ある夏のこと
本日二話目です。
「記憶を集める女……?」
その言葉を初めて見かけたのは季節を二つほど巻き戻った、その年の夏のこと。温暖化の影響か、ここ数年続いている茹だるような猛暑の中でも特に群を抜くほどの暑さ。そんな中で、今も続いているある時から日課となってしまったネットサーフィンをしている時だった。
見つけた言葉の非日常的な響きに驚きと同時に、大きな呆れのようなものを抱いたのを覚えている。そこに書いてある文言を見てみるとそう感じてしまうのも当然の話だろう。
曰く、『嫌な記憶や悲しい記憶などを忘れさせてくれる』らしい。書いてある言い回しからして『記憶を集める女』本人が書いたものではない事は見て取れた。だとするならば実際に彼女に会って記憶を忘れさせてもらったとでも言うのだろうか。
――――馬鹿らしい。
そう思えるほどにその時の僕は何事にも無頓着だったし、それにそう思えてしまう程に元々の僕の性格は現実的だった。
『記憶を集める女』という記事が目に留まったのもただスクロールの合間にそれが来ただけ。どうせすぐに忘れるだろうとブラウザバックをした事の方がまだ覚えているくらいだ。
実際に今の今までその事を完全に忘れていた。非現実の創作物を読んだ時のような、そんな文字の上での出来事だと無意識的に決めつけていたためだろう。誰がそんなものを信じるというのだ。そんな、『記憶を集める』なんていう荒唐無稽な話を。
だけど、この目の前にいる僕と同じくらいの年代の女性のいう事が、もし本当の事だとしたら――――。
「……ちょっとこっちに来てくれ」
「はへっ? あっ、ちょっとっ……!」
彼女から上がる抗議の声を意図的に無視しながら、僕は強引に彼女の手を引き、小走りにその場を離れていく。後ろから僕を呼ぶ声が聞こえたような気もしたが振り返る事なく、僕は彼女を連れて自分の家とは反対の方向へと向かった。
程なくして撤去予定となっている公園に近づいた頃、僕は手の力を緩めるとともに半ば駆け足となっていたその足からもまた力を抜いた。それに気が付いた彼女がはねつけるように僕の腕を振り払う。これまでの僕の行動を振り返れば当然の事だろう。むしろここまでほとんど抵抗らしい抵抗をせずについて来てくれたことが不思議でならない。もしかして僕の事を……だなんて思うはずもなく、ただただ彼女の人柄の良さを感じるのみだ。
それでもやはり許容量というものがあるのだろう、彼女は僕を睨みつけながら言う。
「いきなりどういう事ですか? よからぬ事をしようものならこちらにも考えがありますよ」
「……安心してくれ、そんな事は微塵も考えてないから。それより君、スマホ持ってたんだな」
「何言ってるんですか、当たり前じゃないですか。そんな事より今しがたの行動の説明を求めます。納得のいくものじゃないと然るべき場所に連絡させてもらいますからね!」
一連の行動が彼女に危機感を与えたのだろう、当初はこちらに合わせて砕けた口調になっていた彼女も元の初対面の相手に対するもの————もっと言えば不審者に対するものへと変化していた。その手には文明の利器、スマートフォンが携えられており、僕がここで彼女の不興を買ってしまえば直ちに通報してしまう、という事が容易に分かる程にその右手には力が籠っていた。
その事に自業自得ながら形容し難い感情に見舞われるものの、今はそんなものに構っている場合ではないだろう。人生が終了してしまうかどうかの瀬戸際だ。ここでの選択肢を間違えてしまえば僕は数年ほど日の目を浴びる事が出来なくなってしまうかもしれない。今となっては全力で御免被りたい次第だ。僕は両手を上げ、害意がない事を表しながら、内心の焦燥を表に出さないように努めて口を開く。
「ちょっとした知り合いの姿を見かけたんだ。あまり今は会いたくない人でね、つい逃げてしまった。君も一緒に連れ出してしまったのは……、もうしばらく君の話を聞きたいと思ったから、かな」
「……ふぅーん。まあそういう事で納得してあげましょう」
僕の答えに彼女はあまり納得していないような声を上げたが、それでも僕の言葉に偽りの意思などを感じられなかったのだろうか、いやに素直に頷いた。
それを見て僕もひとまずは胸を撫で下ろす。最悪の状況は回避出来たようだった。だけど、険こそ取れたものの、まだ威嚇するような雰囲気を放ちながら、腕組みをしている。完全に気を許す気はないという彼女の無言の抵抗だろう。
「そうしてくれるとありがたい。次いでに言うと、その丁寧な口調も直してくれると嬉しい。今しがた納得してくれた通り僕は不審者でもなんでもないから」
「知っていますか? 敬語というのは他人との距離をいい感じに離れさせておくのに便利なんですよ」
「……ああ、そうかい」
柔らかな顔立ちをしているにも関わらず飛び出してきた辛辣な言葉に面食らうものの、その内容自体はぐうの音も出ないものであり、僕は苦笑しながら相槌を打つ事しか出来ない。そんな僕の様子がおかしかったのか、彼女は小さく噴き出した後、そんな自分に気付いて恥じるかのように顔を赤らめさせた。
そんな顔で睨み付けなくとも、別に笑ってしまった事をからかうつもりなんて毛頭ない。それを言っても信用してくれないからこそのこの態度なわけだろうけど。
「それにしても君は————」
話を変えるように、そんな彼女に対し、僕は思い至った疑問をぶつけるべく口を開いた。しかし、その言葉は最後まで紡がれる事はなく、彼女から被せられた言葉によって宙に霧散する。
あえて被せたのか、それとも単純に被ってしまっただけなのか。それによっては僕の心への傷の深さが変わってくる。だけど口にされた言葉は僕がそんな風に口を出す事が憚られるほど大事な事だった。
「あ、自己紹介はまだしてませんでしたね。わたしはこういう者でございます」
いやに仰々しく言ったかと思うとおもむろに彼女はポーチから財布のようなものを取り出す。そこから出てきたものはなんと名刺だった。心なしか自慢するように差し出されるそれを受け取り、目を通す。
秋月華耶、簡素に作られた名刺の真ん中に彼女の名前と思われるものが記されている。だが、それよりも遥かに目を引く言葉があった。
————『忘れさせ屋』。
彼女の名前の上、そこにはさも当然であるかのようにそう記されていた。もちろん、一般人である僕にとっては驚くほどに見慣れない文字列だ。何を思って彼女はこの文字列を入れたのだろう、と心配になるほどに。
その思いもそのままに僕は疑問をぶつける。
「……この『忘れさせ屋』っていうのは?」
「あ、やっぱりそうなりますよね。正直そこは無視してくれるとありがたかったんですけど」
「この字面を無視出来るやつなんか僕はいないと思うけどな。……さっき言ってた、いらない記憶がどうとかいうのに関係してるんだろ?」
そう彼女————華耶に問いかけてみると、少しばかり逡巡の気配を見せたかと思うと、やがてまあいいか、とでも言う様に表情を軽くした。
「わたし、記憶がないんですよね。歩き方、話し方、必要最低限な生き方が分かるのに、自分がこれまでどうやって生きてきたかがすっぽりと抜け落ちてるんです」
それを聞いた時の僕は、自分がどのような表情をしていたのか、すればよかったのかが分からなかった。憐みか、それとも同情か。どこから来る感情か分からないが、この時の僕は衝動的に口を開いていた。
僕でよければ力になるよ、とそう言った時の彼女の度肝を抜かれたかのような、驚き顔が何故だか嬉しく感じられた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。




