「陽はまた昇ると限らない」
セシルは塵となって消え去り、元勇者は呆然と立ち尽くした。
これまで狡猾な悪事を繰り返してきたセシルの事であるから(これも何かのトリックか罠ではないか?)とも考えたが、そうではない事は元勇者が握り締めている片刃の両手剣で感じた感触からも確かだった。確実に手応えがあった。
確かにセシルは倒した。
死に際に「これからの世界はユート・ニィツが選んだ世界だ。せいぜい苦しめ」と呪いの言葉を残して塵となって消えた。
セシルの心臓を中心に光っていた魔方陣もセシルと共に崩れて消え去り、元勇者の眼前には誰もいない。
「……」
元勇者は(……終わった……のか?)と呟きそうになって言葉を飲み込んだ。あまりに俗っぽい台詞であるし、こんな事を呟いた後に別の何かが始まってしまうパターンも俗っぽい展開だ。そんな事になっては面倒だと思ったのだ。
ただ呆然と立ち尽くす元勇者の元に、満身創痍のシュナとカールが歩み寄ってきた。まだ身体の緊張が抜けないのかカールはイケメン姿のままだった。
「終わった……のか?」
「俺が言うのを我慢した言葉をあっさり言うなよカール」
「でもセシルを倒したんでしょう? 大丈夫だったの?」
「シュナが心配しているのは、例のデスノートに書かれていた魔法で”セシルが新世界の神になったのかどうか”だろう? それがよくわからないんだ」
元勇者は2人にセシルを倒した時のことを説明した。元勇者がセシルの心臓を貫いた時に魔法は発動したように見えた。セシルは全力を出し尽くしたのに全てを失った強い絶望の感情を魔法を発動するエネルギーにして特殊魔法を発動したと言った。そしてセシルはその身体さえ特殊魔法の贄になったかのように塵となって消え去った。
戦いが終わりセシルが消え去った”ヘルズドア”の光景は相変わらずの不気味な光景で、火山の噴煙で澱んだ空の色はとても世界に平和が訪れたという雰囲気ではなかった。
「セシルの魔法が本当に発動したのなら、何かを逆のものにし続ける永久機関のような効果で世の中の何かが逆になってしまうはずよ?」とシュナは尋ねた。その問いに元勇者は歯切れの悪い口調で答えた。
「セシルが言うには『希望を絶望に変える』……のだそうだ」
「希望を絶望に? 随分ふんわりした魔法だな? そんな事の為にセシルは悪事を重ねた挙句に命懸けで戦って死んだのか?」と、カール。
「うーむ、セシルの禍根や心の闇がそういった顛末を望んだのだろうけれど、実際にその魔法が発動しているのかどうか全然わからないからなぁ」
戦いに勝った筈なのに3人は釈然としない気分で立ち尽くした。
暫くすると離れた場所で戦いを見守っていた精鋭部隊が再結集して3人の元に近付いていた。
「まぁ一応は俺達生き残れたようだし、たぶん”スマ水晶”で戦いの様子が世間に見られていたのだろうから、勝利者っぽいキメポーズで格好つけよう。こういった時にボケーッと突っ立っていると仕事サボっているように見られるらしいからな」
3人は凛とした立ち姿を維持し続けた。
-----
「勇者様! お怪我は大丈夫ですか!」
元勇者達の元に駆けつけた部隊から、ディアが駆け出してきた。ディアを守るために元勇者は片腕に大怪我をしているので、その心配をしているのだろう。続いてホリィとライムの姿。3人とも心配からの涙と勝利での笑顔が合い混ざった表情だった。
「いま”エリ草ー”食べたからたぶん大丈夫だよ。痛みを我慢するのは慣れてるし、神経とか痛めるようなヤバイ怪我だったら戦えてなかったし、まぁ全然平気だよ」
元勇者は3人娘に余計な心配をさせないように答えたが、全身傷だらけで体力も消耗しきっている姿からも全然平気には程遠い事は明らかだった。シュナもカールも同様にボロボロの姿だった。いかにも中高年が無理しましたという姿だった。
