「長い冬」
アーティス辺境の拠点は平原の片隅にあった。
広大な平原の片隅、低い山々が連なる麓側にぽつんと石造りの砦があった。
周囲には大木が1本、轍もなく雑草が生えて往来する者の少なさを物語っているあぜ道があるだけだった。
「こちらが春まで過ごす砦となります。かつては野良モンスターから近隣の農村を守る為に兵士が滞在していた拠点だったのですが、魔王が打ち倒されてからは魔物も減ったので放置されていました」
元勇者が住まう事となった左遷先の砦の説明を、アレクは淡々と語った。
「ふむ……随分と小さな砦だな。」
こじんまりとした砦には簡素な納屋が隣接し、馬を休ませる為の馬繋場があった。その周囲を低い石垣が取り囲んでいる。防衛拠点としては脆弱だが、遠征地の別荘と考えれば十分以上のものだった。なにしろ周囲は見渡す限りの平原で、低い山々は霞かかって見えるほど遠くにある。高いやぐらを作らずとも敵やモンスターの姿はよく見える。
「こんな僻地に左遷されるとは想像もしていなかったが……まぁ慣れてはいるから平気だろう」
元勇者は魔王を倒してからの3年間を思い返していた。元勇者が魔王を倒した事など誰も知らず、平和になって誰からも必要とされなくなって、廃棄されていた砦で僅かな貯蓄を削りながらひっそり孤独に暮らし続けていた。
この辺境への左遷も似たようなものではあったが、住所不定となって借家を借りる目処も立たず困っていたところであったし、一応はアーティス王の厚意によっての事だ。小娘達が押し寄せてくる前の孤独で鬱屈とした日々を思い返せば、僻地の砦での隠居生活は恵まれているとさえ思える。
淡々とアレクは砦の案内をした。
「小さな砦ですが作りはしっかりしておりますのでご安心を。まずご覧の通り周囲には何もありませんので世間体を気にする必要がありません。どんなプレイをしても大丈夫です」
「最初に説明する事がソレか?」
「はい。大きな喘ぎ声を出しても誰にも聞かれる事はありません」
「どうして真顔で”はい”と言えたのか心底不思議だ。脳味噌に虫でも湧いてるんじゃないか?」
「私、何か変な事を言いましたか?」
「自覚が無いのか? ……まぁとりあえず、この砦の説明をきちんとしてくださいよ」
「わかりました。では中にどうぞ」
元勇者とアレクは砦に入った。
「エントランスの隣が食堂とキッチン、その奥が個室となります。個室は少々手狭ですから寝室と割り切り、生活空間としてはキッチンをリビングスペースとして使うのが良いかと思います」
「個室はベッドとサイドテーブルでスペースの殆ど全部か。街の安い宿屋でみかける”ビジネス宿屋”とか”カプセル宿屋”に近い狭さだ。でもまぁ隠居生活で広々空間だと逆に落ち着かないかもしれないから丁度良いのかもしれないな」
「砦そのものも快適な空間というわけではありませんが、機能的で長期滞在も問題無い設計になっています」
「機能的な設計?」
「例えば食堂にある暖炉ですが、この暖炉にはボイラーが仕組まれてまして、暖炉を炊けばボイラーの中の水が沸き、砦の壁の中に巡らされた配管によって砦全体が温まる暖房になっています」
「これから寒い寒い寒季だから、暖かいのはありがたいなぁ」
「暖炉の火を絶やすと配管の中の水が凍ってしまうのでお気をつけください」
「油とかの不凍液を使わなかった設計の甘さは”機能的で長期滞在も問題無い設計”と言えるのだろうか?」
一抹の不安を感じつつも砦の中を一通り見て回ったが、放置されていたという割には綺麗に整っており、元勇者達が来る前にアーティス側が準備したのであろうと思われた。狭い個室は遠征した兵士が寝泊りできるよう10室ほどあったが、どの部屋もすぐに住まえるように整えられていた。元勇者は(中高年ひとりの左遷で手間をかけさせちゃったようで少々申し訳ないなぁ)と思った。
「以前に住んでいた砦より一回り狭いが、一人暮らしで広い家に住むのは持て余すし寂しいから、丁度良い感じなのかもしれないな」
「ユート様お一人ではなく、私もご一緒に住まうのですが」
アレクの言葉に元勇者は眉がハの字になった。
