がぬるりとすり抜け、そのまま古参兵の身体を切りつけた。影の剣は古参兵の身体も通り抜けて怪我は無かったが、まるで精神が切り裂かれたかのように意識を失って倒れて動かなくなった。


 曖昧で巨大すぎる影だったネガティブ・ゴーストは、その焦点が合って身の丈が小さくなる程その恐怖と脅威は増していた。

 存在するだけで世界中の人々の心から希望を奪い続け、広大な大陸の各地の街や村を襲い続け、その影の剣の切っ先が触れるだけで精神を失い、しかし一切の攻撃が通用しないネガティブ・ゴーストは、まるで冥府から来た死神のようだった。


 避難民はあてもなく逃げ惑い、遂には海に接するアーティスまで避難民が続々と押し寄せてきた。


「触れれば心の命を失うが、物理攻撃も魔法攻撃も通用しないとなると、ネガティブ・ゴーストに抗う手段など無かろう。……よもやわしの代で国が滅びる時が来ようとは」


 アーティス国王の絶望の呟きを、ディアは気力を振り絞って否定した。


「まだ滅びません! 先日のパーティの時に私達は勇者様と約束したのです……1週間ほど先に大切な話があると! 勇者様はその約束を果たす日こそが私の希望なのです! その日を迎えずしてアーティスが滅ぶ事も世界が滅ぶ事も有り得ません! 絶対にです!!」


 しかしアーティス国王はため息をついた。


「勇者殿は魔導師を総動員して探知魔法で行方を捜し続けておるが、未だ何処にいるのか皆目判らないのじゃ。それに攻撃の通用しない相手では勇者殿でも太刀打ち出来ぬであろう」

「でも……でも、勇者ユート様なら……きっと……」


 ディアは国王にも希望を見い出してもらう為にも反論したかった。しかし希望は現実ではなく、何を言おうにも根拠が無かった。言葉に詰まったディアの心に困惑や疑心といった闇が広がり、希望が絶望になってしまう。


「2~3日もすればあのネガティブ・ゴーストはアーティスに辿り着くであろう。滅ぶのが先か、勇者殿を見つけ出すのが先か、どちらにせよ運命は受け入れるしかないものなのであろうな……」


 希望が夢のようなものであるとしたならば、現実にある絶望に対しては心の逃避先でしかないように思えた。ディアの心の中の希望が絶望に消し去られそうになる。

 ……しかし希望というものを夢ではなく元勇者の存在そのものに託せば、ディアの希望は消しても消えぬ小さな光となった。


「私は、勇者様を信じます」


 ディアの言葉は祈りにも似ていた。




-----


 翌日、アーティスやインモールに程近い荒野までネガティブ・ゴーストが迫っていた。

 その歩みは牛歩に似ていたが、止まる事無く人のいる土地に進み続け、実体を持たぬ影を止める手段も無かった。


 無理と知りつつも果敢に死の影の侵攻を止めようと連合軍の部隊がネガティブ・ゴーストと対峙していた。少しでも死の影の注意を引き付けて人々の密集する街に到達するのを食い止める為だ。

 部隊で奮起する兵は古参兵が多く、その中にはシュナとカールの姿もあった。その後方ではディアが指揮を取り、その護衛役としてホリィとライムの姿もあった。多くの兵が気力を失っており、ネガティブ・ゴーストの直近で対峙出来る兵力が尽きていた為だ。


「攻撃も当たらない、魔法も効果なしじゃ、倒しようが無いわ」

「しかしオレ達が囮になれば、その分だけ被害が食い止められる筈だ」


 そう言いつつも2人の心の中には「食い止めた時間だけ人々が絶望し続ける時間が長くなるだけではないか? いっそ抵抗せず滅ぼされたほうが絶望から開放されるのではないか?」という悲観的な考えが付きまとっていた。どれほど強力な攻撃も当たらなければ空振りと同じだ。だが無駄でも抗わなければネガティブ・ゴーストに屈した事と同じになる。


 対するネガティブ・ゴーストは一方的な強さだった。

 既に(おぼろ)げだった薄影だった頃の緩慢な動きは無く、巨大な漆黒の身体で俊敏に動き攻撃してくる。その動きに人の意思のようなものは無く、ただ人の心の中の希望を奪い消し去る事の為だけに動いているようだった。思考しない分だけ一層早く動く。その攻撃は武器で受けた一瞬だけ食い止められたが、次の瞬間には実体を持たぬ影がするりと武器を通り抜ける。


 時間稼ぎにしかならない連合軍の兵士達は次々とネガティブ・ゴーストに切りつけられて心神喪失となって倒れた。

 その様子に恐れをなしたのか増援は一向に来る気配が無かった。

 僅かな兵力となった部隊の中、指揮を取るディアははそろそろ撤退すべきと考えていた。どう抗っても勝ち目が無い。


 戦いながらシュナはカールに言った。


「それにしても、どんどん動きが素早く力強くなっているように感じるわ。このままじゃ私達も危ないわ!」

「希望を糧にしているから人を襲うほど強くなっているんだろう。こいつの直撃を食らったらオレ達でも一撃でやられちまう!」


 2人が少し距離を取って次の算段を考えようとした時、ネガティブ・ゴーストの姿が消えた。

 狼狽するシュナとカールの背後で、ディア・ホリィ・ライムの悲鳴が響いた。死の影は驚くべき瞬発力でこの場にいる人々の中でもっとも希望を失っていない3人娘に狙いを定めて襲い掛かったのだ。


 猛烈な勢いで3人娘に襲い掛かるネガティブ・ゴースト。

 もはや少女達は悲鳴を上げる余裕もなかった。

 影の剣が高く振り上げられ、誰しも最悪の結果が脳裏をよぎった。


「……ソニック・ウェーブ!!」


 一閃。ネガティブ・ゴーストの足元の地面が砕け散って爆煙と化した。


 ネガティブ・ゴーストは切り裂かれた地面の下で片膝を付いていた。実体の無い影ではあったが、その足は地面に接し、歩いて移動していた。実体を持たぬ死の影自身が”地面という実体を基点に存在”している事を逆手に取った攻撃だった。誰もが止める事が出来ないと思っていたネガティブ・ゴーストの侵攻を、誰かの一撃が止めたのだ。