ホリィがパーティ全体を回復させる魔法を唱え、ライムが元勇者達の身の回りの世話をしている間に、戦闘に巻き込まれぬよう散り散りに逃げていた精鋭部隊が取り囲むように陣を張った。これでようやく元勇者達は気を抜く事が出来る状態になった。
ボロボロの姿ながらも大怪我の手当ては済んだ元勇者達に、ディアが尋ねた。
「これで……全ての戦いが終わったのですね」
「これで終わった筈だよ……多分」
「少し歯切れの悪い感じのお答えですね? 戦いの様子は”スマ水晶”で大陸中の多くの人達が見ている筈ですし、一連の騒動の首謀者だったセシルさんもいなくなりました。これで諍いの元は全て無くなったと思いますし、勇者様への嘘の噂も完全に払拭されると思うのですけれど」
「そうだと良いんだけど……」
言いながら元勇者はシュナとカールの顔を見た。2人とも何かすっきりしない表情だった。
「セシルは”スマ水晶”での実況配信を始める前に、”狼煙獅子団”や”希望の暁”で溜め込んだ莫大な財産を火山の噴火口の中に捨てているし、セシルを倒した事で”希望を絶望に変える魔法”が発動したようなんだ。セシルは自分が負ける事も計画の内だったのだろう」
「希望を絶望に変える魔法、ですか……? それって一体どんな魔法なのですか?」
「それが……見ての通りさ。セシルが自分の命と禍根を全部注ぎ込んで発動させた魔法なのに、どうやら結局なにも起きなかったようなんだ」
「魔法が失敗したのでしょうか?」
「確かに発動したように見えたんだけどなぁ。魔方陣の光とか見えたし」
「セシルのデスノートに書かれていた魔法の術式はどれも未完成だったから、本当に魔法が失敗していたのかもしれないわよ」とシュナは言ったが、やはり断言できるほどの自身は無い様子だった。セシルにとっても一度しか発動できない特殊魔法なのに未完成のままだったとも思い難い。
皆が現状確認で頭を悩ませている時、ライムだけが何かに覚えている様子だった。
「勇者サマ……ナンダカ、不気味デス」
「どうしたんだ、ライム?」
「何カヲ感ジルノデスガ、ソレガ何ナノカ全然ワカラナインデス」
「何かって、どんな感じなんだい?」
「何カガ……見エナイ何カガ、近クニ漂ッテイルヨウナ……?」
ライムはシュナの魔力で造られ生まれた魔法生命体ホムンクルスだ。インモールでの騒動の時もライムは魔力に敏感に反応していた。そのライムが何かを感じて見つめる先には何も無く、ただ”ヘルズドア”の不気味な光景が広がるばかりだった。
元勇者は一応の警戒をしてみたが、戦う対象が見当たらないので何も出来ない。その様子を見てシュナとカールも周囲の気配を探ったが、やはり何も感知できなかった。
ひとしきり周囲を観察したが特に変わったところはないように思えた。火山の噴煙立ち込める”ヘルズドア”の景色が薄い影に覆われているかのように薄暗いことが不気味に感じるだけだ。
「ライムが感じるのだから何かがあるのだろうがサッパリわからないな。戦いは終わって”ヘルズドア”に留まる理由も無くなった事だし、全軍撤退して一連の騒動は全て終わったという事にしよう」
-----
元勇者達はポータルのある場所まで移動した後、アーティスに転移した。
アーティス軍やインガー帝国の兵士などの混成部隊の人数が多いので全員が”ヘルズドア”の地を離れるまでに数刻の時間を要する事となった。夕刻に全員の帰還を確認し、元勇者が事の次第を詳細にアーティス国王に説明し記録を取り終えた頃には晩餐会の支度が整っていた。