アレクは一見すると凛とした真面目そうで有能で容姿も整っている女性だが、その中身は相当残念な……言わば”恥じらいの無いアラサー腐女子”といった感じだ。たぶんその残念っぷりで結婚相手がいないのであろう。ただの腐女子であれば需要も多いだろうが、アレクの場合はその腐れっぷりを一般的な当然の事と思い込んでいる様子であり、常識と貞操観念が希薄となれば結婚しても人前に出しにくい事は明白だ。もしアレクと結婚する男がいたとしても、その結婚式は両親や親戚のしかめっ面と苦笑いで満たされる事だろう。
「こんな辺鄙な場所だったら、アレクが俺を見張る必要は無いんじゃないかなぁ? 近くに村もないし、俺が何か噂になるような事は何も出来やしないんだから」
「そうはいきません。世間ではユート様が商人ギルドを襲ったという噂が広まっていますし、アーティス王国としてはユート様をぞんざいに扱う事も出来ません。噂が消える春の頃まで”ユート様は何も問題を起こさなかった”という事を証明する者も必要ですから、私はその証人役でもあるのです」
「悪党を倒しただけのつもりが、面倒な事になっちゃったなぁ……」
「ですのでユート様は、私の事はメイドか家政婦と思っていただければ宜しいかと思います。もちろん何事かあればユート様が何もなさらずに済むよう私がお守りします」
「メイドさんなら出来れば”えっちなのはいけないと思います!”とか言ってくれるほうが安心できるんだけどなぁ」
「ユート様は嫌がる相手を無理矢理犯すプレイのほうがお好みでしたか? 私も凌辱プレイは経験豊富ですのでハードな事でも対応できるかと思います」
「好みじゃないし、対応しなくていいし、まずコンプライアンスに対応して欲しいし」
「悪い噂が無くなってアーティスが問題なしと判断するまでユート様はこの砦に軟禁されるようなものですから、せめてユート様のご希望には出来る限り応じ、何も不自由の無い優雅な生活を送って頂きたいのです」
「とりあえずの俺のご希望は、逆セクハラの無い日常かなぁ」
元勇者のボヤキに気付かなかったアレクは馬車から荷物を砦に運び始めた。
シュナとは逆方向に残念なアレクと春までの数ヶ月生活を共にする事に、元勇者は憂鬱な気分となって深い溜め息を吐いた。
溜め息は白く漂い、寒季が深まっている事を告げていた。
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「セシル、あなたもあの忌々しいユートを殺す方法を考えたらどうなの!」
ローザのヒステリックな怒声が”希望の暁”の隠れ家に響いた。
北の宿場町で元勇者の攻撃を受けて敗走して以来ローザはずっとヒステリックだった。怪我は回復魔法で治したので傷痕も目立たないが、アラフィフ女性の更年期障害なのかローザーは相当根に持っている様子だった。
しかしセシルは妻であるローザの怒りには全く無反応だった。
「ユートの奴を殺すチャンスは無かったのか?」
「不意打ちを受けたのよ? そんなチャンスがあるわけないじゃない! 逃げるのがもう少し遅かったら私は確実にユートに殺されていたわ!」
「そうか、お前ではユートを殺すのは無理だったか」
「なによ、あなたは私が死にかけた事に腹が立たないの?!」
セシルは無反応で、返事をしなかった。
その様子にローザは本当に”妻であるローザが死にかけた事”など何の関心も無い事を察し、狼狽した。
ローザは内心では夫であるセシルの事を蔑んでいた。
本当ならセシルこそが魔王を倒した英雄になる筈だったが、巨大なドラゴンとの戦闘で心が折れて山賊に身を落とした。人間が巨大なドラゴンを打ち倒す事は無茶な事だと身を以って知ったセシル達が、山賊に身を落としたのは当事者としては当然としか思えない事なので不満は無かった。しかし山賊となってからも冒険者と魔物との戦いの武勇伝はしばしば風の噂でローザも耳にしていた。ドラゴンを倒した冒険者がいると言う噂を耳にすれば「私達の方がもっと早くドラゴンと戦っている」と嫉妬に似た感情が湧き、「ドラゴンに殺されてしまえばいいのに」という逆恨みの感情さえ湧いた。そして「もし山賊に身を落とさずに冒険者を続けていたらどうなっていただろう」とも考えた。その心の迷いを「どうせ更に強いモンスターが現れて殺されてしまうだけよ」と否定した。
