「隣り合わせの鬱と青春」
「死の影」──ネガティブ・ゴーストに対し、大陸各国による精鋭部隊と義勇軍が終結した連合軍が進攻を開始した。
連合軍の総数は2万人を超えた。かつて魔王討伐の為に戦っていたベテラン冒険者も多数参加し、”ヘルズドア”近くに集結する前には各地を行軍し、その勇ましい姿に街中の誰もが「死の影」を倒す事を期待した。その期待はネガティブ・ゴーストの”希望を絶望に変換する力”によって萎えそうになる事もあったが消えて潰える事は無かった。それほど人々の期待は大きなものだった。
”ヘルズ・ドア”界隈で索敵していた連合軍は、近隣を徘徊し続けるネガティブ・ゴーストを発見した。
その大きさは50m程と以前に観測された時よりも小さくなっていたが、影が濃くなっていた。ピンボケのように曖昧だった人影の形も幾分くっきりとしたように見え、その顔の部分には虚ろに濁った目玉のようなものがあった。
「うわあぁぁ!」とレベルの低い兵士達はその姿に恐怖して悲鳴を上げた。ネガティブ・ゴーストと目が合っただけで魂が吸い取られそうな絶望を感じた。幾人もの兵士が逃げ惑い陣形が崩れそうになった。
「怖れるな! 未だ敵との交戦圏内にも達していないんだぞ!」とベテランの兵士が声を上げた。希望や期待ではなく、世を乱す現況に対する怒りや憎しみの感情で闘志を高ぶらせていた。ネガティブ・ゴーストが希望を絶望に変えるのであれば期待を持たずに戦意を保とうという策だった。
若干の陣形の乱れはあったが連合軍はネガティブ・ゴーストに程近い場所まで進軍した。兵の誰もが奇妙な心の乱れを感じていたが、戦意は維持し続けていた。工兵スキルに長けた部隊が短時間で手際よく投石機を作り上げた。先ずは数十基の投石機による長距離攻撃でネガティブ・ゴーストの様子を探ろうという作戦だった。
しかし案の定、投石による攻撃は通用しなかった。影でしかないネガティブ・ゴーストをすり抜けるばかりで全くダメージを与えられなかった。
ついで魔法攻撃に長けたソーサラーによる部隊が一斉に呪文を唱えた。数百人のソーサラーによる魔法攻撃の乱れ撃ちはネガティブ・ゴーストの周囲の地形が変わるほどの激しい攻撃力だったが、やはり影をすり抜けてしまいダメージを与えたようには見えなかった。
ネガティブ・ゴーストもゆっくりと移動して連合軍に近付いていた。いよいよファイター系の近接戦闘を得意とする部隊が剣技で倒そうと突進した。しかしその結果は惨憺たるものだった。やはり剣は影をすり抜け、特殊攻撃もまるで効果が無いようだった。
まるでダメージを与えられない連合軍に対し、ネガティブ・ゴーストは巨大な腕を振り下ろした。その動きはゆっくりしたものだったが、巨大な腕が剣のように伸びて兵士達の身体を影で包んだ。ネガティブ・ゴーストの攻撃も兵士の身体をすり抜けたので物理的なダメージは無かったが、影に飲まれた兵達は心神喪失状態となってしまった。
「まさか、ネガティブ・ゴーストが攻撃してくるなんて!」
影に飲まれた兵士が次々と倒れ、戦況は混乱した。攻撃の当たらない影の巨人の攻撃は動きが遅くとも頭上から振り下ろされ回避のしようが無かった。2万の兵士は果敢に魔法や攻撃を続けたが、数分も経たずに陣形は崩れて成す統べなく敗走する事となった。
敗走した兵士達はネガティブ・ゴーストが何処かに移動してから、攻撃を受けて心神喪失状態で倒れこむ兵士達を救助した。
「……あんな化け物に、勝てる筈が無い……」
それは戦う前から判っていた事でもあった。実体の無い影を相手に戦っても攻撃は通用しないだろうと。しかし2万もの猛者が集結して戦えば何らかの勝機が見出せるのではという淡い期待もあった。結果はその”期待”が”絶望”になっただけだった。兵士の強さに関係なくネガティブ・ゴーストの影に飲まれた者は気力を失い動く事も出来なくなってしまったからだ。
ネガティブ・ゴーストの絶対的な存在が人々を絶望させ、その影に触れた者の希望を消し去る特殊効果が更に人々を絶望させた。
誰もが希望を持てなくなった日々に勇敢に挑んだ連合軍の敗走の噂話はすぐに大陸中に広まった。
もしかしたら青空が戻るかもしれないという大陸中の人々の淡い期待は、悲報と共に消え去った。