「い、いまの声は……?」

「もしかして……」

「勇者サマ?!」


 3人娘は空を見上げた。

 そこには巨大なドラゴンに乗った勇者ユート・ニィツの姿があった。




-----


「グラム、あの黒い人影の巨人がネガティブ・ゴーストだ」

「人間風情が我が名を気安く略すな。……しかしあの影、確かにこの世のものとは思えぬ」

「何であれ、あの影を倒さねば伝説の火竜グラムドリンガーと言えど精神を蝕まれ眠りに就いたまま目覚められなくなるだろう」


 元勇者はパーティ後の”野暮用”で、先ず優れた武器を作る鍛冶場が集うコフガ村に向かっていた。獣人族の集うコフガ村では面識のあるミーケに手厚い歓迎を受け、元勇者は生活費の残り全てを投じて「一番良い武器を頼む」と言った。そのオーダーは”超々精密攻撃プラス属性”を限界まで付与して欲しいというものだった。コフガ村の凄腕職人が総動員で剣を鍛え上げるのに数日の時間が必要だった。


 次に元勇者は火吹き山に向かった。元勇者は火吹き山を攻略しておらず、故に”転移のオーブ”で瞬間移動することもできなかったので幾許(いくばく)かの余計な時間を浪費した。その最深部には伝説の火竜グラムドリンガーが眠っていた。インモールの街で対峙した事があったが、元勇者はかつて戦いあった相手に「手を貸してほしい」と頼んだのだった。グラムドリンガーも”死の影”の影響を受けており元勇者の勧誘にもなかなか応じようとはしなかった。


「確かに貴様とは再び戦う事を約束したが、それは貴様と戦うという事であって、貴様と共に戦うという約束では無いぞ」

「こまかい事は気にするな。世界から希望が失われれば、グラムも生きる気力を失い火吹き山の洞窟の奥で息絶える事になるだろう。この戦いはかつての約束より重要だとは思わないか?」

「心を食らう化け物を野放しにしていては、おちおち洞窟で惰眠貪る事も出来ぬか。今回だけは貴様の口車に乗せられてやる」

「先ずは周囲の人々に被害がいかぬよう、敵をおびき寄せるぞ」


 それから数刻の後、絶望にひしがれていた連合軍部隊と逃げ惑う人々は空から巨竜に乗って現れた男を呆然と見上げた。


「……一体、何者なんだ?」


 3人娘の表情に安堵の笑みが溢れた。


『勇者様っ!!!』


 グラムドリンガーは高度を下げ、元勇者は3人娘の下に降り立った。


「みんな、よく絶望に屈せず耐え続けたね。ここからは俺達が戦うから、みんなは周囲の人達と共に出来るだけ遠くに逃げてくれないか」

『私達も一緒に戦います!』と3人娘の声が揃った。


 駆けつけたシュナとカールも元勇者に向かって叫んだ。


「私達も加勢するわ!」


 しかし元勇者はやんわりと断った。


「気持ちだけで十分だよ。俺も本気を出して戦うから、攻撃に巻き込まれないよう”俺から逃げて”欲しいんだ。周囲の人達の避難誘導も頼みたいから大変だろうけど、引き受けてくれるかい?」

「……勇者様、いつもと口調が違うような気がするのですが」


 ディアは素朴な疑問を口にした。普段の元勇者なら、やれやれ系のテンション低目の口調か、古語を交えたシニカルな冗談を言いがちだが、そういった事を言う様子が無かった。


「俺も歳相応の大人だからね。それにこの戦いはきちんと全力で戦ってみたいんだ」

「ユート、私達は邪魔だって言うの? ユートとグラムドリンガーでもネガティブ・ゴーストに勝てる見込みなんて……」


 シュナはそれ以上の言葉を言えなかった。勝ち目が無いと言ってしまえば希望が無いと言ってしまうのと同じだからだ。

 元勇者はシュナの懸念を払拭するよう微笑んで言った。


「もう一人、加勢を頼もうと思っているんだ。みんな、少し離れてくれ」


 元勇者の言葉に3人娘とシュナとカールは距離を取った。それを確認してから元勇者は声をあげた。


「我こそはユート・ニィツ! 我の声に応じ我の僕として召喚せよ……魔王”ゴグ・グリスト”!!」


 魔王を倒した者しか知らぬ”魔王の名前”を、元勇者は声高に叫んだ。

 元勇者の目の前の空間に稲光が(ほとばし)り、激しい光が弾け、轟音と共に何者かが姿を現した。


「……ま、まさか……そんな……」と、周囲の兵士達からの驚きの声がどよめいた。


 身の丈は190cm程、スマートながら筋肉質な体付き、燃える炎のような瞳と髪の男が姿を現した。黒い衣は裏地が血のように赤く、足は地面より僅かに浮き、只者ならざる”フィアー”を発していた。完全復活ではなく”召喚獣”としての魔法的存在であり、姿こそ人間に似ていたが明らかに人間では無いと思わせる異質な気を放っていた。


「愚かなる勇者ユート・ニィツよ。我が名を呼んだ事、嬉しく思うぞ」

「久しぶりだな。魔王とは世間話をしたい気持ちもあったんだが、いまは盟約どおり俺の(しもべ)として力を貸してほしい」

「我の復活はそなたへの褒美であり呪いでもある。それを承知で我が名を呼んだのであれば貴様の僕として全力を尽くそう」

「しかし相手は厄介だ。この戦いに負けて俺が死んでも魔王でも侵略したくない世界しか残らない。そしていまのところ勝機は無い」

「……成る程、あの異形異質の”影”が愚かな勇者の、そして世界の敵か。愚かな勇者ユートよ、やはりそなたは私に期待以上の楽しみを与えてくれる」


 周囲の兵士達は魔王ゴグ・グリストから自然と放たれる恐怖のオーラ”フィアー”に青ざめた。

 目の前にはかつて10数年の年月も世界中を侵略せんとしていた全ての魔物を従えていた魔王が出現したのだ。そして魔王を呼び出したのは、かつて魔王を打ち倒した者であろう古参の冒険者だ。世界を滅ぼそうとした魔王と、その魔王を倒した冒険者。それはつまり世界を滅ぼせるだけの力を持った存在が2人もいるという事だ。