英雄になれなかったセシル達は山賊として成功しなければならなかった。悪事を働くには悪を正当化する理由が無ければならない。冒険者としての人生を諦めたセシル達にとって「魔王を打ち倒さんとする冒険者よりも欲望の為に力を振るう山賊のほうが正しい」という事を証明する事……山賊となったセシル達が世界を支配する事が「悪を正当化できる理由」だった。冒険者よりも山賊のほうが正しい生き方である事を、正しい者が馬鹿を見て強い者が得をする世の中だという事を証明しなければならないとさえ思っていた。
しかし山賊となって規模を拡大し辺境の村を襲う事は、意外な問題に直面した。欲望を満たすだけの悪行をすれば満足してしまう事だ。食料や金品をを奪い、ハガーやルナーグを筆頭に男達は村娘を犯し、機嫌が悪ければ意味も無く村人を殺した。冒険者として戦闘スキルを高めた仲間達にとって山賊稼業など楽勝だった。必要なだけ略奪すればそれ以上をする必要が無かった。
魔物と戦う事に挫折して山賊になったセシルやローザにとっては、冒険者の活躍は目障りだった。万が一にも巨大なドラゴンよりはるかに強いであろう魔王を倒す冒険者がいたら、セシル達はただの負け犬になってしまう……散々苦労して命がけで幾多の街や村を救い続けた末の挫折なのに、”魔王を倒した冒険者”の存在が山賊に落ちたセシルやローザの人生を否定してしまう気がした。
殆どの悪人は、自分の悪事には正当性があると信じているものだ。正当性も無く悪事を続ける事は難しく、それは山賊セシルやローザも同様だった。
「商人を騙して大金も集められたし、そろそろユート・ニィツを殺そう」
勘定のない声でセシルは言った。
「でも、ユートを殺すのは簡単じゃないわ。馬鹿みたいに戦闘力に特化していて、本気を出されたら返り討ちにされるのは明白よ」
「ユートの存在は俺の計画にとって邪魔であり、必要不可欠でもある。準備が整い次第ユートを殺して計画を成就させる」
「計画を成就……ついに私達が世界を支配するのね」
「ああ。俺達が世界の神になるんだ」
「神! 私達が神に! 勇者や英雄なんて目じゃないわ!」
ローザはオホホと高笑いし、その興奮が落ち着くとセシルに問いかけた。
「……本当に、世界を支配する神に、なれるのかしら?」
「勿論だ。世界中の誰もが俺達をどんな目で見るのか、楽しみだ」
そう言ったセシルの声には、感情がこもっていなかった。
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元勇者が辺境の砦に住み始めて1ヶ月が過ぎた。
「寒い……寒い……」
元勇者は白い息を吐いた。
「申し訳ありません、暖房のための薪の用意が足りなかったようで」
アレクは元勇者に謝罪したが、その背中は弱火で燃える暖炉に密着していた。
「いやそのちょっとストーブから離れてくれないかな? 暖かさがアレクで遮られてメッチャ寒いんですけど」
薪不足は早い段階で気付いたが、周囲は山も森も無い草原で焚き木を集める事も出来ず、ボイラーが凍結しない程度の弱火で暖炉を炊き続ける日々が続いていた。左遷されている都合上マジックアイテムの”転移のオーブ”でアーティスに救援物資を求めに行く事もためらわれた。
「勇者様、どうぞ遠慮せず私の隣に密着して暖を取ってくださいませ。よろしければ私の身体で暖めましょうか?」
「アレクはまず下半身のレーティングをどうにかしたほうがいいんじゃないかな。毎日毎日シモネタばかり聞かされて寒さに震えている中高年の心中を察して欲しい」
貞節というものが皆無のアレクとの共同生活は、元勇者がその誘惑になびく心配の無い日々だった。
兵士として鍛え上げられた肉体は引き締まりつつも女性の曲線美を伴い、端正な顔立ちで美人とさえ言えるアレクだが、相当のスケベ男でもドン引きする程の下半身遍歴で、恥じらいというものも持ち合わせていないようだった。
元勇者もアレクも相応に歳を重ねた大人であるので、恋愛感情のない遊びとしての男女の情事に興じたとしても不自然な事ではなかったが、言葉にせずとも常に「触手でも種付けオークでもバッチ来~い!」というオーラを発しているアレクに対して欲情できる男は稀であろう。恋愛経験に関しては一般人レベルでしかない元勇者にとってはハードルが高く、むしろ萎える相手だった。
