友の憂慮
少し時間を早めて更新します。本日一話目です。
人にとっての時間とはひどく曖昧模糊としたものだ。その実態を僕たちは僕たちの知覚の上でしか感じられないので仕方のない事ではあるのだが、ごくたまに時間というやつに愚痴を言いたくなる時がある。
よく『楽しい時間は早く過ぎ去るものだ』なんて言葉を耳にするけど、僕からしてみれば楽しい時間というよりはやる事の多い時間と言った方が実感出来る。そんな時の時間というやつは、それはもう飛ぶよう、と表現せざるを得ないほどの短さを見せるのだ。
華耶と行動を共にしてから既に数か月が過ぎていた。冬はいつの間にか猛威を振るい切り、雪の代わりに桜の花びらが景色を彩り始める。
そんな季節とは対照的に、僕たちは未だに華耶の記憶について手がかりをつかむことが出来ないでいた。
————今日はどの辺りに行く?
講義中、ポケットから響く小さな震えがメッセージの着信を告げる。机の下で確認してみると、ここ最近常に上を占領している名前からそんなメッセージが送られてきていた。それに対し、僕は少し遠くに足を運んでみようと提案を送り返す。
すぐに付いた既読を意識的に無視し、僕はスマホを足元のカバンの中に放り投げた。
冬休みが終わり、なんとか履修を重ね、再試の嵐を切り抜けた僕は無事三年生へと進級する事が出来ていた。先んじて忠告してくれた助言教員には感謝して止まない。あれがなかったとしたら僕はこうも頑張ろうとは思えなかったかもしれない。最近まで無駄に思っていた事も、今となっては違う意味を持つように感じられる。驚きの変化だった。
そうなると、同じ愚を犯すまいと新学期になってからは意欲的に講義に出席するようにしていた。時間が早く過ぎるように感じていたのはそれも原因の一つなのかもしれない。三年となり、コマ数は減って来てはいたが、それと反比例するように一科目あたりの難易度が目に見えるほどに上がっていた。
そんな中で、唯一この講義だけは気を抜いて受ける事が出来るために気が楽だ。半分近くの時間を睡魔との格闘で潰し、終了と同時に僕は机の上に広げていたものをカバンの中に乱雑に詰め込んだ。ゆっくりとしていては人の波によって碌に動けなくなってしまう。少しばかり足を速めて、僕はそのまま教室の出口へと向かう。時間を見れば20分ほど早く講義は終わっていたようだった。これならばだいぶ余裕をもって華耶を迎えに行く事が出来るだろう。
「————榎田」
その途中、僕を呼び止める声が掛かる。予想はしていた事だった。そろそろ話をしに来る頃だろうな、と。僕は一つ息を吐いて声を掛けてきた人物に向き直る。
「やあ、谷。先週は休講だったから、会うのは二週間振りかな」
谷 亮。僕の数少ない交友関係の一端を担う人物だ。谷とは学科が違うために一緒の講義を履修するという事ほとんどは起こり得ないのだが、何の縁かこうして三年となった今その例外が起きている。気の許せる友達が同じ講義を履修している、というのはありがたさしかない。主に試験期間への対策として、だけど。
谷はそんな僕の言い方に少しばかり眉をひそめて言う。
「本当はこの講義が始まった最初の週に声を掛けるつもりでいた。なんですぐに帰ったんだ?」
「少し用事があったんだよ。別に君を無視したわけじゃあない」
用事があったのは本当の事だ。だけど谷に会いたくなかったのは別の理由があった。
谷は眼鏡をくいっと直した後、僕を昼食に誘ってきた。教室でいつまでも話しているわけにもいかないという事だろう。僕はそれに素直に応じる事にした。谷の用件は分かっている。先延ばしにする事は出来る。だけど、先延ばしにした結果がこれだ。僕は谷の後に続いて食堂へと向かった。
「お前、クリスマスの日何してた?」
各々が好きなものを注文し、会計を終えた所で空いている席を埋める。そうしたところで何の前振りもなく放たれた言葉がそれだった。谷らしい、前置きなどもなにもない、要点だけをついた問い。僕が谷を避けていた理由にはこれがあった。