「ま、ま、魔王様って……めっちゃイケメンっ!!」


 思わずシュナが歓喜の声をあげた。どうやらシュナの色欲には魔王のフィアー効果は関係ないらしい。カールはシュナの瞳がハートマークになっている事にゲンナリした。


 元勇者は(場の空気的にシュナは無視して)3人娘に向かって言った。


「これがいまの俺が考えうる最強パーティだ。場合によってはこのあたりの地形が変わる程度じゃ済まないかもしれないから、周囲の兵士達を安全なところまで導いて欲しい。俺の持っている”転移のオーブ”を預けるから、もし危なかったらこれを使って遠くの街に逃げるんだ」

「わ、わかりました……」


 ホリィは返事をしつつ、元勇者を見つめた。

 世界を救った勇者ユート・ニィツ、世界を滅ぼそうとした魔王ゴグ・グリスト、伝説の巨竜グラムドリンガーが並び立つ姿は、これまで誰も見た事の無い最強のドリームチームであり、ネガティブ・ゴーストにさえ抗える希望のようにも思えた。


 元勇者の周囲の人々が逃げ始めた時、地面の裂け目からネガティブ・ゴーストが姿を現した。


「キ……キサマ……ユート・ニィツ……殺ス……!」


 口の無い死の影が声を発した事に、逃げる人々が悲鳴を上げた。

 だが元勇者は表情一つ変えなかった。


「俺はセシルを倒したつもりでいたが、この姿がセシルの第2形態だったわけか。いかにもラスボスらしいじゃないか」


 ネガティブ・ゴーストの姿は一回り小さくなって人間と大差ない身の丈になっていた。その姿はセシルに似て見え、また元勇者にも似て見えた。


「愚かなる勇者よ、この”影”と如何様に戦うつもりだ?」

「全力で戦うのみさ。魔王の目にはこの”影”の弱点を見い出せるのか?」

「……否、存在するが実在しない”影”に対してダメージを与える事は不可能であろう」

「だからと言って戦わねば勝つ可能性はゼロだ。勝つまで戦うぞ」

「かつて戦った時とは意気込みが違うな」

「勝てない相手に勝とうとするなら気合だけでも全力以上で挑まなければな」

「フフフ、やはり貴様は愚か者だ。(しもべ)である我もその愚かさに付き合うしかあるまい」


 遠くから3人娘の声が聞こえた。


「勇者様、ご武運を!」

「どうかご無事で!」

「勇者サマガ勝ツ事ヲ、約束ノ日が来ル事ヲ、信ジテマス!」


 ライムの言った”約束の日”というのは元勇者が3人娘と付き合うかどうかを決めるという話の事だろう。


「それがライムの”希望”となるなら、叶えられるよう一層頑張らねばならないな」


 元勇者の言葉が3人娘に聞こえたかどうかはわからないが、そう言って微笑んだ。


「この期に及んで人間はまだ希望を信じるというのか?」

「魔王ゴグには希望なんて感情論は理解できないのだろうが、この戦いでは何かの鍵になりそうな気がするんだ」


 魔王と元勇者は、ネガティブ・ゴーストの攻撃をかわしつつ、牽制攻撃で逃げる人々とは逆の方向におびき寄せた。

 人々が十分に離れた事を確認してから、勇者は剣を握り直した。


「さて、いよいよ最終決戦だ」




-----


 牽制攻撃に誘導されるネガティブ・ゴーストに知能は無いように見受けられたが、戦いに間が空くと「ユート、殺ス」と声を漏らす事に、元勇者は言った。


「この”死の影”は知能は無くとも感情が残っているように思う。人の心の”希望”を吸い取って”絶望”に変換し続けるのだから、喜怒哀楽の感情を失えなかったのかもしれない」

「人間如きの感情など魔族には理解できぬ。しかしこの”影”が人の作りものであるならば、感情とやらを持ち得ていても不思議では無いな」

「ネガティブ・ゴーストは人の希望を吸い取り続けていまの姿に変化した。希望によっての事か、それを絶望に変えた為の事かは判らないが、物理攻撃も魔法攻撃も通用しない影に影響を与えたのが感情という事は間違いない」

「しかし感情は攻撃に使えぬ。如何様に戦えと言うのか?」


 元勇者はニヤリと笑みを浮かべた。


「勿論カッコ良く戦うのさ。それを大陸中の人々に見せつけて”希望”を抱かずにはいられなくする。──サッちゃんも魔王ゴグの格好良い姿を見たいよな?」


 その言葉にサッキュバスのサッちゃんが姿を表した。背中の小さな翼で宙に浮いている。


「私がいる事、よく判りましたね」

「俺の居場所を察知できるサッちゃんが魔王の復活を察知できないわけがないと思ってね。それに頼み事がある……”スマ水晶”にありったけの魔力を注ぎ込んで欲しいんだ。大陸中・世界中にこの戦いの顛末をライブ配信したいんだ」

「でも、もし負けるような事になれば大事(おおごと)ですよ?」

「俺たちが負けたら、ネガティブ・ゴーストが世界中の希望を吸い尽くし、更に俺が死んだら魔王ゴグ・グリストは自由の身となってしまう。人類は200%滅んでしまうだろうね」