「とりあえず食事の下ごしらえを始める事にするよ。食材を適当に突っ込んで煮込むだけのポトフだけど」
元勇者はアレクを無視して料理の支度を始めた。
寒い時に光熱費をケチりながら部屋を暖めるには料理をするのが一番簡単な方法だ。
「料理でしたら私がしますが」
「いやアレクはしなくていい。絶対にだ」
元々アレクは元勇者の身の回りの世話をする役割で、もちろん料理もその仕事のひとつだった。しかしこの砦での生活の1日目にアレクが作った料理はメシマズの一語で済ませられるレベルではないもので、完食すれば確実に命を落とすであろう程の強烈な「食物兵器」だった。食材の成分がどのように化学反応を起こしたのかはわからないが、雑魚モンスターであれば確実に仕留められる程の攻撃力を持った料理だった。
もちろん、元勇者はそれを食べて3日3晩寝込む事となった。それ以来、料理は元勇者が請け負っている。
「料理の仕度もさせてもらえないのでは、私の務めは身体を使った御奉仕しかなくなってしまうのですが」
「それもしなくていい。絶対にだ」
「私が少しばかり経験が多いからといって拒まれる理由がわかりません。勇者様は独身なのですから伴侶となる方に配慮する必要も無いのですから、もう少し気軽に肉欲を楽しまれても構わないのではと思うのですが」
「少しばかりと言い切るか。……確かに独身中高年には下半身のモラルが低い輩も多いし、そういった事を楽しんでいる奴も多いけど、俺は自分がそうなりたいとは思わずに生きてきたからなぁ。魔王討伐ばかりの人生だったから、そういった事への経験値は低いし」
「魔王討伐に熱中しすぎて色恋沙汰に疎いというのは、オタクが趣味に熱中しすぎて恋愛経験乏しいのと同じですね。よくわかります」
「よくわかるんじゃない。そしてオタクに謝れ」
「しかし色欲など誰でも持ち合わせているものですし、私ほどでは無いにしても誰でも隠れて淫らな秘め事をしているものです。勇者様も我慢なさらなくて良いのですよ?」
「我慢しているワケじゃなく、魔物とさえ楽しんじゃってるアレクが相手だと普通に萎えるんですけど」
この1ヶ月ほどの世間話の殆どはこれまでのアレクの下半身武勇伝だった。いわゆる「R-18クエスト」において歴戦を重ねてきたアレクの話は嘘や創作であれば興奮する内容ではあったが、当の当事者が生々しく語る経験談は不快感度3000倍でしかなかった。
元勇者は適当に食材を見繕い、ポトフを作る準備を始めた。
(料理を煮込む熱と湯気で部屋が暖まればいいんだが)
食糧の備蓄は相応にあり、尽きる前にアーティスが補給に来る。その時に暖炉にくべる薪も持ってきてくれれば良いのだが、砦で長期滞在するだけの薪は相当な物量となる。元勇者は(春が来るのが先か、凍え死ぬのが先か……)とネガティブな気分を払拭できなかった。寒さは行動力を奪い気力も削ぐものだ。はあぁと吐き出した大きなため息は白く、視覚的にもこの砦が冷え切っている事は明らかだった。
元勇者はグズグズと手際悪く料理の支度をした。野菜の皮を剥いたり洗ったりという作業で指先が凍るのではと思ったし、寒い中で水仕事などしたくない。しかしアレクに任せれば凍死とは別の命の危険がある。
「……何かの気配を感じるな?」
元勇者は砦のエントランスを見た。
砦の外から誰かが来るような気配は無かったが、エントランスの何処かから雷の放電のような小さなラップ音が響き始めた。
「何者かの襲来でしょうか?」と、アレクは腰の剣に手を添えた。
「いや、こんな辺鄙な砦に俺達が潜んでいる事はアーティスの一部の人間しか知らない筈だ。それにこれほど魔法の気配を発していては奇襲にならない」
2人が様子を伺っていると、ラップ音は次第に大きくなり、眩しく発光して何かが出現した。
出現したのは、太った中年男のカールだった。
「呼ばれてないけどジャジャジャジャーン!」
「うっせぇわ。クシャミとかしてないわ」
「そう邪険にするなよユート。食料や暖房に余裕があったほうが良いだろうというアーティス王の思し召しで、補給物資を持ってきたんだから」
「おお! それは本当に助かる! 贅肉に包まれたカールにはわからないかもしれないが、このとおり砦は暖炉にくべる薪が不足していて寒くて困っていたんだ」