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貿易を経済の軸とするアーティス王国では、他の大陸にもネガティブ・ゴーストの影響が及んでいるという噂話が伝わっていた。貿易船の数は減り、その何割かは航行中に船員が気力を失って遭難しているという噂だった。貿易の航路の各所に難破船が漂い、幽霊船を目にする事も当たり前となり、その陰惨たる光景を目にした船員が更に気力を失っていく負の連鎖も日常となっていた。
アーティス王は玉座に座したまま動かなかった。
アーティスも連合軍に多数の兵士を送り出しており、その大半が心神喪失状態で帰還した。死者こそいなかったが生きる気力を失ってしまえばどうにもならない。侵略や戦争の懸念の無い時とはいえ、アーティスの軍隊は国を護れぬ程の壊滅状態となった。
誰もが生きる気力を失い、生きる希望を失っていた。その被害の程度は人それぞれで、症状の軽い者もいれば重度の鬱となり人生に悲観して自ら命を絶つ者さえ増えていった。
既にネガティブ・ゴーストによる被害は、かつて魔王が人類を支配せんと侵攻を始めた時よりも酷いものとなっていた。
「話によればセシルは”新世界の神になる”と言っていたそうじゃが、よもやこのような絶望の世界を統べる邪神になろうとは……」
アーティス王は深いため息を吐き出して、眉間を手で押さえた。
「希望無き世の中が現実のものとなった現状、世界が緩やかに衰退し滅びるのを待つだけとなってしまったようじゃ。世の摂理が人々から希望を奪ってしまうのでは、人々の魂を奪われてしまったのと同義と言えよう。あの”ネガティブ・ゴースト”が世に出現した時に世界は滅んだのであろう。いまや世界中の誰もが滅んだ世界の中でその終焉を待つだけとなってしまったのであろう……」
国民を護り反映させる事が国王の務めであるのに、誰も希望を持たず国王自身さえ希望を持てないのでは打つ手は何も無くなる。
ネガティブ・ゴーストに対しての連合軍の攻撃も現状を打破する為の一手だったが、ただ無力である事を証明しただけで終わってしまった。アーティス以外の参戦国のいずれも似たような状態だと伝え聞く。抗う術も無く、ネガティブ・ゴーストの影響から逃れる事も出来ない。
「あのう……お父様、お悩みのところを失礼します」
「ディアか。構わぬ。何用か?」
「実は勇者様……ユート・ニィツ様から”ささやかながら食事会を開きたいので宜しければ御参加ください”との手紙が届いたのです」
「ユート殿が! ……ユート殿が?」
アーティス王はこの危機的状況において元勇者から手紙が来た事に一縷の期待をしそうになったが、その内容がお食事会だったので困惑した。元勇者が人を招いてパーティなんて国王にとってもディアにとっても元勇者のイメージからかけ離れていた事だった。
アーティス国王とディアは、神妙な面持ちで元勇者からの手紙の意味を察しようとした。
そして同時に小首をかしげた。
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諸国を放浪し各地の惨状を目にした元勇者は、ふらりとダババ神殿の近くに立ち寄った。
「ふむ、希望を糧に絶望を生成し続ける永久機関の特殊魔法とな」
元勇者の師匠とも言える大賢人ワン・セボンは一連の顛末の話を聞いて考え込んだ。
「この状況は人の心からエネルギーを奪うようなトンデモ魔法が実際に効果を発揮し続けているようにしか思えないのですが、この特殊魔法を止める事って出来ないものなんでしょうか?」
「それは……」
「それは?」
「……」
「……?」
「……zzz」
「おいコラ寝るな」
「そう怒るでない。寝る子は育つと言うではないか」
「数百歳の大賢人が言う台詞じゃないっすよ」
「まぁまぁ、そなたの戦いは”スマ水晶”で見ておったし、特殊魔法が発動する様子もしかと見ておった」
「ふむぅ、やはりトンデモ特殊魔法は発動しているんですね。気のせいならいいのになぁと思っていたのですが」
「問題は特殊魔法で生み出された影のほうじゃ」
「影…”死の影”とか”ネガティブ・ゴースト”と呼ばれている巨大な人影の事ですね」
大賢人ワン・セボンはゆっくりと頷いた。
「あの影こそが人々の心を食らっている元凶そのものじゃ」
「まぁ、言われなくてもわかってますけどね。他に無いし」