「それも承知の上でしたら……魔王様のためにも御助力します」


 少し離れた場所にいたグラムドリンガーが言った。


「周囲に無力な人間はいなくなったぞ。いつまでも喋っていないで目障りな影を消し去ってしまおうぞ」

「よし。まずは小手調べで……全力攻撃だ!」




-----


 ──大陸の片隅の田舎町、気力を失った人々は不景気と不作で生きる活力さえ失っていた。

 誰もが迫り来る死を感じ、抗えない事を察していた。絶望するだけの気力も無かった。ただ死を受け入れるしかないと感じていた。それは世界中のどの街や村でも当たり前の光景だった。


「パパ! ママ! これを見て!」


 少女が親に”スマ水晶”を見せようとした。

 親は気だるそうに水晶玉をちらりと見た。そこには”死の影”ネガティブ・ゴーストが映っていた。


「……そんなものは見たくない。じきにこの村にもやってきて、何も出来ずに全てが終わってしまうのだから」

「違うの! この死神みたいな影の事じゃないの! ほら、この人達! ドラゴンもいるの!」


 親は暫く少女の言葉を無視した。”死の影”と戦っても勝てない事は連合軍の戦いで証明されている。それにドラゴンなんて冒険者の他には誰も見た事の無い伝説上の怪物じゃないか。


「ほら! これを見て!」


 業を煮やして少女が突きつけた水晶玉の中から巨大なドラゴンが吐くドラゴンブレスの業火の眩い光が迸った。

 次いで異国のデミヒューマンの王の如き男が人知を超えた剣技で”死の影”を攻撃した。その攻撃が振り抜かれた瞬間に強烈な一撃を放った男は以前にセシルという男と戦って勝利した”真の勇者”と噂されている者だった。


「こ……この戦いは一体何だ? いまどこかで”死の影”と戦っている者がいるというのか?」

「わからないけど、さっきからずっと戦い続けてるよ、この人達!」


 そう言った少女の瞳がきらりと輝いているように見えた。

 親は少しだけ気分が良く感じたが、水晶玉に映る戦いの映像を見て次第に沈んだ気持ちになっていった。


「幾ら戦い続けていても”死の影”に勝てそうも無いじゃないか。少し前にも大勢の兵隊さんが戦いに行ったそうだが何も出来ずに壊滅したという噂だし……」

「でもこの人達、さっきから凄いのよ! 剣を振るたびに地面が裂けたり、剣から炎が出たり雷が(ほとばし)ったり! さっきなんてこのオジサンが剣を振ったら遠くのお山が半分消し飛んじゃったんだから!」

「ははは、さすがにそんな馬鹿げた事はないだろう」

「ウソじゃないもん!」


 少女と話しているうちに、親はいつしか自分が笑っていた事に驚いた。それは乾いた笑いではあったが、空が灰色になってからの数ヶ月で初めての事だった。


「このオジサン達、悪い影をやっつけられるかな?」


 少女の問いかけに、親は「それは無理だろう」と言いそうになった。確かに水晶玉に映っている男2人とドラゴンの攻撃は常識外れで桁違いの破壊力である事は素人でも判る。しかしその攻撃によって”死の影”は微塵もダメージを受けていない。どれほどの攻撃も”死の影”に当たっても弾き返されている。


(……”弾き返されている”? 噂ではどのような攻撃も”当たらずすり抜けてしまう”のでは無かったか?)


 親は少女に「どうだろうね、勝つか負けるかはまだわからない」と言った。「まだ」わからないと返事を「先延ばし」したつもりだったが、「勝つか負けるかは五分五分」と言ってしまったようなもので、それは”まだ可能性はある”という希望の言葉でもあった。

 どうしてそんな事を言ってしまったのか、否それほど深く考えて言ったわけではないと自分の言った言葉に戸惑ったが、この水晶玉に映る男たちが戦い続けている間は確かに未だ勝つ可能性があるのだ。


「どうせ無理だろう……無理だろうけど、もしかしたら勝てるかなぁ」


 親は思わず呟いた。

 幾ら希望がネガティブ・ゴーストに吸い取られても、新たに希望が芽生える事は止められなかった。




-----


「愚かなる勇者ユートよ、既に火・水・雷に光と闇の属性攻撃を最大限の攻撃力で打ち込んだが、(いず)れも目に付く効果は見受けられぬぞ」

「しかしまだ勝ち目が無いと決まったわけじゃない」

「貴様は本当の愚者になったのか? 無駄な攻撃は無益なだけではなく、体力を失い不利になる。このような攻撃を続けても無意味だ」

「そうとも言い切れないな。この”死の影”は最近まで全ての攻撃が当たらずに素通りしてしまう事が問題だったんだ。しかし今では……」


 ネガティブ・ゴーストが漆黒の影の剣で元勇者に切りかかった。

 カキィン!と音が響き、元勇者はその攻撃を剣で受け止めた。


「……この通り、実在しないはずの”影”に剣が当たるようになっている。貫く事も出来ず傷さえ付けられないようだが、すり抜けずに当たるようになった」

「ダメージは全く届いていないようだが、実在しない影に当たっているという事は確かに奇異な事だ」

「概ね”絶望”に変換され続けている”希望”の量が増え過ぎて飽和し、物質に影響を与えるほど”高密度の影”になったのだろう」

「それでは何故サッキュバスにこの戦いの様子を世間に見せようと目論んだのだ? 人々の希望が増えるほど”死の影”は希望を奪い取って高密度となり、一層硬く強靭になっていくではないか」

「まぁ元々勝ち目があるから戦ってるわけじゃないからな。しかし勝てない敵に勝てたとすれば、さぞかし気分が良いだろうと思わないか」

「……貴様、何か思うところがあるな?」

「馬鹿げているし失敗する確立も結構あるから言いたくないだけさ。しかしそろそろ策を試してみたい気もある。……グラム、魔王ゴグ、次の一撃に集中するから、俺から退避しつつ”死の影”に牽制攻撃をしてくれないか」


 グラムドリンガーが遠距離からドラゴンブレスで攻撃し、魔王ゴグ・グリストが”死の影”の注意を引きつつ距離を取った。


「その程度の距離じゃ駄目だ、もっと遠くまで逃げるんだ!」


 そう言いながら元勇者は全身系を集中した。グラムドリンガーと魔王ゴグ・グリストが元勇者の元から離れ、ネガティブ・ゴーストの攻撃対象は元勇者だけとなった。一騎打ちの様相だが、普通の攻撃では”死の影”にダメージは与えられない。