「オレの贅肉は防寒着じゃねーよ。まぁ暖炉にくべる薪なら用意してきたけどな」
「くれ。即座にくれ」
カールは3本の「焚き木」を取り出した。
「……これが焚き木? これを薪として燃やせばいいのか?」
「あぁ。アーティスの魔導師達が作った薪だ。圧縮した材木だ。火力が強く、長く燃え続ける」
「ふむ……。しかしどうして緑・黄色・赤色の3種類あるんだ?」
「色によって火力が変わるそうだ」
「赤い薪に火がついたら暖炉の温度が2000度超えて爆発するんじゃないか? 砦は時速140にならないし、後々近くの渓谷に俺の名前が付いたりしたくないぞ」
「アーティス王ならやりかねないな。赤い薪は燃やさないほうが良さそうだよな」
「あぁ、緑の薪だけ使うようにする。圧縮され長時間燃える薪という便利なものを作りながら、どうして余計な性能にチャレンジしたのか謎だ。ともあれ目下の寒さ問題は解決しそうだ。助かったよ」
「それは良かった。まぁ、オレが転移してきたのは”転移のオーブ”じゃなくて”ポータル”だから、これからは物資が不足してもスグに届けられるけどな」
「こんな辺境の砦にポータルを作ったのか。クイックトラベルで来るような場所じゃないのに」
”ポータル”は”転移のオーブ”と同じ原理の魔法による転移装置だが、使い捨てのオーブとは違い何度でも往来できる。マジックアイテムとは比較にならないほどの魔力を込められて作られているので安々と作られ設置されるものではない。
カールの背後でゆっくり回転する縦長の八面体のクリスタルのような”ポータル”は、いかにもセーブポイントのようだった。
「アーティスから辺境の砦まで補給物資を運ぶのは労力と時間がかかって大変だからポータルを設置したそうだ。もしかすればアーティスで何事か起きた時に備えての避難経路という目論見もあるのかもしれないが、そういった事情は一介の元冒険者が考えても仕方が無い」
「ふーむ、世の中なかなか安泰で平和という感じにはならないものだな。ところで物資補給でどうしてカールが来たんだ?」
「ユートが左遷されている事情を知っている人間は少ないからな。それにそろそろ状況報告も必要だろ?」
元勇者は苦笑いするように顔を歪めた。
どうせ楽しい状況報告にはならないのだろうなぁという予感がした為だ。
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元勇者の予想は、半分は外れ、半分は当たっていた。
カールの報告によれば「元勇者が商人達を襲った」という噂はしばらくの間は尾ひれ羽ひれを付けて広まり続け、元勇者は世間から凶悪な犯罪者のように罵られていた。
しかしその悪い噂は一気に収束していった。元勇者にパート代を渡し損ねたインガーの隊長が、その報酬分を(とりあえず元勇者と関係が親密であろうと思われた)アーティス王国に預けようと出向いたのだ。元勇者はアーティスに所属しているわけではないのでアーティス王もその処遇に困り、インガーの隊長はアーティス界隈で元勇者の悪評が広まっている事を知り、その汚名を払拭する為にアーティスの商工会と会合を重ねたのだ。
結局元勇者のパート代はアーティスの商工会に寄付され、インガーはアーティスの商工会との交易を優遇する事を提案した。
こうなると元勇者を悪党と思い込んでいたアーティスの商人達も考えを改めざるを得なくなった。たった一人の冒険者のおかげでアーティスの商人達の商売の幅が広がったのだ。そういった商談の合間には元勇者がインガーの遠征舞台を助けた武勇伝も伝えられ、元勇者が悪党と決め付ける事は難しくなっていった。
インガー側も、それほど栄えていなかったインガー帝国が交易で繁栄するアーティス王国と友好的な関係を築ける事は有益だった。インガーの特産物をアーティスに安売りしても利益は少ないが、国家間の同盟を結ぶよりも民間での交流を深めるほうが容易く、それは後々国家間の友好的な関係を築く時に有益に働く事になるだろう。
そういった経緯で、元勇者が商人を襲った悪党だという噂は払拭されつつあった。
しかし商人達の間での問題が無くなった訳ではなかった。