以前に行われた宴は、元勇者が魔王を倒した事を祝うものではなくアーティスを襲おうとした山賊を追い払った事でのパーティだった。しかし今回はきちんと「元勇者が悪党を退治した事を祝うパーティ」だった。
これまでの数々の騒動の幕引きに相応しいイベントがきちんと開催された事は、元勇者達にとっても喜ばしかったが少々の気恥ずかしさもあった。長く冒険者を続けてきた元勇者とシュナ・カールではあったがイベントをクリアして祝われる事は稀だったからだ。
元勇者達は戦いでボロボロになった衣服から、アーティス側が用意した礼装に着替えた。立派な服を着ても相応に馴染んだ格好に見えるのは中高年になった事の数少ない利点だった。元勇者もシュナもベテラン冒険者らしい見栄えのする格好にコーディネートされた。コーディネートはこうでねーと、とは誰も言わなかったが心の中では思っていたに違いない。難航したのは未だイケメン姿のままのカールだった。何を着ても似合う色男の姿であったが、カールは万が一の為に「ベルトではなくゴム紐、あとサスペンダー」と希望した。
「正装するのは葬式の時ぐらいだから、綺麗で派手な服を着るのはどうにも落ち着かないな……」と元勇者はボヤいた。
「お似合いです、勇者様!!!」とホリィとディアが大袈裟に喜んだ。ライムはファッションに興味が無いのかニコニコ微笑むだけだったが、年頃の少女が喜ぶ様子に元勇者は(普段から身だしなみは意識していないといけなかったようだな……でもなんだか面倒なんだよなぁ)と思った。常に誰かが近くにいるのであれば身だしなみも重要であろうが、一人孤独でいる時に小奇麗な格好をする為に労を割くのは全く以って割に合わない無駄な行為に思えた。
シュナはカールに「サスペンダーはデブに似合うわよね。空輸もしやすいし」と言い、カールが「サスペンダーはデブを吊り上げる為の紐じゃねーよ!」とツッコんでいた。現在はイケメン姿だが、どうせ晩餐会で食事を食べれば即座に丸々太った別人のような姿に戻ってしまう事だろう。
晩餐会が始まる直前にディア・ホリィ・ライムも正装に着替えていた。化粧もしている3人娘は普段とは違った美しさに輝いていた。
「いかがですか勇者様」とディア。美しいドレスに劣らぬ美貌でアーティス王国の姫君である事が疑いない可憐さだ。普段の少しボーイッシュな雰囲気がドレスで隠されると、元勇者もその美貌に圧倒されそうだった。これほどの美少女とグダグダな日々を繰り広げていたのかと思い返すと心が狼狽してしまうほどだった。
「田舎娘の私がこんな格好をして、変じゃないでしょうか?」とホリィ。肌の露出は一見して少なく見えるが、透けるほど薄い生地が多く使われ、また胸元や背中が大きく開いたドレスだった。無垢な少女が美しくも大胆なドレスを着ている事で、普段の清純なイメージのホリィとは違った色香を放っていた。
「私モ綺麗ナオ洋服、着セテモラッタヨー!」とライム。ディアやホリィとは違い様々な色で淡く染められたドレスだ。大人っぽさの無いデザインのようだが、ライムの豊満な身体が溢れ出そうだった。無垢で無邪気なライムの笑顔とのギャップが激しく強調されたかのような美しさだった。
元勇者は、毅然として堂々と答えた。
「おっふ」
それ以上の言葉は出せなかった。
元勇者が独身未婚で中高年になった一番の理由がこの不甲斐無さかもしれなかった。
3人娘の美しい姿に目が泳ぎまくる元勇者が呆然と立ち尽くしているうちに、晩餐会が始まった。
-----
「皆の者もきょうの戦いに関してはその目で、または魔法による光景で知っておろうが、魔王による無差別な侵略の時代が終わってから3年の時が流れ、人々が平和な日常を取り戻そうと勤めてきた世界を、冒険者から山賊に身を落とし商人達を騙して騒乱を御高祖し続けてきた悪漢のリーダーであるセシルは、勇者ユート・ニィツとその仲間達によって成敗された。不埒な山賊集団”狼煙獅子団”が我がアーティスに攻め込もうとしてから昨今の世を乱し続けていた問題の党首が討伐されたのだ」