 ”死の影”は漆黒の影の剣を大きく振りかぶり、元勇者に切りかかった。

 その影の剣が振り下ろされる瞬間、元勇者の集中が最大限に達した。


「超・最終奥義ッ! デーモンコア・ブレイク!!」


 瞬間的に元勇者の姿が扇状に8人に増え、超々精密攻撃が”死の影”ネガティブ・ゴーストの一点に向けて放たれた。


 その瞬間、退避したグラムドリンガーや魔王ゴグ、既に遠くに逃げて戦いの様子を案じていた3人娘やシュナ・カール、多数の連合軍の兵士達の、視界が真っ白になった。



 爆発を超えた衝撃波、

 全ての魔法攻撃を超えた異常なほどの熱量、

 その破壊力で呆気なく崩壊する地面、


 ズ ド オ ォ ォ ォ ン ! ! !


 そして元勇者が攻撃を放った空間からネガティブ・ゴーストを貫くように一直線に伸びる”キノコ雲”。


 超・最終奥義”デーモンコア・ブレイク”は大賢人ワン・セボンから伝授された技だが過去数百年にわたって使った者はいない。その攻撃は多重分身攻撃を超々精密に放つ事で「剣の切っ先の一点にある何らかの原子」にクリティカルダメージを与えて指向性核爆発を起こすという、魔王さえ倒す最強の勇者の異常な攻撃力を多重分身とクリティカルヒットによって数倍に高めなければ原子核を破壊できず発動しない、科学考証も世界観も飛び越えた力技の”超 ト ン デ モ 必 殺 フ ァ ン タ ジ ー 最 終 奥 義”だった。


 過去に大賢人から伝授された英雄達も本能的にヤバイと思って数百年誰も使わなかった程の禁忌の必殺技だ。ちなみに攻撃を放った方向に向かって爆発する志向性を持つので、この世界には無い言葉である放射性ナントカの影響も指向性の先の成層圏に吹き飛ばされているので影響は少ない。また所詮は人力核爆発なので完全核分裂には至っていないが、拡散せず指向性によってある程度収束しているので破壊力は圧倒的だ。


 その破壊力と衝撃は大陸中に響き、”スマ水晶”で戦いを見ていた近隣都市の人々が空を見上げると高々と立ち上るキノコ雲が見えた。


 ”スマ水晶”の映像は暫くはトンデモ大爆発による爆煙によって何も見えなくなったが、しばらくすると”死の影”が見えてきた。

 物理攻撃も魔法攻撃も通用しない”死の影”の姿は、その半身をデーモンコア・ブレイクによって消失していた。


 ”スマ水晶”で戦いを見ていた人々は、倒せぬ筈の”死の影”にダメージを与えたであろう様子に驚愕した。誰もが絶望的な敵が倒されたのではないかという淡い希望を抱いた。永らく失っていた”希望”が心の奥から湧き上がってくるのを感じる人々。


 しかしその希望はすぐに消え去った。ネガティブ・ゴーストは欠損した部位が音も無く再生復元されていったからだ。

 誰もが(やはり”死の影”は倒せないのではないか)という絶望に苛まれた。

 しかし同時に芽生えた(もしかすれば勝てる可能性があるのかもしれない)という希望を消し去る事も出来なかった。

 デーモンコア・ブレイクの衝撃波によってキノコ雲の先の空の灰色の空に穴が開いて、青空が垣間見えたからだ。


 衝撃波とキノコ雲そして小さな青空は、戦闘地点より離れた周辺町村やインモールやアーティスからも見る事が出来た。

 不安と期待を抱きながら”スマ水晶”を見つめていた人々は爆音と共に灰色の空に穴が開いて数ヶ月ぶりの青空を目にして、このとんでもない最終決戦の戦いが水晶玉の中だけの事ではなく現実に起きている事だと認識せざるを得なかった。


「あ、あわわわわ……」


 爆心地から離れているとはいえ退避中で程近い場所にいたホリィ・ディア・ライムの3人娘は爆風に煽られつつキノコ雲を見上げて絶句した。


「ほ……本気を出した勇者様から離れていて、本当に良かった……」


 ホリィが思わず本音を漏らした。出来る事ならずっと元勇者のそばにいたいと願っていたが、こんな荒唐無稽な攻撃力を放つ戦いの場にいては身が持たない。


「こんな攻撃をして、勇者様はご無事かしら……」


 ディアは元勇者の身を案じた。幾ら最強の攻撃であっても自爆では意味が無い。ましてやたったの一撃で城でも小山でも消滅させてしまうほどの常識外れの破壊力である事は遠く離れていても判る。それを普段は鬱でネガティブな元勇者が繰り出したのだから不安は一層高まってしまう。


「見テクダサイ、青空ガ! 灰色ノ空ニ穴ガ開イテ青空ガ見エマス!」


 ライムの言葉に3人娘は天を仰いだ。冬の終わり頃から一度も目にしていなかった青空が灰色の空に空いた穴から垣間見えていた。攻撃の衝撃波が灰色の空を押し退けたのだ。灰色の空に開いた穴は小さなものだったが、そこに見えるのは確かに青空だった。長らく失われたように思っていた太陽の日差しに輝く青空は神々しく見えた。


 ふと”ネガティブ・ゴーストの希望を絶望に変換し続ける特殊効果”が薄れているように感じた。

 馬鹿げたトンデモ攻撃力を放った元勇者は”死の影”を超える恐怖であり、その元勇者が”死の影”を倒せるかもしれない最後の希望でもあるからだ。希望と絶望においても元勇者はネガティブ・ゴーストと互角に渡り合っているのだ。