「そのネガティブ・ゴーストは日が経つにつれて影が濃くなり背丈は縮んでいるそうではないか。つまり未だネガティブ・ゴーストは完全体ではない不完全なものなのであろう」
「世界中の人々から希望を吸い取っても未だ未完成なんですか?」
「出現した頃は山をも越えるほどの大きさだった影が、日が経つにつれ小さくなり影が濃くなっているのは、焦点の合っていなかったピントが定まりつつあるのであろう。さすれば人の心を食らう力も強くなって、影響はこれまで以上になるであろう」
元勇者は眉をしかめた。現状でも被害は甚大で、世間は陰鬱な状態で暗い話題しか耳にしない。これ以上陰鬱になったら不景気どころではなく人間社会そのものが崩壊してしまうだろう。
「……もし影が一層濃くなって、大きさも人間に近いサイズになったとしたら、攻撃してダメージを与える事は出来るでしょうか?」
「影は影じゃ。攻撃が当たる筈も無かろう」
「大賢人様も随分ネガティブですね……もしやセシルの特殊魔法の影響を受けているのですか?」
「そうかもしれぬな。わしに限らず動物も植物も影響を受けておるようであるし、この灰色の空はまるで季節まで影響を受けているかのようにも見える」
「てっきり大賢者様はこのような特殊魔法は効かないものかと思っていたのですが……」
大賢人ワンは、元勇者をジロリとみつめ、言った。
「むしろそなたは何故普通でいられるのじゃ? いや理由は言わんでも良い。しかしそなたは特殊魔法の影響をあまり受けていないように見受けられる」
「そんな普通じゃない人間みたいに言わんでくださいよ」
「そうではない。そなたがネガティブ・ゴーストとやらの影響を然程受けていないのであれば、倒す事は出来ずともこの状況を変える何かが出来るのでは無いか?と思ったのじゃ」
「……俺は普通の一介の冒険者に過ぎません。この状況を変えられるような事を思いつかなかったから大賢人様に教えを請いに来たのですから」
「そなたに教えられる事は全て教えた。もし忘れたのであれば”スマ水晶”に記録した技の説明動画を安値で売ってもよいが」
「あ、商売っ気は衰えていないんですね」
結局それ以上の会話は弾まず、元勇者は大賢者の元を離れる事にした。
(俺に出来る、この状況を変えられるかもしれない事、か……)
既に季節は春の終わり、初夏に近い頃合の筈だったが、灰色に濁った空からの日差しは弱く、風も肌寒かった。
数日悩んだ挙句、元勇者は手紙を書く事にした。
それが食事会のお誘いメールだった。
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そしてパーティ当日となった。
元勇者はアーティス城下町の酒場を貸し切って、豪華な食事を用意した。
招かれたのはアーティス王とディアの他、ホリィとライム、かつての冒険者仲間のシュナとカール、一応の警護も兼ねてアレクだ。
「ウェーイ!(某) きょうは集まってくれて有難う!」
元勇者は頑張って明るく挨拶をしようとしたが、パーリーピーポーには程遠く、どちらかと言えば陰キャである。酒場に白けた空気が漂った。
「え、えーっと……ゴホン。まぁアーティス王含め、皆来てくれて本当に有難う」
集まった面々は、やはり無言だった。
元勇者が食事会を開くという事が意外だったし、どうして突然こんな事をしているのかもわからない。
「まぁ……みんなに一言言っておきたい事があって、こんな集まりを企画したんだ」
貸切の酒場には豪華な食事が並んでいた。この不景気な世相には不釣合いな程の料理がテーブルに並び、ケーキなどのデザートも豊富に用意されていた。
普段はヒネて性格の歪んだ中高年でしかない元勇者が、こんなパーティを主催している事自体が謎だった。参加者の誰もが「何かの罠では?」と訝しんでいた。
少し言いよどみつつも、元勇者は意を決するように言った。
「実は、その、みんなにお礼が言いたかったんだ。俺のような中高年の相手をしてくれて有難う」
酒場の何処かから誰かの「えっ?」という小声が漏れた。
「まぁこんな不景気な世の中になっちゃってる時だけど、俺はこれまで結構みんなに助けられていたと思うんだ。まぁ戦闘とかではそれほどお世話になっていない気はするけれど、精神的な面とかでかなり救われていたと思う」