この晩餐会の始まりを告げるアーティス王の演説が始まった。
こういった演説は常に退屈を伴うものであるが、この場にいる全員が真剣にアーティス王の言葉をかみ締めるように聞き入っていた。元勇者とセシルの戦いは一般の兵士に限らずベテランの兵士でも目にする事の稀なハイレベル同士の戦いで、その結果によってはセシルの蛮行に歯止めがかけられなくなっていたかもしれない。モンスターが世の中を乱すのであれば戦って駆逐する事で救う事も出来るだろうが、人間同士のイザコザで世の中が乱れては簡単には解決できない。そのトラブルの元凶を元勇者達が消し去ってくれたのだから、誰にとっても喜ばしい記念日となったのだ。多くの兵士達も危険な任務が減るであろう事を喜んでいた。
「これにより、世に不安の影を落としていた不景気の問題も改善に向かうであろうし、山賊などの横暴の被害も減るであろう。寒期が終わり春となる頃には人々の暮らしも豊かになっている事が期待できる。きょうがその始まりの日となる事を願っての宴である! 厄を払いのけるほどに存分に楽しむがよい!!」
アーティス王の言葉に集まった者達が歓声を上げた。
それは”ヘルズドア”では結局響かなかった勝利の歓喜のようでもあった。
「うーむ、こういった賑やかなイベントって憧れていたんだけどなぁ。でも俺って陰キャなのか明るいパーリーピーポーの輪の中に入っていけそうに無いなぁ」
元勇者は度数の低い果実酒をちびちびと舐めながら会場を眺めていた。
3人娘たちは男が放置しない艶やかな姿で、これまで散々ラッキースケベの恩恵を得ていた元勇者は少々落ち着かない気分だった。ディアはお姫様らしい美しい格好の本物のお姫様であるし、ホリィは清純な身体のあちこちが垣間見えるドレス、ライムも無垢な色香を無自覚に放っているようだ。3人娘が豪華な食事の皿に辿り着くまでに何人もの男達が挨拶の声をかけ、美しい少女の柔肌を間近で見つめていた。何人かは会話スキルが高いようで3人娘達の表情にも笑顔がこぼれた。
「いや別にジェラシーとかじゃないけれど、なんだか心配になっちゃうなぁ」
元勇者は一人ぶつくさ言いながら3人娘に近付こうとした。
しかしすぐに行く手を遮られた。
「勇者ユート様! きょうの戦いは御見事でした! 一瞬で部隊陣営をお救いに来られた時には鳥肌が立ちました! 魔王を打ち倒した時にもあのような一瞬の技の攻防が繰り広げられたのではと思うと……」
「ユート様! 目の前で一流の太刀捌きを見る事が出来て感動しました! 一体どれほどの修練を積めばあのような……」
「勇者様! 失礼ながらぜひとも握手をしていただきたく……」
「勇者様!」「勇者様!」「勇者ユート・ニィツ様!!」
晩餐会での人の動きが自由になるほど元勇者の周囲に人が集まり、英雄としての振る舞いを求められる格好となった。普段はネガティブでナーバスな元勇者でも、こういった時にシラケた態度を取れるほどふてぶてしくない。
元勇者はシュナに助けを求めようと思ったが、視線の先のシュナも元勇者同様にアーティスの魔導師たちに取り囲まれていた。普段はクールな表情のシュナが作り笑顔をして対応しているが、眉はハの字になっていた。
ではカールに助けを……と思ったが、姿が見えなかった。兵士達もカールの話を聞きたいと探している様子だったが、目に付くのは料理の並んだテーブルの前でがっつく太ったサスペンダー男だけだった。
(あぁ……冒険を共にした戦友カールよ、短い再会だったな。さようなら……)