 絶望の最中にあっても希望は無限に湧き出るものなのだと、3人娘は感じていた。




-----


 クレーターと化した大穴の中心で、失った半身を再生するネガティブゴーストは動きを止めていた。

 爆心地にいた元勇者は自身の攻撃の威力によって数百メートル吹き飛ばされ、足を天に向けた格好で地面に突っ込んでいた。

 距離を置いて逃げていた魔王ゴグもグラムドリンガーも大爆発の爆風で吹き飛ばされたが、指向性核爆発の攻撃範囲の外側にいたのでダメージも殆ど無く耐え凌ぐ事が出来た。


「愚かな人間は呆れた攻撃をするものだな。攻撃と言うより災害か災厄だ。しかし倒せぬ敵に風穴を開けるとは」


 魔王ゴグ・グリストは不敵な笑みを浮かべた。成る程元勇者が希望によってネガティブ・ゴーストを一層強く硬い姿に導いていた意味が理解出来た。攻撃を弾き返すほどの硬さであっても、それを超える攻撃力で貫けば破壊する事が出来るのだろう。硬いほど攻撃の力を逸らす事が出来なくなり、それへの攻撃力が膨大かつ一点に集中するほど硬いものは砕けやすくなる。


「しかし”死の影”は事も無く復元していくぞ。やはりこのままでは倒す見込みがあるとは言えなかろう」


 巨竜グラムドリンガーが体制を整えつつ言った。影に風穴を開けられたとはいえ、影は影でしかなく実在しないものだ。貫き半身を消し去る事が出来たとはいえ、存在しないものを倒す事は不可能に思えた。


 めり込んだ地面から這い出た満身創痍の元勇者は土埃を払い、魔王ゴグとグラムドリンガーの傍らに歩み寄った。


「……どうやら仕留め損なったみたいだな」

「ダメージを受けたのは貴様だけのようだな。自らの攻撃で自分だけダメージを受けるとは愚かしいにも程があるが、それだけ敵が厄介であるという事でもある」と、魔王ゴグ。まるで愚かさを称えるような口ぶりだ。

「しかし目に見える効果があったのはこの愚かな人間による奇天烈な大爆発攻撃のみでもある。さて、如何様に戦う?」と、グラムドリンガー。


 元勇者は「やれやれ」と言いそうになって言い控えた。そういった余裕めいたシニカルな口調はこの戦いにおいては相応しくないように思えた。


「もう他に打つ手は無い。デーモンコア・ブレイクが俺の繰り出せる最強最後の技だ。そして次の一撃を繰り出せば俺の身体も持たないだろう」


 ネガティブ・ゴーストを見ると消え去った半身の殆どが復元し、一層人間に近い姿になっていた。漆黒の闇の身体は密度を増し、更に硬く強固になっている事が見てわかるほどだった。


「どうやらこれが”死の影”ネガティブ・ゴーストの最終形態のようだな」と元勇者は呟いた。

 再生した”死の影”の姿は、元勇者ユート・ニィツに瓜二つに見え、元勇者らしからぬ邪悪な笑みを浮かべていた。


「このような影の最終形態が魔王である私を模した姿であるとは、実に不愉快であり不快だ」と魔王ゴグ。

「わしには異質で異形の竜人族の化け物に見えるぞ」とグラムドリンガー。

「人によって見える姿が違うのか……? 差し詰め心の闇を具現化した姿なのかもしれないな」


 どうやら先程の元勇者の攻撃で”死の影”の半身を消し飛ばした様子を”スマ水晶”で見ていた大陸中・世界中の人々のかすかな希望がネガティブ・ゴーストの変化を加速させたようだ。その最終形態の姿が見る者の姿を模した格好、言うなれば自分自身の見たくない心の闇の姿のようでもあった。


「どのような姿であれ、ネガティブ・ゴーストを倒さなければ世界は滅ぶ。なんとしても倒すぞ!」


 元勇者は喝を入れるように声を張った。それは魔王ゴグやグラムドリンガーに対してというより自分自身に向けての言葉のようだった。


 しかし最終形態となった”死の影”ネガティブ・ゴーストの動きは圧倒的なものへと変化した。何の感情も知性も無い”死の影”の攻撃は予備動作もなく躊躇もない。全ての攻撃が唐突に繰り出される。しかもその素早さは元勇者や魔王ゴグに匹敵する動きだった。


 3対1の戦いの様相で激しい攻撃を打ち合う乱戦となったが、大陸中に溢れる希望を糧に一層強固になった”死の影”は全ての攻撃にノーダメージで、グラムドリンガーの強烈な火炎が大地を溶かしても無傷だった。元勇者も魔王も”死の影”が繰り出す攻撃を受け流すのが精一杯となっていった。


「なんとしても次の一撃でトドメを刺す! ゴグ! グラム! 援護を……」

「死ネ、ユート・ニィツ!!」


 ──ズバッ!!


 言いかけた時、元勇者の身体に”死の影”の一撃がクリティカルヒットした。漆黒の影の剣が元勇者の身体を切り裂くように突き抜けていた。その素早い攻撃は元勇者の力量を上回っていた。身体に傷は付かなかったが、影の剣がするりと元勇者の身体を通り過ぎた。


「しまった! 攻撃を防ぎきれなかったか!」


 魔王ゴグはとっさに元勇者と”死の影”の合間に割り入って護ろうとした。


 しかし元勇者は片膝をついてしゃがみこんだまま動かなくなった。


「心を切り裂かれたか? 勇者ユートよ、目を覚ますのだ!」


 グラムドリンガーも火炎で炎の壁を作って元勇者を”死の影”から護ろうとした。


 しかし元勇者は目を開いたまま天を仰ぎ、微動だにしなかった。

 ”死の影”の一撃で、元勇者の心の古傷がぱっくりと切り裂かれたようだった。

 そしてその精神は深い心の闇に埋没していった……。




-----


(……俺は”死の影”に殺されたのか……?)