集まった面々の様子が少し和らいだ。一言多いあたりはいつもの元勇者だ。
「そんなわけだから、まぁ俺の感謝の気持ちで結構ゴージャスな料理を用意してみた。作ったのは雇った料理人とかパティシエとかだから、俺が作ったものを実験的に皆に食べさせようって事ではないので安心してくれ。少しつまみ食いしたけど相当美味しいと思うよ」
そう言われて集まった面々は身構え警戒するのを控えた。やはりこんな事をするのは元勇者らしくは無いが、料理はいかにも美味そうだ。
集まった全員がネガティブ・ゴーストの影響によって活気が失われていた。このパーティに来るのにも相当の気力を費やしてようやく辿り着けたという様子だ。何かを期待したい気持ちを失意が打ち消す。しかし元勇者がいつもどおりの様子である事に、誰もが”かつての普通”だった気分を思い出していた。
小声だったが、ホリィが口を開いた。
「それにしても凄い料理ですね……食材不足で不景気なのに、こんなに料理を用意するのは大変だったんじゃないですか?」
「こんな事をするのは初めてだから頑張ったよ。あちこちの料理人も不景気で暇だったらしくて、食材を揃えたら快く応じてくれたよ」
元勇者は事も無げに言ったが、実のところ食材を買い集める為に乏しい貯金の大半を費やしていた。食糧不足で高騰し死蔵されかけていた食材を業者の言い値で買った為だ。気力を失った料理人達を雇うにも”多額の薄謝”を出している。経済が貧血状態となって金に金の価値が無くなりつつある状況なので、常識的な額よりも多めに出したのだ。おかげで「気分が乗らないから手抜き料理で」と言い出す料理人はおらず、むしろ久しぶりに潤沢な食材で料理できる事を喜ぶ者も多かった……その喜びもネガティブ・ゴーストの影響で長くは続かないだろうが、気分が下がっても金は残る。
「まぁ、ネガティブゴーストに対してのささやかな抵抗と思ってくれ。ついでに皆にこれまで思っていたけど言わなかった事を言っておくのも良いかなぁと思って。」
ディアが少しだけクスクスと笑って言った。
「私達への感謝の言葉は、ついでなんですね?」
「真剣に言ったらちょっとキモくないかなぁと思って。中高年は結構そういうところを気にしちゃうものなんだよ」
「中高年というよりは勇者様の性格でしょうね」
少女に見透かされている事に元勇者は少し狼狽し、その様子を見てディアは微笑んだ。
「料理は沢山用意してあるし、残してもフードロスが発生するだけだから、みんな自由に好きなものを食べてくれ。せっかくアーティス王にもお越しいただいているので、何か挨拶があれば一言どうぞ」
「ふむ……せっかく勇者ユート殿が設けてくれた宴の席である。このひと時は勇者殿の厚意を授かりひと時の憂さを忘れて楽しもうぞ」
アーティス国王の言葉に皆がグラスを掲げた。
パーティとかお食事会と言うにしては幾分静かで穏やか過ぎたが、さほど暗い雰囲気にならずに会食が始まった。
「王様にもホント感謝しています。俺が魔王を倒した事を疑わなかった事やその記録を取ってくれた事も、悪い噂が広まりそうになった時には砦に匿ってくれた事も」
「些細な事じゃ。国にとっても記録を残す事は歴史を築く事に繋がる。……その歴史もいつまで続くやら判らぬ世になってしまったが」
「アーティスの魔導師達でも未だネガティブ・ゴーストの弱点とかは見つけられていないのですか?」
「魔法で作られたものは魔法が尽きれば消える筈じゃが、人々の希望の心をエネルギーにして絶望を生成する影を滅ぼすには、希望の心を持つ人間が絶滅する他に無い、という絶望的な結論しか見つかっておらぬ。そもそもネガティブ・ゴーストの姿が”何の影なのか?”という事さえ判らぬままじゃ」
「ふむ……何の影なのか?という着眼点は面白いですね」
「なにかのヒントになりそうかね? もしヒントに成り得るのであれば勇者殿は戦って打ち倒す事は出来そうかね?」
「いまのところは”無理!”としか言いようが無いですね。しかし不思議と俺はネガティブ・ゴーストが倒せないものだと感じられないのです」
「こんな時であるからして無理という言葉は聞きたくなかったが、しかし勇者殿は絶望するにはまだ早いと言いたいのかね」
「俺がそれほど影響を受けていないように、また王様がこんな食事会に来てくれる程度には活力が残っているように、セシルの特殊魔法が完璧で最強というようには思えないのです」