元勇者はイケメン姿のカールに別れを告げた。あんだけ食ってりゃ再会する事も当分ないだろう。
結局元勇者は取り囲む人々の相手に専念せざるを得ない事となり、目の前にあるテーブルの料理に手を伸ばす事も出来なかった。あまり調子に乗らない程度の控えめな態度で挨拶をして質問に応じ、これまでの武勇伝の断片をかいつまんで語った。一応それなりに勇者っぽい振る舞いをしなければ取り囲んでいる人々は満足しないであろうし、不遜な態度では失望させてしまう。
(勇者扱いされても、結局ただの一発屋のフリーランス冒険者なんだけどなぁ俺は)
元勇者の長い冒険者生活の中でも極めて珍しい”周囲から感謝され祝われる”という状況だったが、何故か心の底から嬉しい気分になれないでいる事が不思議に思えた。
人々の求めに応じながら周囲を見ると、3人娘達の姿を見失っていた。彼女達も”元勇者と共に活躍してきた英雄”であり、そうでなくても見目麗しい美少女3人組だ。取り囲まれて身動きが取れなくなっている程ではないだろうが、誰かが話しかけてくれば相手をしなければならないのだろう。
晩餐会も暫くはこの戦いでの有名人を取り囲んでのファンサービスが続きそうで、元勇者が他の面々と駄法螺話をするのは当分無理そうだ。3人娘もシュナもカールも随分遠くに離れている気がした。
(こんな感じで平和な日常の中で自然と距離が出来ていって、自然に終わっていくのだろうな)
元勇者はシニカルな事を考えた。それは陰鬱な気分ではなく、寂しさに似た気分だった。
-----
宴も時間が経つにつれ、それぞれが相手した人々や順番待ちの人々が酒に酔いつぶれたり疲労でおとなしくなっていった。
魔王が討伐されてから一番の悪党を倒し、世の中から当面の大きな不安が消え去った事を記念し祝う宴とも言えるのに、大騒ぎで盛り上がるというよりは和やかな宴となっていた。
(立派な服を着込んでヒーローインタビューみたいな事を続けるのも疲れてきたなぁ)
元勇者はそろそろ何か口実を作って静かな場所で一服したいと思った。晩餐会も和気藹々としつつも穏やかな雰囲気で、すこし席を外しても大丈夫のようにも思えた。
ふと元勇者の視界にライムの華やかなドレスが目に入った。ライムは少し気分が悪そうに見え、慣れないヒールの靴のせいもあって、ふらふらと倒れそうになっていた。
元勇者は人混みの合間に動線を見抜き、瞬間移動のような高速で躓いて倒れそうなライムを抱きかかえて支えた。
「どうしたんだいライム、大丈夫かい?」
「アッ、アッ、ユ、勇者様! アリガトウゴザイマスっ!」
「気分でも悪いのかい?」
「ハイ、ソノゥ……コノ宴ノ楽シソウナ雰囲気ガ、渦巻イテ消エテイクヨウナ……何カ変ナ感ジガシテ」
「楽しそうな雰囲気が消えていくような感じ?」
どこかでシュナやカールが問題を起こしているのでは?と思って周囲を見渡すが、そういった事では無いようだった。
「”ヘルズドア”デ感ジタ、見エナイ何カノ感ジニ似テイル気ガシマス……。ソノ変ナ感ジト楽シイ雰囲気ガ渦巻イテイルヨウナ感ジニ、少シ酔ッテシマッタミタイデス」
元勇者の脳裏に、セシルの今際の際の言葉「これからの世界はユート・ニィツが選んだ世界だ。せいぜい苦しめ」が思い返された。
「ソレト、チョットどれすガきつカッタノカモシレマセン。チョットふらふらスルケレド、大丈夫デス」
「ライムは嘘とか隠し事とか出来ないタイプだろうから大丈夫と言うのなら良かったけれど、一応シュナに付き添ってもらって休んだほうがいいだろう」
元勇者が呼ぶと、人の相手に疲れて不機嫌になりつつあったシュナは即座にやってきた。