 元勇者は朦朧とする意識の中で漠然と思った。

 ネガティブ・ゴーストに一刀両断されたが、身体には何の傷も付いていない。しかし切られた瞬間に意識が飛んだ。そして目覚める事も出来ないまま、意識の深層の中を漂っていた。


形振(なりふ)り構わず本気を出して頑張ったつもりだったんだが……やっぱ現実なんてこんなものだよな。一番大事な時に失敗して、なにもかも取り替えしが付かない事を痛感するのが、いつもの事だったじゃないか)


 そんな卑屈な事を言うのは誰だ? ……元勇者自身だ。心の中の自分自身が言っているのだ。


(最終奥義を繰り出せばネガティブ・ゴーストを倒せて大団円になると本気で思っていたか? 失敗した時の事を考えていたから魔王ゴグ・グリストにも希望で最終形態の硬い姿にしようと考えた事を言わなかったんじゃないか。絶望しないためには希望を持たない事が最善だからな)


 ……その通りだ。希望を持つから絶望する。だから絶望しないよう希望を持たないようにしてきたし、3人の美少女に言い寄られても悲観的な理由で拒み続けたじゃないか。希望を持たないようにしていたからネガティブ・ゴーストの”希望を絶望に変換する特殊効果”の影響さえ受けなかったじゃないか。


(どうせ勝てない戦いに、こんな格好で負けてしまう事に、心の底ではホッとしているじゃないか。どうせ勝っても望むほど楽しい事もありはしないのに、もう若くないのに無理をして頑張っても、負けて生き残れば戦わなかった奴等から無責任な罵倒を浴びるだけだ。嫌な事から目を背ける為にも、ここで人生を終わりにしたほうが幸せじゃないか?)


 かつて魔王と戦った時に痛めたヒザが疼く。ルト・マルスと相打ちになった時に貫かれた腹の傷跡が疼く。

 魔王との戦いの前に仲間が戻ってこなかった時の空しさを思い出す。寂しさが次第に空しさに変わり、諦めに変わって、失望になって人間不信になった。おかげで心を無にして魔王との戦いに挑む事が出来た。

 セシル達が冒険者を辞めた時も、残された元勇者は困惑するばかりだった。冒険者を廃業しても他に生きる(すべ)の無い中年でしかなく、剣技の他は人並み以下だった事を自認していたから渋々冒険者家業を続けたに過ぎない。魔王と戦ったのも冒険者人生を終わらせたかったからだ。

 身体も心も歳を取った年月分だけの治りきらない沢山の傷を抱えて生きてきたのに、ネガティブ・ゴーストの出現に対して魔王を倒した勇者だと自惚れた結果がこの有様なのだろう……。


 セシルは死に際に”これからの世界はユート・ニィツが選んだ世界だ”と言った。

 元勇者の選択した世界は誰も希望を持てない絶望だけの世界だった。

 ……本音はどうだ? 心の底では自分と同じように希望の無い苦しみを感じる人ばかりになった事に「ざまぁみろ」と思ったのではないか? 自分の苦しみが世界中に理解された気分になって嬉しく思ったのではないか?


 ……そうではないと思いたい。笑顔の消えたホリィやディアやライムを見るのは辛い。シニカルな冗談を言える程度の心のゆとりは欲しい。

 しかし”死の影”の影響を受けないほど希望の枯れ果てた元勇者にとって、自分より幸せな人間を見ずに済む事は少しばかり楽しんでいたのではないか? 人を見下すような優越感を感じていたのではないか? 無いとは言い切れない。


 それに望む結果とは何なのか?

 女を抱きたければ嘘をつき、金が欲しければ奪えばいい。程度の大小はあれど、それが真理だ。冒険者として世界中を旅し続けて嫌というほど目にしてきたじゃないか。冒険者を辞めたセシルは実践しそれらを手に入れた。嘘もつかず奪いもしないで金や女を望んでも得られるわけがない。

 金や女を求めないなら何を望むのか? 幸せとは何だ? そういったものは結局は若い頃に手に入れなければ意味が無い事を中高年になった俺は知っているじゃないか。世の為人の為に人生を費やしても幸せにはなれなかったじゃないか。後悔はしていない? 後悔する事さえ諦めただけじゃないか。


 ”死の影”と戦ってみたのも、どうせ楽しくない余生を生きるより自滅覚悟で勇者っぽく格好を付けたかっただけじゃないか。正義とか希望とかという建前を無くせば、矮小な自分を誤魔化したかっただけじゃないか。


 ──どうせ自分は”死の影”に負けたのだ。

 もう動く気力も尽き果てた。勝てないのが当たり前の相手に負けたのだから何も気にする必要は無い。もう戦わなくていいのだ。

 どんな人生も死によって幕を閉じる。若くても中高年でも老人になっても。死は平等であり、”死の影”に希望を奪われる事で絶望からも開放されるのだ。希望や幸福を捨てる事で、絶望や不幸から開放されるのだ。


 もうネガティブな事を考えずに済む。

 何も考えずに済む。

 戦わずに済むのだ……。




-----


 きゅぴーん、きゅぴーん、という謎の効果音が聞こえた気がした。


 焦点の合わない視界に3人の誰かの姿が映っている気がした。


「勇者様、まだ負けていません!!」


 ディアの声が聞こえた気がした。手に持っている”転移のオーブ”が使い終わって消え去るように見えた。


「絶望に飲み込まれないでください! 回復魔法”ヒーリング”! 治れー! なおれー!!」


 ホリィの声が聞こえた。そういえば過去に額の傷を魔法で治そうとして全然治らず歪んだ心だけ回復した事を思い出した。

 ……どうしてホリィがここにいる? 遠くに逃げている筈じゃなかったのか? わざわざディアが”転移のオーブ”でホリィと共に来たというのか?


「全力で回復して! 私達じゃネガティブ・ゴーストに太刀打ちできないわ!」とディアは叫んだ。

「勿論です! ライムちゃんは”死の影”が攻撃する直前に”転移のオーブ”を使ってください!」

「ワカリマシタ! 攻撃ヲ受ケルぎりぎりデ転移シマス!!」


 ……なんで3人娘がここにいるんだ?