「ふむ、勇者殿が言うならそうなのかもしれぬ。その言葉を聞けただけでも来た甲斐があったというものじゃ」
アーティス国王の表情が晴れる事はなかったが、幾分すっきりしたようにも見受けられた。
皆が粛々と食事を取り程々に世間話に花が咲く程度に場が和んだ頃、ホリィが元勇者に小声で話しかけた。
「勇者様はいつもどおりで、なんだか安心します」
「その”勇者様”と呼ばれるのも、そろそろ具合が悪いかなぁと思うんだが。世の中はいまはこんな感じになっちゃったけれど世間を乱す魔王や悪党はいなくなったし、天気も季節も良くない日が続いているけど地震や竜巻で突然被害発生しているわけでもない。世の中に勇者が出来る事なんて無くなったし、俺ももう普通の中高年でしかない」
「……そんな事は言わないでください。私にとってユート様が勇者様なのですから」
ホリィの表情が一気に暗くなり、元勇者は(しまった)と思った。かつての仲間であるグレッグの娘であるホリィは幼少の頃から英雄譚を聞いて育ったらしい。御伽噺の勇者に恋焦がれる少女の夢を壊してしまってはネガティブ・ゴーストの影響を強く受けてしまうかもしれない。
「まぁ世の中には勇者なんてきっと沢山いる筈だよ。ホリィがこれから出会う誰かかもしれない。こんな世の中が永遠に続くとは思いたくないし、若くて可愛いホリィならこれから本当の勇者と出会う事もあるだろう」
言いながら元勇者は(俺ってオトナだなぁ)としみじみ思った。これまで散々ラッキースケベの恩恵を授かり、既得にも元勇者に好意を寄せている美少女に対し「もっと相応しい男がいるだろう」と諭して身を引く気遣い。
しかしホリィの表情は暗さから怒りに似たものに変わっていた。
「もしかして勇者様は、私が御伽噺の勇者に恋焦がれていると思っていたのですか?」
「え? グレッグが仲間になった頃とか時系列を考えると御伽噺ではと……」
「私は父グレッグが勇者様の仲間になるずっと前から聞いて育ったのは御伽噺の冒険譚ではなく”勇者ユート・ニィツの冒険の物語”です。冒険者チームの活躍の噂は街の噂として広まっていたのですが、私はユート様の冒険の話が好きだったのです」
「俺達の冒険は地味~な下調べとレベル上げの繰り返しで、他の冒険者達のような華やかな展開は少ないほうだったぞ?」
「そこが大好きだったのです。派手な戦いを制し武勇を誇る冒険者の話は幾多もありましたが、そういった冒険者はすぐに噂を聞かなくなりました。でもユート様の冒険譚は地道に努力を重ねて結果を出していくお話が多かったので、そこに惹かれたのです」
「なんだか恥ずかしくなるが、グレッグが帰郷して亡くなるまでの日々では俺達の冒険譚のしょっぱい話も沢山聞かされていただろう?」
「でも、最後にはユート様は恐ろしき魔王を一人で打ち倒しました。父グレッグはその場から逃げた事を後悔し、ユート様と旅をした事を誇りにしていました。ユート様の長い長い魔王討伐の旅の時間は無駄ではなかったという事を私は知っています。ですので私は歳の差など気にせずユート様のお嫁さんになりたいと願っているのです」
ホリィは淡々と語ったが、元勇者は赤面しそうになった。年頃の美少女にプロポーズされているような格好だ。せっかくこれまで親ほど歳の離れた大人として分をわきまえ一線を引いてきたのに、少女の純真さと真剣さに押し切られてしまいそうだ。
「そうは言っても冒険者の需要が無くなったいまとなっては俺はただのオッサンだよ?」
「ユート様は私をお嫁さんにしたくないのですよね? 薄々は判っていましたが、希望が失われる世界で私のささやかな夢想まで奪わないで欲しかったです……」
「いや! ちょ! そーゆー事でもなくて!!」と元勇者は超高速で首を横に振った。
「でも、私は対象外なんでしょう?」
「いや、そのぅ……変な話だけど、世の中が失意で低迷しているこんな世の中だったら俺が若い娘と結婚しても誰も気に留めない気がするんだ。でもこんな世界で結婚してもネガティブ・ゴーストが心を萎えさせるから楽しい新婚生活にはならない。ただ結婚するだけなら簡単だけど、それで幸せにならないのなら意味が無いじゃないか」
「……私なんだかユート様に気を使わせちゃったみたいですね。ごめんなさい」