「見た感じ、ただの疲労のようね。でもライムは魔法で出来ているようなものだから、何かの魔力を感じて気分が悪くなったのかも」
「何かの魔力って……何かわかるか?」
元勇者もシュナも言葉にしなかったが、セシルの最後の魔法の事を思い出していた。
「検知魔法を使ってみたけど……何も判らないわ。魔法を司るマナのようなエネルギーと似た何かは感じるのだけれど、魔法と言えるほどの密度じゃないわ。他の危険そうなものも検知できない」
「なら安心だが、なんだか安心しきれない感じだよな……」
ライムをシュナに預けて休ませ、元勇者は宴に集まっている人々に軽く挨拶をして廻った。平和の記念日となるかもしれない和やかな宴に不穏な空気を残さないようにする為だ。こういった楽しいイベントで妙な禍根を残さないほうが後々の為であろうと思っての行動だ。
「しかしこんな時にカールは何をやってんだ」
宴の広い会場の片隅に、食べすぎで具合が悪くなって担架で運ばれるサスペンダー男の姿が見えた。丸々と太った重そうな身体を担架で運ぶのが大変そうだった。
「あぁ……冒険を共にした太ったほうのカール、短い付き合いだったな。さようなら……」
元勇者は太った姿のカールに別れを告げた。あんだけ食ってりゃ消化に時間もかかる事であろう。
食べ過ぎて倒れる卑しい姿は心底”仲間とは思われたくない姿”だった。さらば、カール。
-----
晩餐会の宴は程々に和気藹々とした和やかな雰囲気のまま静かに終わった。
魔王の恐怖から解き放たれてから初めての「巨悪を駆逐した記念日」とも言える宴にしては静かなものだったとさえ言えた。
それは各地の市民も同様だった。
セシルと元勇者の戦いは”スマ水晶”で実況中継され、そのどちらが善で悪かは殆どのものにとって判りかねる事ではあったが、一般人にとっては滅多に目にする事の無いハイレベル冒険者同士のガチバトルを目にする事が出来たのだ。当然のように誰もが水晶玉を凝視し、その人間離れした激しい戦いに熱狂し大いに盛り上がった。その盛り上がりも日が沈む頃には落ち着き、熱狂の熱も静まっていった。
元勇者は場の流れで数日アーティス城に居続けたが、1週間経った時にアーティス王に別れを告げに挨拶した。
「……ふむ、勇者殿は元の暮らしに戻ると?」
「はい。セシルの最後の魔法……言うなれば”禍根の呪文”がどのようなものなのか、実際に発動しているのかどうかもわからないので暫くご厄介になりましたが、いまのところ何も問題は起きていない様子ですので、俺の役割も終わったのではと」
「そなたにとっては不本意だったのかも知れぬが、先日の戦いは多くの民衆も観ていた事で、商人の騒動の時の悪い噂は薄れ、またそなたが魔王を倒した勇者であるという事も身を以って証明したと言える。そなたにまつわる不当な扱いの原因は無くなり、我がアーティス王国としても勇者ユート・ニィツと友好関係を持っているという事は良き方向に働くであろう……つまりは勇者殿は何も遠慮なくこの城で生活して良いし、何か望む事があれば応じられるだけ応じる事も出来るという事じゃ」
「それはありがたい話なのですが……」
元勇者は居心地が悪そうに頭を掻き毟った。
宴の後の数日は戦いの傷をホリィが治そうとし、ディアも元勇者を国賓のように扱った(勿論冗談を含む扱いであろうが)。
少し調子の悪そうだったライムも元気を取り戻して元勇者に甘え、ついでにアレクも挨拶に来たが秒で追い払った。
戦いが終わった日々は元勇者にとって言いようの無い満たされた時間だった。「言いようの無い」事を簡単に言ってしまえば「幸福」な時間に思えた。その幸福が元勇者にとって少し居心地悪く感じてしまったのだ。