「希望の暁」に加担した悪徳商人達は自分達の悪行を隠す為に元勇者への批判をやめず、「希望の暁」も元勇者の仲間を装って無関係の商人を襲い始めた。とはいえ悪徳商人は後ろめたさであまり大きな声でこの話題を吹聴する事も出来ず、「希望の暁」もハガーとルナーグを失って雑兵ばかりの集団と成り果てていた。
結果、「希望の暁」や悪徳商人との関わりの少ない商人達にとっては安心して商売出来ない雰囲気が残り続けていた。
事の真偽に関係なく、元勇者のような冒険者か山賊に襲われるかもしれないと怯えつつ行商を続けなければならない状況は大きなストレスだった。
「ふむふむ……、義理堅いインガーの隊長に助けられた感じだな。まぁ俺の悪評のほうが落ち着いてきたのなら、とりあえず一安心だ」
「そう呑気な事を言えるほど問題は解決していないんだがな」
「どういう事だ、カール?」
「湯水の如く大金を”希望の暁”に収め続けていた悪徳大商人達の本業が傾き始めたんだ」
「それは……良いことじゃないのか? 悪徳商人の本業なんて、悪代官に小判入りの饅頭を渡したりする感じなんだろ?」
「いつの時代のどんな本業だよ。悪徳商人でも市場や流通を取り仕切るレベルでなければ大金は稼げない。そして稼いだ大金を”希望の暁”に注ぎ込んできたのに、その”希望の暁”が弱体化してしまったから、悪徳商人達も見返りが減って弱体化したような感じなんだろう」
「ふむ……? わかったような、よくわからないような」
「まぁ悪徳商人たちが欲に狂って人身売買とかの闇商売に関わったなんて事はバレたくないだろう。そして悪徳商人から巻き上げた金で大儲けした”希望の暁”もハガーやルナーグを失って大きな悪事が出来なくなった」
「良い事じゃないか」
「その筈なんだが……この一連の問題で物価が上がり始めているんだ」
「ブッカ?」
元勇者は驚いた表情で固まり、そして言った。
「カール、お前は見た目だけでなく中身も商人っぽくなってきたな」
「ユートは一体何に驚いたんだよ」
「カールがアーチャーとしての面影を失っていく事にだよ」
「すっげぇ傷つくんだけど否定しきれない事が悲しい……」
「もちろん冗談だよ、冗談(棒)。ともあれブッカとかについてもう少しわかりやすく説明してくれ」
カールは「はぁ……」と深いため息をついた。どうやら太って商人っぽく見える事を本気で気にしているらしい。元勇者がそれ以上茶化さずにカールの説明を待っているので、仕方が無くといった感じで語り始めた。
「簡単に言うと”希望の暁”が巻き上げた大金の分だけ市場で出回っている金の量が減ったんだ。商品があっても買う金が世間から減っている。金が少ないから商品は値崩れを起こし、利益も少なくなって物価が上がる」
「フンワリとしか理解できないが、”希望の暁”はそれほど大金をせしめていたのか?」
「どうやらそのようだな。そして”希望の暁”に加担したり騙されたりしていた商人も結構多いようだから、この物価上昇で儲けようとしている商人さえ増えてきているようだ」
「やはりフンワリとしか理解できないな……」
カールは元勇者が理解できる説明を考えた。そして言った。
「確かユートは魔王の侵攻が激しくなった頃の就職氷河期の頃に冒険者になったんだよな?」
「ああ。村が魔物に襲われるようになって就職先も無くなっていって、魔物退治しか仕事が無かったような時代だった」
「それと似たような感じになっているわけさ。物価上昇で商人達も儲かる者と儲からなくなった者に別れ始めているし、その影響で金になる仕事もどんどん減ってきている」
「つまり……どこが似たような感じなんだ?」
「一言で言えば、不景気、だよ」
元勇者はようやく理解し、「あ~、うわぁ~、なるほどぉ~」と力の無い声を漏らした。
「金が減って、商売が不安定になって、雇用も低賃金になってきている。つまり不景気だ」
「さすがに不景気までは俺の責任じゃないよな?」
「一応はそうだが、悪い噂が広まった直後の不景気だし、悪徳商人の中にはユートに責任を押し付けたいものも多いだろう」
「うむむ、これは相当イヤな状況だぞ」
「まぁ小売業者や個人売買では物々交換なども行われているから、この不景気が早く収まれば大事にはならないだろう」
元勇者は、深いため息をついた。
「魔物が相手でも悪党が相手でも戦えるけど、不景気が相手じゃ戦いようが無いぞ」