「いや気を使ったわけじゃなく、結構正直に話したつもりなんだけどなぁ」
元勇者の背後から声がした。
「モット世ノ中ノ元気ガ無クナレバ、私達全員ト結婚シテモ誰モ気ニシナイカモシレマセンネ」
「そうそう、ホリィにディアにライムの3人を嫁さんにして夢の一夫多妻生活を……って何を言わせるんだライムは!」
「世の中がこんな事になった事で、何かの希望が生まれる事もあるんですね」
「いやいやディアもそんな事を言うもんじゃない」
3人娘は狼狽する元勇者を見てクスクスと笑ったが、やはり普段の元気の良さには程遠く思えた。
(やはりあのネガティブ・ゴーストはどうにかしないとならないな……美少女は元気で笑顔が一番だからなぁ)
「でも私達の誰かと本当に付き合うつもりって、あるんですか?」
ホリィが直球で尋ねてきた。元勇者は少し考えてから、言った。
「……誰とは決めかねているけれど、一人孤独でいるよりは誰かと一緒に暮らしたいと思ってる。だから誰かと付き合う事になるかもしれない」
3人娘は一瞬明るい表情となったが、すぐにネガティブな気分に苛まれた。
「私達を子供扱いして、この場をしのごうとして言っているのではないですよね?」
こんどはディアが疑心を向けた。これまで元勇者は3人娘のアプローチを尽くスルーしているので、ネガティブ・ゴーストの影響が無くとも疑われていただろう。
「きょうや明日というわけにはいかないが、この話は近いうちにどうするか決めようと思っている。山賊セシルを倒した途端に世の中が変わってしまったように、突然また世の中の雰囲気が変わるかもしれないからなぁ」
「近イウチッテ、ドレグライデスカ?」
ライムが純真無垢な瞳で尋ねた。3人娘達の表情は明るく、元勇者は無碍には出来ないなぁと思いつつ答えた。
「大体……1週間後ぐらいかな? ちょっと野暮用を済ませなきゃならないんだが、それが片付いて落ち着いたらこの話の続きをしよう」
3人娘は元勇者が具体的な時期を言った事と、それが1週間後と案外早かった事に驚き喜んだ。これまでの元勇者であれば適当に茶を濁してウヤムヤにされるのが普通だったのにだ。
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食事会の時間はなごやかに流れ、ネガティブ・ゴーストの”希望を絶望に変換し続ける特殊効果”の影響も少なく済んでいるようだった。
一応の警護役としてアレクもいたが珍しく少々戸惑っている様子だった。
「あのぅ、私がこの場にいても良いんでしょうか?」
「まぁ辺境の砦でもお世話になった……かどうかはわからないけど一つ屋根の下で一緒だったわけだし、王様も呼んじゃったのに一応はホスト役の俺が身辺警護するわけにもいかないし、なんやかやアレクにも感謝の気持ちがあるから招いたんだ。どうか遠慮せず飲み食いして欲しい。まぁ襲撃される心配も無いだろうし、アーティス国王の前では18禁トークも出来ないだろうし」
「でも私は何も感謝されるような事をしていないと思うのですが」
「辺境の砦で俺一人だったらメンタル壊して過去の禍根と後悔で鬱をこじらせていたと思う。そうならずに済んだのはアレクがいたからだよ。まぁ下品すぎるシモネタを毎日聞かされ続けて頭が変になりそうだったが孤独よりはマシさ」
「そんなに孤独って辛いものなんですか? 確かにオナニーより本番のほうが気持ちよいですし賢者タイムもありませんが」
「もう少しマシな例えは出来ないものかと。ともあれ孤独は若いうちなら我慢できるけど、歳を取るほど耐え難いものになっていくようだ。概ね30代あたりだと結婚しなくても平気なんて思ったりするけれど、40代を過ぎると独身のまま老いていく事が不安になって、歳を取るほどその不安が大きくなっていく」
「女の場合は子を宿し世継ぎを作るかどうかを考えなければならないので、年齢については不安ではなく現実問題として考えると思います。男性とはセックスの価値観も少し違う気もしますし」
「そのあたりは俺は何か語れるほど経験豊富じゃないけれど、まぁフンワリとはわかっているつもりだ。まぁ未婚独身の男は歳を取っても頭の中がガキのままなのかもしれないし、女性はホリィやディアのような小娘でも女のたくましさを感じる事がしばしばあるし」