「早く目覚めろ、勇者ユート・ニィツ! ”死の影”の動きは既に私でも見切れぬ程になってきた! このままでは護りきれぬぞ!」


 魔王ゴグの声が聞こえた。

 時折視界が真っ赤に染まるのは、火竜グラムドリンガーが火炎攻撃で”死の影”ネガティブ・ゴーストを牽制しているからだろうか? ”死の影”の注意を引き付けているが、火竜と魔王の攻撃はまるで通じず明らかに劣勢に見えた。


 シュナが「マジック・ミサイル連撃!」と叫ぶと、大量の魔法の矢がネガティブ・ゴーストに降り注いだ。その魔法攻撃の隙間を縫うように魔王ゴグは防御し攻撃した。


 間髪入れずにカールが「ココでこの技を使わないでどうする! シャドウ・バインド!」と叫んだ。敵の影を射抜いて動きを止める特殊攻撃がネガティブ・ゴーストの身体を貫いた。闇のような影が物質化した”死の影”には効果覿面だ。


 全員の一斉攻撃によって”死の影”ネガティブ・ゴーストは動きを止めた。


「イマデス勇者様! 勇者様ガ”私達ノ希望”ナノデス!」


 叫びながらライムは”転移のオーブ”を発動して後方に転移して退避した。

 同時にグラムドリンガーと魔王ゴグも元勇者と”死の影”から距離を取った。


(……そうか、”俺の希望”は”誰かの希望”の為にあったんだ。それこそが勇者に憧れ戦い続けた俺の望んだものだったんだ。誰かの希望が連鎖して希望が増え続ければ、闇のような絶望だって打ち消せるかもしれないと願いながらずっとずっと人生を闘い続けてきたんじゃないか)


 元勇者はゆっくりと立ち上がりながら剣を構えた。

 ”死の影”の動きを封じる効果が切れ、漆黒の闇の剣で元勇者に切りかかってきた。


 一閃。


 鋭い攻撃を紙一重でかわした元勇者の姿が揺らいだ。多重分身攻撃の重ね掛けで2倍・4倍・8倍と限界まで分身を増やした元勇者は、更に多重分身攻撃で64人の姿となり、その姿が重なっている事で実像が残像で揺らいで見えたのだ。ただでさえ身体への負担の大きい多重分身攻撃を限界以上に発動した事で元勇者の身体は崩壊寸前だった。しかしその表情には笑みさえ浮かんでいた。


「ギガ・究極奥義ッ! デーモンコア・ブレイク・改ッ!!」




 ──その瞬間、大陸全土が揺れた。




 灰色の空が元勇者の一撃で一直線に切り裂かれた。莫大な衝撃で灰色の空が吹き飛び、鮮やかな青空が世界を照らした。

 その青空に攻撃の軌跡が一本の線となって成層圏まで真っ直ぐに伸び、大気が失われたあたりで爆散して広がった。キノコ雲というより天空に一輪の花が咲いたかのような光景だった。


 莫大な衝撃から遅れて、音が響いた。


 ド ゴ オ ォ ォ ォ ン ! ! !


 全ての迷いが消え去った状態での元勇者の必殺技は精度も威力も完璧なクリティカル・ヒットで、デーモンコア・ブレイクの威力は最大限まで高められていた。より強烈な攻撃力を多重分身攻撃で収束した指向性核爆発は、破壊力が集中した事でそのダーメージは桁違いに跳ね上がり、周囲は爆発と爆縮による突風と土煙が巻き上がった。


 そしてその爆音は”スマ水晶”で戦いの様子を見ていた人々にも届いた。


 人々は”スマ水晶”を手放して空を見上げた。灰色の空が消え去って青空が広がっていくのを目にして、この馬鹿馬鹿しい程の超絶な戦いが嘘でも夢でも無い事を信じたいと願った。青空に描かれた一輪の花を眺めながら。


 その願いの為なのか、青空は青空のままだった。再び灰色の空に染まる様子は微塵も無かった。地鳴りが収まり衝撃波が通り過ぎた後には、爽やかなそよ風が吹いた。日差しの眩しさと暖かさは止まっていた季節が動き出して春が遅れてやってきたかのようだった。


 灰色の空が晴れた事と同調するように世界中の人々の心の中の得も言われぬ”絶望”は薄れて霧散していった。

 それは誰にとっても”嫌な気分が薄れて無くなった”程度の事でしかなかったが、たったそれだけの事でこれほど違うのかと思わざるを得ないほど生命力が高まる高揚感が湧き出した。ただ”希望を持てるようになっただけ”なのに、世界が生まれ変わったかのような喜びが身体と心の奥底から湧き出して止まらなかった。


 ネガティブ・ゴーストと元勇者の戦いの様子を映し出していた”スマ水晶”は爆煙しか見えなかった。莫大な攻撃のエネルギーと衝撃波による大気の乱れが納まって煙が晴れるまでに相当の時間がかかった。


 爆煙の晴れた爆心地には、何の姿もなかった。


 遂に”死の影”ネガティブ・ゴーストは打ち倒されたのだ。


 世界中に歓声は沸きあがらなかった。ただ安堵の溜息と、喜びの声と、笑い声だけが、世界中で静かに鳴り響いた。

 失われていた日常が戻ってきた喜び、自分の心の中の闇や影が薄らいで幸せを感じられるようになった事への喜び、ささやかな幸福がいかに大切だったのかを思い出せた事への喜び。

 結局は全ての不安や”絶望”が無くなったわけではない。ただ普通に戻っただけに過ぎない。しかしその”普通”がどれほど大切な事だったのかを感じられた事が、誰しも幸せに感じられた。


 そうして”絶望”との戦いは終わった。




-----


「勇者様……勇者様ーっ!!」


 ”スマ水晶”の魔力が失せてライブ中継も途絶えた頃、爆心地には悲痛に叫ぶ少女達の姿があった。


「勇者様、どうかご無事なお姿を見せてください!」


 爆心地には一本の剣が突き刺さっているのみだった。

 元勇者の姿は無かった。






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