「問題の無くなったいまとなっては、俺はただの冒険者に過ぎません。”禍根の呪文”での問題も無いとすれば、元の生活に戻る事が自然なのではと」
「そなたにはわが娘を妃に迎え、この国の主となる将来を選ぶ事も出来るのじゃぞ?」
「そそそ、それは……俺には勿体無さすぎる話です。俺は戦う事しか脳の無い冒険者でしかなく、英傑のような欲も弱く、もしアーティスを統べる事となっても年齢的に僅かな年月でしかないでしょう。そんな事のためにディアの貴重な青春の時間を浪費させるわけにはいきません」
「とはいえ、若き頃の青春の時間は長いと思っても早く過ぎ去り、寿命を意識するようになってから末期に至るまでの時間は案外と長く続くものじゃぞ。そなたもワシから見れば未だ若いのであるから、考えが変わる事があるようなら早目に告げる事じゃな」
居心地の悪さが一層強くなって元勇者は萎縮しそうになった。
勇者だの冒険者だのと言っても所詮はモンスターをボコボコにするだけのチンピラである。魔物を倒すのも魔王を倒すのも、セシルのような悪漢を倒すのもチンピラが暴れた結果に過ぎない。それに元勇者が活躍できるのは誰かが問題を抱えている時ばかりだ。そう考えてしまうのは元勇者がネガティブ過ぎるからだろうか、自己評価が低すぎるからだろうか。ともあれ収入が不安定なフリーランスが安々と結婚を決断出来る筈もなかった。
「なにはともあれ色々な問題も片付いたようですし、俺のようなフリーランスが必要とされない平和な世の中になるほうがアーティス王国の為、または世の為かと」
「山賊や悪徳商人がいなくなっても世が乱れる時はある。地震・雷・火事・魔物などの自然災害は備える事は出来ても防ぐ事は難しいものじゃ。そういった”いざという時”には再びそなたの力が必要となるであろう」
「そうならないほうが世の中平和というのが悲しいですけどね」
そうして元勇者はひっそりとアーティスを去った。
(長かった冒険者としての生活も、本当にこれでエンドマークだな……。物事の終わりってものは、結構こんな感じでひっそりしたものなのだろう)
普段通りのナーバスでネガティブ思考の元勇者は、あてもない旅に出た。
……帰る住処が無いからだ。
アーティスを去る時にはディア・ホリィ・ライムの3人娘とは顔を合わさないようにした。黙って去るほうが良いように思えた。元勇者は平和な世の中にとっては必要とされない存在であり、つまりはフリーランスとして仕事が得られない。3人娘と関わっても3人娘の為になるような事も無い。関わり続けてもいずれは親戚のオジサンのようなポジションに納まるのが関の山で、それはそれで元勇者としては悲しい展開だ。ならばこういった別れ方でも良いのではなかろうかと思ったのだ。
(当面はあまり縁の無かった街の宿屋を転々として、春になったら玄関の壊れた温泉付きの砦に戻ってDIYに明け暮れる事にしよう)
元勇者は望まぬ形で少々目立ってしまったようなので、少し静かな暮らしをして自分を取り戻したい気分だった。
寒かった寒期ももうすぐ終わり、春になれば孤独な一人暮らしも然程精神を病まずに済む。
冒険者としての最後の戦いとなったのがかつての仲間だったセシルを殺す事だった事も少々の後悔となりつつあった。別に親友ではなかったし性悪な悪党になっていたので殺した事を悔やんでいるのでは無いが、一人反省会の常である”他に選択肢はなかっただろうか? もっと良い解決策があったのではなかろうか?”という疑念が涌いてしまうのだ。
──しかし元勇者のささやかな余生の望みは、一向に叶う気配が訪れなかった。
寒期が終わっても、春が来なかったのだ。
その原因がセシルによる特殊魔法である事に人々が気付いたのは、元勇者がアーティスを去った数週間後の事だった。