元勇者は一呼吸置いて、話題を変えた。
「ところでアレクも連合軍の遠征部隊にいたんだろう? あのネガティブ・ゴーストの近くにいて大丈夫だったのか?」
「大丈夫かどうかと問われれば、大丈夫じゃありませんでした。近付いただけで頭の中からエロ欲求が消え去っていく嫌な感じがして意識が朦朧となりそうでした」
「アレクからエロ欲求が消えたら少しはマシになるんじゃないか? 少しデトックスしたほうがいいと常々思ってたし」
「いえ冗談ではなく、自分の意識というものを自分以外の何かによって奪われる感覚は、まるで魂を吸い取られているようなおぞましさでした。自分というものを消し去られていくような不気味な感覚です」
「よく無事で帰ってこられたなぁ」
「必死でエロい事を考え続けて抵抗したんです。エロ欲求を思い浮かべ、それが消されたら別のエロ欲求を考えて」
「……お、おう。称えればいいのか罵倒すればいいのかわからんが、無事でよかった。それにネガティブ・ゴーストの”希望を絶望に変換し続ける特殊効果”というものがなんとなくわかってきた。希望はモチベーションの根源でもあるだろうから、それを奪われたら動く事も考える事も出来なくなってしまうんだろう。しかしモチベーションが奪われても意識がある限り次の意欲を思い浮かべる事はできるわけか」
「そういう感じだったかもしれません。ですがモチベーションが奪われすぎれば肝心の意識も薄れてしまうかと」
「希望があるから人は行動できるのかもしれないな。アレク、貴重な経験談を有難う。これまでのエロ経験談より俄然役立ったよ」
「いずれエロ経験のほうでもご助力できればと思います」
成る程”希望を絶望に変換し続ける特殊効果”で希望を奪っても、新たに希望を見出す事は出来そうだし、希望が無くても平気であれば元勇者自身のように影響は少なく済むようだ。
アレクとの話を終えた元勇者は、シュナとカールのいるテーブルに向かった。
「いいのかユート、年頃の女の子にあんな約束をして」
カットしたホールケーキをもりもり食べながらカールは尋ねた。戦闘時の凛々しいイケメン姿の片鱗も感じさせない恰幅の良さだった。
「えぇっと……1週間後の事か? まぁ……そんな先の事なんてわからないけどな」
「ユートにしては随分いい加減な言いようだな」
「体型がいい加減なカールに言われたくないけどな」
傍らにいたシュナも会話に加わった。
「それにしても、ユートはネガティブ・ゴーストの影響を受けていないように見えるんだけど、何故なの?」
元勇者は苦笑いをしつつ答えた。
「俺は慣れてるからな……魔王と戦う前から、希望のない日々に」
魔王との決戦直前に戦線離脱したシュナとカールは何も言えなくなった。元勇者は苦言や嫌味で言ったつもりではなかったので、すぐに補足した。
「そもそも魔王が世界を侵略しようと進軍を始めた頃から希望なんて乏しかったじゃないか。戦乱の世になって不景気で就職氷河期になって俺達のようなフリーランスにならなきゃ生活できない日々になって、命懸けなのに稼ぎは不安定な毎日で、希望には程遠い日々で30代や40代を浪費してしまった。魔王を倒して世界を平和にしようなんて想いも、みんな心のどこかでムリじゃないかって思ったり迷ったりしていただろう?」
「確かに就職氷河期になった頃の世の中は酷いものだったわ。真面目に頑張ろうとする人にはそのチャンスも無くなって、悪い事をする人ばかりが荒稼ぎして出世していくのが当たり前になってしまって、若かった頃には随分と世に悲観したわ」
「しかしユート、あの頃の不景気といまの不景気じゃ根本的に違うよな。魔王という悪を倒せば希望があるというのと、倒せない影のせいで希望が無くなってしまったいまとは」
元勇者は、呟くように言った。
「あの影は……俺達の中にある心の影と同じものだよ。多分ね」
「セシルの歪んだ心が生み出した影だろう?」と、カール。
「俺達の心が歪んでいないとは言えないだろう? セシルも俺も、正しいと思った人生を、幸せになれると思った道を選んで進んで来た筈なんだ。なのに俺は寂しい独身中高年で、結婚して欲のままに生きる事を選んだセシルさえ幸せにはなれなかった。世界を救おうと頑張った俺達は自分自身を救う事も出来ずに歳を取ってしまった。そんな心の影はきっと誰の心の中にもあるんだろうし、その影が大きくなればセシルのように身を滅ぼす事になるんだろう」