「えらく前の話をするんだね。クリスマスは確か、助言教員にお呼ばれしてありがたいお説教を食らってたっけな。正直な話、最悪のクリスマスと言っても過言ではないと思う。こんなクリスマスを過ごした人なんて他にはいないんじゃないかな。……そういう谷はどうだったの?」
「……俺は、凪と一緒にいた」
朝倉 凪は谷の恋人だ。大学に入ってからの付き合いらしいが、僕は谷と朝倉が喧嘩しているところすら見た事がないし、聞いた事もない。クリスマスも共に過ごしている辺り、円満な関係を続けられているのだろう。
僕の答えは谷の求めるものじゃないのだろう。谷の眉間にはみるみるうちに深いしわが刻まれていく。だけど、無碍にするわけにはいかないと思って会話に乗ってくれるのだろう。本当に出来たやつだ。僕にはもったいないほどに。
「朝倉、前会った時、再試がーとか言ってたけど大丈夫だったんだ?」
「俺が勉強を見る羽目になった。日頃からちゃんとしろって言ってあるんだがな」
「学部のトップに名前を連ねる谷から教えてもらえるなんて僕なら感激で夜も寝られないよ。どうせなら僕の勉強も手伝ってくれればよかったのに。あんなに真面目に勉強した冬休みなんて受験期以来だよ」
「————なあ、榎田」
「……でもあっという間だよな。気付いたら僕たちももう三年生だ。就職か、院への進学か考えなきゃならない時期なんだよな」
「榎田、話を……」
言いたい事は分かっている。分かってはいるけど、それを受け入れられるかはまた別の話だ。だけど、僕の拒絶の姿勢を谷は頑なに認めようとしない。
「そういえば、谷は院に行くって言ってたっけ。僕はまだ全然決めてないから少ししん————」
「————蒼!」
静かだが、不思議と透る声だった。近くで各々の会話に興じていただろう学生たちが一様に黙り込み、こちらを見る。
そんな周囲を気にも留める事なく、谷は僕を見据えたまま言った。
「……俺はお前の事が心配なんだよ。俺からのメッセージも全然返さない。少し前までは大学にすら来なかった。そんなお前が、冬休みを境に人が変わったように……。なぁ、本当の事を言えよ」
「別に、僕は……」
「いい加減にしろよ。だって、お前、あの時逃げただろ。俺は見たんだよ。あの時、お前があ————」
「————亮。僕は大丈夫だから」
谷の言葉に被せるように、僕は魔法の言葉を使う。『大丈夫』、便利な言葉だ。
再びポケットからその存在を主張するように振動するスマホを意識の片隅に置きながら、僕は食器を返却コーナーに戻すべく席を立った。
「おい、話はまだ……」
「ごめん、谷。また今度」
「榎田っ!!」
悲痛な叫びが、僕の胸を打つ。親友とも呼べる間柄、だからこそ僕は谷を遠ざける。そうじゃないと、『今』が崩れる。僕は耳を塞ぐように心に蓋をして、食堂の入り口へと向かう。
そんな僕の背を追い掛けるようにして、谷のよく透る声が響いてきた。
「また今度って、なんだよ……っ! お前、本当に大丈夫なんだなっ!? 俺は、お前をっ」
雪崩れ込む学生の群れの合間を縫うように、僕はその場を後にする。細身の僕とは違って谷は幾分かガタイがいい。早くに終わった僕たちと違って、今から来るのは本来の時間通りに午前最後の講義が終わった人たちだ。我先にと押し寄せる波が僕と谷の距離を開かせていく。
「……ごめん、谷。僕は————」
音にならない呟き。僕は小さく頭を振り、駆け足気味に大学の外へと向かう。
ポケットからスマホを取り出してみれば、数件の着信が。どれも全てスタンプだったが。
コミカルに動きながら怒りを伝えるそのスタンプと同じシリーズのものを僕も返し、僕は自宅へと急いだ。いつまでも頭の中を駆け巡る、谷の心配気な声を意識的に追いやりながら。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。