はぁ、とシュナが大きなため息をついた。
「それは理屈よユート。心の中だけなら押さえ込む事が出来る心の影も、実体化してどんどん力を増している現実のネガティブ・ゴーストには無力としか言いようの無い理屈よ」
「それにネガティブ・ゴーストが心の影でも何であっても、戦って倒せる相手じゃない事が問題なんだから、どうにもならないさ」
元勇者は「ふぅん」と鼻で相槌を打っただけで何も言わなかった。
人の心の中の希望を消して心の闇を肥大化させるネガティブ・ゴーストの影響を受けているようには見えなかった。
その態度に、カールは「まさか……」と呟いた。
「まさかユート、あのネガティブ・ゴーストと戦うつもりか?」
「どうだろうねぇ? 俺は剣を振り回す事しか能のない元冒険者でしかないが、その剣が当たらないなら戦うのは無駄だと思うんだがね」
「もしかしたら、あなたはあの巨大なネガティブ・ゴーストと戦うつもりでいるから、こんなパーティを開いたの?」とシュナは問うた。
「このパーティは本当にみんなにお礼を言いたかっただけだよ。いつか言おうと思って言わないままになる事は多いじゃないか。世の中こんなんだし皆ヒマそうだから余興でやってみただけさ。シュナやカールとは長い付き合いだからイヤな事も沢山あったけど、長い人生の長い時間を共にした事そのものがとても有難い事だと思ったんだ。本当にありがとう」
「……ユート、もしあの巨大な影と戦う時には、私も一緒に戦うわ」
「俺も魔王の時のように逃げたりしないぜ。ユートが戦うなら俺も戦う」
元勇者は少し困った表情で笑った。
「……もし人生をやり直せるとしたら、シュナやカールはやり直したいと思うかい? 冒険者なんて収入不安定で何の資格も得られないフリーランスにはならない人生も選べるし、自分の幸せだけを考えて結婚できる人生もあるかもしれない。平凡な日々の中にささやかな幸せを感じられる人生もあるだろう。過去に戻って青春時代をやり直したいと思った事はないか?」
突飛な質問にシュナとカールは困惑した。
「オレは……どうかな? 過去に戻って色々な失敗をやり直したいとは思うけど、いまの人生そのものを消し去りたい気分は無いな」
「私ももっと青春時代の若かった頃から重要と思っていなかった結婚の事も真剣に考えて上手に生きていればと思うけど、過去に戻れてもまた同じ失敗をしてしまう気もするわ。だって私は私だから、人生をやり直せても私以外の誰かにはなれないわ」
「おっ、みんな意見は一緒か。俺もこんなガッカリ人生には毎日嫌気が差しているが、それでもこれまでの自分の人生には案外と後悔は無いんだ……いや後悔は山ほどあるけれど、その後悔も自分の一部だから拒みきれない気持ちがあるんだ」
「でもそれがどうしたって言うんだ?」
元勇者はカールの問いかけに答えた。
「これまでも、いまも、最高には程遠いけれど死ぬほど悪い人生じゃなかったよな?って事さ。そして生きているうちはこれからも悪い人生にはならない筈だと思いたいんだ。……俺たちの青春って、まだ終わっていないよな?」
その言葉にシュナとカールは困惑した。年齢的には青春を語るには不相応に思えたが、元勇者がどのような返事を求めて問いかけているのかが判らない。元勇者はそこで話題を変えた。
「まだ料理は沢山残っているぞ。残りはタッパーや折り詰めで持ち帰れるけど、もう少しガツガツ食べないとフードロスで環境問題になるぞ」
──結局パーティは和やかな雰囲気のまま終了した。終わりが近付くにつれネガティブ・ゴーストの影響らしきもので皆の気分は沈みがちとなったが、いつもどおりの元勇者が場をとりなして一応の明るい雰囲気は保たれた。
そしてそれぞれは帰路につき、貸し切った酒場には元勇者一人となった。
元勇者は祭りの後のような侘しさを漂わせる酒場のテーブルを眺めつつ、煙管を取り出して一服した。
(……あまり皆に感謝の気持ちが伝えられた気はしないけれど、独身未婚の中高年の俺の低いコミュ力では精一杯頑張ったほうだ、と思いたいなぁ)
元勇者は吸い終えた煙管の灰を落とし、残った料理をつまみ、椅子に座って大きく背伸びをした。
「さて……少し休んだら”野暮用”に取り掛かるか」




